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施福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年8月26日 (日)
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- | + | '''施福寺'''(せふくじ)は、大阪府和泉市槇尾山町にある、[[弥勒信仰]]の[[天台宗]]寺院。和泉国和泉郡。本堂には、[[千手千眼観音]]を合祀し、[[西国三十三所観音霊場]]第4番札所となっている。[[葛城山]]の北麓にあり、その霊場の一つとされる。[[修験道]][[当山派]]の[[正大先達]]の一つ。[[空海]]が剃髪した旧跡とされ、元は[[真言宗]]だった。山号は'''槙尾山'''で、'''槙尾寺'''、'''巻尾寺'''、'''槙尾山寺'''とも言われる。南南東2.6kmの山中にある河内長野市の[[融通念仏宗]][[光滝寺]]は、当寺の奥の院とされる。鎮守は[[槙尾神社]]。(参考:同名[[槙尾山]]) | |
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+ | == 歴史 == | ||
+ | ===古代=== | ||
+ | [[欽明天皇]]の勅願で行満が創建。[[役小角]]が『[[法華経]]』常不軽菩薩品を収めたという伝承もあり、葛城修験との関係が伺える。706年(慶雲3年)、[[行基]]が参拝して「懺悔秘法率都婆」を建立。771年(宝亀2年)、法海が千手観音を感得。『日本霊異記』に登場する「'''血渟山寺'''」「'''珍努上山寺'''」('''珍努山寺''')、『今昔物語集』に登場する「'''珍努ノ山寺'''」に比定される。 | ||
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+ | 延暦年間、[[勤操]]が法華八講を勤めたとされ、さらに793年(延暦12年)、[[空海]]が勤操から受戒して出家したという。 | ||
+ | また空海は唐から帰国した後の807年(大同2年)から809年(大同4年)まで施福寺に住したともいう。 | ||
+ | 916年(延喜16年)、[[定額寺]]に指定。 | ||
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+ | 1034年(長元7年)地元出身の天台宗の高僧覚超(960-1034)の墓が築かれた。また中世には盛んに経塚が作られ、1139年(保延5年)に収められた経塚が1962年(昭和37年)に発掘されている。平安末から[[西国三十三所観音霊場]]が形成されつつあったが、その当初から施福寺は含まれていた。札所の順番は7番、8番と変動したがやがて4番に固定化された。 | ||
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+ | 仁治年間、[[四条天皇]]の勅願で行遍(1181-1264)が灌頂堂を建立。1250年(建長2年)から行遍を大阿闍梨として結縁潅頂を始めたという。行遍は[[仁和寺菩提院]]に住した真言宗僧侶で、[[東寺]]長者にもなった高僧。この頃から[[仁和寺]]の末寺となっていたとみられる。翌年には行遍に帰依した宣陽門院([[後白河天皇]]皇女)の御願で万灯会を始めた。さらに[[後嵯峨天皇]]は遺言で施福寺に分骨を収めたという。また後白河上皇が転読したという法華経を奉納され、現存する。 | ||
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+ | 1335年(建武2年)、[[後醍醐天皇]]が安産祈願を寄せた西国霊場に含まれている。南北朝時代、[[和泉・松尾寺]]と共に[[南朝]]側に付き、僧兵が戦に出ることも少なくなかった。南朝の衰退と共に寺運も傾く。1375年(天授1年/永和1年)には伽藍が炎上した。一方では西国霊場として庶民の信仰を集めた。1581年(天正9年)、[[織田信長]]の命令に衆徒が抵抗したため破却された。1582年(天正10年)には[[根来寺]]と同盟して[[豊臣秀吉]]と敵対し、攻められた。 | ||
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+ | ===近世=== | ||
+ | 1603年(慶長8年)には[[豊臣秀頼]]の寄進で伽藍を復興。[[徳川家]]の支援も受けた。寛永年間に真言宗から天台宗に改宗し、[[寛永寺]]末となった。1845年(弘化2年)の大火で伽藍焼失。現在の諸堂は安政以後に再建されたもの。 | ||
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+ | (国史大辞典、日本歴史地名大系) | ||
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+ | == 伽藍 == | ||
+ | *本堂: | ||
+ | *愛染堂: | ||
+ | *[[弘法大師御髪堂]]: | ||
+ | *護摩堂: | ||
+ | *虚空堂: | ||
+ | *大日堂: | ||
+ | *西国三十三所観音堂: | ||
+ | *仁王門: | ||
+ | *後嵯峨天皇塔:不詳 | ||
+ | *覚超墓:兜卒岳の近くにある。 | ||
+ | *[[槙尾神社]]:[[国史見在社]]。 | ||
+ | *東照宮:廃絶か。 | ||
+ | *愛宕神社:廃絶か。 | ||
[[category:大阪府]] | [[category:大阪府]] |
2018年8月26日 (日) 時点における最新版
施福寺(せふくじ)は、大阪府和泉市槇尾山町にある、弥勒信仰の天台宗寺院。和泉国和泉郡。本堂には、千手千眼観音を合祀し、西国三十三所観音霊場第4番札所となっている。葛城山の北麓にあり、その霊場の一つとされる。修験道当山派の正大先達の一つ。空海が剃髪した旧跡とされ、元は真言宗だった。山号は槙尾山で、槙尾寺、巻尾寺、槙尾山寺とも言われる。南南東2.6kmの山中にある河内長野市の融通念仏宗光滝寺は、当寺の奥の院とされる。鎮守は槙尾神社。(参考:同名槙尾山)
目次 |
歴史
古代
欽明天皇の勅願で行満が創建。役小角が『法華経』常不軽菩薩品を収めたという伝承もあり、葛城修験との関係が伺える。706年(慶雲3年)、行基が参拝して「懺悔秘法率都婆」を建立。771年(宝亀2年)、法海が千手観音を感得。『日本霊異記』に登場する「血渟山寺」「珍努上山寺」(珍努山寺)、『今昔物語集』に登場する「珍努ノ山寺」に比定される。
延暦年間、勤操が法華八講を勤めたとされ、さらに793年(延暦12年)、空海が勤操から受戒して出家したという。 また空海は唐から帰国した後の807年(大同2年)から809年(大同4年)まで施福寺に住したともいう。 916年(延喜16年)、定額寺に指定。
1034年(長元7年)地元出身の天台宗の高僧覚超(960-1034)の墓が築かれた。また中世には盛んに経塚が作られ、1139年(保延5年)に収められた経塚が1962年(昭和37年)に発掘されている。平安末から西国三十三所観音霊場が形成されつつあったが、その当初から施福寺は含まれていた。札所の順番は7番、8番と変動したがやがて4番に固定化された。
中世
仁治年間、四条天皇の勅願で行遍(1181-1264)が灌頂堂を建立。1250年(建長2年)から行遍を大阿闍梨として結縁潅頂を始めたという。行遍は仁和寺菩提院に住した真言宗僧侶で、東寺長者にもなった高僧。この頃から仁和寺の末寺となっていたとみられる。翌年には行遍に帰依した宣陽門院(後白河天皇皇女)の御願で万灯会を始めた。さらに後嵯峨天皇は遺言で施福寺に分骨を収めたという。また後白河上皇が転読したという法華経を奉納され、現存する。
1335年(建武2年)、後醍醐天皇が安産祈願を寄せた西国霊場に含まれている。南北朝時代、和泉・松尾寺と共に南朝側に付き、僧兵が戦に出ることも少なくなかった。南朝の衰退と共に寺運も傾く。1375年(天授1年/永和1年)には伽藍が炎上した。一方では西国霊場として庶民の信仰を集めた。1581年(天正9年)、織田信長の命令に衆徒が抵抗したため破却された。1582年(天正10年)には根来寺と同盟して豊臣秀吉と敵対し、攻められた。
近世
1603年(慶長8年)には豊臣秀頼の寄進で伽藍を復興。徳川家の支援も受けた。寛永年間に真言宗から天台宗に改宗し、寛永寺末となった。1845年(弘化2年)の大火で伽藍焼失。現在の諸堂は安政以後に再建されたもの。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)