ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

誠照寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?資料)
(?近現代)
33行: 33行:
===近現代===
===近現代===
明治5年9月、[[延暦寺]]末となるが明治11年2月、独立。
明治5年9月、[[延暦寺]]末となるが明治11年2月、独立。
-
明治10年再建。昭和8年、[[上野別堂]]を復興した。
+
明治10年、御影堂を再建。明治20年、阿弥陀堂を再建。
 +
昭和8年、[[上野別堂]]を復興した。
(国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座)
(国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座)

2017年10月28日 (土) 時点における版

誠照寺(じょうしょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗本山寺院大町門徒(三門徒)系統の真宗誠照寺派の本山で、越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。本尊の阿弥陀如来は33年ごとに開帳していた。実質的な開山は如覚で、証誠寺から分裂した寺院という説もある。越前国今立郡。江戸時代は天台宗輪王寺宮に直属する院家寺院だった。幕末に准門跡となる。鯖江本山鯖江御堂車の道場(車道場)。山号は上野山(うわのさん)。

目次

歴史

創建

元久2年(1205)4月、越前国今立郡上野荘の領主波多野景行(景之とも)が霊夢を受けて京都親鸞に師事。空然と名乗った。 のち親鸞が越後配流の途中に空然の道場に立ち寄り、庵を設けたのが起源とされる(上野別堂)。 親鸞が京都に戻る際、五男道性を留め空然の娘と結婚。道場を継いだという。 弘安元年(1278)、道性の子の如覚が現在地に移転し、翌年竣工した。 嘉元3年(1305)、後二条天皇から真照寺の勅額を賜ったという。 永享9年(1437)2月、後花園天皇の勅願所となり、誠照寺と改称した。 鯖江の町は誠照寺の門前町として生まれた。

誠照寺分立の要因を如覚の父との不和に求める説がある(小泉論文)。現在地移転を『中野物語』に「鯖江寺建立」とある文明2年(1470)とする(小泉論文)。

戦国時代

戦国時代は一向一揆と対決。朝倉孝景から安堵状を得て庇護下に入ったことから対立する一揆から攻撃を受けた。 天文21年(1552)、一向一揆の焼討を受け、伽藍焼失。さらに9世秀栄が殺害された。 柴田勝家の保護を受けたが、天正11年(1583)、勝家を攻めた羽柴秀吉軍に焼かれた。 焼討の後、10世秀意は能登美濃に7年間匿われた。のち豊臣秀吉から安堵状を得て帰山。 天正17年(1589)再建すると今度は有力末寺の誠長寺越前・常楽寺と本末争いが起きる。 慶長10年(1605)、証誠寺の仲裁でいったん和解するが再燃。 寛永8年(1631)、福井藩に訴え、その判決により誠長寺と常楽寺は追放・廃絶となった。 住職の継承も短命だったり、前住の「友人」が継承したり、不安定だったが、福井藩家臣から秀山が入りようやく安定。 秀諴が入って中興することとなる。

近世

明暦元年(1655)、福井藩重臣の太田資武の次男の秀諴が入寺して中興。伽藍を復興し、諸制度を整備。夏に美濃の末寺を巡教する「美濃廻り」を創始した。 延宝5年(1677)福井藩主から24石寄進。享保3年、朱印地とされた。 一時聖護院門跡に属したが(国史大辞典)、元禄6年(1693)、輪王寺宮院家となる。 万延元年(1860)、二条家猶子になると共に准門跡となった。 文久2年(1862)12月、伽藍焼失。

近現代

明治5年9月、延暦寺末となるが明治11年2月、独立。 明治10年、御影堂を再建。明治20年、阿弥陀堂を再建。 昭和8年、上野別堂を復興した。

(国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座)

伽藍

諸堂

  • 御影堂:本尊は親鸞。歴代法主も祀る。明治10年再建。大師堂ともいう。
  • 阿弥陀堂:本尊は閻浮檀金手引阿弥陀如来。かつては33年ごとに開帳していた。聖徳太子法然も祀る。後二条天皇後花園天皇の位牌を祀る。明治20年再建。「本堂」とされる(日本仏教基礎講座)。
  • 忠霊堂:戦没者2290柱の遺骨を祀る。本尊の光華阿弥陀如来は少将脇坂次郎の寄進。
  • 無碍光堂:納骨堂
  • 御本廟:歴代法主の墓
  • 上野別堂

この他、四足門、御経堂、鐘楼堂、対面所、大庫裡、御宸殿、光華殿がある。教団の宗務所は大庫裡に置かれている。

塔頭

  • 願生寺
  • 真覚寺
  • 法林寺
  • 本正寺
  • 霊泉寺

役寺

  • 西福寺:康永元年(1342)、誠照寺4世良覚が創建。当初は誠照寺の西の有定村にあったので西坊と呼ばれた。元禄5年(1692)、誠照寺の南隣に移転した。
  • 南光寺:正平9年(1354)、誠照寺5世秀覚が創建。当初は誠照寺の南側にあり、南坊と呼ばれた。元禄4年(1691)、誠照寺の北隣の現在地に移転した。

歴代住職

  • 1:親鸞(1173-1262)<>:浄土真宗開祖。
  • 2:道性(1221-1297)<>:誠照寺の伝承では親鸞の五男と伝える。俗名は益方有房とも。『日本仏教基礎講座』では1219年生、1257年死去とする。証誠寺の伝承では1439年生、1521年死去とする。実際は大町・専修寺開山の如導(1253-1340)の弟子とみられ、14世紀の人物だろう。
  • 3:如覚(1250-1311)<>:実質的な開山。道性の次男という。存覚(1290-1373)に学んだということは確からしいから、実際には14世紀後半の人物だろう。『勧化抄』(勧化章)を著す。
  • 4:良覚(1296-1349)<>:如覚の子。康永元年(1342)、隠退所として西福寺を創建。
  • 5:秀覚(1320-1380)<>:良覚の子。正平9年(1354)、南光寺を創建。
  • 6:秀雲(1350-1421)<>:秀覚の五男。浄土宗西山派法相宗を学ぶ。『基礎講座』では1419年死去とする
  • 7:秀応(1399-1483)<>:秀雲の子。教団全盛期とも。
  • 8:秀慶(1447-1525)<>:秀応の次男。
  • 9:秀栄(1489-1552)<>:秀慶の子。朝倉孝景から安堵状を得た。一向一揆の焼討で殺害されたという。
  • 10:秀意(1542-1616)<>:秀栄の子。柴田勝家から安堵状を得たため、対立する豊臣秀吉から敵視される。天正11年(1583)の秀吉軍の焼討の後、能登美濃に7年間匿われた。のち豊臣秀吉から安堵状を得て帰山。「安心文」を著す。
  • 11:秀盛(1589-1616)<1616-1616>:秀意の末子。就任2カ月で死去。
  • 12:秀顕(1550-1621)<1617-1621>:秀意の長男。兵火を逃れて京都の浄土宗禅林寺の僧となる。元和3年(1617)に帰山する。『基礎講座』では1550年生とある。
  • 13:秀恵(1579-1627)<1622-1627>:秀顕の友人という。秀顕の遺言で元和8年(1622)入寺。秀高は誤りか。
  • 14:秀山(1608-1663)<>:福井藩家臣高谷越後守の子。『基礎講座』では1616年生とする
  • 15:秀諴(1632-1691)<1655->:中興。福井藩重臣の太田資武の次男。制度を整備。閻浮檀金手引阿弥陀如来を本尊とし、伽藍復興。「美濃廻り」を始める。「秀誠」は誤りか。『基礎講座』では1642年生とする。
  • 16:秀海(1664-1693)<>:福井藩家臣毛受家の出身。輪王寺宮の院家となる。『基礎講座』では1665年生とする。
  • 17:秀如(1675-1729)<>:膳所藩主本多康慶の子。西園寺家の猶子となる。
  • 18:秀存(1697-1731)<>:秀如の子。京都で急死。
  • 19:秀憲(1718-1744)<>:中山兼親の子。西園寺家の猶子。『基礎講座』では1743年死去とする。
  • 20:秀実(1731-1806)<>:萩原兼武の子。西園寺家の猶子。『基礎講座』では1732年生とする。「秀宝」は誤りか。
  • 21:秀芳(1765-1786)<>:就任後、まもなく死去。『基礎講座』では1799年死去とする。
  • 22:秀〓(1788-1810)<>:三条実起の子。〓は「葽」。「秀要」は誤りか。『基礎講座』では1809年死去とする。
  • 23:秀厳(1797-1812)<1811-1812>:左大臣二条治孝の子。三条実起の猶子。就任の翌年に急死。以後、7年間無住。
  • 24:秀観(1812-1843)<1820->:秀厳の子。『日本仏教基礎講座』では1844年死去。
  • 25:二条秀量(1829-1891)<-1869>:交代寄合の但馬国村岡領主山名義蕃の子。西園寺寛季の猶子。
  • 26:二条秀源(1852-1935)<1869-1911>:西園寺寛季の子。二条斉敬の猶子となる。持法会を始める。初代管長。東京別院を創建。
  • 27:二条秀暁(1879-1941)<1911-1941>:二条秀源の子。
  • 28:二条秀淳(1907-1986)<1941-1986>:
  • 29:二条秀政(1934-2001)<1986-2001>:
  • 30:二条秀瑞(1978-)<2001-現職>:
  • 誠照寺ウェブサイトより
  • 望月『仏教大辞典 付録』、『日本仏教基礎講座』も参考にした。

資料

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AA%A0%E7%85%A7%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール