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神宮教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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[[伊勢神宮]]の布教組織。のち財団法人神宮奉斎会となる。
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'''神宮教'''(じんぐうきょう)は、[[伊勢神宮]]の布教組織。'''神道神宮教'''。'''神道神宮派'''。のち'''財団法人神宮奉斎会'''となる。現在の[[神社本庁]]の設立母体となる。
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 神宮教会と神宮教院の設立 ===
=== 神宮教会と神宮教院の設立 ===
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明治政府は大教宣布を開始し、1872年(明治5年)教部省と教導職を設置した。ついで、同年5月、教導職の半官半民の研究教育機関として[[大教院]]が設置されることが決まり、また全国各地に[[中教院]]が設置して、全国の社寺を小教院とすることとした。[[伊勢神宮|神宮]]においても、教化活動のために、'''神宮教会'''が設立され、各地で説教が実施されはじめるとともに、大教院と同様に教導職のための研究教育機関を設立することを画策し、同年10月に伊勢に'''[[神宮教院]]'''が設置された。神宮教院は神宮教会の本部でもあり、度会県中教院としても機能したらしい。これらの神宮による教化活動は当時の神宮少宮司浦田長民によって推進された。
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明治政府は、明治5年(1872)教部省を設置し、神道を中心とした国民教化政策である大教宣布運動を始めた。その実働部隊として神官・僧侶らが宗教公務員(無給)である教導職に任命された。同年5月、教導職のための半官半民の研究教育機関として[[大教院]]が設置されることが決まり、またおおよそ府県ごとに[[中教院]]を配して、さらに各社寺を小教院に指定していき(勘違いされることがあるが全ての社寺が小教院になったわけではない)、国民教化を担わせることとした。神官・僧侶が宗教活動を行うには大教院・中教院で試験を受ける必要があった。
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伊勢神宮を拠点とする活動と同時に、東京、京都に神宮司庁出張所を設置し、都市部における神宮の教化活動を推進した。この神宮司庁出張所は、それぞれ後の東京大神宮、京都大神宮の起源である。東京皇大神宮遥拝殿(東京大神宮)については、1880年(明治13年)4月17日に鎮座した。遥拝殿という名称ではあるが、御霊代を祀るレッキとした神殿であった。当時、神宮司庁東京出張所には神道事務局が設置され、この皇大神宮遥拝殿は、神道事務局神殿を兼ねていた。この神殿を巡って、神道界を二分した'''祭神論争'''が起こったのはよく知られている。祭神論争のあと、皇大神宮遥拝殿の祭神は一度、昇神されたようである。
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全国の神社で、国民教化のための教会を設立する動きが広まり、[[伊勢神宮|神宮]]においても、教化活動のために、'''神宮教会'''が設立され、全国で説教を開くとともに、大教院と同じく教導職のための研究教育機関を設立することとし、同年10月に伊勢に'''神宮教院'''が設置された。神宮教院は神宮教会の本部でもあり、'''度会県中教院'''としても機能したらしい。これらの神宮による教化活動は当時の神宮少宮司'''浦田長民'''によって推進された。
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神道事務局と神宮司庁東京出張所が分離されたあと、皇大神宮遥拝殿として、再び祀られたものと思われる。表名は天照大御神だけだが、実質四柱を祀ったらしい。このあたりの事情ははっきりしない。
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伊勢を拠点とすると同時に、東京や京都にも神宮司庁出張所を設置し、神宮による都市での教化活動を推進した。この神宮司庁出張所は、それぞれ後の[[東京大神宮]]、[[京都大神宮]]の起源である。東京出張所の東京皇大神宮遥拝殿(東京大神宮)については、明治13年(1880)4月17日に鎮座した。「遥拝殿」という名ではあるが、御霊代を奉安するレッキとした神殿であった。当時、神宮司庁東京出張所には[[神道事務局]]が設置され、この皇大神宮遥拝殿は、神道事務局神殿を兼ねていた。この神殿を巡って、明治の神道界を二分した'''祭神論争'''が起こったのはよく知られている。祭神論争直後の事情ははっきりしない。皇大神宮遥拝殿の祭神は一度、昇神されたらしいが、神道事務局と神宮司庁東京出張所が分離されたあと、皇大神宮遥拝殿として、再び祀られたのだろうか。表名は天照大御神だけだが、実質四柱を祀ったともいう。
=== 神宮教の設立 ===
=== 神宮教の設立 ===
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1882年(明治15年)1月24日、神官と教導職の分離が行われ、神社神官が宗教活動を行うことが禁止された。これによって、各神社付属の教会は、神社に付属して崇敬団体となるか、神社から分離して教会となるかの選択を迫られた。神宮の布教教育機関であり、全国の神宮教会をまとめていた神宮教院は、神宮司庁と分離し、後者の路線を歩むこととなった。同年5月10日、ほかの教派とともに神道神宮派として独立。同年、派名を辞めて、神宮教と称した。東京と京都の神宮司庁出張所の名称を廃止し、施設は神宮教に継承されることとなった。皇大神宮遥拝殿は祠宇<ref>当時の宗教施設の法的分類の一つ。</ref>として「大神宮祠」と称した。各地の神宮教会は神宮教の傘下となった。
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明治天皇も巻き込んでしまった祭神論争に懲りた明治政府は、神社を祭祀のみの施設とし、「教義」からは無縁のものとする方針を取った。明治15年(1882)1月24日、神官と教導職の分離が行われ、神社神官が説教や葬儀などの宗教活動を行うことが禁止された。そのため、神社付属の教会は、神社に付属して崇敬団体となるか、神社から分離独立して教会となるかの選択を迫られた。[[伏見稲荷大社]]の瑞穂講社(現在の[[附属講務本庁]])は前者の例であるが、神宮教院は、神宮司庁と分離し、後者の道を歩むこととなった。同年5月10日、ほかの教派とともに'''神道神宮派'''として独立。同年、派名を辞めて、'''神宮教'''と称した。東京と京都の神宮司庁出張所の名称を廃止し、施設は神宮教に継承されることとなった。皇大神宮遥拝殿は祠宇<ref>当時の宗教施設の法的分類の一つ。</ref>として「'''大神宮祠'''」と称した。各地の神宮教会は神宮教の傘下となった。
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神宮教の主な活動は神宮大麻の頒布、神宮暦の頒布、祖霊祭、神葬祭の実施であった。1890年(明治23年)からは神宮暦は帝国大学で編纂されることとなった。
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東京と伊勢宇治を拠点として、全国の教会を教区に分け、教区ごとに本部を置いた。当初の主な活動は神宮大麻の頒布、神宮暦の頒布、祖霊祭、神葬祭の実施であった。明治23年(1890)からは神宮暦は帝国大学で編纂されることとなった。
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神宮教院という用語は、具体的にどの機関、どの施設を指すのかは不明瞭な点がある。東京の施設を指すのか、伊勢にある施設を指すのか、あるいは両方なのか。東京の施設を「'''東京教院'''」、伊勢の施設を「'''宇治本院'''」と呼称する史料もある。
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東京と伊勢宇治を拠点として、各地に神宮教会を設置し、教区に分けて、それぞれ教区ごとに本部を置いた。
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1898年(明治31年)、祭神に'''豊受大神'''が加えられた。
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神宮教院という用語は、具体的にどの機関、どの施設を指すのかは不明瞭な点がある。
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神宮教解散直前の時点で、教区31、本部31、教会46、分教会160、所属教会10、講社事務所315、教会出張所24、説教所34があった。
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東京の施設を指すのか、伊勢にある施設を指すのか、あるいは両方なのか。施設の名称ではなく、神宮教のなかの一機関の名称なのか。神宮教院の役職名を持つものがいることから、神宮教のなかの一機関という位置付けであることは間違いないようであるが、
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東京の施設を「東京教院」、伊勢の施設を「宇治本院」と呼称する例もある。
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=== 神宮奉斎会時代 ===
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==== 「宗教」から財団法人へ ====
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国家祭祀の中枢ともいえる伊勢神宮の関連組織であり、国家政策である神宮大麻頒布を担いながら、一民間団体に過ぎないという地位は、ジレンマをもたらしていた。そこで明治30年(1897)3月、教団を解散して財団法人となる決議を行った。この改組の理由は、端的に言えば、当時、国の機関であった「神社」の地位に近づこうとしたことにある。つまり、公認とはいえ私的団体に過ぎない「宗教」ではなく、「神社」のように国家的に重要な機関として特別な待遇を得ることを将来的に望んだのであった。しかし反対に、このことによって、ただでさえ曖昧な存在であった神宮教が、宗教でもなければ神社でもない、より曖昧な存在となってしまう結果となった。
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'''神宮奉斎会'''は「本院」を東京に置き、「大本部」を伊勢に設置した。この頃には東京を拠点とするようになっていたらしい。従来の教会所は「'''奉斎所'''」と称し、「宗教」色を薄める試みがなされた。従来の「説教」に代わって、宗教活動ではない「講演」を行うこととした。また宗教団体ではないことから、祖霊を祀ることを禁止した。
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1898年(明治31年)、祭神に豊受大神が加えられた。
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神宮奉斎会の主な活動は、神宮大麻の頒布であった。一方、神宮司庁では、明治35年(1902)に大麻頒布を管轄する神宮神部署が設置された。そしてこの神宮神部署の支署が神宮奉斎会の地方本部に置かれ、この時期においては、方針通り国家に近い立場にいることができた。
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神宮教が解散される直前のおいて、教区31、本部31、教会46、分教会160、所属教会10、講社事務所315、教会出張所24、説教所34の教勢を得た。
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====神前結婚式の普及====
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社会に大きな影響を与えたことで有名なのが'''神前結婚式'''の普及である。神を祀る結婚式は江戸時代にあり、明治初年から神前結婚式の原型ともいうべきものが試みられていた。神宮奉斎会を「発祥」や「起源」とするのはやや問題があるが、現在の神前結婚式を普及させたのは神宮奉斎会の功績が大きいと言われている。
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=== 神宮奉斎会本院時代 ===
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==== 明治期 ====
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神宮教を解散して財団法人となることについては1897年(明治30年)3月に決議された。この改組の理由は、端的に言えば、「神社」の地位に近づこうとした点にある。つまり、民間における任意団体に過ぎない「宗教」ではなく、「神社」のように国家的に重要な機関として特別な待遇を得ることを将来的に望んだのであった。しかし反対に、このことによって、ただでさえ曖昧な存在であった神宮教が、宗教でもなければ神社でもない、より曖昧な存在となってしまう結果となった。
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神宮奉斎会は「本院」を東京に置き、「大本部」を伊勢に設置した。伊勢神宮の布教機関として誕生した組織であったが、この頃には東京を拠点とするようになっていたらしい。
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従来、各教会所に設けられてきた神殿は「奉斎所」と称し、宗教色を薄める試みがなされた。従来の「説教」に代わって、宗教活動ではない「講演」を行うこととした。また宗教団体ではないことから、祖霊を祀ることを禁止した。
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神宮奉斎会の主な活動は、神宮大麻の頒布であった。
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1902年(明治35年)神宮神部署設置
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神宮神部署の支署が神宮奉斎会の地方本部に置かれた。
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この時期においては、国家に近い立場を望む神宮奉斎会の希望を踏まえた立場にいることができた。
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社会に影響を与えた神宮奉斎会の活動として有名なのが神前結婚式の普及である。結婚式に神を祀るということは江戸時代にあり、明治初年より神前結婚式の祖型ともいうべきものが試みられていたが、現在の神前結婚式を普及させたのは神宮奉斎会の功績が大きいと言われている。
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1900年(明治33年)5月10日、当時の皇太子(大正天皇)の結婚式が行われ、皇室令に基づき、宮中三殿の神前での儀を含むものとして行われた。社会の注目を集めたこの結婚式は、神前結婚式のブームを起こすこととなった。日光二荒山神社などで神前結婚式が試みられていたが、神宮奉斎会でも日比谷大神宮にて篠田時化雄が考案した模擬神前結婚式が1901年(明治34年)5月に行われ、1902年(明治35年)秋に本物の初の神前結婚式が行われた。このあと、次々に挙式者が表れて、盛況を博した。さらに神宮奉斎会は一般の神職への講習を行い、神前結婚式が全国に普及するきっかけとなった。
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また神宮奉斎会の活動として、国学者の墓や神社の保全活動を行なっており、山室山神社、平田神社へ維持金の寄付、本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵の墓の修繕費を拠出している。
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明治33年(1900)5月10日、当時の皇太子(大正天皇)の結婚式が行われ、皇室令に基づき、[[宮中三殿]]の神前での儀式もあった。社会の注目を集めたこの結婚式は、神前結婚式ブームを起こした。神宮奉斎会では、明治34年(1901)5月に日比谷大神宮(のちの[[東京大神宮]]の日比谷時代の通称)で'''篠田時化雄'''が考案した模擬神前結婚式を行い、明治35年(1902)秋に初の神前結婚式が行われた。このあと、次々に挙式者が表れて、盛況を博した。さらに一般神職に結婚式講習を開き、神前結婚式が全国に普及するきっかけとなった。
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またこの時期の活動として、国学者の墓や神社の保全活動を行なっており、[[山室山神社]]、[[平田神社]]へ維持金の寄付、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]、[[賀茂真淵]]の墓の修繕費を拠出している。
==== 大正昭和期 ====
==== 大正昭和期 ====
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神社と宗教の分離や、神宮神部署の設置によって、人々と神宮をつなぐ役割を担ってきた神宮奉斎会の意義は薄れてきていた。特に伊勢神宮の現地においては、そのことが顕在化していた。明治初年に神宮教院として開設された宇治大本部は、その存在意義を失い、1918年(大正7年)4月、廃止されることになった。
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国民と神宮をつなぐ役割を担ってきた神宮奉斎会の意義は薄れてきていた。特に[[伊勢神宮]]の現地では顕著で、明治初年に神宮教院として開設された奉斎会宇治大本部は、大正7年(1918)4月、廃止された。
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神宮奉斎会の主たる活動は、神宮大麻の頒布であった。各地の本部に神宮神部署の分署を設置して、その仕事を請け負っていた。しかし、両者の活動領域の境界は曖昧で、現場にも混乱が生じ、確執が生まれていたらしい。
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1926年(昭和1年)の官庁改革で、神宮神部署支署の整理が断行され、神宮奉斎会の地方本部と併置されていた神宮神部署支署は神宮奉斎会と分離されることとなった。そして神宮奉斎会が国から請け負ってきた神宮大麻頒布は各地の神職会に委任された。このことは、神宮奉斎会の財政を悪化させ、一部の人員が神宮神部署に付いていったため、人事を混乱させた。
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また1923年(大正12年)には関東大震災が発生し、神宮奉斎会本院が焼失した。
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今泉定助の提唱で
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八神合祀
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1927年(昭和2年)
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そのころ、奉斎会が担っていた大麻頒布を巡り、神宮神部署と確執が生まれていたらしい。分掌が曖昧で、現場に混乱が生じていたという。昭和元年(1926)の政府の官庁改革で、神部署支署の整理が断行され、奉斎会地方本部と併置されていた各支署は奉斎会と分離され、さらに大麻頒布は各地の神職会に委任された。このことは、奉斎会の財政に大きな打撃となり、さらに一部の人員が神部署に移ったため、人事を混乱させた。
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1923年(大正12年)には関東大震災が発生し、神宮奉斎会本院が焼失した。
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昭和2年(1927)、今泉定助会長の提唱で宮中八神の合祀が進められた。
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==== 解散そして神社本庁に改組 ====
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神道指令が発令され、神社の国家護持が不可能であることが明らかになると、神社界は新たに中心となる組織として神社本庁を設立。財団法人神宮奉斎会は、大日本神祇会、皇典講究所とともにその設立母体となり解散した。本部、奉斎所は神社本庁所属の神社となった。
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==地方本部と大神宮==
==地方本部と大神宮==
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戦後、神宮奉斎会の本院および地方本部は「神社」化する方針となった。廃絶したところもあるが、「●●大神宮」と称して存続しているところが多い。
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戦後、神宮奉斎会の本院および地方本部は「神社」化する方針となった。廃絶したところもあるが、「'''●●大神宮'''」と称して存続しているところが多い。[[東京大神宮]]が特に著名である。戦前、社会通念上は神社として認識されていたとしても、法的には「神社」ではなく、宗教施設である「教会」でもなかったため、分類不能の施設となっていた。このことがあまり地誌類で注目されず、存在感を薄めていった要因の一つと思われる。
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戦前、神宮奉斎会となったあとは、社会通念上は神社として認識されていたとしても、法令上神社ではなく、教会でもなかったため、分類不能の施設となっていた。このことがあまり地誌類で注目されず、存在感を薄めていった要因の一つと思われる。
 
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2015年5月30日 (土) 時点における版

神宮教(じんぐうきょう)は、伊勢神宮の布教組織。神道神宮教神道神宮派。のち財団法人神宮奉斎会となる。現在の神社本庁の設立母体となる。

目次

歴史

神宮教会と神宮教院の設立

明治政府は、明治5年(1872)教部省を設置し、神道を中心とした国民教化政策である大教宣布運動を始めた。その実働部隊として神官・僧侶らが宗教公務員(無給)である教導職に任命された。同年5月、教導職のための半官半民の研究教育機関として大教院が設置されることが決まり、またおおよそ府県ごとに中教院を配して、さらに各社寺を小教院に指定していき(勘違いされることがあるが全ての社寺が小教院になったわけではない)、国民教化を担わせることとした。神官・僧侶が宗教活動を行うには大教院・中教院で試験を受ける必要があった。

全国の神社で、国民教化のための教会を設立する動きが広まり、神宮においても、教化活動のために、神宮教会が設立され、全国で説教を開くとともに、大教院と同じく教導職のための研究教育機関を設立することとし、同年10月に伊勢に神宮教院が設置された。神宮教院は神宮教会の本部でもあり、度会県中教院としても機能したらしい。これらの神宮による教化活動は当時の神宮少宮司浦田長民によって推進された。

伊勢を拠点とすると同時に、東京や京都にも神宮司庁出張所を設置し、神宮による都市での教化活動を推進した。この神宮司庁出張所は、それぞれ後の東京大神宮京都大神宮の起源である。東京出張所の東京皇大神宮遥拝殿(東京大神宮)については、明治13年(1880)4月17日に鎮座した。「遥拝殿」という名ではあるが、御霊代を奉安するレッキとした神殿であった。当時、神宮司庁東京出張所には神道事務局が設置され、この皇大神宮遥拝殿は、神道事務局神殿を兼ねていた。この神殿を巡って、明治の神道界を二分した祭神論争が起こったのはよく知られている。祭神論争直後の事情ははっきりしない。皇大神宮遥拝殿の祭神は一度、昇神されたらしいが、神道事務局と神宮司庁東京出張所が分離されたあと、皇大神宮遥拝殿として、再び祀られたのだろうか。表名は天照大御神だけだが、実質四柱を祀ったともいう。

神宮教の設立

明治天皇も巻き込んでしまった祭神論争に懲りた明治政府は、神社を祭祀のみの施設とし、「教義」からは無縁のものとする方針を取った。明治15年(1882)1月24日、神官と教導職の分離が行われ、神社神官が説教や葬儀などの宗教活動を行うことが禁止された。そのため、神社付属の教会は、神社に付属して崇敬団体となるか、神社から分離独立して教会となるかの選択を迫られた。伏見稲荷大社の瑞穂講社(現在の附属講務本庁)は前者の例であるが、神宮教院は、神宮司庁と分離し、後者の道を歩むこととなった。同年5月10日、ほかの教派とともに神道神宮派として独立。同年、派名を辞めて、神宮教と称した。東京と京都の神宮司庁出張所の名称を廃止し、施設は神宮教に継承されることとなった。皇大神宮遥拝殿は祠宇[1]として「大神宮祠」と称した。各地の神宮教会は神宮教の傘下となった。

東京と伊勢宇治を拠点として、全国の教会を教区に分け、教区ごとに本部を置いた。当初の主な活動は神宮大麻の頒布、神宮暦の頒布、祖霊祭、神葬祭の実施であった。明治23年(1890)からは神宮暦は帝国大学で編纂されることとなった。

神宮教院という用語は、具体的にどの機関、どの施設を指すのかは不明瞭な点がある。東京の施設を指すのか、伊勢にある施設を指すのか、あるいは両方なのか。東京の施設を「東京教院」、伊勢の施設を「宇治本院」と呼称する史料もある。

1898年(明治31年)、祭神に豊受大神が加えられた。

神宮教解散直前の時点で、教区31、本部31、教会46、分教会160、所属教会10、講社事務所315、教会出張所24、説教所34があった。

神宮奉斎会時代

「宗教」から財団法人へ

国家祭祀の中枢ともいえる伊勢神宮の関連組織であり、国家政策である神宮大麻頒布を担いながら、一民間団体に過ぎないという地位は、ジレンマをもたらしていた。そこで明治30年(1897)3月、教団を解散して財団法人となる決議を行った。この改組の理由は、端的に言えば、当時、国の機関であった「神社」の地位に近づこうとしたことにある。つまり、公認とはいえ私的団体に過ぎない「宗教」ではなく、「神社」のように国家的に重要な機関として特別な待遇を得ることを将来的に望んだのであった。しかし反対に、このことによって、ただでさえ曖昧な存在であった神宮教が、宗教でもなければ神社でもない、より曖昧な存在となってしまう結果となった。

神宮奉斎会は「本院」を東京に置き、「大本部」を伊勢に設置した。この頃には東京を拠点とするようになっていたらしい。従来の教会所は「奉斎所」と称し、「宗教」色を薄める試みがなされた。従来の「説教」に代わって、宗教活動ではない「講演」を行うこととした。また宗教団体ではないことから、祖霊を祀ることを禁止した。

神宮奉斎会の主な活動は、神宮大麻の頒布であった。一方、神宮司庁では、明治35年(1902)に大麻頒布を管轄する神宮神部署が設置された。そしてこの神宮神部署の支署が神宮奉斎会の地方本部に置かれ、この時期においては、方針通り国家に近い立場にいることができた。

神前結婚式の普及

社会に大きな影響を与えたことで有名なのが神前結婚式の普及である。神を祀る結婚式は江戸時代にあり、明治初年から神前結婚式の原型ともいうべきものが試みられていた。神宮奉斎会を「発祥」や「起源」とするのはやや問題があるが、現在の神前結婚式を普及させたのは神宮奉斎会の功績が大きいと言われている。

明治33年(1900)5月10日、当時の皇太子(大正天皇)の結婚式が行われ、皇室令に基づき、宮中三殿の神前での儀式もあった。社会の注目を集めたこの結婚式は、神前結婚式ブームを起こした。神宮奉斎会では、明治34年(1901)5月に日比谷大神宮(のちの東京大神宮の日比谷時代の通称)で篠田時化雄が考案した模擬神前結婚式を行い、明治35年(1902)秋に初の神前結婚式が行われた。このあと、次々に挙式者が表れて、盛況を博した。さらに一般神職に結婚式講習を開き、神前結婚式が全国に普及するきっかけとなった。

またこの時期の活動として、国学者の墓や神社の保全活動を行なっており、山室山神社平田神社へ維持金の寄付、本居宣長平田篤胤賀茂真淵の墓の修繕費を拠出している。

大正昭和期

国民と神宮をつなぐ役割を担ってきた神宮奉斎会の意義は薄れてきていた。特に伊勢神宮の現地では顕著で、明治初年に神宮教院として開設された奉斎会宇治大本部は、大正7年(1918)4月、廃止された。

そのころ、奉斎会が担っていた大麻頒布を巡り、神宮神部署と確執が生まれていたらしい。分掌が曖昧で、現場に混乱が生じていたという。昭和元年(1926)の政府の官庁改革で、神部署支署の整理が断行され、奉斎会地方本部と併置されていた各支署は奉斎会と分離され、さらに大麻頒布は各地の神職会に委任された。このことは、奉斎会の財政に大きな打撃となり、さらに一部の人員が神部署に移ったため、人事を混乱させた。

1923年(大正12年)には関東大震災が発生し、神宮奉斎会本院が焼失した。 昭和2年(1927)、今泉定助会長の提唱で宮中八神の合祀が進められた。

解散そして神社本庁に改組

神道指令が発令され、神社の国家護持が不可能であることが明らかになると、神社界は新たに中心となる組織として神社本庁を設立。財団法人神宮奉斎会は、大日本神祇会、皇典講究所とともにその設立母体となり解散した。本部、奉斎所は神社本庁所属の神社となった。


地方本部と大神宮

戦後、神宮奉斎会の本院および地方本部は「神社」化する方針となった。廃絶したところもあるが、「●●大神宮」と称して存続しているところが多い。東京大神宮が特に著名である。戦前、社会通念上は神社として認識されていたとしても、法的には「神社」ではなく、宗教施設である「教会」でもなかったため、分類不能の施設となっていた。このことがあまり地誌類で注目されず、存在感を薄めていった要因の一つと思われる。


神社名 神宮奉斎会時代の名称(廃止時点) 所在地 合祀先 備考
東京大神宮 本院 東京都千代田区富士見2丁目4-1
神宮教院三重県伊勢市
函館大神宮(合祀) 北海道地方本部 (北海道函館区船見町71) 住三吉神社 現在の「海上保安庁函館航路標識事務所職員宿舎」のあたりにあった(「最近実測函館精図」[1]」)。1956年(昭和31年)、住三吉神社に合祀された(『北海道神社庁誌』30頁)。
京都大神宮 京都地方本部 京都府京都市下京区貞安前之町622
兵庫大神宮(合祀?) 兵庫地方本部 (兵庫県神戸市兵庫区地方橋上5) 七宮神社
大津大神宮 滋賀地方本部 滋賀県大津市小関町3-26 滋賀県神社庁に付属している。
長崎大神宮 長崎地方本部 長崎県長崎市栄町6-12
新潟大神宮 新潟地方本部 新潟県新潟市中央区西大畑町5195
大垣大神宮 岐阜地方本部 岐阜県大垣市郭町1丁目96 常葉神社内にある。
上田大神宮 長野地方本部 長野県上田市中央北2丁目5-5
仙台大神宮 宮城地方本部 宮城県仙台市青葉区片平1丁目3-6
秋田大神宮 秋田地方本部 秋田県秋田市千秋城下町5-21
金沢大神宮(現存未確認) 石川地方本部 石川県金沢市大手町15-30
鳥取大神宮 鳥取地方本部 鳥取県鳥取市西町4丁目
松山大神宮(合祀) 愛媛地方本部 (愛媛県松山市西堀端町8) 東雲神社 現在の「南海放送本社」あたりにあった(「改正松山市街全図」[2])。
香川大神宮(高松大神宮) 香川地方本部 香川県高松市丸の内6-27 『沿革史』には高松大神宮とあるが、現在は「香川大神宮」と名乗っているようだ。
高知大神宮 高知地方本部 高知県高知市帯屋町2丁目7-2 
中津大神宮 大分地方本部 大分県中津市二ノ丁1273-1
熊本大神宮 熊本地方本部 熊本県熊本市本丸3-5 熊本城跡にある。
(廃絶?) 山形地方本部 (山形県西田川郡鶴岡町馬場町2) 現在の「丸谷医院」「荘内日報社」のあたりにあった。西田川郡役所の隣にあった。戦後「神社」化する予定のようだったが、廃絶したか。
(廃絶?) 岩手地方本部 (岩手県盛岡市八幡町?) 戦後「神社」化する予定のようだったが、廃絶したか。
(靱大神宮)(合祀) 大阪地方本部 (大阪府大阪市西区靭南通2-10) 石津太神社 現在の「天理教飾大分教会」の地にあった([3][4])。「靱大神宮」は神宮奉斎会時代の通称。
(廃絶?) 愛知地方本部 (愛知県名古屋市西新町2-6) 現在の「名古屋東急ホテル」の西側あたりにあった(「名古屋市街新地図」[5])。当時の県庁と市役所のすぐそばであった。
(廃絶?) 富山地方本部 (富山県高岡市?)
(廃絶?) 岡山地方本部 (岡山県岡山市天瀬106) 現在の「岡山市民病院別館」のあたりにあった(「岡山新市街地図」[6])。
(廃絶?) 広島地方本部 (広島県広島市大手町5-14) 現在の「平和大橋東詰」のあたりにあった(「広島市街地図[7])。

以上のほか、各地の奉斎所が「大神宮」と称して現存している場合がある。川越大神宮、加治大神宮、柏崎大神宮、飛騨大神宮、小畠大神宮、八幡浜大神宮、中村大神宮、鶴崎大神宮、小松島大神宮、柏原大神宮、布哇大神宮伊勢祖霊社などの現存が確認されている。

参考文献

  • 『東京大神宮沿革史』

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