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木曽御嶽山
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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ファイル:ontakesan_002.jpg|御嶽山 遠景 | ファイル:ontakesan_002.jpg|御嶽山 遠景 | ||
ファイル:ontakesan_003.jpg|御嶽山 遠景 | ファイル:ontakesan_003.jpg|御嶽山 遠景 | ||
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2011年10月5日 (水) 時点における版
木曽御嶽山 |
目次 |
概要
歴史
- 木曽御嶽信仰全般の歴史は木曽御嶽信仰を参照。
覚明・普寛以前
覚明・普寛による開山
御嶽講の隆盛
明治の変革
構成
山上
整理番号 | 名称 | 所在地 | コメント |
---|---|---|---|
A001 | 黒沢御嶽神社 奥宮 | 御嶽山山上 剣ケ峰 | 黒沢御嶽神社の奥宮。「奥社」。剣ケ峰頂上にある。1987年(昭和62年)7月4日、社殿造営(『三岳村誌 下巻』年表1093)。 |
A002 | 王滝御嶽神社 王滝奥宮 | 御嶽山山上 王滝頂上 | 王滝御嶽神社の奥宮。「頂上奥社本宮」。吉田家より幣帛神璽を迎えて、1832年(天保3年)閏11月6日に創建。祭神は国常立尊、少彦名命(大己貴命は含まれていない。)。1838年(天保9年)、上野国高崎講により社殿が再建され、神体として銅像が奉納される。1871年(明治4年)修復。1875年(明治8年)9月、黒沢御嶽神社祠官今川弘により、棄却される。黒沢御嶽神社の摂社として結廼社が創建される。1876年(明治9年)7月に再建。1888年(明治21年)8月1日、拝殿を建立。滝家および王滝村内有志、東京開運講の奉納による。1891年(明治24年)8月1日、本殿再建。1935年(昭和10年)本殿改築。(以上『村誌王滝』)
1957年(昭和32年)本殿改築(『御嶽の歴史』315)。 |
A003 | 飛騨御嶽神社 奥宮 | 御嶽山山上 飛騨頂上 | 飛騨側の御嶽神社奥宮。飛騨頂上に鎮座している。2010年(平成22年)再建。1916年(大正5年)『岐阜県益田郡誌』には記載はない。文献にもほとんど記載されていないことから、創建年代は古くはないのかもしれない(あるいは長野県よりの資料には岐阜県についての事項はあえて載せていないものがあるのかもしれない。)。 |
A004 | 継母岳 | 御嶽山山上 継母岳 | 祠があったが、全壊。 |
A005 | 継子岳 | 御嶽山山上 継子岳 | 恵那五光教会の霊神場がある。かつてはドームつきの祠があった。 |
A006 | 継子岳II峰 | 御嶽山山上 継子岳 | 阿留摩耶天の祠がある。 |
A007 | 摩利支天山 | 御嶽山山上 摩利支天山 | 「摩利支天山乗越」に摩利支天の祠がある。 |
A008 | 一ノ池 | 御嶽山山上 剣ケ峰 | 剣ケ峰頂上に接する火口跡。現在は枯れている。外輪の最高地が剣ケ峰で、その続きには三十六童子が祀られている。かつて白龍、黒龍、赤龍、青龍、黄龍の五龍が住んでいたが、のち五つの池に分かれて住むようになったという。どの池にどの龍が住んでいるのかという組み合わせは一定しないようである。 |
A009 | 二ノ池 | 御嶽山山上 剣ケ峰 | 剣ケ峰北方にある池。池には龍神が祀られており、ほとりに鳥居や神像などがある。かたわらには覚明入定地がある。日本最高度の池。 |
A010 | 三ノ池 | 御嶽山山上 | 飛騨頂上の東南にある池。白龍神が祀られており、鳥居と小祠がある。三ノ池は特に聖地として重視されている。三ノ池の水は、神水として神聖視されている。 |
A011 | 四ノ池 | 御嶽山山上 | 継子岳と摩利支天山の間にある湿地帯。現在は池というより湿地帯となっており、草が繁茂する沼の間に小川が流れている。 |
A012 | 五ノ池 | 御嶽山山上 飛騨頂上 | 飛騨頂上にある池。他の四つの池と比べるとその規模は小さく、ほとんど枯れるときもある。湖畔には飛騨頂上の「五の池小屋」がある。 |
A013 | 御嶽教旧御神火祭斎場 | 御嶽山山上 | 御嶽教の大御神火祭のための祭場。王滝頂上と剣ケ峰の間の八丁ダルミにある。御嶽教では毎年8月7日の夜に大御神火祭が行われるが、1954年(昭和29年)の第一回より1979年(昭和54年)の噴火までここで行われてきた。この地には、当初は御嶽不動尊が祀られていたが、1972年(昭和47年)、開教90周年記念として御嶽大神像が建立された。御嶽不動尊は、御嶽教大和本宮に遷座した。
大御神火祭は、1979年(昭和54年)の御嶽山噴火後は、銀河村キャンプ場で行われてきており、また現在は御嶽教の御嶽山木曽本宮予定地で行われている。一方で、旧御神火祭場においても、2002年(平成14年)より雲上大御神火祭を行っている(御嶽教ウェブサイト)。 |
A014 | 二ノ池覚明入定地 | 御嶽山山上 剣ケ峰 | 覚明が入定した旧跡。二回目の登拝のとき、1786年(天明6年)6月20日(7月23日とも、6月23日)に頂上二ノ池にて入定。立ったままの姿で往生したという。遺骸はしばらく二ノ池湖畔に奉安されていたが、のち二ノ池より九合目の岩場に埋葬された(「覚明堂」を参照)。一説によると、登山後半年経って下山しないので村の者が観に行くと亡くなっていたとか、また普寛が登山したときに初めて遺骸が発見されたとかいう伝承もある(『村誌王滝』1629)。 |
A015 | 王滝御嶽神社奥の院 | 御嶽山山上 王滝頂上 | 王滝御嶽神社の奥の院。王滝頂上の南西にある。『御嶽の歴史』によると、頂上王権現が黒沢村の支配になってしまったために、対抗して王滝側によって王滝口頂上として祀られたものであるという。『木曽巡礼記』『木曽名跡志』に初めて記載されたことから天保弘化年間に祀られたと推測されている。112ページ |
A016 | 日の門・月の門 | 御嶽山山上 王滝頂上 | 王滝頂上から奥の院に行く途中にある奇石。 |
A017 | 三十六童子 | 御嶽山山上 剣ケ峰 | 三十六童子は不動明王の眷属。一ノ池の「お鉢」(外縁部)に順々に石標が建てられて祀られている。儀覚行者が、成田山より歓請したものという。『御嶽の歴史』117 |
A018 | 高天原 | 御嶽山山上 継子岳 | 継子岳頂上付近の奇岩地帯。 |
A019 | 賽之河原 | 御嶽山山上 | 二ノ池と三ノ池の間にある平原地帯。多数の石碑・石像などが祀られている。特定の像があるわけではないようだが、「二ノ池地蔵」が祀られているともされる。明治維新後の一時期、「高天原」と呼ばれたこともあるらしい(1910年(明治43年)津島壱城編『木曽案内』25ページ)。 |
黒沢口
整理番号 | 名称 | 所在地 | コメント |
---|---|---|---|
B001 | 黒沢御嶽神社別殿 | 一合目 黒沢集落 | 黒沢御嶽神社社家の武居家の邸内社(?)。黒沢集落にある。木曽御嶽本教の総本庁もかつてここにあったらしい。木曽御嶽本教の霊碑園が隣接している。 |
B002 | 木曽御嶽本教霊碑園 | 一合目 黒沢集落 | 木曽御嶽本教の霊神場。木曽御嶽本教創設者武居誠をはじめ、歴代の幹部の霊神碑が祀られている。 |
B003 | 大泉寺 | 一合目 黒沢集落 | 臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は聖観音。創建は不明だが、1578年(天正6年)の創建という説がある。もと「大泉庵」と称した。1789年(寛政1年)に再建。覚明の「菩提所」を称す。1838年(天保9年)、黒沢麓講により、境内に覚明供養塔が建立された。最古の覚明碑だという。「御嶽山中興大先達阿闍梨覚明法印」とある。また円空仏である韋駄天像(村指定文化財)を所蔵している。
(『御嶽の歴史』162、『三岳村誌』463-467) |
B004 | 黒沢集落 覚明社 | 一合目 黒沢集落 | 覚明百五十年祭に際し、1930年(昭和5年)5月、覚明霊神記念碑を建立(『御嶽の歴史』283)。木曽御嶽本教の旧本部跡地(菅原寿清「木曽御嶽における登拝・御座・霊神信仰」)。 |
B005 | 黒沢御嶽神社 若宮 | 一合目 黒沢集落 | 黒沢御嶽神社の若宮。「里社若宮」。黒沢集落の山林の中に鎮座している。巨大な神楽殿がある。境内には祖霊殿がある。1877年(明治10年)6月、関東巴講の寄進により社殿造営(『御岳の歴史』283)。1963年(昭和38年)、前拝殿を移築(『御嶽の歴史』315)。 |
B006 | 黒沢御嶽神社 若宮祖霊殿 | 一合目 黒沢集落 | 黒沢御嶽神社若宮にある祖霊殿。 |
B007 | 黒沢御嶽神社 里宮 | 一合目 黒沢里宮 | 黒沢御嶽神社の里宮。鳥居から石段を上がった上にある。1874年(明治7年)6月に関東巴講の寄進により社殿造営(『御岳の歴史』283)。 |
B008 | 黒沢御嶽神社 御祓殿 | 一合目 黒沢里宮 | 黒沢御嶽神社の祈祷所。里宮の麓にある。木曽御嶽本教総本庁、覚明社、太陽の丘公園に隣接している。1958年(昭和33年)、創建(『御嶽の歴史』315)。 |
B009 | 黒沢御嶽神社 覚明社 | 一合目 黒沢里宮 | 覚明を祀る神社。里宮の麓にある。覚明二百年祭を記念して、1986年(昭和61年)9月21日に創建(『三岳村誌 下巻』年表1092)。黒沢御嶽神社御祓殿、木曽御嶽本教総本庁、太陽の丘公園に隣接している。毎年10月23日に「祖霊殿慰霊大祭」が覚明社と若宮祖霊殿で行われる。 |
B010 | 木曽御嶽本教 総本庁 | 一合目 黒沢里宮 | 木曽御嶽本教の総本庁。「霊峯会館」。黒沢御嶽神社里宮の麓にある。黒沢御嶽神社御祓殿、覚明社、太陽の丘公園に隣接している。二階には神殿があるようだ。 |
B011 | 白川神社 | 白川地区 | 白川大神を祀る神社。御嶽山38座の一つとされる。白川地区の氏神的地位にある。毎年3月30日に祭礼があるという。祭神は、白川重頼だとされている。 |
B012 | 開山堂 | 三合目 | 覚明を祀る堂。麓太元講の行者が自宅の傍らに建立した。覚明の分骨が納められているという。(『三岳村誌』774-775) |
B013 | 黒沢御嶽神社 天昇殿 | 三合目~四合目 | 黒沢御嶽神社の納骨堂。黒沢登山道にある。1975年(昭和50年)10月に建立(境内由緒書き)。 |
B014 | かんまん滝 | 三合目~四合目 | 滝場。黒沢御嶽神社天昇殿の奥にある。 |
B015 | 護摩堂跡 | 四合目 | 御嶽講統合のために設けられた護摩堂。詳しくは「児野護摩堂」を参照。義具が1848年(嘉永1年)に創建。現在の黒沢霊神場辺りにあったらしい。この辺りを護摩堂原とも呼ぶのはそのためである。巴講霊神場より下方にあったらしい。 |
B016 | 護摩堂原霊神場 | 四合目 霊神場 | 黒沢登山道にある霊神場集合区域。全国最大規模の霊神場集合区域。名称は仮称。
赤岩巣橋のたもとにある覚明碑は1850年(嘉永3年)7月に輪王寺門跡から菩薩号が贈られたことを記念して、1859年(安政6年)に黒沢麓講により建てられたもので山内最古の覚明碑である(『三岳村誌 上巻』820および『御嶽の歴史』162)。「御嶽山勢至覚明大菩薩」とある。 中里允修(巴講祖、亀翁霊神)が1847年(弘化4年)5月(ママ)に死去し、その遺言により1846年(弘化3年)6月(ママ)に霊神碑をこの地に建立した。これが現在の霊神碑の直接の起源となる(供養碑は以前からあったがのちの霊神碑の原型がここにあり、覚明、普寛以外の行者では最古の碑でもある。)(『三岳村誌 上巻』732-733、826)。 |
B017 | 日出滝 | 四合目 霊神場 | 黒沢霊神場地域にある滝場。日出講が造営。 |
B018 | 大祓滝 | 四合目 霊神場 | 黒沢霊神場地域にある滝場。日本橋魚河岸の浦兼吉が1912年(大正1年)より1925年(大正14年)にかけて造営。(『御嶽の歴史』97) |
B019 | 松尾滝 | 四合目 霊神場 | 黒沢霊神場地域にある滝場。丸山平八郎(松尾講祖、広徳霊神)の命を受けて、矢崎平吉(上田松尾講祖、開作霊神)が文久年間に設置。(『三岳村誌 上巻』834) |
B020 | 八海山神社 | 五合目 | 八海山大神を祀る神社。王滝口に倣って建てられたと思われる。「八海山御神水」と呼ばれる神水が湧出している。境内には霊神碑や神像が林立している。戦前は神像を祀った覆屋のような祠があったのみで(1927年(昭和2年)消印の絵葉書より)、「神社」となったのは戦後のことと思われる。 |
B021 | 三笠山神社 | 五合目 | 三笠山大神を祀る神社。王滝口に倣って建てられたと思われる。 |
B022 | 白河大神 | 六合目 | 白河大神を祀る霊場。神社はなく、石碑や神像などが複数祀られている。 |
B023 | 百間滝 | 古道 | 黒沢登山道(古道)にある滝場。覚明が開いた登山道は百間滝を経由する道であった(『御嶽の歴史』97)。 |
B024 | 御嶽社 | 飯森高原駅 | 飯森高原駅にある御嶽神社。1994年(平成6年)11月に創建(由緒書)。 |
B025 | 覚明社 | 七合目 | 覚明が修行した行場跡にある神社。戦前から覚明像は祀られていたようだが(古写真)、社殿が建立されたのはおそらく戦後のことだと思われる。 |
B026 | 阿波ケ岳霊神場 | 八合目 女人堂 | 四国方面の御嶽講の霊神場。1861年(文久1年)、四国の御嶽講の開祖の一人とされる西覚らが登拝していたところ、神夢および御座にて、国常立尊および白川大権現より、八合目金剛童子を阿波行者のために与えるとの託宣が下されたことに由来する。現在、八合目山小屋女人堂に隣接して、西開、西覚の神像を初め、多数の霊神碑が建立されている。
(「阿波ケ岳の由来」『木曽のおんたけさん』156-157) |
B027 | 黒沢御嶽神社中社 | 八合目 金剛童子 | 御嶽神社の中社。金剛童子霊神場の一画にある。御嶽山噴火の際、頂上が立ち入り禁止になったため、1980年(昭和55年)6月に創建(『三岳村誌』年表)。社務所が倒壊したため、現在は放置されているようだ。 |
B028 | 金剛童子 | 八合目 金剛童子 | 金剛童子の祠。王滝東山道の金剛童子と対応している。周辺には特に神像が多く祀られている。大岩がある。かつてはここでわらじを履き替えたという。 |
B029 | 金剛童子霊神場 | 八合目 金剛童子 | 八合目金剛童子周辺の霊神場。中部地方の講社の霊神碑が多い。著名な人物の霊神碑としては、宮丸講開祖の儀覚の霊神碑や心願講開祖の明寛・明心の霊神碑などがある。名称は仮に命名したものである。 |
B030 | 覚明堂 | 九合目 | 覚明の墓所。覚明の死後、遺骸はしばらく二ノ池湖畔に奉安されていたが、のち二ノ池より九合目の岩場に埋葬。のち覚明堂が創建される。 |
王滝口
整理番号 | 名称 | 所在地 | コメント |
---|---|---|---|
C001 | 招魂社・八幡堂 | 八幡堂の創建年代は不明。1952年(昭和27年)5月2日、御嶽神社境内に招霊殿を創建。1953年(昭和28年)5月17日、忠魂碑再建とともに招霊殿を八幡堂に遷座し、「招魂社」と改称。 | |
C002 | 王滝御嶽神社 別殿 | 一合目 | 王滝御嶽神社社家の滝家の邸内社。滝旅館内にある。王滝御嶽神社「別殿社務所」がある。 |
C003 | 王滝御嶽神社 里宮 | 一合目 | 王滝御嶽神社の里宮。1890年(明治23年)改築(『御嶽の歴史』314)。祭神は「国常立尊・大己貴命・少彦名命」。岩戸権現と呼ばれていた。 |
C004 | 王滝御嶽神社 里宮霊神社 | 一合目 | 王滝御嶽神社里宮にある祖霊殿。2004年(平成16年)改修(王滝御嶽神社ウェブサイト)。 |
C005 | 王滝一心行場 | 一合目 | 一心が修行したという行場。王滝御嶽神社里宮の本社の脇にある岩窟である。一心が普寛と出会い、普寛より「不動明王の秘法」を受法された場所だとされている。一心は、疫病によって妻子を失い、菩提寺で出家の後、普寛の声望を聞いて、御嶽山に修行に赴いてきていたのであった(以上、『御嶽山丸江元講宝物拝見記』20-21)。 |
C006 | クルミ沢霊神場 | 一合目 | 王滝里宮周辺にある霊神場集合区域。普寛講系の講社の霊神場が集まっている。王滝里宮入口に、広山、泰賢が1845年(弘化2年)に建立した最古の普寛の碑がある。名称は仮に命名したものである。 |
C007 | 王滝普寛堂 | 一合目 | 普寛を祀った堂。正面にあるくるみ沢旅館が建てたものだという。 |
C008 | 王滝講祖本社 | 一合目 | 王滝里宮のそばにある堂。普寛の木像を中心に、覚明、普寛、一心、一山の銅像を祀る。『村誌王滝』1634-1635に記載がある「松越御堂」にある木像はここの木像のこととと思われる。創建年代は不詳だが、1912年(大正1年)には存在した(福山寿久編『木曽の御岳』)
1890年(明治23年)8月1日より15日まで普寛霊神百年祭を実施。記念碑を建立。のち1920年(大正9年)10月1日、2日に一心霊神百年祭を実施。記念碑を建立。(『御嶽の歴史』283) 1954年(昭和29年)4月、一山霊神百年祭を実施。記念碑を建立。『村誌王滝』1643 他に王滝里宮の境内社にも講祖本社がある。 |
C009 | 一心堂 | 二合目 | 一心を祀った堂。道路反対側に一心霊神碑があるが、もとは同じ敷地内だったという。 |
C010 | 護摩堂跡 | 二合目 | 御嶽講統合のために設けられた護摩堂。詳しくは「児野護摩堂」を参照。義具が1848年(嘉永1年)に創建。現在の一心堂のあたりにあったらしい。王滝および神社では、現在の里宮霊神社のあたりに護摩堂があったという口碑が伝わっているが、これは神道護摩を行なうための別の護摩堂であったのではないかと推測されている(『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』95)。 |
大又三社 | 三合目 | 大又に鎮座する御嶽大神の神像。 | |
C012 | 清滝一心行場 | 三合目~四合目 | 王滝口登山道の清滝あたりにある岩窟である。普寛より「不動明王の秘法」を受法した一心が、一千日木食行を行なったときに起居した岩窟であるとされる(『御嶽山丸江元講宝物拝見記』20-21)。 |
C013 | 清滝 | 三合目~四合目 | 王滝登山道にある滝場。清滝不動尊が祀られている。清滝に向かう道の入口には遥拝所がある。清滝不動尊は木曽御嶽信仰の影響を受けた各霊山や社寺に祀られているが、ここが本源である。 |
C014 | 新滝 | 三合目~四合目 | 王滝登山道にある滝場。 |
C015 | 花戸普寛堂 | 三合目~四合目 | 普寛の墓所四箇所の一つ。普寛の死後、分骨が納められた。吉左衛門(麓講祖、吉神行者)が普寛堂を建立。子孫の小谷家が堂守を務めている(『御嶽の歴史』161)。
50年忌の1848年(嘉永1年)6月、江戸高砂講によって、「開闢木食普寛行者」の碑が建立される(『三岳村誌 上巻』823)。広山、順明、泰賢が関わる。(『御嶽の歴史』313) |
C016 | 御嶽教歴代管長霊場 | 三合目~四合目 | 御嶽教の歴代管長を祀った霊神場。1987年(昭和62年)の建立(教派神道連合会ウェブサイト)。毎年5月17日に御嶽教立教記念祭が行われる。 |
C017 | 霊神場 | 三合目~四合目 | 十二権現周辺にある霊神場集合区域。 |
C018 | 十二権現 | 四合目 | 登山道にある神社。祭神は、コノハナサクヤヒメ。 |
C019 | 八海山神社 | 五合目 | 八海山大神を祀る神社。目の神であることから、目に関するモニュメントがある。現在は、他の山内の神社と比較すると、規模の大きな神社となっている。神水が湧いている。王滝御嶽神社「八海山社務所」がある。 |
C020 | 三笠山神社 | 六合目 | 三笠山大神を祀る神社。田の原駐車場からは麓側にある。「三宝荒神池」という神池がある。意波羅天も祀ったという。 |
C021 | 田之原大黒天 | 七合目 | 大黒天を祀る神社。田の原の登山道入口を入って近いところに鎮座している。大黒天は御嶽大神でもある。戦後の創建だろうか。登山道の入口には王滝御嶽神社「田の原社務所」がある。三宝荒神、神変大菩薩、長崎社などの神像がある。 |
C022 | 王滝御嶽神社 遥拝所 | 七合目 | 王滝御嶽神社の頂上奥社遥拝所。田の原にある。御嶽山噴火で頂上登拝の禁止に際して、建立された。御嶽大神の神像がある。神像の造形は、御嶽教とは異なるものとなっている。王滝御嶽神社「遥拝所社務所」がある。休憩所もある。1855年(安政2年)6月、聖護院因幡堂大先達により、勅命によって護摩を田の原で行った。 |
C023 | 大江大権現 | 七合目 | 大江権現を祀った神社。かつては大江大権現より上は女人禁制だったとされる(『御嶽の歴史』137)。大江権現はかつて黒沢六合目の湯川あたりにあった大江権現(御湯権現)より歓請したものであるという。渡辺菊太郎の霊神碑がある。 |
C024 | 金剛童子 | 八合目 | 金剛童子の祠。金剛童子のほか、日之大権現、イハラ天尊、蔵王大権現、御嶽山摩利支天尊の像が覆屋のなかに祀られている。かつてはここでわらじを履き替えたという。 |
C025 | 中央不動 | 九合目 | 不動明王の祠。御嶽山を代表する不動明王のひとつ。そばには武尊大神の祠がある。 |
木曽福島周辺
整理番号 | 名称 | 所在地 | コメント |
---|---|---|---|
D001 | 御嶽教 御嶽山木曽本宮 | 長野県木曽郡木曽町三岳 | 御嶽教の木曽における拠点。現在造営中。造営中より御神火大祭が行われている。 |
D002 | 御嶽教 木曽大教殿 | 長野県木曽郡木曽町福島新万郡2325 | 御嶽教の木曽における拠点。戦時期になって造営中止となる。戦後創建される。 |
D003 | 児野護摩堂(廃絶) | 長野県木曽郡木曽町福島児野 | 義具(児野嘉左衛門)が、覚明講と普寛講の融和および、幕府による弾圧回避のため、1848年(嘉永1年)に黒沢と王滝の各登山道に建立したのが起源。義具は、尾張藩に働きかけ、護摩堂を寛永寺直支配として、代官山村家の保護を受けた。さらに自証院を御嶽山法務別当として迎え、1848年(嘉永1年)より登拝するようになった。1852年(嘉永5年)、二箇所の護摩堂を廃止統合することとなり、黒沢・王滝の分岐点である児野に移転した。山村代官の護摩方役所が設置された。空明が堂守となった。1862年(文久2年)に再建したという(『御嶽の歴史』184)。明治維新後に廃絶となった。空明は、廃絶後、児野沢橋付近に小堂を建立し、護摩堂の祭祀を継承した。
(『三岳村誌 上巻』831-832、『御嶽の歴史』年表313) |
D004 | 空明の小堂(廃絶) | 長野県木曽郡木曽町福島児野 | 児野護摩堂が明治維新後に廃絶したのち、空明は児野沢橋のたもとに小堂を建立し、祭祀を継承した。
(『三岳村誌 上巻』831-832、菅原寿清「覚明・普寛とその弟子達の時代」) |
D005 | 願行寺(廃絶) | 長野県木曽郡木曽町福島 | 代官山村家の鬼門除けの寺院。天台宗。覚明は願行寺の覚円に一時、師事したという。(『御嶽の歴史』192) |
D006 | オエド遥拝所 | 長野県木曽郡木曽町 | 丸山平八郎(松尾講祖、広徳霊神)が1862年(文久2年)に鳥居を建立(『三岳村誌 上巻』833-4)。1869年(明治2年)、鳥居建設問題が起こる。1869年(明治2年)7月、丸山平八郎が建立した鳥居が壊れているので、多摩郡柚木村木村勝右衛門らによって再建された。しかし、黒沢口有利に建てられたことから、王滝村が反発し、鳥居建設を表明し争論となった。上松村の神職の仲介で和解して、1871年(明治4年)に石標を建てることで決着した。順明堂がある。ちなみにオエドの地名は以仁王を祀った御影堂(おえど)があったことに由来するという。(『御嶽の歴史』257-258) |
D007 | 合戸峠遥拝所(廃絶) | 長野県木曽郡木曽町 | 合戸峠は、木曽福島から黒沢に向かう途中にある。「御嶽正面見」と呼ばれ、御嶽山遥拝所であった。鳥居があったが、いつごろから建てられたのかは不明である。沢渡峠の鳥居が1839年(天保10年)に寄進されているから、同じころだと思われる。(『御嶽の歴史』133) |
D008 | 沢渡峠遥拝所(廃絶) | 長野県木曽郡木曽町三岳 | 沢渡峠(大峠)は木曽福島から王滝に向かう途中にある。「御嶽正面見」と呼ばれ、御嶽山遥拝所であった。1839年(天保10年)に尾張藩木曽材木奉行水谷惣八郎が鳥居を寄進した。1848年(嘉永1年)に尾張藩主揮毫の額面が寄進された。のち廃絶した。(『御嶽の歴史』133) |
D009 | 開田 八海山神社 | 長野県木曽郡木曽町開田 | 不詳。開田口の登山口にあるらしい。(『木曽のおんたけさん』) |
D010 | 開田 下ノ原覚明祠 | 長野県木曽郡木曽町開田高原西野下の原 | 西野地区にある覚明を祀った祠。「覚明堂」バス停そば。霊場がある。木曽町有形文化財「下の原覚明祠並に平次郎地蔵と石仏群」。 |
D011 | 開田 尾ノ島の滝 | 長野県木曽郡木曽町開田 | 覚明が修行したとされる滝場。不動尊が祀られているというが不詳。覚明系御嶽講を興隆させた空明(八海山入道岳開山でもある)はここの洞窟で修行したという。また空明の霊神碑が付近の中部電力キャンプ場跡地にあるという。木曽町指定史跡「尾の島の滝」。(『三岳村誌』661・832頁、千村稔2010「ふるさとを訪ねて55 尾ノ島の滝石造物」『広報きそまち』56) |
D012 | 御嶽山四門東 神戸 | 長野県木曽郡木曽町 | 御嶽四門のことは、松平君山の御嶽縁起や古記録に見える。中世より設けられたものと思われる。鳥居が建てられていたものと推定できる。
神戸は、中山道を北上して初めて御嶽山を仰ぐことのできる場所とされる。1601年(慶長6年)の記録(前田利太「道中日記」)に鳥居があったことが記されている。1604年(慶長9年)に破損。1705年(宝永2年)に再建。さらに金剛院順明が代官山村家の援助を受けて、1821年(文政4年)に遥拝所を再興(『三岳村誌 上巻』825-826、『御嶽の歴史』19-20)。木曽町指定史跡「神戸御嶽遥拝所」。 |
D013 | 御嶽山四門西 長峰峠 | 長野県木曽郡木曽町 | 長峰峠は、飛騨と信濃の国境にある峠。1851年(嘉永4年)、空明が日和田や西野地区の信者と協力して御嶽山大権現石碑を建立する(『御嶽の歴史』313)。
木祖村指定史跡「長峰峠」。 |
D014 | 御嶽山四門南 三浦山(拝殿山) | 岐阜県下呂市 | 三浦山は現在の拝殿山にあたるという(『吉蘇志略』)。御嶽山三十八座の加子母二座がここにあったと推定されている(『御嶽の歴史』20)。 |
D015 | 御嶽山四門北 鳥居峠 | 長野県木曽郡木祖村 | 鳥居峠は中山道を南下して、初めて御嶽山を仰ぐことのできる峠とされる。明応年間に木曽義元が戦勝祈願をして成就し、鳥居を建てたとされる。その後鳥居は廃絶し、名前のみが残った。現在の鳥居は明治初年に再建されたものである。藪原の積善講、奈良井の北講や、関東の講社、松本近在の講社によって、御嶽神社が分霊されて、祀られた。霊神場が設けられた。(『御嶽の歴史』22、170)
木祖村指定史跡「鳥居峠」となっている。 |
D016 | 大桑 古宮の滝 | 長野県木曽郡大桑村野尻 | 野尻にある滝場。覚明が修行したという伝承がある。野尻には安産講という講社がかつてあった。(『御嶽の歴史』169、『三岳村誌』663) |
D017 | 覚明堂 | 長野県木曽郡大桑村野尻 | 野尻にある覚明を祀った堂。野尻安産講の霊神場にある。1864年(元治1年)9月の覚明大菩薩碑がある。(『三岳村誌』664) |
飛騨地域
整理番号 | 名称 | 所在地 | コメント |
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E001 | 飛騨御嶽神社 下呂里宮 | 岐阜県下呂市 | 1916年(大正5年)『岐阜県益田郡誌』には記載はない。 |
E002 | 一の鳥居公園 | 岐阜県下呂市 | 小坂口一合目。近くに「飛騨御嶽修験宗本山」があるという。 |
E003 | 覚明水 | 岐阜県下呂市 | 小坂口にある覚明が発見したという湧水。1916年(大正5年)『岐阜県益田郡誌』には記載はない。 |
E004 | 飛騨御嶽神社 飛騨里宮 | 岐阜県下呂市小坂町落合2376-1 | 1916年(大正5年)『岐阜県益田郡誌』には記載はない。 |