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誠照寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
誠照寺(じょうしょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗の本山寺院。大町門徒(三門徒)系統の真宗誠照寺派の本山で、越前四本山(証誠寺・毫摂寺・誠照寺・専照寺)の一つ。実質的な開山は如覚で、証誠寺から分裂した寺院という説もある。越前国今立郡。江戸時代は天台宗輪王寺宮に直属する院家寺院だった。幕末に准門跡となる。鯖江本山、鯖江御堂。車の道場(車道場)。山号は上野山(うわのさん)。
目次 |
歴史
創建
元久2年(1205)4月、越前国今立郡上野荘の領主波多野景行(景之とも)が霊夢を受けて京都で親鸞に師事。空然と名乗った。 のち親鸞が越後配流の途中に空然の道場に立ち寄り、庵を設けたのが起源とされる(上野別堂)。 親鸞が京都に戻る際、五男道性を留め空然の娘と結婚。道場を継いだという。 弘安元年(1278)、道性の子の如覚が現在地に移転し、翌年竣工した。 嘉元3年(1305)、後二条天皇から真照寺の勅額を賜ったという。 永享9年(1437)2月、後花園天皇の勅願所となり、誠照寺と改称した。 鯖江の町は誠照寺の門前町として生まれた。
誠照寺分立の要因を如覚の父との不和に求める説がある(小泉論文)。
戦国時代
戦国時代は一向一揆と対決。 柴田勝家の保護を受けたが、天正11年、勝家を攻めた羽柴秀吉軍に焼かれた。 天正17年再建するが、有力末寺の誠長寺と常楽寺と本末争いが起きる。 慶長10年、証誠寺の仲裁でいったん和解するが再燃。 寛永8年、福井藩に訴え、その判決により誠長寺と常楽寺は追放・廃絶となった。
近世
福井藩重臣の太田資武の次男の秀諴が入寺して中興。伽藍を復興し、諸制度を整備。夏に美濃の末寺を巡教する「美濃廻り」を創始した。 延宝5年(1677)福井藩主から24石寄進。享保3年、朱印地とされた。 一時聖護院門跡に属したが(国史大辞典)、元禄6年(1693)、輪王寺宮院家となる。 万延元年(1860)、二条家猶子になると共に准門跡となった。 文久2年(1862)12月、伽藍焼失。
近現代
明治5年9月、延暦寺末となるが明治11年2月、独立。 明治10年再建。昭和8年、上野別堂を復興した。
(国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座)
伽藍
諸堂
- 御影堂:本尊は親鸞。歴代法主も祀る。明治10年再建。大師堂ともいう。
- 阿弥陀堂:本尊は閻浮檀金手引阿弥陀如来。かつては33年ごとに開帳していた。聖徳太子と法然も祀る。後二条天皇、後花園天皇の位牌を祀る。明治20年再建。「本堂」とされる(日本仏教基礎講座)。
- 忠霊堂:戦没者2290柱の遺骨を祀る。本尊の光華阿弥陀如来は少将脇坂次郎の寄進。
- 無碍光堂:納骨堂
- 御本廟:歴代法主の墓
- 上野別堂
この他、四足門、御経堂、鐘楼堂、対面所、大庫裡、御宸殿、光華殿がある。教団の宗務所は大庫裡に置かれている。
塔頭
- 願生寺
- 真覚寺
- 法林寺
- 本正寺
- 霊泉寺
役寺
- 西福寺
- 南光寺
歴代住職
- 1:親鸞(1173-1262):浄土真宗開祖。
- 2:道性(1221-1297):誠照寺の伝承では親鸞の五男と伝える。俗名は益方有房とも。『日本仏教基礎講座』では1219年生、1257年死去とする。証誠寺の伝承では1439年生、1521年死去とする。実際は大町・専修寺開山の如導(1253-1340)の弟子とみられ、14世紀の人物だろう。
- 3:如覚(1250-1311):実質的な開山。道性の次男という。存覚(1290-1373)に学んだということは確からしいから、実際には14世紀後半の人物だろう。『勧化抄』(勧化章)を著す。
- 4:良覚(1296-1349):如覚の子。康永元年(1342)、隠退所として西福寺を創建。
- 5:秀覚(1320-1380):良覚の子。正平9年(1354)、南光寺を創建。
- 6:秀雲(1350-1421):秀覚の五男。浄土宗西山派や法相宗を学ぶ。『基礎講座』では1419年死去とする
- 7:秀応(1399-1483):秀雲の子。教団全盛期とも。
- 8:秀慶(1447-1525):秀応の次男。
- 9:秀栄(1489-1552):秀慶の子。朝倉孝景から安堵状を得た。一向一揆の焼討で殺害されたという。
- 10:秀意(1542-1616):秀栄の子。柴田勝家から安堵状を得たため、対立する豊臣秀吉から敵視される。天正11年(1583)の秀吉軍の焼討の後、能登美濃に7年間匿われた。のち豊臣秀吉から安堵状を得て帰山。「安心文」を著す。
- 11:秀盛(1589-1616)<1616-1616>:秀意の末子。就任2カ月で死去。
- 12:秀顕(1550-1621)<1617-1621>:秀意の長男。兵火を逃れて京都の浄土宗禅林寺の僧となる。元和3年(1617)に帰山する。『基礎講座』では1550年生とある。
- 13:秀恵(1579-1627)<1622-1627>:秀顕の友人という。秀顕の遺言で元和8年(1622)入寺。秀高は誤りか。
- 14:秀山(1608-1663):福井藩家臣高谷越後守の子。『基礎講座』では1616年生とする
- 15:秀諴(1632-1691):中興。福井藩重臣の太田資武の次男。制度を整備。閻浮檀金手引阿弥陀如来を本尊とし、伽藍復興。「美濃廻り」を始める。「秀誠」は誤りか。『基礎講座』では1642年生とする。
- 16:秀海(1664-1693):福井藩家臣毛受家の出身。輪王寺宮の院家となる。『基礎講座』では1665年生とする。
- 17:秀如(1675-1729):膳所藩主本多康慶の子。西園寺家の猶子となる。
- 18:秀存(1697-1731):秀如の子。京都で急死。
- 19:秀憲(1718-1744):中山兼親の子。西園寺家の猶子。『基礎講座』では1743年死去とする。
- 20:秀実(1731-1806):萩原兼武の子。西園寺家の猶子。『基礎講座』では1732年生とする。「秀宝」は誤りか。
- 21:秀芳(1765-1786):就任後、まもなく死去。『基礎講座』では1799年死去とする。
- 22:秀〓(1788-1810):三条実起の子。〓は「葽」。「秀要」は誤りか。『基礎講座』では1809年死去とする。
- 23:秀厳(1797-1812)<1811-1812>:左大臣二条治孝の子。三条実起の猶子。就任の翌年に急死。以後、7年間無住。
- 24:秀観(1812-1843)<1820->:秀厳の子。『日本仏教基礎講座』では1844年死去。
- 25:二条秀量(1829-1891)<-1869>:交代寄合の但馬国村岡領主山名義蕃の子。西園寺寛季の猶子。
- 26:二条秀源(1852-1935)<1869-1911>:西園寺寛季の子。二条斉敬の猶子となる。持法会を始める。初代管長。東京別院を創建。
- 27:二条秀暁(1879-1941)<1911-1941>:二条秀源の子。
- 28:二条秀淳(1907-1986)<1941-1986>:
- 29:二条秀政(1934-2001)<1986-2001>:
- 30:二条秀瑞(1978-)<2001-現職>:
- 誠照寺ウェブサイトより
- 望月『仏教大辞典 付録』、『日本仏教基礎講座』も参考にした。
関連寺院
- 東京別院満足院:東京都世田谷区。大正14年の創始で、法主の連枝が住職を務める。
- 誠長寺:福井県鯖江市中野町。如覚の次男良順が創建。初めは北村にあり高木村に移転。連枝格寺院として誠照寺と匹敵する勢力をほこり、独立を画策したが認められず追放された。寛永の訴訟で破却されたのち、丹生郡・坂井郡・大野郡を転々とした。慶安2年(1649)、西本願寺末として復興。天和2年(1682)、間戸から現在地の中野に移転した。浄土真宗本願寺派。(日本歴史地名大系)
- 越前・常楽寺:福井県鯖江市上河端。道性の三男で、如覚の弟の道光(道幸)が創建。末寺中、最大の勢力を誇った。寛永の事件で廃絶。(日本歴史地名大系)
資料
古典籍
- 「上野誠照寺親鸞聖人御伝絵」:江戸時代中期。
- 「鯖江本山誠照寺史料」[1]
- 「誠照寺文書」(『真宗史料集成』第4巻)
- 鯖江市史、福井県史にも収録