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神社行幸旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月27日 (日)
天慶5年(942)4月、承平天慶の乱平定の感謝のための、朱雀天皇の賀茂社行幸が起源という。円融天皇の時代に、石清水行幸、平野行幸が始まり、一条天皇の時代に七社行幸が成立する。後三条天皇の時代にさらに増え、十社行幸となった。鎌倉時代後期から激減し、後醍醐天皇の時代に中絶した。のち約500年ぶりに江戸時代末に孝明天皇が攘夷祈願のための賀茂行幸、石清水行幸を行い復興された。
神社行幸と呼ぶが、天皇が直接、神社に参拝するのではなく、神前から離れたところの常設あるいは仮設の御殿に参籠し、そこから勅使を派遣し、代参する定めとなっていた。これは神社臨時祭を丁重にした形式という。一度、退位し、上皇となれば、自由に神前に赴くことができた。孝明天皇以降は、直接参拝する形を取っている。 直接の参拝が禁忌とされた理由について岡田莊司氏は「天皇は皇祖神天照大神の祭り主であり、諸神社の神々を直接出かけて親祭する立場にはなかった。飽くまでも勅使差遣の祭祀が天皇による天神地祇祭祀の原則であり、天照大神以外の個々の神社への天皇親祭はありえないという根本観念が存在して貫かれていた」と述べている。天皇祭祀と氏族祭祀は互いに不可侵・不介入の関係で成り立っていたのだという。
系譜
- 二社行幸
- 賀茂、石清水
- 七社行幸
- 賀茂、石清水、春日、平野、大原野、松尾、北野
- 十社行幸・代始行幸
- 熊野御幸(上皇・法皇のみ)
参考文献
- 岡田莊司、2010『日本神道史』吉川弘文館