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京都・長楽寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2024年1月12日 (金) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
長楽寺(ちょうらくじ)は、京都府京都市東山区にある時宗寺院。隆寛旧跡。時宗国阿派だった。建礼門院髪塔、頼山陽墓、頼三樹三郎墓、尊攘苑がある。京都・安養寺の南、大谷祖廟・双林寺の北にある。京都七条・金光寺を合併。(参考:同名寺院長楽寺)
天皇即位に際して開帳を行うというが故実は調査中。
目次 |
歴史
- 805年:桓武天皇の勅命で最澄が創建(寺伝)
- 延喜年間:寛雅が宇多天皇の持仏准胝金銅小立像観音を本尊として創建。(阿娑縛抄)
- 宇多院代:十一面観音、あるいは准胝観音を本尊として創建(拾芥抄)
- 一条天皇代:今昔物語に巨勢広高という絵師が長楽寺で地獄変相図を描いたとある
- 1119年11月14日:源宰相が堂宇を建て阿弥陀如来を祭り、雲居寺上人を導師として落慶。
- 寿永年間:青蓮院慈円門下の隆寛が寺内来迎坊に住す。隆寛は法然に帰依して浄土教を唱え、その門流は長楽寺流(多念義、小坂義派)と呼ばれた。
- 1185年5月:建礼門院が阿証坊印西(印誓)のもとで剃髪。(『平家物語』覚一本)
- 1213年8月3日:清水寺焼き討ちのために攻め込んだ延暦寺衆徒らが長楽寺に立て籠った。西面の武士と戦闘になった。後鳥羽上皇は大衆の退却を条件に武士を処分した。
- 1213年8月14日:伽藍仏像修理のため(朝廷から?)100石が下された
- 1227年7月:隆寛、嘉禄の法難で陸奥配流の処分となる。7日間の別時念仏のあと出発。相模飯山で死去したという。
- 1350年8月20日:本尊開扉(「祇園社家記録」)
- 1378年:道勤・慈仙・了真らの勧進により梵鐘を鋳造(「空華集」)
- 1385年:住職栄尊が時宗の国阿に帰依して弥阿弥陀仏と名乗り、長楽寺を譲った。時宗霊山派となる。
- 安土桃山時代:豊臣秀吉、8石4斗を安堵
- 正保年間(1644-1648):後水尾院が本堂を再建。勅額を下賜。東福門院が本尊厨子を寄進した(山州名跡志・坊目誌)。
- 1746年2月:大谷祖廟建設のために境内が没収された
- 1767年:梵鐘鋳造
- 文化年間:経営が行き詰まり、浄土宗養福寺に委ねられた。その後、極楽寺、良音寺、西念寺、良正院(知恩院子院)と所属を転々とした。
- 1870年9月:時宗に復帰し、遊行派に転じて、七条道場金光寺の末寺となる
- 1893年:正伝寺から法堂を移築して本堂とする
- 1908年:本寺の金光寺を合併。山号を「東山」から「黄台山」に改めた。多くの宝物を引き継ぐ。
境内
- 本堂
- 客殿
- 建礼門院塔
- 鐘楼
- 収蔵庫
- 石仏群
- 平安の滝
- 金光寺関係墓地
- 庭園
- 頼山陽墓
- 頼三樹三郎墓
- 鈴木松年墓
- 原市之進墓
- 水戸藩留名碑
- 松平昭訓墓:水戸藩主徳川斉昭の子。徳川慶喜の異母弟。
組織
歴代住職
- 弥阿
- 国阿
- 宣阿
- 石黒寿山(1861-1931)<>:1861年(文久1年)生。1931年(昭和6年)死去。
- 望月華山(1897-1973)<>:1897年(明治30年)生。1973年(昭和48年)死去。
- 牧野体山(1901-1987)<>:1901年(明治34年)生。1987年(昭和62年)死去。
- 牧野素山(1939-)<>:1939年(昭和14年)生。
- 牧野純山()<>: