ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
叡福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(?画像) |
(?歴史) |
||
46行: | 46行: | ||
===古代=== | ===古代=== | ||
[[葛城山]]の西麓にある磯長には陵墓や古墳が集中している。 | [[葛城山]]の西麓にある磯長には陵墓や古墳が集中している。 | ||
- | 聖徳太子らの埋葬後、[[推古天皇]] | + | 聖徳太子らの埋葬後、[[推古天皇]]が坊舎を建て、724年(神亀1年)、[[聖武天皇]]の勅願で伽藍が整備された。東院と西院に分かれ、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と言ったともいう。 |
磯長墓は磯長陵または磯長廟と呼ばれ、生母穴穂部間人皇后と、太子妃の膳部大郎女を共に葬る「三骨一廟」の聖地として尊重された。 | 磯長墓は磯長陵または磯長廟と呼ばれ、生母穴穂部間人皇后と、太子妃の膳部大郎女を共に葬る「三骨一廟」の聖地として尊重された。 | ||
===中世 太子信仰の興隆=== | ===中世 太子信仰の興隆=== | ||
- | + | 平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に1053年(天喜1年)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。 | |
- | + | 1108年(天仁1年)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。[[良忍]]は参詣し、遺言で墓が叡福寺に建てられた。 | |
承安年間、[[平清盛]]が修復。 | 承安年間、[[平清盛]]が修復。 | ||
- | [[親鸞]] | + | [[親鸞]]は1191年(建久2年)、19歳の時、参詣し、『磯長夢記』を記す。 |
- | + | 1192年(建久3年)、[[慈円]]が参詣。 | |
- | + | 1229年(寛喜1年)、[[証空]]が参詣。[[法然]]の勧めで、叡福寺の遊蓮から天台止観を学んだ。 | |
- | [[叡尊]] | + | [[叡尊]]は1246年(寛元4年)菩薩戒を502人に授けている。 |
- | + | 1286年(弘安9年)、[[一遍]]は[[四天王寺]]参詣後に叡福寺に参籠。 | |
[[後嵯峨天皇]]中宮の大宮院(1225-1292)の遺骨が廟前に納められた。 | [[後嵯峨天皇]]中宮の大宮院(1225-1292)の遺骨が廟前に納められた。 | ||
[[日蓮]]も訪れたとされる。 | [[日蓮]]も訪れたとされる。 | ||
- | + | 1348年(貞和4年)、高師泰の兵が聖徳太子墓の中に乱入して荒らした。 | |
- | + | 1574年(天正2年)、兵火で焼失。 | |
===近世=== | ===近世=== | ||
- | + | 1603年(慶長8年)、豊臣秀頼が寺領70石を寄進し、江戸時代これを保った。同年11月、後陽成天皇の勅願で聖霊殿を再建した。承応年間、多宝塔再建。1688年(元禄1年)、丹南藩主高木氏が二天門、上の御堂を造営した。 | |
- | + | 1790年(寛政2年)、東本願寺の乗如が太子墓の内部を拝観。 | |
- | + | 1732年(享保17年)金堂再建。 | |
===近現代=== | ===近現代=== | ||
- | [[聖徳太子墓]]が宮内省の管理となる。叡福寺は[[金剛峰寺]] | + | [[聖徳太子墓]]が宮内省の管理となる。叡福寺は[[金剛峰寺]]末となる。1949年(昭和24年)11月、[[四天王寺]]と共に「聖徳三経宗」を設立したという(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。 |
(国史大辞典、日本歴史地名大系) | (国史大辞典、日本歴史地名大系) |
2021年1月23日 (土) 時点における版
叡福寺 えいふくじ | |
叡福寺 金堂 | |
概要 | 聖徳太子の菩提寺。聖徳太子墓所。 |
奉斎 | |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
所在地(旧国郡) | 河内国石川郡 |
所属(現在) | 真言宗系単立 |
格式など | |
関連記事 | |
目次 |
概要
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある聖徳太子菩提寺の真言宗寺院。聖徳太子墓がある。本尊は如意輪観音。 聖霊院。磯長寺、石川寺、御廟寺。太子堂ともいう。野中寺・大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つで上之太子と呼ばれる。聖徳太子建立四十六寺の一つ。山号は磯長山、科長山。河内国石川郡。
歴史
古代
葛城山の西麓にある磯長には陵墓や古墳が集中している。 聖徳太子らの埋葬後、推古天皇が坊舎を建て、724年(神亀1年)、聖武天皇の勅願で伽藍が整備された。東院と西院に分かれ、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と言ったともいう。 磯長墓は磯長陵または磯長廟と呼ばれ、生母穴穂部間人皇后と、太子妃の膳部大郎女を共に葬る「三骨一廟」の聖地として尊重された。
中世 太子信仰の興隆
平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に1053年(天喜1年)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。 1108年(天仁1年)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。良忍は参詣し、遺言で墓が叡福寺に建てられた。 承安年間、平清盛が修復。
親鸞は1191年(建久2年)、19歳の時、参詣し、『磯長夢記』を記す。 1192年(建久3年)、慈円が参詣。 1229年(寛喜1年)、証空が参詣。法然の勧めで、叡福寺の遊蓮から天台止観を学んだ。 叡尊は1246年(寛元4年)菩薩戒を502人に授けている。 1286年(弘安9年)、一遍は四天王寺参詣後に叡福寺に参籠。 後嵯峨天皇中宮の大宮院(1225-1292)の遺骨が廟前に納められた。 日蓮も訪れたとされる。
1348年(貞和4年)、高師泰の兵が聖徳太子墓の中に乱入して荒らした。 1574年(天正2年)、兵火で焼失。
近世
1603年(慶長8年)、豊臣秀頼が寺領70石を寄進し、江戸時代これを保った。同年11月、後陽成天皇の勅願で聖霊殿を再建した。承応年間、多宝塔再建。1688年(元禄1年)、丹南藩主高木氏が二天門、上の御堂を造営した。 1790年(寛政2年)、東本願寺の乗如が太子墓の内部を拝観。 1732年(享保17年)金堂再建。
近現代
聖徳太子墓が宮内省の管理となる。叡福寺は金剛峰寺末となる。1949年(昭和24年)11月、四天王寺と共に「聖徳三経宗」を設立したという(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
伽藍
- 聖徳太子墓(皇室治定)
- 金堂
- 多宝塔
- 聖霊殿
- 浄土堂
- 上御堂
- 念仏堂:善光寺如来を祀る。
- 隔夜堂
- 二天門
- 経堂
- 宝蔵
- 客殿
- 後嵯峨天皇皇后姞子分骨所(皇室治定)
- 久邇宮邦彦王髪塔(皇室治定外)
- 大師堂
- 見真大師堂:親鸞を祀る。
- 良忍塔:良忍の墓
- 願蓮墓:願蓮は証空が学んだ僧?
- 歴代住職墓地:
- 忠禅墓:忠禅は御記文を発見した僧
- 源頼朝塔:源頼朝の供養塔
- 平時子塔?
- 蘇我倉山田石川麻呂墓:仏陀寺古墳
子院など
1720年(享保5年)の時点では寺僧13院、坐方8坊、所司方4軒、下部8軒があったが職掌など不詳。
- 聖光明院:塔本坊。1688年(元禄1年)までに復興。
- 東福院:1688年(元禄1年)までに復興。
- 多聞院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 無量寿院:1688年(元禄1年)までに復興。
- 往生院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 極楽院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 薬師院:1688年(元禄1年)までに復興。
- 地蔵院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 地蔵院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 大乗院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 持宝院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 文殊院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 自性院:1688年(元禄1年)までに復興。
- 西福院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 最勝院:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 来迎院:1688年(元禄1年)までに復興。
- 石塔院:石塔律院。
- 常光院:本尊は一光三尊仏。1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 中之坊:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 角之坊:1688年(元禄1年)までに復興。
- 尾崎坊:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 宝瓶坊:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 石蔵坊:1688年(元禄1年)までに復興。
- 閼伽井坊:1688年(元禄1年)までに復興。
- 谷之坊:1688年(元禄1年)時点では廃絶。
- 安養寺
- 仏眼寺:
- 西方院:元は叡福寺末。今は独立した浄土宗寺院。三尼公廟
- 南林寺:元塔頭。講堂跡という。高野山真言宗。