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大教院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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大教院(だいきょういん)は、明治初年の大教宣布の中枢を担った半官半民の教育・布教・研究機関。教部省の所轄にあった。当初は仏教各宗の提案により設立され、1872年(明治5年)8月に芝金地院を仮の説教場として開講。11月に和歌山藩邸に移り、1873年(明治6年)1月に開講祭典。もともとは仏教側の働き掛けから始まったが次第に教部省の介入が強くなり、神道色が強くなった。増上寺本堂を接収し、旧神祇官神殿を移築。1873年(明治6年)6月17日、鎮祭開講式を行った。祭神は造化三神天照大神であり、その後の教派神道系の教団や教会所でこの四柱を祭神に含めることが標準となった。一方、神祇不拝を旨とする浄土真宗の島地黙雷がヨーロッパの情勢も踏まえて神仏合同布教に反対。強く抗議活動を続けた結果、1875年(明治8年)1月、真宗四派が大教院から離脱。宗教界が一致して大教宣布に当たる体制は瓦解し、4月30日に解散となった。ただ神仏合同布教が停止されてからも神道仏教各派に設けられて、宗務機関・宗門大学など近現代の教団制度の原型の一つとなった(各宗大教院)。府県ごとに中教院が設置され、社寺単位で小教院が置かれた。機関紙として准官報『教会新聞』を発行し、のちの『明教新誌』に受け継がれた。

目次

歴史

  • 1872年(明治5年)3月14日:<神祇省(および宣教使)を廃して、教部省を設置。(太政官御布告第82号)>
  • 1872年(明治5年)4月10日頃:仏教各宗、諸宗同徳会盟をつくり京都南禅寺金地院で会合。教師を育成する機関設置の請願。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)4月12日:諸宗同徳会盟、東京東本願寺浅草別院で会合。
  • 1872年(明治5年)4月25日:<教導職設置。(太政官御布告第132号)>
  • 1872年(明治5年)4月28日:<「三条の教則」発布。(教部省無号達)>
  • 1872年(明治5年)5月13日:仏教各宗、教部省へ大教院設立を建白。即日、教部省は正院へ許可願を提出。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)5月28日:大教院設置許可。教部省、正院へ二度目の大教院設立許可願を出して認められる。即日、各宗へ伝える。(『大教院の研究』)30日とも。
  • 1872年(明治5年)6月:芝の承教寺で講義を開始(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月2日:教部省、「神仏混同の教院」とする。教部省の大教院への介入始まる。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月4日:教部省の方針を神道仏教が承諾。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月10日:教院取調掛を任命。いずれも神道・国学関係者だった(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月26日:この頃には増上寺が候補地に上がっていた。浄土宗善学寺、増上寺が大教院となっても従来通り法要説教できるように嘆願する。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)7月10日:教部省、元和歌山藩邸(元紀州藩邸)を大教院の設立地とする。設置掛に興正寺華園摂信、総持寺諸嶽奕堂、浄国寺鵜飼徹定、無量寿院密道応ら8人が任命される。(『大教院の研究』、「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)8月2日:仏教各宗、芝金地院を仮教院とすることを届け出る。元和歌山藩邸案が難航していたため。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)8月8日:<神官教導職兼補。太政官達220>
  • 1872年(明治5年)8月25日:仏教各宗、神道両部、正式な大教院設置を求める。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)8月27日:芝金地院で大教院開講(『大教院の研究』)。教頭に華園摂信と鵜飼徹定。福田行誡が教鞭をとる。議事課を置き、公務通達掛、接待学事掛(行光坊唯我韶舜)、説教掛(明王院高岡増隆)、建築会計掛、監寮典籍掛を設置。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)9月3日:教部省社務課・寺務課、元和歌山藩邸の貸渡を申請(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月14日:大教院のため元和歌山藩邸貸渡の許可が出る(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月18日:教部省、各宗へ元和歌山藩邸の貸渡許可を布達(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月19日:元和歌山藩邸を仏教側に引渡し。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月20日:教院取調掛を廃止。教院掛を設置(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月29日:旧八神殿附属建造物の教導職への払い下げを決定(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月:大教院に各宗代理掛、講究、諸宗訓導取締、講究者溜掛、会計掛、生徒取締などを設置。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)10月5日:八神殿の教院への設置を決定(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月25日:<文部省・教部省合併。(教化運動の教育への参入)(太政官御布告第322号)>
  • 1872年(明治5年)10月27日:仏教各宗、大教院建設を申請(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月28日:教部省、大教院建設を許可(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)11月:華園摂信、教頭を辞任し、相国寺萩野独園が就任。副教頭に西本願寺大谷光尊が就任。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)11月24日:社寺を小教院とする旨を布達。(教部省達第29)
  • 1872年(明治5年)11月26日:元和歌山藩邸への移転を完了。神道側が主導した(?)。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)12月:フランス滞在中の島地黙雷、政府に建白して三条の教則を批判。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)1月10日:大教院開講祭典。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)1月14日:教部省、増上寺に大教院とすることを要請。増上寺は拒否。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)1月24日:増上寺、教部省の要請を受諾(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月:<「十一兼題」発布(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)2月5日:教部省、太政官正院へ大教院の増上寺移転と、現・大教院を中教院とすることを届出(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月7日:増上寺源流院に仮事務所が置かれる(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月23日:増上寺、台徳院御霊屋拝殿を増上寺新本堂とすることを通達(『大教院の研究』)。
  • 1873年(明治6年)3月:<社寺内に学校を開くことを認める。(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)3月:<神官僧侶学校制度。講説を学科時間にしてよい(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)3月14日:「大教院事務章程」制定。(教部省無号達)
  • 1873年(明治6年)3月17日、本堂明渡しのため、本尊を台徳院廟拝殿に遷座(東京市史稿)。20日、旧本堂を教部省に引き渡す(東京市史稿)。
  • 1873年(明治6年)5月15日:大教院神殿、工事開始。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月2日:増上寺三門の十六羅漢を撤去して、鳥居を立てる(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月3日:大教院神殿、上棟式(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月14日:<キリスト教宣教師は教師になれないとする。文部省達87(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)6月17日:神殿に四柱大神を鎮祭。開講式。19日まで(『大教院の研究』)。四柱大神は造化三神(天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)と天照大神。
  • 1873年(明治6年)7月:「教典訓法章程」「教書編輯条例」制定か。
  • 1873年(明治6年)8月24日:<「教会大意」を発布(教部省番外達)>
  • 1873年(明治6年)8月28日:<学校教師と教導職を分離。文部省105(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)9月:<文部大少輔・教部大少輔の兼務を解消。(宗教と教育の分離)(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)10月:大教院講究科、「十七兼題」を発布。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)10月頃:浄土真宗から神仏合同布教への異論が出始める。島地黙雷、この頃「大教院分離建白書」提出し、同年、門主に真宗単独離脱を進言する。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)10月20日:「大教院規則」を制定。教部省番外達(教部省番外達)
  • 1873年(明治6年)12月:真宗四派(東西本願寺、専修寺錦織寺)の管長代理藤枝沢依、島地黙雷の影響を受けて、教部省に「分離伺」を提出。仏教各宗は真宗の慰留を促すが応じず。大教院提唱者の一人である興正寺華園摂信は反発し、仏光寺も同調しなかった。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)12月31日:大教院、放火により焼失。神仏合同布教に反発する神道信奉者の犯行という。
  • 1874年(明治7年)2月:大教院新聞課、『教会新聞』創刊。
  • 1874年(明治7年)4月:僧侶の説教は、教導職試補以上のみに限るとされる(教部省達乙9)。島地黙雷はこれに激しく反発。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1874年(明治7年)5月10日:教院へは「学校の余暇」に通うことを達す。教部省乙22。
  • 1874年(明治7年)5月:大教院、6項目を挙げて真宗を批難。(国史大辞典)
  • 1874年(明治7年)5月14日:講説は課外で行なう。宗教学校への公金支出禁止。(『大教院の研究』)
  • 1874年(明治7年)7月:<寺院住職は教導職試補以上に限るとされる。教部省達31>
  • 1874年(明治7年)7月12日:教院・講社の設置方法制定の命令。
  • 1874年(明治7年)8月:真宗側、大教院改革の10カ条の意見書を提出。
  • 1874年(明治7年)9月:諸宗総代萩野独園と神道総代田中頼庸の名で真宗の大教院離脱を認める上申。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1874年(明治7年)9月:<神官僧侶学校、廃止。(『大教院の研究』)>
  • 1874年(明治7年)10月:教部省から太政官へ、真宗離脱許可を上申。
  • 1875年(明治8年)1月29日:太政官、真宗四派大教院離脱を許可。島地黙雷は伊藤博文に礼状を送っており、伊藤博文の関与があったと伺える。
  • 1875年(明治8年)3月28日:<神道事務局、設置>
  • 1875年(明治8年)4月5日:<江戸・真福寺真言宗大教院を設置。各宗大教院の設置が続く。>
  • 1875年(明治8年)4月30日:大教院、解散。(5月3日教部省達書乙第4号別紙)
  • 1875年(明治8年)5月3日:神仏合同布教廃止。(教部省達書乙第4号)
  • 1877年(明治10年)1月11日:<教部省廃止。内務省へ移管。(太政官布告第4号)>
  • 1882年(明治15年)1月24日:<神官教導職分離。内務省達乙第7号>
  • 1884年(明治17年)8月11日:<教導職廃止。(太政官布達第19号)>

組織

大教院長


資料

史料

  • 宍戸たまき「大教院問題意見書草稿」:『宍戸たまき関係文書』1874年(明治7年)か。[1](国会限定)
  • 三条西季知「教部省大教院関係覚書」[2]
  • 内務省神社局『大教院時代前後に於ける状勢』
  • 島地黙雷「真宗分離始末」『島地黙雷全集』1
  • 1914『東京市史稿』市街編[3]
  • 南条文雄1927『懐旧録』「神仏混淆大教院時代1」[4]
  • 南条文雄1927『懐旧録』「神仏混淆大教院時代2」[5]
  • 南条文雄1927『懐旧録』「神仏混淆大教院時代3」[6]

出版物

『教部省准刻書目』(1-4号)には以下の書物が大教院刊行として記されている。

  • 『神教要旨』:小野述信著。1872年(明治5年)。[7]
  • 『神教要旨略解』:近衛忠房・千家尊福著。1872年(明治5年)。[8]
  • 『葬祭略式』:近衛忠房・千家尊福著。1874年(明治7年)。[9]
  • 『三条略解』:1872年(明治5年)10月。細谷環渓『三条弁解』(1873年(明治6年)4月)を改題したもの。?
  • 『教会大意』:
  • 『教導職神拝式』:
  • 『善悪応報論』:[10]
  • 『予美国考證』:予美考證。矢野玄道。大教院蔵版。1872年(明治5年)9月~1873年(明治6年)7月頃。大教院御用書籍売捌所。[11]
  • 『教典訓法章程・教書編輯条例合刻』:[12]
  • 『大教院規則』:
  • 『中教院規則』:
  • 『合議条件』:
  • 『三条演義』:田中頼庸著。1873年(明治6年)4月。[13]
  • 『説教論題十七則』:大教院講究課選述。1874年(明治7年)。博聞社発行。異本[14]
  • 『社寺必用』:
  • 『神徳神験論』:1874年(明治7年)1月~2月頃。田中頼庸の『神徳論』とみられる。
  • 『教会新聞』:
  • 『詔誥撮要』:

教部省准刻書目に記述はないもの

  • 『諸宗説教要義』:大教院教典局編。『明治仏教思想資料集成』所収。『三条教則衍義書資料集』所収。
  • 『国魂神之説』:久保季茲著。大教院編輯課在任中に編纂。未刊行。
  • 『北郷談』:1874年(明治7年)3月序。大教院蔵版。
  • 『大教宣布詔書宣命解』:久保季茲著。大教院蔵版。

文献

  • 神崎一作1934「日本宗教大講座―神道」「大教院時代上」[15]
  • 神崎一作1934「日本宗教大講座―神道」「大教院時代下」[16]
  • 牧野内寛清1937『明治仏教史上に於ける新居日薩』「教部省・大教院・宗務局・薩師の学識と神徳皇恩之説」[17](限定送信)
  • 牧野内寛清1937『明治仏教史上に於ける新居日薩』「大教院分離運動と諸寺院連名建白」[18](限定送信)
  • 村上博了1937「維新後大教院時代前迄の増上寺」『鴨台史報』5
  • 豊田武1938『日本宗教制度史の研究』「真宗の大教院分離運動と神仏合併布教の禁止」[19](限定送信)
  • 服部荘夫1938『鴻雪爪翁―附録・江湖翁遺藁』「大教院時代より臨終まで」[20](限定送信)
  • 増谷文雄1942『行誡上人』「大教院のことども」[21](限定送信)
  • 辻善之助1949『明治仏教史の問題』「教導職と大教院」[22](国会限定)
  • 雲藤義道1987「三条の教則と大教院の設置」『在家佛教』413[23](限定送信)
  • 目黒隆幸1956「真言宗布教史―1明治初期に於ける布教の覚醒」[24]
  • 吉田久一1957「嶋地黙雷の宗教自由論の前提と大教院分離運動」『封建社会における真宗教団の展開』[25](限定送信)(『日本近代仏教史研究』所収)
  • 吉田久一1957「大教院の設立と政教関係の混乱」『日本歴史』111[26](国会限定)(『日本近代仏教史研究』所収)
  • 吉田久一1968「大教院分離前後の輿論に現われた「信教自由論」について」『歴史教育』16-1・2
  • 山本哲生1982「大教院及び教部省関係資料」『日本大学精神文化研究所教育制度研究所紀要』13[27](限定送信)
  • 森安仁1983「史料紹介常世長胤「大教院興立次第記」翻刻」『神道宗教』113
  • 井上順孝翻刻1985「社寺取調類纂-2-<宣教使・大教院関係>」『国學院大學日本文化研究所紀要』56
  • 高橋陽一1991「大教院の教化基準―教典訓法章程と教書編輯条例を中心に」『明治聖徳記念学会紀要』5[28](限定送信)(『共通教化と教育勅語』所収)
  • 林田康順1995「明治前期における「信教の自由」の獲得と受容―浄土宗政を中心として」『佛教文化学会紀要』[29]
  • 新田均1997『近代政教関係の基礎的研究』
  • 小川原正道2000「明治七年・芝増上寺大教院放火事件に関する一考察」[30](限定送信)
  • 小川原正道2001「大教院の一考察―設立過程を中心に」『日本歴史』640
  • 小川原正道2002「大教院の制度と初期の活動」『武蔵野短期大学研究紀要』16
  • 小川原正道2004『大教院の研究―明治初期宗教行政の展開と挫折』
  • 小川原正道2005「明治初期大教院における民衆教化活動―講堂説教・説教テキストの分析を中心に」『明治維新と文化』
  • 小川原正道2009「台湾出兵と大教院・神社」『武蔵野大学政治経済研究所年報』1[31]
  • 高岡隆成2002「大教院問題に関する一考察」『密教文化』208[32]
  • 高岡隆真2005「『明教新誌』の性格とその変遷」『印度學佛教學研究』[33]
  • 戸浪裕之2005「島地黙雷の大教院分離運動」『国学院大学大学院紀要.文学研究科』37
  • 戸浪裕之2006「明治八年大教院の解散と島地黙雷」『国家神道再考』
  • 江島尚俊2011「明治初期の僧侶育成改革と大教院」大正大学綜合佛教研究所年報33
  • 岡田正彦2014「大教院離脱と須弥山説―花谷安慧『天文三字経』を読む」『宗教研究』87
  • 岡田正彦2018「大教院分離運動と仏教天文学―花谷安慧『天文三字経』を読む」『宗教研究』92-2[34]
  • 秋元信英2014「明治六年、新聞にみる大教院と高木真蔭」『神道宗教』236
  • 直林不退2020「大教院体制下の椿原了義の説教について―龍谷大学大宮図書館蔵『盂蘭盆会説教』をめぐって」『節談説教』23
  • 辻岡健志2022「「信教自由」と真宗僧侶―真宗同盟惣代の大教院分離反対運動をめぐって」『明治維新史研究』20
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E6%95%99%E9%99%A2」より作成

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