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樺太神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年3月1日 (日)

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[[ファイル:樺太神社 (10).jpg|thumb|樺太神社・拝殿前|350px]]
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'''樺太神社'''(からふと・じんじゃ)は、樺太庁豊原支庁豊原市豊原町旭ケ岡にあった[[国魂信仰]]・[[開拓三神信仰]]の神社。祭神は[[大国魂命]]・[[大己貴命]]・[[少彦名命]]。廃絶。[[北海道・樺太の神社|開拓地樺太]]の総鎮守。[[官幣大社]]。隣接して[[樺太護国神社]]があった。
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|style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''樺太神社'''<br>からふと じんじゃ
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==祭神==
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[[ファイル:樺太神社 (4).jpg|thumb|樺太神社・本殿|300px]]
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*大国魂命
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*大己貴命
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*少彦名命
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1910年(明治43年)8月17日内閣告示第7号によると三神一座とされた。明治以降の開拓地に祀られることの多かったいわゆる開拓三神と呼ばれる神々で、記紀などの神話で国土の開拓経営を行ったことによる。1869年(明治2年)創建の[[札幌神社]]や1901年(明治34年)創建の[[台湾神社]]にも祀られた。植民地朝鮮と異なり、開拓三神が祀られた地は文明のない「未開の地」と認識されていたと指摘されている。『官幣大社樺太神社由緒調』(1924年(大正13年))によると、大国魂命は大己貴命の別名または荒御魂。その名前は素盞鳴尊から顕国の国魂神であることを命じられ、国譲りの後、幽事を司ることを約し、「大八洲の国々島々を領掌き給ひ、乃ち大国魂命とならせ給へるなり」とする。また大国魂、生国魂、生島足島などの神名があるが全て同一の神であり、樺太島だけを支配する国魂神が別にいるというわけではないと言及している。
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|style="background-color:#ededed;width:100px;"|概要
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|開拓地樺太の総鎮守。
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|style="background-color:#ededed"|奉斎
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|大国魂命、大己貴命、少彦名命<br>(土岐昌訓論文)
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|style="background-color:#ededed"|所在地
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|(樺太豊栄支庁豊原市豊原町旭ヶ丘)
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|style="background-color:#ededed"|所在地(旧国郡)
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|[[官幣大社]]
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|[[国魂信仰]]
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[[category:個別記事]]
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[[category:ロシア連邦サハリン州]]
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==歴史==
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[[ファイル:豊原市地図2.jpg|thumb|400px|豊原市街地の東の山裾に樺太神社と樺太護国神社があった]]
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[[ファイル:樺太神社 (6).jpg|thumb|樺太神社・参道|300px]]
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[[ファイル:樺太神社 (3).jpg|thumb|樺太神社から市街地を望む|300px]]
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===樺太の領有===
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日露戦争で1905年(明治38年)7月、日本軍は樺太全島を占領。8月7日、ルイコフ(北樺太)の中央寺院で「樺太回収式典」を実施。28日樺太民政署をアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港、北樺太)に、民政署支署をコルサコフ(大泊、南樺太)に設置した。9月5日のポーツマス条約で南樺太を領有することとなった。14日、樺太民政署をコルサコフ(大泊)に移転。1907年(明治40年)4月1日、樺太庁を大泊(コルサコフ)に開庁し、民政署を廃止した。
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==概要==
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===創建===
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'''樺太神社'''(からふと・じんじゃ)は、旧樺太庁豊原支庁豊原市にあった、[[開拓三神信仰]]の神社。廃絶。[[北海道・樺太の神社|開拓地樺太]]の総鎮守。[[官幣大社]]。隣接して[[樺太護国神社]]があった。
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1908年(明治41年)8月24日、樺太庁が大泊から豊原に移転。以来、豊原は庁舎所在地として日本領樺太の中心都市となり、住民が増え、1909年(明治42年)に神社創立の議が起こった。『官幣大社樺太神社由緒調』(1924年(大正13年))では、移住民が増え各地で神社創立を企画する者が相次ぎ至ったので、樺太庁においても「人心の帰向に察し」、敬神崇祖の思想の涵養、「安堵永住の基を鞏くせんがため」に「全島鎮護の大祀」の創立することにしたとあり、樺太庁主導で神社創建が進められたことが分かる。長官平岡定次郎、第一部長中川小十郎らが主導したという。
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例祭日の8月23日は樺太庁始政紀念日。
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1910年(明治43年)度の樺太庁土木費予算に造営経費が計上された。設計は伊東忠太とし、木材・石材は全て樺太産のものを用いることとされた。豊原市街地の東の旭ケ岡が社地に定められた。1910年(明治43年)5月16日、工事請負を命じた。施行は北海道や樺太の多くの神社建築を手掛けた伊藤組土建が当たった。5月28日に木元祭を実施。8月24日上棟式。10月14日に社務所竣工。10月24日神職官舎竣工。1911年(明治44年)5月15日から17日に社地周辺の旭ケ岡一帯で野火が発生し、鬱蒼とした密林が焼失し、焼け野原になった。鎮座祭の直前の8月20日、三の鳥居竣工。
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==奉斎==
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==由緒==
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現地で上棟式が行われる直前、政府は1910年(明治43年)8月17日、内閣告示第7号で創立を許可し、社名を樺太神社と決定し、官幣大社に列格した。
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1911年(明治44年)8月22日、勅使として掌典子爵園池実康が参向し、鎮座祭が執行された。
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遡って同年5月17日、樺太神社徽章(神紋?)が樺太庁告示40号で定められ、8月7日に内閣告示第7号で鎮座式の日を決定。勅使は8月5日で命じられ、勅使の他、宮内属高橋重久、掌典補菅野忠雄、式部職雑仕2人、付き人1人の6人が13日、御霊代を奉じて東京を出発。16日に小樽に到着し、17日に大礼丸で小樽を出港。18日に豊原に到着。御霊代は樺太庁の仮奉安所に奉安された。22日午前9時、勅使が御霊代を奉じて樺太庁を出発。9時半に社務所に到着。鎮座祭は午前10時に始まり、正午に終わったという。様々な記念行事が行われた。鎮座祭は夜に行われることが多いが、この時は昼間に行われた。鎮座の翌日には明治天皇が白鞘御太刀1口を神宝として寄進した。樺太庁始政記念日の8月23日が例祭と定められた。1912年(大正1年)、町民が神輿を寄進。豊原神社境内を御旅所として例祭で神輿渡御が行われた。
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===境内の整備===
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1913年(大正2年)8月15日二の鳥居竣工。20日に一の鳥居が竣工。21日、第二祭器庫竣工し、この前後に多くの施設が整った。1922年(大正11年)8月、祝詞舎に蔀戸を設け、拝殿に向拝を増築した。1923年(大正12年)には祝詞舎と拝殿とを接続する渡廊を設置した。1915年(大正4年)4月8日、樺太庁は2万1716坪を境内とし、11万3992坪を付属山林とし、7万7368坪を付属神圃用地とした。
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1925年(大正14年)7月1日には貞明皇后が筧克彦の著書『神ながらの道』を奉納している。
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1925年(大正14年)8月10日、皇太子時代の昭和天皇が参拝した。
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1931年(昭和6年)9月5日、伊勢神宮式年遷宮の撤下神宝の太刀、梓弓、錦靭、鞘、楯、彫馬、鏡、櫛笥、辛櫃、細辛櫃の10点が寄進された。
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1931年(昭和6年)9月28日、山林12万3240坪、神圃用地7万5450坪(減少?)となった。1932年(昭和7年)7月8日、山林16万5135坪を神社用地に編入し、山林28万8375坪となった。
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1935年(昭和10年)10月15日(?)、樺太神社の南の隣接地に[[樺太護国神社]]が遷座した。
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1939年(昭和14年)から5カ年計画で外苑を建造を始めた。
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1943年(昭和18年)樺太が内地に編入された。
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1941年(昭和16年)5月2日、樺太神社造営事務所が設置され(樺太庁訓令第47号)、樺太庁内務部営繕課長が所長となった。
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1943年(昭和18年)に社殿改築されたともいう。
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===ソ連軍侵攻による廃絶===
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1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が対日宣戦布告。翌日に戦闘が始まる。8月15日、玉音放送で樺太にも敗戦が伝えられた。樺太神社でも16日終戦奉告祭が行われた。しかし、ソ連軍の侵攻は止まず、22日に豊原空襲。23日に先遣隊が進駐し、28日までに日本軍は武装解除され、ソ連軍の樺太占領が完了する。9月3日、樺太庁長官の命で、教学課長岡武夫、祭務官補中島常雄が立ち会い霊代焼納祭を行った。その後も1946年(昭和21年)12月23日の引揚まで神籬で祭典を執り行った。ソ連当局は宗教部長を置き社寺の保護に当たり、祭祀の継続を認めたが、兵士にはその趣旨は徹底せず、略奪破壊が続いた。ソ連当局は年明けの歳旦祭からしばしば参列したという。歳旦祭までは日本人の参拝者があったが、市街地から遠く、民心動揺のため、その後はほとんど絶えたという。
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==歴史==
 
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明治43年8月17日、内閣告示第7号で創立され、官幣大社となる。翌年8月22日、勅使参向し、鎮座祭。
 
==境内==
==境内==
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[[ファイル:樺太神社 (2).jpg|thumb|樺太神社・航空写真|300px]]
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[[ファイル:樺太神社 (11).jpg|thumb|樺太神社・本殿|300px]]
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[[ファイル:樺太神社 (12).jpg|thumb|樺太神社・拝殿|300px]]
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[[ファイル:樺太神社 (1).jpg|thumb|樺太神社・上津宮神域|300px]]
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*本社:
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*上津宮神域:不詳。
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*[[樺太護国神社]]:[[指定護国神社]]。樺太神社の南に隣接。正式には境内ではないが参考のために掲げた。
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==組織==
==組織==
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[[ファイル:樺太神社 (5).jpg|thumb|樺太神社・本殿|200px]]
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[[ファイル:樺太神社 (7).jpg|thumb|樺太神社・参道から市街地を望む|200px]]
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[[ファイル:樺太神社 (8).jpg|thumb|樺太神社・参道から市街地を望む|200px]]
===宮司===
===宮司===
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*若林房之進(?-1926)<1908-?>:初代宮司。広島県出身。厳島神社に奉職。賀茂御祖神社禰宜を経て樺太神社宮司に就任。のち退職。
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*阿蘇惟教(1872-1914)<1911-1912>:[[阿蘇神社]]宮司男爵阿蘇惟敦の次男。1872年(明治5年)生。1905年(明治38年)10月[[八代宮]]宮司。1908年(明治41年)[[高良大社]]宮司。1911年(明治44年)6月、樺太神社宮司。1912年(大正1年)5月、[[龍田大社]]宮司。1914年(大正3年)死去。
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*吉野直人(1877-1944)<1937-1944>:長崎県平戸出身の神職。1939年(昭和14年)[[樺太護国神社]]社司を兼務。(略歴は、[[石上神宮#組織]]を参照)
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*若林房之進(?-1926)<1912-1914>:広島県出身。生年不詳。[[厳島神社]]に奉職。[[賀茂御祖神社]]禰宜、樺太神社禰宜を経て1912年(大正1年)5月17日、樺太神社宮司に就任。1914年(大正3年)5月、辞表を提出。郷里に帰る。1926年(昭和1年)死去。(神道人名辞典には樺太神社初代宮司とあるが誤りか)
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*大島乙丸:敗戦
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*長屋基彦(1863-1933)<1914-1918>:広島県出身。1863年(文久3年)生。[[比治山神社]]祠官に師事。[[皇典講究所]]卒。[[金刀比羅宮]]に奉職。[[神宮皇学館]]教授。京都や広島で教諭を務め、1913年(大正2年)1月、[[白山比咩神社]]宮司。1914年(大正3年)6月、樺太神社宮司。1918年(大正7年)7月8日、[[松尾大社]]宮司。のち[[湊川神社]]宮司。1929年(昭和4年)隠退。1933年(昭和8年)死去。
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*神尾清澄(1885-1943)<1918-1929>:滋賀県出身。1885年(明治18年)生。陸軍歩兵伍長。1916年(大正5年)8月8日、[[伊佐須美神社]]宮司。1918年(大正7年)7月8日、樺太神社宮司。1929年(昭和4年)3月5日、[[石上神宮]]宮司。1933年(昭和8年)4月4日、[[宮崎神宮]]宮司。1936年(昭和11年)12月19日、[[賀茂御祖神社]]宮司。在職で1943年(昭和18年)2月22日死去。
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*斎藤富士雄(1884-?)<1929-1937>:山梨県出身。1884年(明治17年)生。神宮皇学館卒。大正年間、[[甲斐・浅間神社]]禰宜。樺太神社禰宜を経て1929年(昭和4年)3月5日、樺太神社宮司。1937年(昭和12年)11月29日、龍田大社宮司。
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*吉野直人(1877-1944)<1937-1944>:長崎県平戸出身の神職。1937年(昭和12年)樺太神社宮司。1939年(昭和14年)[[樺太護国神社]]社司を兼務。(略歴は、[[石上神宮#組織]]を参照)
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*大島乙丸(1894-)<>:敗戦時の宮司。長崎県出身。1894年(明治27年)生。神宮皇学館卒。[[熊野大社]]宮司、[[寒川神社]]宮司、神宮皇学館教諭を経て1940年(昭和15年)6月25日、[[伊弉諾神社]]宮司。樺太神社宮司。戦後、長崎県の天降神社宮司。
==画像==
==画像==
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==参考文献==
==参考文献==
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*土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
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*『樺太の神社』
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==脚注==
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[[category:ロシア連邦サハリン州]]
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<references/>
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2020年3月1日 (日) 時点における最新版

樺太神社・拝殿前

樺太神社(からふと・じんじゃ)は、樺太庁豊原支庁豊原市豊原町旭ケ岡にあった国魂信仰開拓三神信仰の神社。祭神は大国魂命大己貴命少彦名命。廃絶。開拓地樺太の総鎮守。官幣大社。隣接して樺太護国神社があった。

目次

祭神

樺太神社・本殿
  • 大国魂命
  • 大己貴命
  • 少彦名命

1910年(明治43年)8月17日内閣告示第7号によると三神一座とされた。明治以降の開拓地に祀られることの多かったいわゆる開拓三神と呼ばれる神々で、記紀などの神話で国土の開拓経営を行ったことによる。1869年(明治2年)創建の札幌神社や1901年(明治34年)創建の台湾神社にも祀られた。植民地朝鮮と異なり、開拓三神が祀られた地は文明のない「未開の地」と認識されていたと指摘されている。『官幣大社樺太神社由緒調』(1924年(大正13年))によると、大国魂命は大己貴命の別名または荒御魂。その名前は素盞鳴尊から顕国の国魂神であることを命じられ、国譲りの後、幽事を司ることを約し、「大八洲の国々島々を領掌き給ひ、乃ち大国魂命とならせ給へるなり」とする。また大国魂、生国魂、生島足島などの神名があるが全て同一の神であり、樺太島だけを支配する国魂神が別にいるというわけではないと言及している。

歴史

豊原市街地の東の山裾に樺太神社と樺太護国神社があった
樺太神社・参道
樺太神社・拝殿前
樺太神社から市街地を望む

樺太の領有

日露戦争で1905年(明治38年)7月、日本軍は樺太全島を占領。8月7日、ルイコフ(北樺太)の中央寺院で「樺太回収式典」を実施。28日樺太民政署をアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港、北樺太)に、民政署支署をコルサコフ(大泊、南樺太)に設置した。9月5日のポーツマス条約で南樺太を領有することとなった。14日、樺太民政署をコルサコフ(大泊)に移転。1907年(明治40年)4月1日、樺太庁を大泊(コルサコフ)に開庁し、民政署を廃止した。

創建

1908年(明治41年)8月24日、樺太庁が大泊から豊原に移転。以来、豊原は庁舎所在地として日本領樺太の中心都市となり、住民が増え、1909年(明治42年)に神社創立の議が起こった。『官幣大社樺太神社由緒調』(1924年(大正13年))では、移住民が増え各地で神社創立を企画する者が相次ぎ至ったので、樺太庁においても「人心の帰向に察し」、敬神崇祖の思想の涵養、「安堵永住の基を鞏くせんがため」に「全島鎮護の大祀」の創立することにしたとあり、樺太庁主導で神社創建が進められたことが分かる。長官平岡定次郎、第一部長中川小十郎らが主導したという。

1910年(明治43年)度の樺太庁土木費予算に造営経費が計上された。設計は伊東忠太とし、木材・石材は全て樺太産のものを用いることとされた。豊原市街地の東の旭ケ岡が社地に定められた。1910年(明治43年)5月16日、工事請負を命じた。施行は北海道や樺太の多くの神社建築を手掛けた伊藤組土建が当たった。5月28日に木元祭を実施。8月24日上棟式。10月14日に社務所竣工。10月24日神職官舎竣工。1911年(明治44年)5月15日から17日に社地周辺の旭ケ岡一帯で野火が発生し、鬱蒼とした密林が焼失し、焼け野原になった。鎮座祭の直前の8月20日、三の鳥居竣工。

現地で上棟式が行われる直前、政府は1910年(明治43年)8月17日、内閣告示第7号で創立を許可し、社名を樺太神社と決定し、官幣大社に列格した。 1911年(明治44年)8月22日、勅使として掌典子爵園池実康が参向し、鎮座祭が執行された。 遡って同年5月17日、樺太神社徽章(神紋?)が樺太庁告示40号で定められ、8月7日に内閣告示第7号で鎮座式の日を決定。勅使は8月5日で命じられ、勅使の他、宮内属高橋重久、掌典補菅野忠雄、式部職雑仕2人、付き人1人の6人が13日、御霊代を奉じて東京を出発。16日に小樽に到着し、17日に大礼丸で小樽を出港。18日に豊原に到着。御霊代は樺太庁の仮奉安所に奉安された。22日午前9時、勅使が御霊代を奉じて樺太庁を出発。9時半に社務所に到着。鎮座祭は午前10時に始まり、正午に終わったという。様々な記念行事が行われた。鎮座祭は夜に行われることが多いが、この時は昼間に行われた。鎮座の翌日には明治天皇が白鞘御太刀1口を神宝として寄進した。樺太庁始政記念日の8月23日が例祭と定められた。1912年(大正1年)、町民が神輿を寄進。豊原神社境内を御旅所として例祭で神輿渡御が行われた。

境内の整備

1913年(大正2年)8月15日二の鳥居竣工。20日に一の鳥居が竣工。21日、第二祭器庫竣工し、この前後に多くの施設が整った。1922年(大正11年)8月、祝詞舎に蔀戸を設け、拝殿に向拝を増築した。1923年(大正12年)には祝詞舎と拝殿とを接続する渡廊を設置した。1915年(大正4年)4月8日、樺太庁は2万1716坪を境内とし、11万3992坪を付属山林とし、7万7368坪を付属神圃用地とした。

1925年(大正14年)7月1日には貞明皇后が筧克彦の著書『神ながらの道』を奉納している。 1925年(大正14年)8月10日、皇太子時代の昭和天皇が参拝した。 1931年(昭和6年)9月5日、伊勢神宮式年遷宮の撤下神宝の太刀、梓弓、錦靭、鞘、楯、彫馬、鏡、櫛笥、辛櫃、細辛櫃の10点が寄進された。 1931年(昭和6年)9月28日、山林12万3240坪、神圃用地7万5450坪(減少?)となった。1932年(昭和7年)7月8日、山林16万5135坪を神社用地に編入し、山林28万8375坪となった。 1935年(昭和10年)10月15日(?)、樺太神社の南の隣接地に樺太護国神社が遷座した。 1939年(昭和14年)から5カ年計画で外苑を建造を始めた。 1943年(昭和18年)樺太が内地に編入された。 1941年(昭和16年)5月2日、樺太神社造営事務所が設置され(樺太庁訓令第47号)、樺太庁内務部営繕課長が所長となった。 1943年(昭和18年)に社殿改築されたともいう。

ソ連軍侵攻による廃絶

1945年(昭和20年)8月9日、ソ連が対日宣戦布告。翌日に戦闘が始まる。8月15日、玉音放送で樺太にも敗戦が伝えられた。樺太神社でも16日終戦奉告祭が行われた。しかし、ソ連軍の侵攻は止まず、22日に豊原空襲。23日に先遣隊が進駐し、28日までに日本軍は武装解除され、ソ連軍の樺太占領が完了する。9月3日、樺太庁長官の命で、教学課長岡武夫、祭務官補中島常雄が立ち会い霊代焼納祭を行った。その後も1946年(昭和21年)12月23日の引揚まで神籬で祭典を執り行った。ソ連当局は宗教部長を置き社寺の保護に当たり、祭祀の継続を認めたが、兵士にはその趣旨は徹底せず、略奪破壊が続いた。ソ連当局は年明けの歳旦祭からしばしば参列したという。歳旦祭までは日本人の参拝者があったが、市街地から遠く、民心動揺のため、その後はほとんど絶えたという。

境内

樺太神社・航空写真
樺太神社・本殿
樺太神社・拝殿
樺太神社・上津宮神域

組織

樺太神社・本殿
樺太神社・参道から市街地を望む
樺太神社・参道から市街地を望む

宮司

  • 阿蘇惟教(1872-1914)<1911-1912>:阿蘇神社宮司男爵阿蘇惟敦の次男。1872年(明治5年)生。1905年(明治38年)10月八代宮宮司。1908年(明治41年)高良大社宮司。1911年(明治44年)6月、樺太神社宮司。1912年(大正1年)5月、龍田大社宮司。1914年(大正3年)死去。
  • 若林房之進(?-1926)<1912-1914>:広島県出身。生年不詳。厳島神社に奉職。賀茂御祖神社禰宜、樺太神社禰宜を経て1912年(大正1年)5月17日、樺太神社宮司に就任。1914年(大正3年)5月、辞表を提出。郷里に帰る。1926年(昭和1年)死去。(神道人名辞典には樺太神社初代宮司とあるが誤りか)
  • 長屋基彦(1863-1933)<1914-1918>:広島県出身。1863年(文久3年)生。比治山神社祠官に師事。皇典講究所卒。金刀比羅宮に奉職。神宮皇学館教授。京都や広島で教諭を務め、1913年(大正2年)1月、白山比咩神社宮司。1914年(大正3年)6月、樺太神社宮司。1918年(大正7年)7月8日、松尾大社宮司。のち湊川神社宮司。1929年(昭和4年)隠退。1933年(昭和8年)死去。
  • 神尾清澄(1885-1943)<1918-1929>:滋賀県出身。1885年(明治18年)生。陸軍歩兵伍長。1916年(大正5年)8月8日、伊佐須美神社宮司。1918年(大正7年)7月8日、樺太神社宮司。1929年(昭和4年)3月5日、石上神宮宮司。1933年(昭和8年)4月4日、宮崎神宮宮司。1936年(昭和11年)12月19日、賀茂御祖神社宮司。在職で1943年(昭和18年)2月22日死去。
  • 斎藤富士雄(1884-?)<1929-1937>:山梨県出身。1884年(明治17年)生。神宮皇学館卒。大正年間、甲斐・浅間神社禰宜。樺太神社禰宜を経て1929年(昭和4年)3月5日、樺太神社宮司。1937年(昭和12年)11月29日、龍田大社宮司。
  • 吉野直人(1877-1944)<1937-1944>:長崎県平戸出身の神職。1937年(昭和12年)樺太神社宮司。1939年(昭和14年)樺太護国神社社司を兼務。(略歴は、石上神宮#組織を参照)
  • 大島乙丸(1894-)<>:敗戦時の宮司。長崎県出身。1894年(明治27年)生。神宮皇学館卒。熊野大社宮司、寒川神社宮司、神宮皇学館教諭を経て1940年(昭和15年)6月25日、伊弉諾神社宮司。樺太神社宮司。戦後、長崎県の天降神社宮司。

画像

参考文献

  • 『樺太の神社』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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