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源家の祭祀
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月7日 (水)
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*[[西養寺]]:高知県高知市介良(土佐国長岡郡)。真言宗。廃絶。源頼朝弟の源希義の菩提寺で墓が現存する。 | *[[西養寺]]:高知県高知市介良(土佐国長岡郡)。真言宗。廃絶。源頼朝弟の源希義の菩提寺で墓が現存する。 | ||
+ | *[[興国寺]]:和歌山県日高郡由良町門前(紀伊国日高郡)。源実朝の菩提寺。近臣の願性(葛山景倫)が創建。 | ||
+ | *[[雁蕩山]]:浙江省温州市。源実朝の遺命により願性(葛山景倫)が入宋する心地覚心に託して実朝の遺骨を納骨した。 | ||
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+ | |清和源氏の祖。鎮守府将軍。六孫王と呼ばれた。貞純親王の第六王子。元平親王(陽成天皇皇子)の王子という説もある(石清水文書)。武蔵介在任中、足立郡司と争い、平将門も敵対したとみて朝廷に報告。天慶の乱につながり、940年(天慶3年)2月、平将門追討の征東副将軍に任じられた。その後、藤原純友の乱の平定に赴いた。961年(応和1年)11月4日死去。墓所は[[六孫王神社]]の[[源経基墓]]。墓廟が発展して神社となった。神号は六孫王権現。神階は正一位。 | ||
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+ | |源義家の四男。1109年(天仁2年)2月、源家の内紛で同族に暗殺された。墓所不明。 | ||
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+ | |源義朝の子。鎌倉幕府初代将軍。1147年(久安3年)生。母は[[熱田神宮]]大宮司藤原季範の娘。1199年(正治1年)死去。墓は[[鎌倉・白旗神社|白旗神社]]。塔は[[鶴嶺神社]]など。菩提寺は[[寿福寺]]・[[鎌倉・大慈寺|大慈寺]]、[[鎌倉・安養院|安養院]]・[[金剛三昧院]]。法名は武皇嘯厚大禅門(武皇嘯原大禅門・武皇嘯源大禅門)。霊社は鎌倉白旗神社・[[鶴岡八幡宮・白旗神社]]・[[花尾神社]]・[[鎌倉・報恩寺|報恩寺]]白旗神社。神号は白旗大明神か。 | ||
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+ | |源頼朝の子。鎌倉幕府2代将軍。1182年(寿永1年)生。[[北条家]]に追放された。鎌倉[[寿福寺]]や京都[[建仁寺]]の開基。1204年(元久1年)[[修禅寺]]で暗殺された。墓は修禅寺([[源頼家墓]])。法名は法華院殿金吾大禅閤。 | ||
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2023年6月7日 (水) 時点における最新版
源家は源氏宗家。清和源氏の嫡流とみなされる。河内源氏。関東祈祷所。
一覧
- 寿福寺:
- 勝長寿院(廃寺):
- 修禅寺:
- 鎌倉・大慈寺(廃寺):
- 鎌倉・安養院:
- 理智光寺(廃寺):
- 西養寺:高知県高知市介良(土佐国長岡郡)。真言宗。廃絶。源頼朝弟の源希義の菩提寺で墓が現存する。
- 興国寺:和歌山県日高郡由良町門前(紀伊国日高郡)。源実朝の菩提寺。近臣の願性(葛山景倫)が創建。
- 雁蕩山:浙江省温州市。源実朝の遺命により願性(葛山景倫)が入宋する心地覚心に託して実朝の遺骨を納骨した。
歴代
代数 | 名 | 生没年 | 略歴 |
---|---|---|---|
貞純親王 | ?-916 | 清和天皇皇子。桃園親王と呼ばれた。873年(貞観15年)親王宣下。916年(延喜16年)5月7日死去。墓所は山城・円覚寺そばの貞純親王墓(治定外)。貞純神社祭神。 | |
源経基 | ?-961? | 清和源氏の祖。鎮守府将軍。六孫王と呼ばれた。貞純親王の第六王子。元平親王(陽成天皇皇子)の王子という説もある(石清水文書)。武蔵介在任中、足立郡司と争い、平将門も敵対したとみて朝廷に報告。天慶の乱につながり、940年(天慶3年)2月、平将門追討の征東副将軍に任じられた。その後、藤原純友の乱の平定に赴いた。961年(応和1年)11月4日死去。墓所は六孫王神社の源経基墓。墓廟が発展して神社となった。神号は六孫王権現。神階は正一位。 | |
源満仲 | 912-997 | 多田源氏の祖。源経基の長男。鎮守府将軍。912年(延喜12年)生。969年(安和2年)の安和の変の陰謀を摂関家に報告して正五位下となる。986年(寛和2年)花山天皇出家事件では摂関家の陰謀に協力した。997年(長徳3年)死去。86歳。多田満仲。墓所は多田神社の源満仲墓。墓廟が発展して神社となった。神号は多田権現。法名は満慶。神階は正一位。 | |
1 | 源頼信 | 968-1048 | 河内源氏の祖。源満仲の三男。源頼光の弟。鎮守府将軍。968年(安和1年)生。石清水八幡宮を氏神と仰ぐ。藤原道長に重用され、河内を拠点とし、武家としての地位を築く。1031年(長元4年)平忠常の乱を平定。1048年(永承3年)死去。通法寺の南にある小山に墓がある(源頼信墓)。壺井権現社祭神。 |
2 | 源頼義 | 988-1075 | 源頼信の長男。鎮守府将軍。988年(永延2年)生。1031年(長元4年)父と共に平忠常の乱を平定。1056年(天喜4年)から1062年(康平5年)までの前九年の役で陸奥国の安倍氏を滅ぼし、武家の代表者としての地位と、源氏の東国進出の拠点を築いた。1063年(康平6年)8月、鎌倉に鶴岡八幡宮の前身を建てた。1075年(承保2年)出家して伊予入道と称した。同年11月2日(もしくは7月13日)死去。88歳。通法寺の本堂の床下に埋葬されたといわれる。本堂跡に墓碑が建てられている(源頼義墓)。壺井権現社祭神。 |
3 | 源義家 | 1039-1106 | 源頼義の長男。鎮守府将軍。1039年(長暦3年)生。7歳の時、石清水八幡宮の神前で元服し、八幡太郎と呼ばれる。1056年(天喜4年)から1062年(康平5年)までの前九年の役に父と共に従軍。武功を挙げた。1083年(永保3年)から1087年(寛治1年)までの後三年の役で清原家衡らを討った。「天下第一の武勇の士」と讃えられた。1106年(嘉承1年)7月4日死去。68歳。通法寺の南にある小山に墓がある(源義家墓)。壺井権現社祭神。 |
4 | 源義忠 | ?-1109 | 源義家の四男。1109年(天仁2年)2月、源家の内紛で同族に暗殺された。墓所不明。 |
5 | 源為義 | 1096-1156 | 源義親の子。源義家の孫・養子。源義忠の養子。1096年(永長1年)生。1101年(康和3年)、父の義親に追討の命が出たため、義家の命で叔父義忠の養子となり、のち義家の養子となる。1109年(天仁2年)源義綱の追討で活躍し、源家の後継者としての立場を確立した。1113年(永久1年)、延暦寺と興福寺の対立を制止するのに活躍。1123年(保安4年)、延暦寺僧徒の入京阻止に努めた。1143年(康治2年)内大臣藤原頼長に従い、1156年(保元1年)、保元の乱で崇徳天皇・藤原頼長方として戦ったが敗れた。比叡山に逃れて出家して義法と称したが7月30日、長男の義朝に船岡で斬首される。61歳。北白河円覚寺に埋葬されたというが、現存するものは下京区権現寺に源為義墓がある。弓の名手として伴緒社祭神となっている。 |
6 | 源義朝 | 1123-1160 | 源為義の長男。1123年(保安4年)生。東国で生まれ育ったと考えられている。1156年(保元1年)、保元の乱で後白河天皇方について勝つ。敵方についた父を処刑した。1159年(平治1年)、平治の乱で平清盛排除を狙うが敗れ、美濃国赤坂に逃れて、尾張国知多郡の野間の長田忠致を頼った。しかし1160年(永暦1年)1月3日、長田忠致により殺害された。38歳。墓所は大御堂寺。のち源頼朝が鎌倉の勝長寿院を建て首を収めた。菩提寺は両寺の他、鎌倉亀谷堂もあった。各地の左馬神社の祭神。 |
7 | 源頼朝 | 1147-1199 | 源義朝の子。鎌倉幕府初代将軍。1147年(久安3年)生。母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘。1199年(正治1年)死去。墓は白旗神社。塔は鶴嶺神社など。菩提寺は寿福寺・大慈寺、安養院・金剛三昧院。法名は武皇嘯厚大禅門(武皇嘯原大禅門・武皇嘯源大禅門)。霊社は鎌倉白旗神社・鶴岡八幡宮・白旗神社・花尾神社・報恩寺白旗神社。神号は白旗大明神か。 |
8 | 源頼家 | 1182-1204 | 源頼朝の子。鎌倉幕府2代将軍。1182年(寿永1年)生。北条家に追放された。鎌倉寿福寺や京都建仁寺の開基。1204年(元久1年)修禅寺で暗殺された。墓は修禅寺(源頼家墓)。法名は法華院殿金吾大禅閤。 |
9 | 源実朝 | 1192-1219 | 源頼朝の子。鎌倉幕府3代将軍。1192年(建久3年)生。鎌倉・大慈寺を創建。1219年(承久1年)公暁に暗殺された。勝長寿院に葬られたというが墓碑などは現存しない。源実朝首塚が秦野金剛寺にある。高野山金剛三昧院に分骨。寿福寺に供養塔(源実朝墓)。菩提寺は大通寺・金剛三昧院・興国寺。御影像が寿福寺、大通寺、甲斐善光寺、秦野金剛寺にある。柳営社祭神。神号は柳営明神。 |