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真宗大谷派城端別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月18日 (日)

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|生没年不詳
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|蓮真の三子。幼名は尊千代。砂子坂、越中法林寺村、山本村に移転。善徳寺の号を授かる。1509年(永正6年)12月13日死去、36歳とも、1527年(大永7年)2月25日死去とも。二位。
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|蓮真の三子。幼名は尊千代。砂子坂、越中法林寺村、山本村に移転。善徳寺の号を授かる。1509年(永正6年)12月13日死去、36歳とも、1527年(大永7年)2月25日死去とも。教信院、二位と号す。
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|1489-1543
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|実円の子。福光村に移転。正空院とも。1541年(天文10年)7月、上洛。1543年(天文12年)5月2日死去。55歳。二位。
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|実円の子。福光村に移転。正空院とも。1541年(天文10年)7月、上洛。1543年(天文12年)5月2日死去。55歳。証空院、二位と号す。
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|1539-1581
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|円勝の子。1537年(天文6年)7月24日、得度。城端に移転。1581年(天正9年)6月17日死去。43歳。刑部卿。二位。
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|円勝の子。1537年(天文6年)7月24日、得度。城端に移転。1581年(天正9年)6月17日死去。43歳。顕示院、刑部卿、二位と号す。
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|?-1622
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|祐勝の婿養子。石田西光寺の出身。石山合戦で活躍。1604年(慶長9年)前田利長から免税、真翰を賜る。1622年(元和8年)10月6日死去。
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|祐勝の婿養子。石田西光寺の出身。石山合戦で活躍。1604年(慶長9年)前田利長から免税、真翰を賜る。1622年(元和8年)10月6日死去。顕証院と号す。
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|?-1665
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|空勝の養子。加賀太田受得寺の出身。室は水越縫殿の娘。僧都。1665年(寛文5年)3月8日死去
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|空勝の養子。加賀太田受得寺の出身。室は水越縫殿の娘。僧都。1665年(寛文5年)3月8日死去。正定院と号す。
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|?-1670
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|因勝の婿養子。二俣本泉寺の出身。1664年(寛文4年)隠居。1670年(寛文10年)4月9日死去。行寿院とも。
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|因勝の婿養子。[[二俣本泉寺]]の出身。1664年(寛文4年)隠居。1670年(寛文10年)4月9日死去。行受院(行寿院とも)と号す。
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|顕勝の長男。1656年(明暦2年)(1696年(元禄9年)12月とも)隠居。1700年(元禄13年)7月7日死去。75歳。宮内卿。
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|顕勝の長男。1656年(明暦2年)(1696年(元禄9年)12月とも)隠居。1700年(元禄13年)7月7日死去。75歳。栄興院、宮内卿と号す。
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|生没年不詳
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|玄勝の養子。桑名本統寺瑛晶の六男。幼名は潜陽丸。1689年(元禄2年)6歳で得度。即座。1696年(元禄9年)善徳寺住職。1702年(元禄15年)4月死去、19歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/2965593/1/97]。1703年(元禄16年)4月22日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/12261646/1/235]。1695年(元禄8年)4月22日死去、19歳とも[https://dl.ndl.go.jp/pid/9541089/1/392]。一位。
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|玄勝の養子。[[本統寺]]瑛晶の六男。幼名は潜陽丸。1689年(元禄2年)6歳で得度。即座。1696年(元禄9年)善徳寺住職。1702年(元禄15年)4月死去、19歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/2965593/1/97]。1703年(元禄16年)4月22日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/12261646/1/235]。1695年(元禄8年)4月22日死去、19歳とも[https://dl.ndl.go.jp/pid/9541089/1/392]。宝林院、一位と号す。
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|1675-1728
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|東本願寺一如の次男。琢玄の婿。船場本徳寺住職。1688年(元禄1年)得度。1703年(元禄16年)から1707年(宝永4年)まで善徳寺を兼務。1728年(享保13年)1月13日死去。54歳。
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|[[船場本徳寺]]8世。東本願寺一如の次男。琢玄の婿。1703年(元禄16年)から1707年(宝永4年)まで善徳寺を兼務。1728年(享保13年)1月13日死去。54歳。聞光院と号す。(略歴は[[真宗大谷派姫路船場別院#組織]]を参照)
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|連枝。大通寺海高の子。一如の孫。菊亭誠季の猶子。1716年(享保1年)得度。1717年(享保2年)初冬、善徳寺に入寺。1733年(享保18年)退任。1738年(元文3年)8月15日死去。31歳。
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|[[長浜大通寺]]海高の子。一如の孫。菊亭誠季の猶子。1716年(享保1年)得度。1717年(享保2年)初冬、善徳寺に入寺。1733年(享保18年)退任。1738年(元文3年)8月15日死去。31歳。速満院と号す。
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|本徳寺一玄の子。一如の孫。岡崎国久の猶子。1703年(元禄16年)生。幼名は亀丸(象丸とも)。室は本念寺一誓の娘。1711年(正徳1年)5月14日得度。能登本念寺7世となるが1736年(元文1年)5月、善徳寺入寺。1737年(元文2年)7月、定衆となり、巡讃。1738年(元文3年)1月28日、式導師。1751年(宝暦1年)3月14日死去。49歳。三位。[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989/1/372]
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|本徳寺一玄の子。一如の孫。岡崎国久の猶子。1703年(元禄16年)生。幼名は亀丸(象丸とも)。室は本念寺一誓の娘。1711年(正徳1年)5月14日得度。能登本念寺7世となるが1736年(元文1年)5月、善徳寺入寺。1737年(元文2年)7月、定衆となり、巡讃。1738年(元文3年)1月28日、式導師。1751年(宝暦1年)3月14日死去。49歳。至徳院、三位と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989/1/372]
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|真誓の子。幼名は藤丸。1738年(元文3年)12月26日得度。即座。宰相、一位と号す。1751年(宝暦1年)参議辻実長の猶子となる。1739年(元文4年)助音。1740年(元文5年)巡讃。1751年(宝暦1年)8月、善徳寺住職。1764年(明和1年)10月2日死去。
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|真誓の子。幼名は藤丸。1738年(元文3年)12月26日得度。即座。1751年(宝暦1年)参議実長の猶子となる。1739年(元文4年)助音。1740年(元文5年)巡讃。1751年(宝暦1年)8月、善徳寺住職。1764年(明和1年)10月2日死去。欣求院、宰相、一位と号す。
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|長浜大通寺住職。船場本徳寺住職。1775年(安永4年)8月18日、入院。死後、60年間役僧が寺務を執る。真応とも。含山と号す。(略歴は[[真宗大谷派長浜別院#組織]]を参照)
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|長浜大通寺住職。[[船場本徳寺]]住職。1775年(安永4年)8月18日、入院。初名は真応。横超院、含山と号す。死後、60年間役僧が寺務を執る。(略歴は[[真宗大谷派長浜別院#組織]]を参照)
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|1848-1851
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|前田斉泰の子。1848年(嘉永1年)生。幼名は亮午郞、亮丸、祐麿。同年、東本願寺猶子となる。1849年(嘉永2年)8月14日、善徳寺に入寺。1851年(嘉永4年)11月7日死去。4歳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/780532/1/18]
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|[[前田家]]出身。前田斉泰の子。1848年(嘉永1年)生。幼名は亮午郞、亮丸、祐麿。同年、東本願寺法主の猶子となる。1849年(嘉永2年)8月14日、善徳寺に入寺。1851年(嘉永4年)11月7日死去。4歳。速成院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/780532/1/18]
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|速悟院
|速悟院
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|1861-1873
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|厳如の甥。本統寺大谷朗晶の子。室は前田斉泰の娘。1861年(文久1年)10月、善徳寺に入寺[https://dl.ndl.go.jp/pid/1217956/1/310]。1872年(明治5年)5月7日、執当兼執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/2966370/1/243]。1873年(明治6年)11月27日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/1181740/1/27]
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|厳如の甥。[[本統寺]]大谷朗晶の子。1853年(嘉永6年)生。室は前田斉泰の娘。1861年(文久1年)10月、善徳寺に入寺[https://dl.ndl.go.jp/pid/1217956/1/310]。1872年(明治5年)5月7日、執当兼執事[https://dl.ndl.go.jp/pid/2966370/1/243]。1873年(明治6年)11月27日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/1181740/1/27]。速悟院と号す。
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|1865-1900
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|大谷光勝の養子。飛鳥井家出身。飛鳥井雅典の子。近衛篤麿の養子。1865年(慶応1年)生。幼名は長麿。1873年(明治6年)、善徳寺住職か[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538770/1/754]。1880年(明治13年)11月22日、大講義から権少教正。1900年(明治33年)10月19日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/821428/1/19](21日死去とも[https://dl.ndl.go.jp/pid/821428/1/83])。36歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/3022329/1/350]
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|大谷光勝の養子。[[飛鳥井家]]出身。飛鳥井雅典の子。近衛篤麿の養子。1865年(慶応1年)生。幼名は長麿。1873年(明治6年)、善徳寺住職か[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538770/1/754]。1880年(明治13年)11月22日、[[教導職]]大講義から権少教正。1900年(明治33年)10月19日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/821428/1/19](21日死去とも[https://dl.ndl.go.jp/pid/821428/1/83])。36歳[https://dl.ndl.go.jp/pid/3022329/1/350]。宝香院と号す。
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|1887-?
|1904-1930?
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|勝道の婿養子。大谷光瑩の七男。1887年(明治20年)生。室は貞子。1904年(明治37年)善徳寺住職。1914年(大正3年)慶応義塾大学文学部卒。復職にあたり、擁護派と反対派で壮絶な対立があり、流血する事態にまで発展。復職を果たしたようだが1930年(昭和5年)に引き上げた[https://dl.ndl.go.jp/pid/9775500/1/58](ただしその後の資料にも城端別院住職として記載されることがある)。1936年(昭和11年)高山別院住職となるが同年退任。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1686316/1/908]
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|大谷勝道の婿養子。大谷光瑩の七男。1887年(明治20年)生。室は貞子。1904年(明治37年)善徳寺住職。1914年(大正3年)慶応義塾大学文学部卒。復職にあたり、擁護派と反対派で壮絶な対立があり、流血する事態にまで発展。復職を果たしたようだが1930年(昭和5年)に引き上げた[https://dl.ndl.go.jp/pid/9775500/1/58](ただしその後の資料にも城端別院住職として記載されることがある)。1936年(昭和11年)[[高山別院]]住職となるが同年退任。没年不詳。成満院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1686316/1/908]
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== 資料==
== 資料==
*1982『城端町史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538770/1/349]
*1982『城端町史』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538770/1/349]

2023年6月18日 (日) 時点における最新版

真宗大谷派城端別院(しんしゅうおおたには・じょうはな・べついん)は、富山県南砺市にある真宗大谷派別院蓮如旧跡。寺号は善徳寺城端御坊?別格別院だった(大谷派寺院録)。

目次

一覧

本願寺5代綽如の三男の周覚(玄真)の一族は北陸地方に教線を伸ばし、「北国一家衆」と呼ばれた。その一人で周覚の孫の蓮真(玄永)の下にその伝手を頼って蓮如が訪れた。これを機に文明8年(1476)加賀越中国境に創設された砂子坂道場(跡地に石碑)が起源とされる。蓮如を開山として蓮真を2代とする。法林寺(地名。南砺市法林寺)、山本(南砺市山本)(教念寺付近にあった)、福光(南砺市福光)(南砺市福光五宝町の支院知源寺の地)を経て永禄2年(1559)に城端に寺基を定めた。 6代空勝は、石山合戦で本願寺軍の教如を助けたことから、本願寺東西分立後は教如が立てた東本願寺に付いた。教如から蓮如御影を下賜された。江戸時代、越中・加賀・能登に末寺を多数持ち、瑞泉寺とともに越中頭寺となった。大谷家連枝や藩主前田家子息が入寺し、高い格式を誇った。 (木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部)

組織

住職

  • 「善徳寺系譜」[1]、「城端善徳寺由緒略書」[2]、1982『城端町史』[3]を主な典拠とした。
世数 法号 法諱 院号 生没年 在職年 略歴
1 蓮如 兼寿 信証院 1415-1499 1472- 1472年(文明4年)創建。
2 蓮真 玄永 1443-1511 不詳 綽如の曾孫。鯖江・西光寺開山永存の長男。桂島照護寺、中島岡崎を経て砂子坂道場に入る。1492年(明応1年)加賀越中能登三国の末寺総録となる。1511年(永正8年)死去。
3 実円 玄広 教信院 生没年不詳 不詳 蓮真の三子。幼名は尊千代。砂子坂、越中法林寺村、山本村に移転。善徳寺の号を授かる。1509年(永正6年)12月13日死去、36歳とも、1527年(大永7年)2月25日死去とも。教信院、二位と号す。
4 円勝 孝政 証空院 1489-1543 不詳 実円の子。福光村に移転。正空院とも。1541年(天文10年)7月、上洛。1543年(天文12年)5月2日死去。55歳。証空院、二位と号す。
5 祐勝 玄政 顕示院 1539-1581 不詳 円勝の子。1537年(天文6年)7月24日、得度。城端に移転。1581年(天正9年)6月17日死去。43歳。顕示院、刑部卿、二位と号す。
6 空勝 顕証院 ?-1622 不詳 祐勝の婿養子。石田西光寺の出身。石山合戦で活躍。1604年(慶長9年)前田利長から免税、真翰を賜る。1622年(元和8年)10月6日死去。顕証院と号す。
7 因勝 玄俊 正定院 ?-1665 不詳 空勝の養子。加賀太田受得寺の出身。室は水越縫殿の娘。僧都。1665年(寛文5年)3月8日死去。正定院と号す。
8 顕勝 玄英 行受院 ?-1670 ?-1664 因勝の婿養子。二俣本泉寺の出身。1664年(寛文4年)隠居。1670年(寛文10年)4月9日死去。行受院(行寿院とも)と号す。
9 玄勝 顕英 栄興院 1626-1700 不詳 顕勝の長男。1656年(明暦2年)(1696年(元禄9年)12月とも)隠居。1700年(元禄13年)7月7日死去。75歳。栄興院、宮内卿と号す。
10 一勝 海晶 宝林院 生没年不詳 不詳 玄勝の養子。本統寺瑛晶の六男。幼名は潜陽丸。1689年(元禄2年)6歳で得度。即座。1696年(元禄9年)善徳寺住職。1702年(元禄15年)4月死去、19歳[4]。1703年(元禄16年)4月22日死去[5]。1695年(元禄8年)4月22日死去、19歳とも[6]。宝林院、一位と号す。
11 一玄 海澄 聞光院 1675-1728 1703-1707 船場本徳寺8世。東本願寺一如の次男。琢玄の婿。1703年(元禄16年)から1707年(宝永4年)まで善徳寺を兼務。1728年(享保13年)1月13日死去。54歳。聞光院と号す。(略歴は真宗大谷派姫路船場別院#組織を参照)
12 真源 性高 速満院 1708-1738 1717-1733 長浜大通寺海高の子。一如の孫。菊亭誠季の猶子。1716年(享保1年)得度。1717年(享保2年)初冬、善徳寺に入寺。1733年(享保18年)退任。1738年(元文3年)8月15日死去。31歳。速満院と号す。
13 真誓 性辰 至徳院 1703-1751 1736-1751 本徳寺一玄の子。一如の孫。岡崎国久の猶子。1703年(元禄16年)生。幼名は亀丸(象丸とも)。室は本念寺一誓の娘。1711年(正徳1年)5月14日得度。能登本念寺7世となるが1736年(元文1年)5月、善徳寺入寺。1737年(元文2年)7月、定衆となり、巡讃。1738年(元文3年)1月28日、式導師。1751年(宝暦1年)3月14日死去。49歳。至徳院、三位と号す。[7]
14 真勝 性政 欣求院 ?-1764 1751-1764 真誓の子。幼名は藤丸。1738年(元文3年)12月26日得度。即座。1751年(宝暦1年)参議実長の猶子となる。1739年(元文4年)助音。1740年(元文5年)巡讃。1751年(宝暦1年)8月、善徳寺住職。1764年(明和1年)10月2日死去。欣求院、宰相、一位と号す。
15 真央 性徳 横超院 1721-1791 1775-1791 長浜大通寺住職。船場本徳寺住職。1775年(安永4年)8月18日、入院。初名は真応。横超院、含山と号す。死後、60年間役僧が寺務を執る。(略歴は真宗大谷派長浜別院#組織を参照)
16 達亮 速成院 1848-1851 1849-1851 前田家出身。前田斉泰の子。1848年(嘉永1年)生。幼名は亮午郞、亮丸、祐麿。同年、東本願寺法主の猶子となる。1849年(嘉永2年)8月14日、善徳寺に入寺。1851年(嘉永4年)11月7日死去。4歳。速成院と号す。[8]
17 厳高 勝心 速悟院 1853-1873 1861-1873 厳如の甥。本統寺大谷朗晶の子。1853年(嘉永6年)生。室は前田斉泰の娘。1861年(文久1年)10月、善徳寺に入寺[9]。1872年(明治5年)5月7日、執当兼執事[10]。1873年(明治6年)11月27日死去[11]。速悟院と号す。
18 大谷勝道 宝香院 1865-1900 1873?-1900 大谷光勝の養子。飛鳥井家出身。飛鳥井雅典の子。近衛篤麿の養子。1865年(慶応1年)生。幼名は長麿。1873年(明治6年)、善徳寺住職か[12]。1880年(明治13年)11月22日、教導職大講義から権少教正。1900年(明治33年)10月19日死去[13](21日死去とも[14])。36歳[15]。宝香院と号す。
19 大谷瑩琇 成満院 1887-? 1904-1930? 大谷勝道の婿養子。大谷光瑩の七男。1887年(明治20年)生。室は貞子。1904年(明治37年)善徳寺住職。1914年(大正3年)慶応義塾大学文学部卒。復職にあたり、擁護派と反対派で壮絶な対立があり、流血する事態にまで発展。復職を果たしたようだが1930年(昭和5年)に引き上げた[16](ただしその後の資料にも城端別院住職として記載されることがある)。1936年(昭和11年)高山別院住職となるが同年退任。没年不詳。成満院と号す。[17]

資料

  • 1982『城端町史』[18]
  • 善徳寺系譜[19]
  • 『城端別院善徳寺史料目録』[20]
  • 「城端善徳寺由緒略書」[21]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E5%9F%8E%E7%AB%AF%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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