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空海旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''空海'''(くうかい)は、日本[[真言宗]]の開祖。
'''空海'''(くうかい)は、日本[[真言宗]]の開祖。
==略歴==
==略歴==
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===入唐前===
===入唐前===
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====出世コースを放棄(誕生~大学中退)====
====出世コースを放棄(誕生~大学中退)====
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*宝亀5年(774)6月15日、讃岐国多度郡屏風浦に郡司佐伯田公の三男として生まれる。母は、阿刀真足娘の玉依御前(阿古屋御前)。幼名は真魚(まお)。現在の善通寺の地というのが一般的な説だが、海岸寺(多度津町)にも伝承がある。誕生日の6月15日は不空の命日でもあり、後に彼の生まれ変わりとも言われる。
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*宝亀5年(774)6月15日、讃岐国多度郡屏風浦に郡司'''佐伯田公'''の三男として生まれる。母は、阿刀真足娘の'''玉依御前'''(阿古屋御前)。幼名は'''真魚'''(まお)。現在の[[善通寺]]の地というのが一般的な説だが、[[海岸寺]](多度津町)にも伝承がある。誕生日の6月15日は[[不空]]の命日でもあり、後に彼の生まれ変わりとも言われる。
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*『御遺告』によると出身の佐伯氏は、かつて東国の蝦夷征討に参加した功績で讃岐の地を拝領したという。
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*『御遺告』によると出身の[[佐伯氏]]は、かつて東国の蝦夷征討に参加した功績で讃岐の地を拝領したという。
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*12歳で讃岐の国学に入学。15歳で平城京に叔父阿刀大足(桓武天皇皇子伊予親王の侍講)と共に上京した。延暦10年(791、18歳)、大学寮に入学した。既に延暦3年(784)長岡京遷都が行われていたが、長岡京は造営中であり、完成しておらず、奈良に暮らしたと思われる。佐伯氏の氏寺佐伯院に寄宿したと考えられている。一族の期待を背負っての入学だったが、しかし、入ったばかりの大学を中退。「エリート社会人」としての将来が約束されていたはずなのに、儒教中心の勉強に満足しなかったらしい。
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*12歳で讃岐の国学に入学。15歳で[[平城京]]に叔父阿刀大足([[桓武天皇]]皇子伊予親王の侍講)と共に上京した。延暦10年(791、18歳)、[[大学寮]]に入学した。既に延暦3年(784)[[長岡京]]遷都が行われていたが、長岡京は造営中であり、完成しておらず、奈良に暮らしたと思われる。佐伯氏の氏寺[[佐伯院]]に寄宿したと考えられている。一族の期待を背負っての入学だったが、しかし、入ったばかりの大学を中退。「エリート社会人」としての将来が約束されていたはずなのに、儒教中心の勉強に満足しなかったらしい。
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====密教憧れ修行励む(大学中退~虚空蔵法成就)====
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====密教憧れ山林修行(大学中退~虚空蔵法成就)====
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*私度僧となり、吉野・大峰山、高野山、石鎚山などでの山林修行に励んだ。私度僧は本来は違法だが、事実上は黙認されていたらしい。役小角の弟子たちの修験道の行者と関わったという説もある。
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*私度僧となり、吉野・[[大峰山]]、[[高野山]]、[[石鎚山]]などでの山林修行に励んだ。私度僧は本来は違法だが、事実上は黙認されていたらしい。[[役小角]]の弟子たちの修験道の行者と関わったという説もある。
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*年代不明だが、「一沙門」から「虚空蔵求聞持法」を授けられた。この人物については諸説あるが、一般的には勤操であるという説が根強い。他に大安寺戒明(初めて日本に『釈摩訶衍論』を請来した)という説もある。「自然智宗」を名乗っていたとも言われる、唐の神叡が吉野比蘇寺を拠点に山岳修行を行い、虚空蔵求聞持法の修行をしていたとされ、その法脈を受け継ぐ護命と空海は知己であった。
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*年代不明だが、「一沙門」から「虚空蔵求聞持法」を授けられた。この人物については諸説あるが、一般的には[[勤操]]であるという説が根強い。他に[[大安寺]]戒明(初めて日本に『釈摩訶衍論』を請来した)という説もある。「自然智宗」を名乗っていたとも言われる、唐の神叡が吉野[[比蘇寺]]を拠点に山岳修行を行い、虚空蔵求聞持法の修行をしていたとされ、その法脈を受け継ぐ'''護命'''と空海は知己であった。
*24歳、12月1日『聾瞽指帰』を著す。のちの『三教指帰』の草稿である。自筆本が長らく御影堂に所蔵されてきたが、現在は高野山霊宝館にある。出家宣言とも呼ぶべきもので、戯曲風に密教の素晴らしさを記している。
*24歳、12月1日『聾瞽指帰』を著す。のちの『三教指帰』の草稿である。自筆本が長らく御影堂に所蔵されてきたが、現在は高野山霊宝館にある。出家宣言とも呼ぶべきもので、戯曲風に密教の素晴らしさを記している。
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*室戸岬の明星。虚空蔵求聞持法が成就。室戸岬の洞窟に籠もって修行したという。虚空蔵菩薩の光が、その光が口から体内に飛び込んだという。万物は大日如来の化身であり、この神秘体験は、空海が大日如来と一体となった「大日即行者」「我即大日」の境地を得たと位置づけられている。
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*室戸岬の明星。虚空蔵求聞持法が成就。室戸岬の洞窟に籠もって修行したという。虚空蔵菩薩の光が、その光が口から体内に飛び込んだという。万物は[[大日如来]]の化身であり、この神秘体験は、空海が大日如来と一体となった「大日即行者」「我即大日」の境地を得たと位置づけられている。
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*『空海僧都伝』によると、久米寺東塔で、『大日経』を発見したという。難解な部分が多かったが、当時は密教の専門家もおらず、質問できる師がいなかった。このことが、入唐への強い動機になったと言われている。
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*『空海僧都伝』によると、[[久米寺]]東塔で、『大日経』を発見したという。難解な部分が多かったが、当時は密教の専門家もおらず、質問できる師がいなかった。このことが、入唐への強い動機になったという。
===入唐===
===入唐===
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====遣唐使船に乗船(乗船~長安到着)====
*延暦23年(804)31歳のとき、入唐。室戸岬での修法成就からの7年間の足跡は不明で、「空白の七年間」と呼ばれる。ただし前年4月に正式に得度。
*延暦23年(804)31歳のとき、入唐。室戸岬での修法成就からの7年間の足跡は不明で、「空白の七年間」と呼ばれる。ただし前年4月に正式に得度。
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*5月12日、私費留学生として遣唐使船に乗船。大使の藤原葛野麻呂や最澄、橘逸勢などとともに出航。元々は前年に出航したのだが、難破したために戻ってきた船であった。難破がなければ、空海が乗船することもなかったと言われている。
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*5月12日、私費留学生として遣唐使船に乗船。大使の藤原葛野麻呂や[[最澄]]、橘逸勢などとともに出航。元々は前年に出航したのだが、難破したために戻ってきた船であった。難破がなければ、空海が乗船することもなかったいう。
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*空海は第一船に乗船。橘逸勢もいた。7月6日に肥前国田浦を出航。翌日暴風雨にあって、船団は解体。ばらばらになって漂流した。
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*空海は第一船に乗船。橘逸勢もいた。7月6日に肥前国田浦を出航。最後の寄港地は五島列島の福江島で、「辞本涯」碑がある。翌日暴風雨にあって、船団は解体。ばらばらになって漂流した。。
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*8月10日、34日間の漂流の後、中国福州の赤岸鎮に漂着。10月3日に福建馬尾港に上陸。一行は海賊船と疑われたが、空海が大使に代わって書をしたため、現地の官吏に認められる。11月3日出発し、12月23日、長安に到着。春明門から入城。福州から長安まで2400kmあった。最澄は明州周辺のみを廻り、長安には来ていない。
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*8月10日、34日間の漂流の後、中国福州の赤岸鎮に漂着。10月3日に福建馬尾港に上陸。一行は海賊船と疑われたが、空海が大使に代わって書をしたため、現地の官吏に認められる。11月3日出発し、12月23日、[[長安]]に到着。春明門から入城。宣陽房の官邸に滞在した。福州から長安まで2400kmあった。最澄は明州周辺のみを廻り、長安には来ていない。
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*大使の葛野麻呂は、到着の翌24日、国書と貢物を献上し、25日には皇帝に拝謁し、役目を終えた。
====恵果との出会い(伝法灌頂~帰国)====
====恵果との出会い(伝法灌頂~帰国)====
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*2年目の延暦24年(805、貞元21年、32歳)。1月23日に皇帝徳宗が崩御。2月10日、遣唐使らは30年間長安に滞在していた永忠を連れて、帰国に向かう。空海は橘逸勢とともに長安に残り、西明寺に滞在する。西明寺は日本からの留学僧のほとんどが滞在した寺院。
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*2年目の延暦24年(805、貞元21年、永貞元年、32歳)。1月23日に皇帝徳宗が崩御。28日に順宗が即位した。2月10日、遣唐使らは30年間長安に滞在していた永忠を連れて、帰国に向かう。空海は橘逸勢とともに長安に残り、[[西明寺]]に滞在する。西明寺は日本からの留学僧のほとんどが滞在した寺院。
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*同年、醴泉寺で般若三蔵と牟尼室利に師事し、インド哲学やサンスクリット語を学ぶ。
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*同年、[[醴泉寺]]で[[般若]]と'''牟尼室利'''に師事し、インド哲学やサンスクリット語を学ぶ。
*空海は、『大日経』のことは知っていたが、『金剛頂経』系の密教があることは渡唐まで知らなかったと言われている。関係経典を多数日本に持ち帰っている。
*空海は、『大日経』のことは知っていたが、『金剛頂経』系の密教があることは渡唐まで知らなかったと言われている。関係経典を多数日本に持ち帰っている。
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*5月ごろ、志明、談勝らとともに恵果を初めて訪ねる。6月上旬に胎蔵曼荼羅の灌頂、7月上旬に金剛界曼荼羅の灌頂を受ける。8月10日、伝法阿闍梨位灌頂を受け、「遍照金剛」の密号を授かる。12月15日に恵果が死去。翌年1月、師の追悼の碑文を記す。恵果の弟子で伝法灌頂を受けていたのは、弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円の6人であり、金剛界・胎蔵界の両法を受けたのは、空海と義明だけだった。恵果の孫弟子の珍賀が、空海に対して反発するが、夢の中で仏に降伏させられ、空海に非を謝したという。
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*5月ごろ、志明、談勝らとともに、[[青龍寺]]東塔院の[[恵果]]を初めて訪ねる。6月13日に胎蔵曼荼羅の灌頂、7月上旬に金剛界曼荼羅の灌頂を受ける。8月10日、伝法阿闍梨位灌頂を受け、「'''遍照金剛'''」の密号を授かる。
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*12月15日に恵果が死去。翌年1月、師の追悼の碑文を記す。恵果の弟子で伝法灌頂を受けていたのは、弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円の6人であり、金剛界・胎蔵界の両法を受けたのは、空海と義明だけだった。恵果の孫弟子の珍賀が、空海に対して反発するが、夢の中で仏に降伏させられ、空海に非を謝したという。
*大同元年(806)1月33歳、橘逸勢の依頼で文章を記す。
*大同元年(806)1月33歳、橘逸勢の依頼で文章を記す。
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*3月、長安を離れ、帰国の途につく。本当は留学期間は20年だったが、一刻も早く日本に密教を広めたいとの思いで帰国を決めたと言われる。4月、越州の節度使に依頼して書物を収集。8月、明州に到着。10月帰国、大宰府に到着。経典、仏像、仏画、宝具、儒教、道教、卜占、医学、鉱山、金属など多くの知識を日本にもたらす
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*3月、長安を離れ、帰国の途につく。本当は留学期間は20年だったが、伝法も受け、師もなくなったため、中国にいる理由がなくなり、一刻も早く日本に密教を広めたいとの思いで帰国を決めたと言われる。恵果死去の少し後、日本から高階遠成が派遣されてきたところで帰国のタイミングが整ったこともあったのだろう。
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*帰国に当たって、唐から日本に向かって三鈷杵を投げる。のち紀伊国で発見され、高野山の地となる。
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4月、越州に滞在。節度使に依頼して書物を収集。8月、明州に到着。10月帰国、[[大宰府]]に到着。経典、仏像、仏画、宝具、儒教、道教、卜占、医学、鉱山、金属など多くの知識を日本にもたらす
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*帰国に当たって、唐から日本に向かって三鈷杵を投げる。のち紀伊国で発見され、[[高野山]]の地となる。
===帰国後===
===帰国後===
====神護寺で灌頂執行====
====神護寺で灌頂執行====
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*帰国後の空海は、嵯峨天皇の手厚い庇護を受け、活躍した。(809)10月4日には、空海が、屏風に自説を書いて献上。翌年には、高雄山寺で国家のための修法を初めて行った。
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*帰国後の空海は、[[嵯峨天皇]]の手厚い庇護を受け、活躍した。(809)10月4日には、空海が、屏風に自説を書いて献上。翌年には、[[高雄山寺]]で国家のための修法を初めて行った。
*弘仁2年(811)1月15日、嵯峨天皇の御前で、「即身成仏の現証を見せよ」と言われて、結跏趺坐し、印を結び、真言を唱えたところ、空海の全身が黄金に輝き、白光を放ち、宝冠が現れ光明を放ったという。
*弘仁2年(811)1月15日、嵯峨天皇の御前で、「即身成仏の現証を見せよ」と言われて、結跏趺坐し、印を結び、真言を唱えたところ、空海の全身が黄金に輝き、白光を放ち、宝冠が現れ光明を放ったという。
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*最澄とは最初は密接な交流があった。そもそも日本に本格的に密教を伝えたのは先に帰国した最澄であり、エリート学僧として認められていた彼が、空海を朝廷に推薦したと言われている。(809)8月24日、最澄は空海に密教経典の借覧を願う。(812)9月、乙訓寺にいた空海を、最澄が訪ねている。同年11月15日、高雄山寺で最初の灌頂を実施し、最澄や和気氏が受けた。さらに(813)1月から3月にかけて、最澄は自分の弟子の、泰範、円澄、光定が空海に密教を学ばせる。しかし同年11月23日、空海は最澄の『理趣経』借覧の願いを断り、関係が悪くなる。さらに最澄弟子であった泰範が空海の弟子になり、師匠替えをする。(816)には空海が泰範のことについて手紙を送っている。
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*[[最澄]]とは最初は密接な交流があった。そもそも日本に本格的に密教を伝えたのは先に帰国した最澄であり、エリート学僧として認められていた彼が、空海を朝廷に推薦したと言われている。(809)8月24日、最澄は空海に密教経典の借覧を願う。(812)9月、[[乙訓寺]]にいた空海を、最澄が訪ねている。同年11月15日、高雄山寺で最初の灌頂を実施し、最澄や[[和気氏]]が受けた。さらに(813)1月から3月にかけて、最澄は自分の弟子の、泰範、円澄、光定が空海に密教を学ばせる。しかし同年11月23日、空海は最澄の『理趣経』借覧の願いを断り、関係が悪くなる。さらに最澄弟子であった泰範が空海の弟子になり、師匠替えをする。(816)には空海が泰範のことについて手紙を送っている。
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*(814)、下野尹博士の依頼を受けて、勝道を讃える文を書く。
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*(814)、下野尹博士の依頼を受けて、[[勝道]]を讃える文を書く。
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*(815)、弟子を徳一に使わす
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*(815)、弟子を[[徳一]]に使わす
====東寺・高野山を開創====
====東寺・高野山を開創====
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(816)6月19日、朝廷に高野山開山を請願。7月8日に勅許を受けた。翌年、弟子の実慧、泰範が建設に着手。(818)11月、空海初めて高野山に昇った。
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(816)6月19日、朝廷に[[高野山]]開山を請願。7月8日に勅許を受けた。翌年、弟子の実慧、泰範が建設に着手。(818)11月、空海初めて高野山に昇った。
*(821)9/7藤原葛野麻呂の三回忌
*(821)9/7藤原葛野麻呂の三回忌
*弘仁12年(821)、讃岐の満濃池を修復。地鎮法を行ったという。一ヶ月で完成。
*弘仁12年(821)、讃岐の満濃池を修復。地鎮法を行ったという。一ヶ月で完成。
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*東大寺に灌頂道場を建立する
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*[[東大寺]]に灌頂道場を建立する
====平安京での活躍====
====平安京での活躍====
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*弘仁14年(823)、東寺が授けられる。10/13、皇后院修法。12/2、東寺修法。12/23、清涼殿修法。天長元年(824)、神泉苑で請雨経の法。金色の龍が出現したという。
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*弘仁14年(823)、[[東寺]]が授けられる。10/13、皇后院修法。12/2、東寺修法。12/23、清涼殿修法。天長元年(824)、[[神泉苑]]で請雨経の法。金色の龍が出現したという。
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*6/16、造東寺別当、9/27、高雄山寺、定額寺になる。
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*6/16、造東寺別当、9/27、高雄山寺、[[定額寺]]になる。
*(825)5/14智泉死去、7/19仁王会、9/25益田池の碑序
*(825)5/14智泉死去、7/19仁王会、9/25益田池の碑序
*(826)桓武天皇菩提。
*(826)桓武天皇菩提。
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*828年12/15シュ芸種智院
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*828年12/15種智院
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*82911/5大安寺別当。和気氏に神護寺を任せる
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*82911/5[[大安寺]]別当。和気氏に神護寺を任せる
*830、淳和天皇に『十住心論』を献納
*830、淳和天皇に『十住心論』を献納
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*834年、12月、後七日御修法を提案。勅許。12/24東寺三綱の勅許。
*834年、12月、後七日御修法を提案。勅許。12/24東寺三綱の勅許。
*承和2年(835)、1/22真言宗年分度者3仁。翌日勅許。3/21死去。
*承和2年(835)、1/22真言宗年分度者3仁。翌日勅許。3/21死去。
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*延喜21年(921)、弘法大師の号下賜
 
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====弘法大師信仰====
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*延喜21年(921)、弘法大師の号下賜
==教義・概念==
==教義・概念==

2015年5月15日 (金) 時点における版

空海(くうかい)は、日本真言宗の開祖。

目次

略歴

入唐前

出世コースを放棄(誕生~大学中退)

  • 宝亀5年(774)6月15日、讃岐国多度郡屏風浦に郡司佐伯田公の三男として生まれる。母は、阿刀真足娘の玉依御前(阿古屋御前)。幼名は真魚(まお)。現在の善通寺の地というのが一般的な説だが、海岸寺(多度津町)にも伝承がある。誕生日の6月15日は不空の命日でもあり、後に彼の生まれ変わりとも言われる。
  • 『御遺告』によると出身の佐伯氏は、かつて東国の蝦夷征討に参加した功績で讃岐の地を拝領したという。
  • 12歳で讃岐の国学に入学。15歳で平城京に叔父阿刀大足(桓武天皇皇子伊予親王の侍講)と共に上京した。延暦10年(791、18歳)、大学寮に入学した。既に延暦3年(784)長岡京遷都が行われていたが、長岡京は造営中であり、完成しておらず、奈良に暮らしたと思われる。佐伯氏の氏寺佐伯院に寄宿したと考えられている。一族の期待を背負っての入学だったが、しかし、入ったばかりの大学を中退。「エリート社会人」としての将来が約束されていたはずなのに、儒教中心の勉強に満足しなかったらしい。

密教憧れ山林修行(大学中退~虚空蔵法成就)

  • 私度僧となり、吉野・大峰山高野山石鎚山などでの山林修行に励んだ。私度僧は本来は違法だが、事実上は黙認されていたらしい。役小角の弟子たちの修験道の行者と関わったという説もある。
  • 年代不明だが、「一沙門」から「虚空蔵求聞持法」を授けられた。この人物については諸説あるが、一般的には勤操であるという説が根強い。他に大安寺戒明(初めて日本に『釈摩訶衍論』を請来した)という説もある。「自然智宗」を名乗っていたとも言われる、唐の神叡が吉野比蘇寺を拠点に山岳修行を行い、虚空蔵求聞持法の修行をしていたとされ、その法脈を受け継ぐ護命と空海は知己であった。
  • 24歳、12月1日『聾瞽指帰』を著す。のちの『三教指帰』の草稿である。自筆本が長らく御影堂に所蔵されてきたが、現在は高野山霊宝館にある。出家宣言とも呼ぶべきもので、戯曲風に密教の素晴らしさを記している。
  • 室戸岬の明星。虚空蔵求聞持法が成就。室戸岬の洞窟に籠もって修行したという。虚空蔵菩薩の光が、その光が口から体内に飛び込んだという。万物は大日如来の化身であり、この神秘体験は、空海が大日如来と一体となった「大日即行者」「我即大日」の境地を得たと位置づけられている。
  • 『空海僧都伝』によると、久米寺東塔で、『大日経』を発見したという。難解な部分が多かったが、当時は密教の専門家もおらず、質問できる師がいなかった。このことが、入唐への強い動機になったという。

入唐

遣唐使船に乗船(乗船~長安到着)

  • 延暦23年(804)31歳のとき、入唐。室戸岬での修法成就からの7年間の足跡は不明で、「空白の七年間」と呼ばれる。ただし前年4月に正式に得度。
  • 5月12日、私費留学生として遣唐使船に乗船。大使の藤原葛野麻呂や最澄、橘逸勢などとともに出航。元々は前年に出航したのだが、難破したために戻ってきた船であった。難破がなければ、空海が乗船することもなかったいう。
  • 空海は第一船に乗船。橘逸勢もいた。7月6日に肥前国田浦を出航。最後の寄港地は五島列島の福江島で、「辞本涯」碑がある。翌日暴風雨にあって、船団は解体。ばらばらになって漂流した。。
  • 8月10日、34日間の漂流の後、中国福州の赤岸鎮に漂着。10月3日に福建馬尾港に上陸。一行は海賊船と疑われたが、空海が大使に代わって書をしたため、現地の官吏に認められる。11月3日出発し、12月23日、長安に到着。春明門から入城。宣陽房の官邸に滞在した。福州から長安まで2400kmあった。最澄は明州周辺のみを廻り、長安には来ていない。
  • 大使の葛野麻呂は、到着の翌24日、国書と貢物を献上し、25日には皇帝に拝謁し、役目を終えた。

恵果との出会い(伝法灌頂~帰国)

  • 2年目の延暦24年(805、貞元21年、永貞元年、32歳)。1月23日に皇帝徳宗が崩御。28日に順宗が即位した。2月10日、遣唐使らは30年間長安に滞在していた永忠を連れて、帰国に向かう。空海は橘逸勢とともに長安に残り、西明寺に滞在する。西明寺は日本からの留学僧のほとんどが滞在した寺院。
  • 同年、醴泉寺般若牟尼室利に師事し、インド哲学やサンスクリット語を学ぶ。
  • 空海は、『大日経』のことは知っていたが、『金剛頂経』系の密教があることは渡唐まで知らなかったと言われている。関係経典を多数日本に持ち帰っている。
  • 5月ごろ、志明、談勝らとともに、青龍寺東塔院の恵果を初めて訪ねる。6月13日に胎蔵曼荼羅の灌頂、7月上旬に金剛界曼荼羅の灌頂を受ける。8月10日、伝法阿闍梨位灌頂を受け、「遍照金剛」の密号を授かる。
  • 12月15日に恵果が死去。翌年1月、師の追悼の碑文を記す。恵果の弟子で伝法灌頂を受けていたのは、弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円の6人であり、金剛界・胎蔵界の両法を受けたのは、空海と義明だけだった。恵果の孫弟子の珍賀が、空海に対して反発するが、夢の中で仏に降伏させられ、空海に非を謝したという。
  • 大同元年(806)1月33歳、橘逸勢の依頼で文章を記す。
  • 3月、長安を離れ、帰国の途につく。本当は留学期間は20年だったが、伝法も受け、師もなくなったため、中国にいる理由がなくなり、一刻も早く日本に密教を広めたいとの思いで帰国を決めたと言われる。恵果死去の少し後、日本から高階遠成が派遣されてきたところで帰国のタイミングが整ったこともあったのだろう。

4月、越州に滞在。節度使に依頼して書物を収集。8月、明州に到着。10月帰国、大宰府に到着。経典、仏像、仏画、宝具、儒教、道教、卜占、医学、鉱山、金属など多くの知識を日本にもたらす

  • 帰国に当たって、唐から日本に向かって三鈷杵を投げる。のち紀伊国で発見され、高野山の地となる。

帰国後

神護寺で灌頂執行

  • 帰国後の空海は、嵯峨天皇の手厚い庇護を受け、活躍した。(809)10月4日には、空海が、屏風に自説を書いて献上。翌年には、高雄山寺で国家のための修法を初めて行った。
  • 弘仁2年(811)1月15日、嵯峨天皇の御前で、「即身成仏の現証を見せよ」と言われて、結跏趺坐し、印を結び、真言を唱えたところ、空海の全身が黄金に輝き、白光を放ち、宝冠が現れ光明を放ったという。
  • 最澄とは最初は密接な交流があった。そもそも日本に本格的に密教を伝えたのは先に帰国した最澄であり、エリート学僧として認められていた彼が、空海を朝廷に推薦したと言われている。(809)8月24日、最澄は空海に密教経典の借覧を願う。(812)9月、乙訓寺にいた空海を、最澄が訪ねている。同年11月15日、高雄山寺で最初の灌頂を実施し、最澄や和気氏が受けた。さらに(813)1月から3月にかけて、最澄は自分の弟子の、泰範、円澄、光定が空海に密教を学ばせる。しかし同年11月23日、空海は最澄の『理趣経』借覧の願いを断り、関係が悪くなる。さらに最澄弟子であった泰範が空海の弟子になり、師匠替えをする。(816)には空海が泰範のことについて手紙を送っている。
  • (814)、下野尹博士の依頼を受けて、勝道を讃える文を書く。
  • (815)、弟子を徳一に使わす

東寺・高野山を開創

(816)6月19日、朝廷に高野山開山を請願。7月8日に勅許を受けた。翌年、弟子の実慧、泰範が建設に着手。(818)11月、空海初めて高野山に昇った。

  • (821)9/7藤原葛野麻呂の三回忌
  • 弘仁12年(821)、讃岐の満濃池を修復。地鎮法を行ったという。一ヶ月で完成。
  • 東大寺に灌頂道場を建立する

平安京での活躍

  • 弘仁14年(823)、東寺が授けられる。10/13、皇后院修法。12/2、東寺修法。12/23、清涼殿修法。天長元年(824)、神泉苑で請雨経の法。金色の龍が出現したという。
  • 6/16、造東寺別当、9/27、高雄山寺、定額寺になる。
  • (825)5/14智泉死去、7/19仁王会、9/25益田池の碑序
  • (826)桓武天皇菩提。
  • 828年12/15種智院
  • 82911/5大安寺別当。和気氏に神護寺を任せる
  • 830、淳和天皇に『十住心論』を献納


日本真言宗の成立

  • 832年、1/14紫宸殿論議。8/22高野山で万灯会。
  • 834年、12月、後七日御修法を提案。勅許。12/24東寺三綱の勅許。
  • 承和2年(835)、1/22真言宗年分度者3仁。翌日勅許。3/21死去。

弘法大師信仰

  • 延喜21年(921)、弘法大師の号下賜

教義・概念

即身成仏

鎮護国家

旧跡

入唐前

入唐

入唐後

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