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大鳥大社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年9月26日 (木)
| 大鳥神社 おおとり じんじゃ | |
| 概要 | ヤマトタケルの霊廟。大鳥信仰の本社。 |
| 奉斎 | 大鳥連祖神 (土岐昌訓論文) |
| 所在地 | 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2 |
| 所在地(旧国郡) | 和泉国大鳥郡 |
| 所属(現在) | 神社本庁 |
| 格式など | 式内社・名神大社・従三位勲八等・和泉国一宮・官幣大社・別表神社 |
| 関連記事 | 大鳥信仰 |
目次 |
概要
大鳥大社(おおとり・たいしゃ)は、大阪府堺市西区にある、大鳥信仰の総本社。日本武尊信仰の神社ともされる。神宮寺として神鳳寺があった。
歴史
景行天皇40年、日本武尊が死去。魂が白鳥となって能褒野墓から飛び立ちこの地に留まったので社を建てたのが始まりという。 一方、大鳥神社を氏神としたのは大鳥氏であり、新撰姓氏録などには和泉の大鳥氏は中臣氏と同じく、天児屋命の末裔と記す。
- 706年、勅使が奉幣と伝える
- 708年、行基が神鳳寺創建と伝える(行基年譜)。
- 806年、和泉に2戸の神封があった。
- 842年、従五位上
- 859年、従四位下
- 861年、従三位
- 927年、『延喜式』で名神大社となる。
- 1159年、平清盛、平重盛父子が参詣(平治物語)
- 1289年、『和泉国神名帳』で「正一位大鳥大社」と記される。
- 1602年、豊臣秀頼が大鳥神社と神鳳寺を再建。
- 大坂の陣で焼失
- 1617年、この時点での社領1100石。
- 1662年、幕府の命を受け、堺奉行が本殿再建
- 1672年(寛文12年)、高野山円通寺の真政円忍が弟子の快円恵空から招かれ、神鳳寺に入り律院とする。以後、神鳳寺は戒律復興運動の拠点として隆盛する。
- 1701年、柳沢吉明が修復
- 明治の神仏分離で神鳳寺は廃絶し、寺宝は末寺の光明院に移された。
- 明治4年、官幣大社
- 明治9年、『官社祭神考証』で祭神は「大鳥連祖神」とされた。
- 明治28年、本殿焼失。
- 明治29年10月3日:内務省社寺局長の通達で祭神は「大鳥連祖神」と確定。
- 明治42年、本殿再建
- 戦後、神社本庁別表神社
- 昭和32年、日本武尊増祀
境内
本社および摂社4社を合わせて、大鳥五社大明神と呼ばれた。いずれも官社。
- 本社:
- 大鳥美波比神社:摂社。祭神は天照大神で相殿に菅原道真を祀る。明治12年現在地に遷座。
- 大鳥北浜神社:境外摂社。大阪府堺市西区浜寺元町。明治6年、大鳥鍬靭神社から改称。祭神は吉備穴戸武媛命(日本武尊の妃)。
- 大鳥羽衣浜神社:境外摂社。大阪府高石市羽衣。祭神は両道入媛命(日本武尊の妃)。
- 大鳥井瀬神社:境外摂社。大阪府堺市堺区宿院町。祭神は弟橘姫命(日本武尊の妃)。明治31年、大鳥郡八田荘村大字堀上大明神山から本社に遷座。大正11年、宿院に遷座。
- 四社合祀殿:末社。祭神は火鎮大神・宗像大神・稲荷大神・織姫大神
- 宿院頓宮:大阪府堺市堺区宿院町東。大鳥大社および住吉大社の御旅所。
- 神鳳寺:廃絶。
組織
宮司
- 青山景通()<>:1873年(明治6年)大鳥神社宮司。
- 渡辺重春(1831-1890)<?-1890>:幕末維新期の神職・国学者。奈良県内の官社宮司を歴任。在職中死去。(略歴は、広田神社#組織を参照)
- 津守国美(-1901)<>:男爵。 (略歴は、住吉大社#組織を参照)
- 富岡鉄斎(1836-1924)<1876-1881>:京都三条衣棚の永平寺御用達の法衣店「十一屋」の家の出身。1836年(天保7年)生。十一屋を開いた祖先の富岡維直は石田梅岩の高弟の心学者だった。当時、不景気により家業は低迷。8歳のときに六孫王神社に稚児として出された。青年時代は太田垣蓮月に師事。幕末には国事に奔走。梅田雲浜、頼三樹三郎、藤本鉄石らと交わり、維新後は春日潜庵・淡海槐堂と交わった。履歴には残っていないが、1873年(明治6年)6月15日湊川神社権禰宜、教導職訓導となる。神田孝平の推挙による。行き違いがあったようで7月4日に辞表を提出し、8月1日に認められている[1]。「宮司(折田年秀?)があまりに俗物であったため一日で帰った」ともいう[2]。1876年(明治9年)5月3日、石上神社少宮司(追陞履歴書)。吉井友実の推薦によるという。1876年(明治9年)12月27日、大鳥神社大宮司(追陞履歴書では「宮司」だが辞令では「大宮司」)。税所篤の推薦による。1877年(明治10年)1月25日、神武天皇陵行幸に先立ち、内命により山陵の絵図を描き、税所篤県令に献じ天覧を得たという[3]。2月14日、堺行在所で明治天皇に謁見[4]。7月17日、正七位(追陞履歴書)。神社の復興保存のために書画を売って資金を得たという。この活躍を聞いた久邇宮朝彦親王は1877年(明治10年)7月、突然、大鳥神社に訪問したという。1879年(明治12年)9月20日、教導職権少教正[5]。1881年(明治14年)6月9日、和泉国神道事務分局長[6]。1881年(明治14年)12月9日、大鳥神社宮司退任(追陞履歴書)。兄が亡くなり母を養うために京都に戻った。この時点でだったという[7]。1888年(明治21年)2月4日、車折神社祠掌[8]。1893年(明治26年)まで務めた(車折神社ウェブサイト)。史跡・故実の復興に関わった。1878年(明治11年)1月5日、楠木正行墓の再建の祭典で神霊の奉遷の役を務めた(斎主は堺県令)[9]。5月14日、南木神社で550年祭があり、近くに建てた「楠公誕生地」碑を揮毫。5月頃、加夜奈留美命神社の故地を捜索して県庁に建議して有志とはかって再建[10]。狩野探幽の墓を修復。1879年(明治12年)8月、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社の再建を図る[11](実現しなかったか)。1906年(明治39年)白幽子の石碑を建立。太秦の牛祭の復興に奔走した[12]。毎月1日には必ず八坂神社に参詣していたという[13]。高野山にも燈籠や額面を寄進した[14]。嵯峨の新田義貞首塚の再興にも関与した[15]。1886年(明治19年)11月3日、護王神社遷座祭にあたり矢野玄道書「能許曽神習」額の奉納を周旋[16]。1891年(明治24年)、常寂光寺の歌仙祠の再建に当たってその名を命名し額を献じた[17]。1909年(明治42年)、車折神社碑を揮毫[18]。1895年(明治28年)第4回内国勧業博覧会で美術部審査官。1907年(明治40年)阿倍仲麻呂明州望月図」「群仙高会図」を明治天皇に献上。1917年(大正6年)6月、帝室技芸員。1919年(大正8年)9月、帝国美術院会員。書画で名を成したが、本人によっては「余技」に過ぎなかった。この頃には完全に画家としての地位を得ていたが必ずしも本意ではなかった。1922年(大正11年)7月31日、正五位。1924年(大正13年)12月31日死去。同日従四位。墓所は大雲院(のち移転)。富岡百錬。
- 中田正朔(1841-1913)<1902->:(略歴は、広田神社#組織を参照)
- 長谷外余男(1890-1973)<1903-1910>:1910年(明治43年)11月29日まで。(略歴は、熱田神宮#組織を参照)
- 安東正胤()<1910->:1910年(明治43年)11月29日、気多大社から転任して大鳥神社宮司。
- 長谷勝利()<-1925->:
- 北島邦孝(1891-1970)<1929-1936>:島根県出身。1891年(明治24年)生。国学院大学卒。1936年(昭和11年)7月在職。
- 宮崎清章()<1936-1941->:
- 田所貞文()<?-2018>:本務は泉井上神社宮司。特任宮司となるが2018年(平成30年)4月14日退任。
- 水無瀬忠俊()<2018->:2018年(平成30年)4月15日就任。
少宮司
- 大岡忠貫(1847-1920)<1873->:岩槻藩主大岡家8代。子爵。1873年(明治6年)3月、大鳥神社少宮司。(略歴は、氷川神社#組織を参照)
画像
参考文献
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』