ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

法然墓廟

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年6月9日 (木)

移動: 案内, 検索
法然墓廟

Tionin 004.jpg Busshozan Honenji 20.JPG
左:知恩院御廟 右:高松法然寺松平家墓所 門(域内に法然墓)


目次

概要

法然の墓所は、知恩院の御廟が有名であるがそれだけではない。歴史的経緯によって、複数存在している。

由緒・歴史

法然の死去

知恩院勢至堂・御廟の入口。大谷禅房跡地にある。

1207年(承元1年)、承元の法難によって讃岐に流された法然であったが、半年ほどで赦免された。しかし、入洛の許可が下りなかったため、摂津勝尾寺に四年間ほど滞在した。1211年(建暦1年)、ようやく京に帰ることが許され、11月20日に京都に到着した。帰洛した法然は、青蓮院慈鎮の好意により大谷禅房に住した。これが現在の知恩院の発祥である。しかし、翌年1月2日にわかに発病して、翌1212年(建暦2年)1月25日、大谷禅房にて死去した。帰洛してわずか二ヶ月であった。ちなみに法然死去の際に、賀茂明神が影向したという。

その死後、大谷禅房に墓廟が建立されて、寿像が祀られた。寿像は桑原左衛門によるものという(『法然上人行状絵図』)。信空が管理にあたった。(この寿像はのち当麻寺に遷された?)

これ以前、発病した翌日の1月3日、信空が「滅後遺跡を何処に定むべきや」と法然に尋ねたところ、「跡を一廟に占むれば遺法遍からず。予が遺跡は諸州に遍満すべし。」として、墳墓については指示を出さなかった(『浄土宗史』)。

嘉禄の法難と遺骸の火葬

法然の死後も一門は、比叡山との対立を増していっていたが、1227年(嘉禄3年・安貞1年)6月には、比叡山の衆徒が法然の墓廟を破壊して、遺骸を加茂川に流すことを計画した。いわゆる嘉禄の法難である。6月23日、この計画を耳にした法然の弟子たちは、帰依した武士の協力によって、嵯峨の地(嵯峨二尊院ともいう。)に遺骸を遷座した。嵯峨には、二尊院の湛空や往生院の良鎮がおり、安全な場所だと見做されていたからだという。6月28日には、広隆寺の円空のもとに預けられた。その旧跡が今の京都・西光寺である。ところが、法然の遺骸は石棺に納められていたが、その石棺から光明が解き放たれ、粟生の地を指し示したという。そこで遺骸を粟生に遷されて、1228年(安貞2年)1月25日の十七回忌の日に、火葬された。

弟子たちによる分骨

増上寺 円光大師堂

粟生の地で火葬された法然の遺骨は、弟子たちによって、分骨された。証空は火葬した粟生の地に廟を建てた。これが粟生光明寺である。石棺火葬所跡も同寺に残されている。湛空は1233年(天福1年)1月25日、嵯峨二尊院に遺骨を雁塔を建てて納めた(『浄土宗史』)。源智は1234年(文暦1年)に初葬地である大谷禅坊(知恩院)に廟堂を復興、遺骨を宝塔に奉安した(『華頂誌要』54)。また信空は、当初は分骨を肌身離さずに奉持していたが、信空の死後、金戒光明寺に分骨を納める廟が建てられたという(『黒谷誌要』)。

その後、知恩寺清浄華院にも御廟が建立されているが由来は明らかでない。近年では、法然800年遠忌を期して増上寺に円光大師堂が建立されている。

この他、法然が来訪したという高野山奥之院善通寺光明坊を始めとして、熊谷直実が創建した京都嵯峨・法然寺、讃岐で法然が住したという生福寺旧跡(高松・法然寺西念寺)にも法然の墓が建てられている。

法然墓廟一覧

 法然墓廟
名称 所在地 コメント
知恩院 御廟 京都府京都市東山区林下町400 知恩院にある墳墓。法然の住房跡であり、初葬地である。知恩院の高台にある。本尊として法然像が祀られている。法然像は黄金の宝塔に納められている。遺骨が奉安されている。法然の死後、石棺に収められてこの地に葬られ、廟堂が建てられたとされる。1227年(嘉禄3年・安貞1年)の嘉禄の法難のときに嵯峨に遷され、ついで粟生野で火葬されて、弟子たちに分骨された。そののち、1234年(文暦1年)に勢観房源智が廟堂を再興、朱の唐櫃に納めて、宝塔に奉安した(以上、『華頂誌要』)。現在の建築は松平信一の寄進により1613年(慶長18年)に造営されたものである。拝殿は1710年(宝永7年)の造営。2006年(平成18年)10月から翌年3月には修復のため一時的に宝塔が勢至堂に遷座している。(『浄土宗新聞』479、『華頂誌要』、浄土宗全書検索システム)
京都・西光寺 京都府京都市右京区太秦多藪町30 遺骸奉安の旧地。嘉禄の法難のときに、広隆寺の来迎房円空のもとに遺骸は預けられた。その旧跡に創建されたのが西光寺であるという。
粟生光明寺 御廟 京都府長岡京市粟生西条丿内26-1 粟生光明寺の墳墓。「御廟」「宗祖本廟」と称す。遺骸を火葬したあとにここに埋葬した。現在の建物は1656年(明暦2年)の建築である。五輪塔が建てられ、その下に遺骨が納められているという。粟生光明寺の御影堂はこの墳墓の前に建てられている。隣接して勢至菩薩を祀った勢至堂がある。(『京都新聞』2011/04/03、『新撰京都名勝誌』)
粟生光明寺 法然石棺 京都府長岡京市粟生西条丿内26-1 火葬する以前に法然遺骸を奉安していた霊柩である。粟生光明寺御影堂の横にある。霊柩が嵯峨にあったころ、石棺の隙間から光が放たれて、粟生の地を指し示したとされている。これが光明寺の名称の由来とされている。
粟生光明寺 法然火葬所 京都府長岡京市粟生西条丿内26-1 法然の火葬塚。仏像が建てられている。
金戒光明寺 勢至堂 京都府京都市左京区黒谷町121 金戒光明寺にある霊廟。「開祖大師本廟」「勢至堂」「法然廟」ともいう。2世信空は生前は常に遺骨を身辺に奉持していたが、その死後、当地に法然遺骨を埋葬した。しかし、応仁の乱により兵馬に蹂躙され、所在が分からなくなった。1574年(天正2年)、21世の性誉法山の時代、善香が霊夢により、「大師埋骨の旧地」を発見して卵塔を建立した。同時にその側に法泉庵(現在の庫裏)が建立される。1676年(延宝4年)、称悦が金屋友西らの寄進を受けて、卵塔を覆うように堂宇を造営し、勢至菩薩を祀った。1776年(安永5年)、勢至堂が別院となっている。傍らには熊谷直実の墓と平敦盛の墓もある。曼珠院門跡良尚法親王筆の「勢至堂」額があるという。(『黒谷光明寺誌要』、浄土宗全書検索システム)
二尊院 法然廟 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27 二尊院にあった墳墓。『法然上人行状絵図』によると、貞永2年1月25日、正信房湛空が幸阿弥陀仏が預っていた遺骨を引取りに行くと、すでに彼は九州に向かっており、いなかった。遺骨は彼の庵室の鍵のかかった塗籠に奉安されていたが鍵がかかっていた。何度開けようとしても開かなかったが、嘆きに応じてついには開いた。そして二尊院に雁塔を建てて、遺骨を納めたという。
知恩寺 法然廟 京都府京都市左京区田中門前町103 知恩寺にある御廟。「開祖本廟」と称す。二条城からの類焼により伽藍全焼した1661年(寛文1年)の火災のあと、翌年に現在地に知恩寺が復興されたときに御廟も造営されている(『誌要』)。霊骨を奉安しているという(『誌要』)。この火災以前からあったものなのかは不明である。「念佛」の文字を象った念字門がある。これとは別に御影堂本尊の法然像に遺骨が収められている(『新聞』)。(『百万遍知恩寺誌要』、浄土宗全書検索システム、『浄土宗新聞』183)
清浄華院 御廟 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395 清浄華院にある霊廟。明治26年ごろ、会計信徒服部伊兵衛妻某の寄進により建立されたという。それ以前のことは不詳である。(『清浄華院誌要』、浄土宗全書検索システム、清浄華院ウェブサイト)
増上寺 円光大師堂 東京都港区芝公園4丁目7?35 増上寺にある霊廟。2006年(平成18年)11月25日、法然800年遠忌を前に、知恩院御廟の浄砂を「御身柄」として増上寺に遷座。2009年(平成21年)9月1日に円光大師堂を建立。(『浄土宗新聞』479・512)
高野山 円光大師石塔 和歌山県伊都郡高野町高野山 高野山奥之院墓域にある五輪塔。1201年(建仁元年)、法然は熊谷直実(蓮生)とともに高野山に来て、知識院(熊谷寺)に参籠して専修念仏を行った。法然は逆修の塔を高野山奥の院近くに建て、自ら五輪の種子を書いたという。熊谷寺が管理している。熊谷寺には円光堂がある。(『和歌山県史蹟名勝天然記念物調査会報告』)
嵯峨・法然寺 法然墓 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町1丁目 京都法然寺にある墳墓。京都法然寺は、熊谷直実が創建した寺院。五輪塔の墓石があり、肉舎利(歯)が納められているという。またそれとは別に同寺には「肉牙の舎利(歯)」がある。(法然寺ウェブサイト)
光明坊 五輪塔 広島県尾道市瀬戸田町御寺 瀬戸内海生口島の光明坊にある石塔。光明坊は真言宗泉涌寺派の寺院。「光明三昧院」とも称す。後白河天皇皇女とされる如念尼が専修念仏に帰依し、1207年(承元1年)の承元の法難のきっかけとなった松虫・鈴虫姉妹とともに当寺に住したとされる。また讃岐に流される途中の法然が当寺に立ち寄ったという。五輪塔は尾道市指定文化財。光明坊には法然堂があり、「流血の尊像」が祀られている。また金戒光明寺御影堂本尊はもと当寺法然堂の本尊であった。(光明坊ウェブサイト、『黒谷光明寺誌要』、浄土宗全書検索システム)
高松・法然寺 法然墓 香川県高松市仏生山町甲3215 法然寺にある供養塔。法然寺は、法然が讃岐配流のときに住した生福寺を継承する寺院という。江戸時代初期、高松藩祖松平頼重が旧地(今の西念寺という)より遷して復興し、高松藩松平家の菩提寺となった。供養塔がある区画は般若台と呼ばれ、松平家墓地がある。(法然寺ウェブサイト)
西念寺 法然堂 香川県仲多度郡まんのう町羽間2655番地 西念寺にある墳墓。西念寺は生福寺の旧跡にある寺院である。生福寺は松平頼重が菩提寺として高松に遷したが、その跡に当寺が創建されたという。勅命により崇徳天皇50年忌の導師として白峰寺に来た湛空が当所に立ち寄り、納めた遺骨が祀られているという。(「西念寺縁起」)
善通寺 法然逆修塔 香川県善通寺市善通寺町3-5 善通寺にある石塔。現在は堂宇がある。法然が讃岐に流されたときに善通寺に立ち寄り、爪髪を納めて逆修の塔を建てたという。しかし、実際には室町時代の石造物と考えられている。『法然上人行状絵図』(鎌倉時代末期)には法然が善通寺に立ち寄ったことが記されている。(善通寺ウェブサイト、善通寺市デジタルミュージアム)

ギャラリー

参考文献

  • 大橋俊雄 1978(昭和53)『法然と浄土宗教団』(ISBN 4315402753
  • 『華頂誌要』(『浄土宗全書』)
  • 『黒谷誌要』(『浄土宗全書』)
  • 『浄土宗史』(『浄土宗全書』)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6%E5%A2%93%E5%BB%9F」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール