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猿田彦信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年4月22日 (月)

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猿田彦信仰 

目次

概要

猿田彦神(さるたひこのかみ)は、記紀神話を代表する神の1柱。複雑な性格を持つが、瓊々杵尊の天孫降臨を先導するとともに、天照大神の奉斎を伊勢に導いたともされ、国津神でありながら皇統の起源に関わる重要な神である。元来は天照大神とは別の太陽神だったという説もある。伊勢に縁深く、宇治土公氏や山本家の祖神。比良明神、白髭神、興玉神、千勝明神(近津明神)、精大明神などと同一視される。民間信仰では庚申信仰の神や道祖神ともされる。垂加神道でも重視される。鼻の長さが七咫あり、天狗のモデルになったとも言われる

神話では伊勢でおぼれ死んだとあり、阿射加神社がその地とされる。また椿大神社に猿田彦の墓とされる土公神陵がある。

神話

歴史

信仰

性格

現在、一般的には先導の神、道祖神として信仰されることが多いと思われるが、元来はどういった性格の神なのかについては、様々に議論されている。主なものを挙げると、猿神、先導の神、境界の神、道祖神、性の神、田んぼの神、伊勢の神、出雲の神、山の神、海の神、太陽神、邪視の神などと言われている。どれも一定の根拠があり、どれが本質的なものなのかを判断するのは難しい。

先導の神、境界の神、道祖神、性の神

天孫降臨を先導し、地上に降り立つのを案内したことから先導の神、道案内の神として信仰されることが多い。 民間信仰の道祖神や塞の神などと習合した。道祖神は、男女の像が合わせて刻まれるなど、和合の神つまり生殖の神とされることも少なくないが、猿田彦についても長い鼻が男根の象徴であり、配偶神であるアメノウズメが胸と陰部をさらして踊ったこと関連があるとも指摘されることもある。

柳田国男は『石神問答』で、猿田彦の性格について道祖神の関連で考察している。道祖神を猿田彦とするのは『日本書紀』などに衢神とあるためだが、元々のものではないとした上で、猿田とは「サダ」と読み、岬や御崎神などのミサキと同義ではないかとし、論を展開する。サダと名付けられた岬は多く、伊予の佐田岬、大隅の佐多岬があり、土佐の足摺岬も元々は蹉ダ岬と呼ばれていたという。また佐太神社も岬にはないが、半島の東西には岬があると指摘する。ミサキは境界となるような地の名称であり、ある領域に入るときはミサキは道案内となり、領域に入った後は、ミサキは外域への境界地となると述べている。「此の如く解するときは塞の神と猿田の神とを混同するに及びたる次第も稍々明かになるやうに存じ候」とある。

田んぼの神

「猿田」とは「サタ」と読み、天照大神に献じられた「狭田」「狭長田」のことであるという解釈がある。『日本書紀』では天孫降臨の先導を務めた後、「伊勢の狭長田五十鈴川上に到るべし」とある。稲荷五社大神の佐田彦大神と同一視するのも猿田彦を田の神とすることに由来すると考えられる。また田んぼの神は道祖神ともみなされることがある。

西宮一民は、「猿田」とは「(神聖な動物である)猿によって守られる良い田」のこととし、猿田彦はそれを擬人化したものであるとしている。天照大神が農耕に欠かせない太陽の神であり、またニニギ自体が稲穂の実りを象徴する神であり、そして猿田彦は、稲穂を高く積んだことを意味する「高千穂」にニニギを案内したことを指摘している。

猿神

南方熊楠は猿田彦は猿神に違いないと断言している(『十二支考』)。本居宣長の「猿田彦が猿に似ているのではなく、猿が猿田彦に似ているため、そのように呼ばれた」という説は牽強付会としつつも、「『日本書紀』に「背長さ七尺余」とあり、猿田彦の身長についてただ「長さ」と言わずに「背の長さ」と呼んでいるのは這いつくばっていたからだ」との主張には同意し、「介に手を挟まれて困しむ内、潮に溺れ命を失うたのも猿田彦は老猴を神としたに相違ない証拠だ」としている。また山王七社権現大行事権現が猿田彦とされたのも山王権現の使いが猿であることによるとしている。

伊勢の神、出雲の神

伊勢の神とするのは、記紀の記述に基づくもの。天照大神が鎮座する前から伊勢の地にいた神である。平安時代には伊勢神宮に奉仕する宇治土公氏という一族の祖神として信仰されていたことが確実である。興玉神という名でも信仰されている。伊勢神宮からは離れているが、猿田彦を祭神とする椿大神社が伊勢国一宮となっていることとも関連があるだろう。 出雲の神とするのは平田篤胤の考案した新説である(『古史伝』)。「猿田」とは「サタ」と読み、出雲の佐陀という地名のことであり、佐太神社の祭神だと主張している。現在の学者はこれを否定するものが多いが、この篤胤説に基づき、明治以降、佐太神社の祭神として盛んに主張され、現在採用されている。鎌田東二は佐太神社祭神説を支持している(『神道とは何か』)。

山の神、海の神、土の神

『古事記』には、猿田彦が漁をする姿が描かれている。猿田彦神が伊勢の阿邪訶にいるとき、漁をしてひらぶ貝に手を挟まれ、海の中に溺れてしまったという。このときの姿を底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久魂などと呼ぶという。「つぶ」や「あわ」など海の波を連想するような名であり、海の神であったという論拠になる。また伊勢での猿田彦の異名とされる興玉神は、興とは沖のこととも考えられ、海の神であることが察せられる。二見浦の海には興玉神石という磐座が鎮まっているとされる。

一方、猿田彦を天狗とみなすのは長い鼻によることもありながら山の神のイメージもなかったとは否定できない。椿大神社では猿田彦は入道ケ嶽に降臨したとされる。

また平田篤胤は、猿田彦神は大土神であると述べている。伊勢では猿田彦神が地主の神として信仰されていることと重なる。猿田彦の神裔とされる宇治土公氏の名は、土公神を祀っていたことを意味する。土公神は道教の神であるが、土神の意味も込められていると思われる。『太神宮諸雑事記』に「宇治土公、遠祖大田命神、当土乃土神也」とある。大田命は猿田彦神の末裔で、別名とされることもあることを考えると猿田彦神も「土神」の性格を持っていたと言えなくもない。また宇治土公氏が奉仕した土神とは大土御祖神社のことともされ、中西正幸は、正宮神域に鎮座する興玉神の祭壇は大土御祖神社の遥拝所であり、興玉神の名は大土御祖神社祭神の大国玉神と関係があるとも述べている。また『二十二社式』の稲荷神社の項には猿田彦を指して「三千世界の地主神」と述べている。

邪視の神

猿田彦を邪視の神、あるいは邪視防御の神とするのは南方熊楠(『十二支考』)の説である。『日本書紀』の天孫降臨の段で、ニニギの前に立ちはだかった時、猿田彦の眼は八咫鏡のように輝き、天孫側の神々は誰も「皆目勝ちて相問うこと」ができなかったことに拠る。青面金剛が猿田彦とともに庚申に習合したのも、青面金剛がインドの邪視防御の神であるハヌマーンに由来するからだとしている。

太陽神

『日本書紀』の「猿田彦の眼は八咫鏡のように輝いていた」という下りに別の解釈を施したのが太陽神説だ。まぶしく輝いていたのは猿田彦は太陽の化身だということを示しているという見方である。『古事記』でも「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神」という記述がある。また猿田彦が伊勢に住む神ということも太陽神説の有力な根拠とされる。つまり、天照大神が伊勢で祭られる以前から信仰されていた土着の太陽神という類推である。いつからこの説が唱えられていたかは未確認だが、松前健なども主張している。猿は日神の使いだったともいう。

系譜

同一視される神々

  • 興玉神:伊勢神宮の内宮正宮が鎮座する地の地主神。二見浦の海にいる神。
  • 大土御祖神社
  • 椿大明神:椿大神社
  • 白髭神白鬚神社の神
    • 比良明神:比叡山に連なる比良山の神。白髭神と同一とされる。
    • 水尾神社:白鬚神社の縁起に関わる。現在は磐衝別命が祭神。
  • 佐田彦大神(稲荷五社大神の一神):中社(あるいは上社)の祭神とされている。異説もある。
  • 山王信仰
    • 大物忌神社:大行事権現。山王神道の教説を著した『山家要略記』などに記される。現在は大年神を祭神とする。
    • 早尾神社:現在はスサノオを祭神とするが、異説として猿田彦説がある。「大行事早尾」とセットにされることがある。
  • 千勝明神(近津明神)
  • 精大明神:蹴鞠の神。
  • 大麻比古神社:『延喜式神名帳頭註』など、祭神説の一つに猿田彦神がある。
  • 佐太神社:平田篤胤が『古史伝』で主張。
  • 道祖神・塞の神:
  • 庚申山崎闇斎が『庚申』などの著作で猿田彦神を庚申待の祭神としたのが最初という。
  • 高麗神社

神社

画像

参考文献

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%8C%BF%E7%94%B0%E5%BD%A6%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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