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法華寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | * | + | *良雅:[[興福寺勝願院]]院主。 |
*覚信(1065-1121):興福寺別当30世。 | *覚信(1065-1121):興福寺別当30世。 | ||
*隆覚(1074-1158):興福寺別当35世。 | *隆覚(1074-1158):興福寺別当35世。 | ||
*玄厳:久安5年(1149)9月22日、法華寺別当(本朝世記)。 | *玄厳:久安5年(1149)9月22日、法華寺別当(本朝世記)。 | ||
- | * | + | *貞兼:[[興福寺松林院]]院主。永享8年(1436)10月11日、[[大安寺]]別当と法華寺別当に任命される(大乗院日記目録)。 |
===鎌倉時代=== | ===鎌倉時代=== |
2017年9月24日 (日) 時点における版
法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市にある、光明皇后ゆかりの南都仏教の尼門跡・本山級寺院。本尊は十一面観音。官寺二十五大寺の一つ。総国分尼寺。御由緒寺院。叡尊の復興で戒壇が設けられ、近現代では真言律宗西大寺派門跡寺院だったが、離脱して光明宗を名乗る。海龍王寺が隣接。大和国添下郡。法華滅罪之寺。法華寺門跡。氷室御所。(参考:同名寺院法華寺 (同名))
目次 |
歴史
奈良時代
天平17年(745)5月11日の創建とされる(続日本紀)。この場所は藤原不比等の邸宅だったが、のちその娘の光明皇后の宮殿となった。 初期の伽藍の様子は不詳。本尊像は光明皇后の姿を写したものと伝える。大和の国分尼寺であり、総国分尼寺とされた。法華滅罪之寺と呼ばれるように法華寺の名は法華経によると思われるが、実際にはあまり関連は連想させない。 延暦元年(782)頃に伽藍が完成したらしく造法華寺司が廃止。南には日本初の阿弥陀堂という阿弥陀浄土院も建てられた。 光明皇后が浴室を立て、貧者や病者を世話したと言われる。一千人目の病者を皇后が体を洗うと、病者は光を放ち阿閦如来となったので阿閦寺に祀ったという。
のち淳仁天皇と不和になった孝謙上皇が法華寺で出家している。
平安時代
平安時代には衰退。昌泰元年(898)に御幸した宇多上皇が荒廃ぶりを観て嘆いている(扶桑略記)。 治承4年(1180)、平重衡の南都焼討で焼失。
中世
東大寺大勧進の重源が堂塔を修復し復興の端緒を開いた。 本格的には寛元3年(1245)、西大寺叡尊が復興。 伽藍を再建し、西大寺末となった。戒壇も建てられたという。 光明天皇皇女(名称不明)が入寺し、その後も足利将軍家の娘が住職となるようになり門跡寺院としての地位が築かれていく。
室町時代には興福寺末となる。 応永15年、西塔焼失。 明応8年、兵乱で被災。永正3年の兵乱で大被害を受けた。 永禄10年(1567)、松永久秀の兵乱で東大寺などと共に焼失。
近世
豊臣秀吉の検地で寺領220石となり、江戸時代も維持された。 慶長元年、地震で被災。慶長6年(1601)、豊臣秀頼の母淀殿の発願で再建。 貴族、皇族が入寺して尼門跡となる。 宝永4年(1707)、天平時代の遺構の東塔が焼失。
近現代
明治維新後、高野山末となるが、西大寺の請願でその末寺となる(『近代の西大寺と真言律宗』)。 門跡寺院制度は、明治維新で一旦廃止となったが、のち復活し、当寺は、明治21年に「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。 明治32年(1899)9月25日、法華寺保存会設立(近代)。 明治41年起草の寺則で、法華寺の住職は近衛公爵家、九条公爵家、水谷川男爵家の承諾を得て近衛家が指名すると規定(いのりの日々)。 昭和33年(1958)5月6日、光明皇后1200年遠忌(近代)。 平成22年(2010)5月6日、光明皇后1250年遠忌。 西大寺末を離れ、単立寺院となり、光明宗を称する。光明宗の名は堀池春峰の命名という(いのりの日々)。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
伽藍
- 本堂:
- 護摩堂:
- 横笛堂:
- 浴室:
- 宇奈多理坐高御魂神社:鎮守。今は独立の神社。楊梅天神。同名の式内社に比定されるが異説もある。三代実録に「法華寺坐社」の存在や「法華寺従三位薦枕高御産栖日神」を正三位としたとの記述がある。
- 法華寺宮墓地:航空自衛隊奈良基地内にある。
- 阿弥陀浄土院
- 小池坊:華道道場だった。
組織
別当
男僧の法華寺別当が置かれた。興福寺僧が務めた。
- 林懐(951-1025):興福寺別当21世。
- 蓮聖
- 経理
- 経救(978-1044):興福寺別当23世。
- 良雅:興福寺勝願院院主。
- 覚信(1065-1121):興福寺別当30世。
- 隆覚(1074-1158):興福寺別当35世。
- 玄厳:久安5年(1149)9月22日、法華寺別当(本朝世記)。
- 貞兼:興福寺松林院院主。永享8年(1436)10月11日、大安寺別当と法華寺別当に任命される(大乗院日記目録)。
鎌倉時代
叡尊復興以後。長老と称す。
- 1慈善(1187-?):中興1世。叡尊の弟子。元は後鳥羽天皇皇女の春華門院に仕えた。聖恵房(聖慧房)。
- 2如円(生没年不詳):中興2世。東大寺の聖守、円照の母。覚印房。
- 3釈念(?-1269):敬妙房。
- 4慈念(1213-1298):法如房。
- 5智恩(1225-1300):観如房。
- 6妙源(1224-1302):善心房。
- 7真恵(1229-1304):忍観房。
- 8妙遍(1238-1321):本鏡房。
(『東洋文庫 感身学正記』より)
室町時代
- 光明天皇皇女:
- 尊順:足利義満の娘。文明11年9月4日死去。
- 高秀:
江戸時代
- 久山昌隆(?-1615):近衛前久の娘。本務は三時知恩寺か。1615年(元和1年)3月2日死去。(大日本史料)
- 永亨女王(1657-1686):後水尾天皇皇女。本務は大聖寺門跡。歓喜寺宮。本元院。
- 幾子女王(1737-1764):閑院宮直仁親王王女。高覚真如。
近代
- 近衛高鳳(1852-1895):嘉永5年10月19日生。安政5年入寺。明治28年8月死去。著書に『伊予下りの記』。(『近代の西大寺と真言律宗』)
- 近衛高尊():近衛篤麿の養女。
- 久我高照(1921-2011)<1939-2011>:久我常通の八女。俗名は素子。昭和11年法華寺に入り得度。西大寺と法隆寺で学ぶ。昭和15年門跡となる。(『郷土歴史人物事典奈良』)
- 樋口教香(1952-)<2013->:
典籍
- 法華寺舎利縁起:建治元年(1275)編纂。
- 法華滅罪寺縁起:嘉元2年(1304)編纂。