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平安神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
平安神宮 へいあん じんぐう | |
東神苑 | |
概要 | 平安京を代表する天皇を奉斎する神社。 |
奉斎 | 桓武天皇、孝明天皇 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 京都府京都市左京区岡崎西天王町 |
所在地(旧国郡) | |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 官幣大社・別表神社・勅祭社 |
関連記事 | 桓武天皇旧跡 |
目次 |
概要
平安神宮(へいあん・じんぐう)は、京都府京都市左京区岡崎にある平安京を記念する霊社。平安京の最初と最後の天皇である桓武天皇と孝明天皇を祀る。官幣大社・別表神社・勅祭社。大極殿を模した社殿がある。境内に天王塚陵墓参考地がある。
歴史
岩倉具視の創建案
最初に平安京を記念するために桓武天皇奉斎神社の創建を計画したのは岩倉具視だった。右大臣岩倉具視は1876年(明治9年)、京都府から京都御所内に桓武天皇から孝明天皇の歴代天皇を祀る神社の創建の請願を受けている。これが岩倉の頭に残っていたのかどうかは分からないが、最晩年の1883年(明治16年)に「京都皇宮保存に関する建議」を提出。この案の中に「即位礼、大嘗祭、立后は京都で行うこと」、賀茂祭の復興、石清水祭の復興とともに桓武天皇奉斎神社の創建が含まれていた。 岩倉具視の意を受けて、宮内省がかなり具体的な案を作成していた。この時点で名前を「平安神宮」とし、社格を「官幣大社」とすることが計画された。鎮座地を京都御所の仙洞御所とし、社殿に旧賢所を用い、神霊は皇霊殿から分霊することとし、さらに賀茂祭のような勅使参向の例祭の実施を検討していた。図案はもちろん、予算や人員なども計画されており、今すぐ実行にとりかかることができるような状態であったが、岩倉具視が同年7月20日に死去したため、凍結された。 またこの計画は、地域住民や自治体からの請願がなく、社寺行政担当の内務省ではなく、宮内省主導で計画されるなど異例の計画で、また天皇を祀る神社の創建も盛んでない時期であった。時機に合わず、岩倉具視の独断で進められたことから、関係部署との齟齬があり、計画がお蔵入りになったとも考えられている。
平安遷都千百年記念祭と平安神宮の創建
明治20年代、1894年(明治27年)は794年(延暦13年)の平安遷都から千百年になることから、平安遷都を記念する機運が高まり、「紀念祭協賛会」が設置されていた。ところが政府は第四回内国勧業博覧会の京都での実施を1895年(明治28年)と内定していた。そこで、これに合わせて、京都府は、1895年(明治28年)を「桓武天皇が初めて大極殿にて元日拝賀を受け、平安京の設備が整備されてから千百年」として、「平安御奠都千百年紀念祭」の実施を政府に請願した。1892年(明治25年)のことである。このとき、桓武天皇を祭り、祭典を実施する案が盛り込まれた。 1893年(明治26年)、帝国議会で京都での内国勧業博覧会の実施が決議されると、京都府は紀念祭の具体案のなかで、平安京大内裏大極殿の跡地に、大極殿を半分か三分の一の大きさで復元し、「平安宮」という桓武天皇を祀る神殿とすることを提案した。発案者は湯本文彦であったと考えられている[1]。しかし、大極殿跡にあたる千本丸太町は市街地で狭隘なため、内国勧業博覧会の会場である岡崎を建設地とし、会場の中心となる「紀念殿」として建設することとした。まもなく京都府は伊東忠太に設計を依頼した。
1893年(明治26年)9月3日、内国勧業博覧会の「紀念殿」として地鎮祭が盛大に行われた。この時点では、博覧会期間中のみの施設であって、どうやら正式な「神社」として創建することは考えられていなかったらしい。 紀念祭協賛会は、地鎮祭の直後、大極殿建設の計画を拡張して、桓武天皇を祀る神社とし、「平安神社」と称すことを提案した。宮内省と調整したところ、10月には社格を官幣大社とし、名称を平安神宮とし、さらには鎮座祭を1890年(明治23年)創建の橿原神宮に準じて行うことの内報がもたらされた。
1894年(明治27年)1月、改めて「平安神社創立発起人総代」が政府に請願書を提出し、2月に創立許可が正式に出た。7月には正式に内務省が社格と名称を発表した。工事は着々と進められ、1895年(明治28年)1月に竣工した。3月15日に鎮座祭が行われた。
時代祭の創始
内国勧業博覧会の会期は4月から7月までであった。明治天皇の臨席を仰いで「平安奠都千百年紀念式典」を4月30日に実施する予定であった。しかし、時に日清戦争の真っ只中で、天皇は広島大本営に滞在。過労により延期となった。そこで平安奠都の日である10月22日を替わりの日程とした。10月22日の式典の奉祝行事として実施されたのが時代祭であった。
孝明天皇の合祀
1925年(大正14年)、帝国議会で孝明天皇の業績を称え、京都に神宮を創建することが建議され、決議されたが、具体的な動きに繋がらなかった。1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位にあたって、即位式と大嘗祭が京都御所で実施されることを機会として、京都府は「孝明天皇聖徳奉彰会」を設立したが、記念誌を発行したのみであった。 1937年(昭和12年)、徳富蘇峰が「明治七十年」と題した記事を発表し、孝明天皇奉祀を説いて、世論が動いた。5月、京都市議会が平安神宮に孝明天皇の合祀を政府に請願した。まもなく了承され、翌年5月正式に発表された。
このため、本殿を造営し、合祀のために東本殿と西本殿に分けることとなった。同年、工事が始まった。旧本殿は長岡天満宮に譲渡された。
紀元二千六百年の1940年(昭和15年)10月17日、桓武天皇の東本殿への遷座祭が実施され、19日、孝明天皇の西本殿への鎮座祭が行われた。
境内
- 本殿
- 拝殿(大極殿)
- 神門(応天門)
- 白虎楼
- 蒼龍楼
- 神楽殿
- 額殿
- 建国記念之碑
組織
宮司
- 1壬生基修(1835-1906)<1895->:尊攘派の公卿。伯爵。明治39年3月6日死去。72歳。
- 冷泉為紀(1854-1905)<1898-?>:旧公卿の華族。伯爵。(略歴は、伊勢神宮#組織を参照)
- 青木陳実(1854-1918)<>:伊勢神宮権禰宜。宮崎宮宮司、白峰宮宮司、結城神社宮司、賀茂別雷神社宮司を歴任。
- 加藤直久()<>:日光二荒山神社宮司。
- 当山亮道()<>:駒形神社宮司。『古事記通解』『神勅勅語解義』。
- 杉谷正隆()<>:氷川神社宮司。玉前神社宮司。安房神社宮司。
- 徳大寺実厚(1887-1970)<1948-1960>:昭和天皇侍従。掌典長。
- 三室戸治光(1849-1920)<>:1849年7月生。1920年12月死去。
- 寺田密次郎()<>:出羽神社宮司。札幌神社宮司。札幌招魂社受持神官。
- 小松輝久(1888-1970)<>:北白川宮能久親王の第四王子。海軍大学校卒。海軍中将。貴族院議員。戦後、平安神宮宮司。
- 13三条実春(1913-1990)<1971->:三条公輝の子。1938年(昭和13年)東京帝国大学卒業。1942年(昭和17年)陸軍中尉。1945年(昭和20年)貴族院議員。1948年(昭和23年)本郷薬局取締役。1951年(昭和26年)貞明皇后大葬儀祭官。1952年(昭和27年)掌典職。1961年(昭和36年)春日大社宮司。1971年(昭和46年)平安神宮宮司。京都府神社庁長、京都神社雅楽会会長、霞会館理事を歴任。(神道人名辞典)
- 14九条道弘(1933-2017)<1991-2017>:九条家当主。昭和8年生。関西学院大学卒。文化放送勤務。伊勢神宮祭儀部長(禰宜)を経て平成3年、平安神宮宮司。平成29年4月30日退任。同年9月16日死去。83歳。
- 15本多和夫()<2018->:2017年から代務者。2018年7/1就任。
画像
参考文献
- 所功 平成8『京都の三大祭』角川選書
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
脚注
- ↑ 所功による