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誠照寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2017年11月16日 (木) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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誠照寺(じょうしょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗本山寺院大町門徒(三門徒)系統の真宗誠照寺派の本山で、越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。本尊の阿弥陀如来は33年ごとに開帳していた。実質的な開山は如覚で、証誠寺から分裂した寺院という説もある。越前国今立郡。江戸時代は天台宗輪王寺宮に直属する院家寺院だった。幕末に准門跡(門跡寺院)となる。鯖江本山鯖江御堂車の道場(車道場)。山号は上野山(うわのさん)。

目次

歴史

創建

元久2年(1205)4月、越前国今立郡上野荘の領主波多野景行(景之とも)が霊夢を受けて京都親鸞に師事。空然と名乗った。 のち親鸞が越後配流の途中に空然の道場に立ち寄り、庵を設けたのが起源とされる(上野別堂)。 親鸞が京都に戻る際、五男道性を留め空然の娘と結婚。道場を継いだという。 弘安元年(1278)、道性の子の如覚が現在地に移転し、翌年竣工した。 嘉元3年(1305)、後二条天皇から真照寺の勅額を賜ったという。 永享9年(1437)2月、後花園天皇の勅願所となり、誠照寺と改称した。 鯖江の町は誠照寺の門前町として生まれた。

誠照寺分立の要因を如覚の父との不和に求める説がある(小泉論文)。現在地移転を『中野物語』に「鯖江寺建立」とある文明2年(1470)とする(小泉論文)。

戦国時代

戦国時代は一向一揆と対決。朝倉孝景から安堵状を得て庇護下に入ったことから対立する一揆から攻撃を受けた。 天文21年(1552)、一向一揆の焼討を受け、伽藍焼失。さらに9世秀栄が殺害された。 柴田勝家の保護を受けたが、天正11年(1583)、勝家を攻めた羽柴秀吉軍に焼かれた。 焼討の後、10世秀意は能登美濃に7年間匿われた。のち豊臣秀吉から安堵状を得て帰山。 天正17年(1589)再建すると今度は有力末寺の誠長寺越前・常楽寺と本末争いが起きる。 慶長10年(1605)、証誠寺の仲裁でいったん和解するが再燃。 寛永8年(1631)、福井藩に訴え、その判決により誠長寺と常楽寺は追放・廃絶となった。 住職の継承も短命だったり、前住の「友人」が継承したり、不安定だったが、福井藩家臣から秀山が入りようやく安定。 秀諴が入って中興することとなる。

近世

明暦元年(1655)、福井藩重臣の太田資武の次男の秀諴が入寺して中興。伽藍を復興し、諸制度を整備。夏に美濃の末寺を巡教する「美濃廻り」を創始した。 延宝5年(1677)福井藩主から24石寄進。享保3年、朱印地とされた。 一時聖護院門跡に属したが(国史大辞典)、元禄6年(1693)、輪王寺宮院家となる。 万延元年(1860)、二条家猶子になると共に准門跡となった(『日本仏教基礎講座』)。 文久2年(1862)12月、伽藍焼失。

近現代

明治5年9月、延暦寺末となるが明治11年2月、独立。 明治10年、御影堂を再建。明治20年、阿弥陀堂を再建。 昭和8年、上野別堂を復興した。

(国史大辞典、日本歴史地名大系、日本仏教基礎講座)

伽藍

諸堂

  • 御影堂:本尊は親鸞。歴代法主も祀る。明治10年再建。大師堂ともいう。
  • 阿弥陀堂:本尊は閻浮檀金手引阿弥陀如来。かつては33年ごとに開帳していた。聖徳太子法然も祀る。後二条天皇後花園天皇の位牌を祀る。明治20年再建。「本堂」とされる(日本仏教基礎講座)。
  • 忠霊堂:戦没者2290柱の遺骨を祀る。本尊の光華阿弥陀如来は少将脇坂次郎の寄進。
  • 無碍光堂:納骨堂
  • 御本廟:歴代法主の墓
  • 上野別堂

この他、四足門、御経堂、鐘楼堂、対面所、大庫裡、御宸殿、光華殿がある。教団の宗務所は大庫裡に置かれている。

塔頭

  • 願生寺
  • 真覚寺
  • 法林寺
  • 本正寺
  • 霊泉寺

役寺

  • 西福寺:康永元年(1342)、誠照寺4世良覚が創建。当初は誠照寺の西の有定村にあったので西坊と呼ばれた。元禄5年(1692)、誠照寺の南隣に移転した。
  • 南光寺:正平9年(1354)、誠照寺5世秀覚が創建。当初は誠照寺の南側にあり、南坊と呼ばれた。元禄4年(1691)、誠照寺の北隣の現在地に移転した。

歴代住職

  • 1:親鸞(1173-1262)<>:浄土真宗開祖。
  • 2:道性(1219-1297)<>:誠照寺の伝承では親鸞の五男と伝える。承久元年12月3日生。1227年、波多野景之の養子となり、車道場に住む。のち現在地移転。長男如覚を後継者として、次男道光は越前・常楽寺を創建。三男常光と共に山本荘水落に隠棲。永仁5年9月9日死去。益方有房と同一視されているが、不詳。『日本仏教基礎講座』では1257年死去とする。1221年生とも。証誠寺の伝承では1439年生、1521年死去とする。実際は大町・専修寺開山の如導(1253-1340)の弟子とみられ、14世紀の人物だろう。
  • 3:如覚(1250-1311)<?-1311>:大威徳院。実質的な開山。道性の長男(次男とも)という。建長2年3月7日生。1258年得度し、1262年、父と共に上洛して親鸞に面会し名前を与えられたという。継承して1305年、後二条天皇から上野山真照寺の号を得た。応長元年5月19日死去とされる。存覚(1290-1373)に学んだということは確からしいから、実際には14世紀後半の人物だろう。『勧化抄』(勧化章)を著す。
  • 4:良覚(1296-1349)<1311-1349>:如覚の長男。永仁4年2月10日生。1304年得度。1311年継承。康永元年(1342)、隠退所として西福寺を創建。1348年西福寺に引退。貞和5年10月14日死去。
  • 5:秀覚(1320-1380)<1349-1380>:良覚の子。元応2年1月生。1331年得度。1349年継承。正平9年(1354)、南光寺を創建。康暦2年2月22日死去。著作に『真照寺草創記』があるという。
  • 6:秀雲(1350-1419)<1380-1419>:秀覚の五男。1364年得度。浄土宗西山派法相宗を学ぶ。長兄と父の死去で帰山し、1380年継承。応永26年7月10日死去。1421年死去とも。
  • 7:秀応(1399-1483)<1419-1483>:秀雲の長男。教団全盛期とも。応永6年5月20日生。1407年得度。1419年継承。後花園天皇の勅願所となり改称したという。足利義教から寄進を受けたという。文明15年3月3日死去。
  • 8:秀慶(1447-1525)<1483-1525>:秀応の次男。文安4年8月9日生。1458年得度。1483年継承。大永5年3月26日死去。
  • 9:秀栄(1489-1552)<1525-1552>:秀慶の子。空知とも称す。長享3年1月16日生。1497年得度。1525年継承。朝倉孝景から安堵状を得た。天文21年10月4日、越前一向一揆の焼討で殺害されたという。
  • 10:秀意(1542-1616)<1552-1614>:秀栄の子。天文11年11月7日生。1550年得度。1552年継承。1574年、越前一向一揆と戦い敗れた。翌年、織田信長の越前進行に加勢し一向一揆を破る。柴田勝家から安堵状を得たため、対立する豊臣秀吉から敵視される。天正11年(1583)の秀吉軍の焼討の後、能登美濃に7年間匿われた。1589年、豊臣秀吉から安堵状を得た。後陽成天皇から綸旨を得た。常楽寺と西福寺の争いが起こるが証誠寺の仲介で解決。1614年引退。1616年1月25日死去。「安心文」を著す。
  • 11:秀盛(1589-1616)<1614-1616>:秀意の末子。1589年1月20日生。1595年得度。1614年継承するが、1616年3月25日死去。(就任2カ月で死去とも)
  • 12:秀顕(1550-1621)<1617-1621>:秀栄の次男(秀意の長男とも)。1550年、または1560年の2月9日生。的山、助空とも称す。1583年兵火を逃れて京都の浄土宗禅林寺の僧となる。1616年継承(元和3年(1617)に帰山とも)。1621年の9月24日または5月24日死去。
  • 13:秀恵(1579-1627)<1621-1625>:茂山とも称す。秀顕の長男とも、秀意の三男とも、秀顕の友人という。1621年継承とも、秀顕の遺言で元和8年(1622)入寺とも。1625年引退。秀高は誤りか。
  • 14:秀山(1606-1663)<1625-1663>:福井藩家臣高谷越後守の子。1606年11月4日生(1608年とも)。秀盛の子で1616年生という説もある。1624入寺。1625年継承。1627年参内。1631年、誠長寺を追放。1653年越前常楽寺を廃した。1658年、誠照寺伝の御文章古本を刊行。1663年7月10日死去。
  • 15:秀諴(1642-1691)<1663-1691>:信行院、真紹隆院と号す。中興。福井藩重臣の太田資武の次男。1642年6月3日生(1632年生まれとも)。1650年入寺。1663年継承(1655年とも)。1680年、太田尹資から寄進された閻浮檀金手引阿弥陀如来を本尊とし、伽藍復興。1683年、寺法を制定。1685年御影堂を建立。「美濃廻り」を始める。「秀誠」は誤り。1691年11月6日死去。
  • 16:秀海(1664-1693)<1691-1693>:福井藩家臣毛受家の出身。1664年2月21日生(1665年生とも)。1674年得度。1691年継承。1693年参内。同年9月9日、京都で客死。輪王寺宮の院家となる。
  • 17:秀如(1675-1729)<1694-1727>:遊園院。膳所藩主本多康慶の子。1675年4月7日生。1694年得度継承。1995年権大僧都法印。1701年西園寺家の猶子となり、権僧正。1705年徳川綱吉から朱印状を初めて得た。1727年病気で引退。1729年12月6日死去。
  • 18:秀存(1697-1731)<1729-1731>:秀如の長男。1694年6月15日生。1711年得度、権大僧都法印。1729年、権僧正、継承。1731年7月3日京都で急死。
  • 19:秀憲(1718-1743)<1731-1743>:中山兼親の末男。1718年5月11日生。1731年、西園寺公晃の猶子として入寺継承。権大僧都法印。1737年阿弥陀堂再建。1743年12月12日死去(1744年とも)。
  • 20:秀実(1731-1806)<1743-1786,1786-1799>:大慈院。萩原兼武の末男。1732年10月10日生(1731年生とも)。1743年、西園寺公晃の猶子として入寺継承。1744年法印権大僧都。1761年権僧正。1780年、本尊開扉を始める。1786年引退するが、子の死去のため復帰。1799年引退。「秀宝」は誤りか。1806年11月19日死去。
  • 21:秀芳(1765-1786)<1786-1786>:秀実の長男。1765年8月3日生。1777年得度、法印権大僧都。1786年就任後、まもなく7月27日死去。1794年継承、1799年死去という説もある。
  • 22:秀〓(1788-1809)<1799-1809>:還迎院。三条実起の末男。1788/7/5生。1799入寺継承。翌年法印権大僧都。1809/8/17死去(1810/9/17とも)。〓は「葽」。「秀要」は誤りか。
  • 23:秀厳(1797-1812)<1811-1812>:宜法院。左大臣二条治孝の十男。1797/8/8生。1811年、三条実起の猶子として入寺継承、法印権大僧都。就任の翌年9月23日に急死。16歳。1810年入寺という説がもある。以後、7年間無住。
  • 24:秀観(1812-1844)<1820-1844>:光暁院。秀厳の長男。1812/6/6生。1820継承。1823法印権大僧都。1828年魚山声明を導入。1844/7/11死去(1843とも)。
  • 25:二条秀量(1829-1891)<1845-1869>:光台院。交代寄合の但馬国村岡領主山名義蕃の子。1829/10/3生。1845年入寺継承。法印権大僧都。1858年、西園寺寛季の猶子となり、権僧正。1860年二条家の猶子となり、准門跡となる。親鸞600回忌を執行。1869年京都に里坊を創建し、引退。1878年権少教正。1881権中教正。1883中教正。1891/1/11死去。
  • 26:二条秀源(1852-1935)<1869-1911>:恭敬心院。西園寺寛季の末男。1852/1/5生。1860年、二条斉敬の猶子となり、入寺。1865年得度。1869継承。持法会を始める。1878年初代管長。東京別院を創建。1935/10/25死去。
  • 27:二条秀暁(1879-1941)<1911-1941>:功勲広院。二条秀源の長男。1879/12/5生。1891得度。1911継承。1941/1/17死去。
  • 28:二条秀淳(1907-1986)<1941-1986>:仰威徳院。秀暁の子。1907/6/18生。大谷大学文学部卒。1941継承。1942年、満州国皇帝溥儀を訪問。1986/2/3死去。
  • 29:二条秀政(1934-2001)<1986-2001>:
  • 30:二条秀瑞(1978-)<2001-現職>:
  • 誠照寺ウェブサイトより
  • 望月『仏教大辞典 付録』、『日本仏教基礎講座』も参考にした。

資料

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AA%A0%E7%85%A7%E5%AF%BA」より作成

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