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出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月2日 (日)
名称 | 近世 | 現代 | エリア | 概要 |
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根本中堂 | 根本中堂周辺 | 本尊は薬師如来。寛永寺の本堂。延暦寺根本中堂を模した。1697年(元禄10年)徳川綱吉の命で起工。1698年(元禄11年)8月落慶。9月6日には霊元法皇による勅額「瑠璃殿」が掲げられた(「勅額火事」を受け、複製を掲げた)。本坊の完成を寛永寺の創建とみると、1625年(寛永2年)から73年後にようやく本堂が備わった。1698年(元禄11年)、300石寄進。本尊の薬師如来は近江石津寺の最澄作の像。十二神将は出羽立石寺の円仁作の像。日光月光菩薩も祀る。脇壇不動明王は延暦寺西塔正教坊護摩堂の円珍作の像。脇壇毘沙門天は唐匠の作(江戸名所図会では定朝作)で天海が感得し、1705年(宝永2年)春に霊異を示したという。廃絶。場所を移して再建されている。(建立記ほか) | ||
竹台 | 根本中堂周辺 | 根本中堂の前の左右にある。延暦寺根本中堂の竹台から移植したもので、遡れば円仁が五台山から請来したものという。山王権現と八百万神が影向するという。「たけのうてな」。復興寛永寺にも再現されている。 | ||
石楠花塚 | 根本中堂周辺 | 夜叉が影向するという。廃絶。 | ||
勅額門 | 根本中堂周辺 | 後水尾天皇宸筆「寛永寺」額が掲げられた。廃絶。 | ||
宝蔵 | 根本中堂周辺 | 1697年(元禄10年)建立。廃絶。 | ||
勅額蔵 | 根本中堂周辺 | 勅額「瑠璃殿」の実物を保管。この勅額は現存するという。廃絶。 | ||
御供所 | 根本中堂周辺 | 廃絶。 | ||
法華堂 | 根本中堂周辺 | 1627年(寛永4年)9月、紀伊徳川家徳川頼宣が建立。当初の本尊は釈迦・文殊・普賢(康猶作)。1698年(元禄11年)、最澄親筆の法華経を祀る宝塔を中心に左に釈迦如来、右に普賢菩薩と改めた。幕末の江戸名所図会では普賢菩薩のみとある。常行堂と渡り廊下で接続し、「担い堂」「二つ堂」とも呼ばれた。廃絶。(建立記ほか) | ||
常行堂 | 根本中堂周辺 | 本尊は阿弥陀・観音・勢至。1627年(寛永4年)、尾張徳川家徳川義直が建立。内陣の隅に摩多羅神も祀り鳥居もあったらしい。1698年(元禄11年)、中尊を成朝作の宝冠阿弥陀像に改めた。法華堂と渡り廊下で接続し、「担い堂」「二つ堂」とも呼ばれた。廃絶。(建立記ほか) | ||
輪蔵 | 根本中堂周辺 | 傅大士、普建、普成を祀る。天海寄進の一切経を収める。1627年(寛永4年)、水戸徳川家徳川頼房が建立。当初は法華堂の前にあった。根本中堂建立以後は法華堂の後ろになる。多宝塔と相対する。廃絶。経蔵。転輪蔵。(建立記ほか) | ||
多宝塔 | 根本中堂周辺 | 本尊は?。寛永年間、天海自ら造営。延宝以後は幕府が造営する伽藍となる。常行堂の前にあり、輪蔵に相対した。根本中堂建立以後は常行堂の後ろになる。雲水塔という。廃絶。 | ||
三十番神社 | 根本中堂周辺 | 三十番神を祀る。天海自ら造営。多宝塔の後ろにあった。廃絶。 | ||
鐘楼 | 鐘楼跡 | 根本中堂周辺 | 1631年(寛永8年)、土井利勝が建立。四隅には左甚五郎、道頓堀の吉兵衛、佐野の善兵衛、神田の源太郎の彫刻があしらわれたという。鐘銘「武州東叡山鐘銘並序」は林羅山筆。1790年(寛政2年)土井利和が改鋳。東照宮に付属する性格が強いか。現在の小松宮彰仁親王像のあたり。廃絶。 | |
本坊 | 江戸時代の表門 | 移設現存する表門 | 本坊周辺 | 1625年(寛永2年)建立。1698年(元禄11年)9月6日、勅額火事で焼失。1737年(元文2年)5月3日焼失。1772年(安永1年)11月1日焼失。1831年(天保2年)11月23日焼失。1868年(明治1年)5月、戊辰戦争で焼失。1881年(明治14年)美術館建設。本院とも。御本坊。表門は移築されて現存。 |
宸殿? | 本坊跡 | 本坊周辺 | 宸殿という名称はみえないが、江戸名所図会に描かれる殿舎は桜と橘らしき植樹があり宸殿というにふさわしいたたずまい。 | |
庫裏 | 本坊周辺 | |||
護摩堂 | 本坊周辺 | 本坊内。 | ||
慈恵堂 | 本坊周辺 | 良源を祀る。1636年(寛永13年)、天海が本坊内に創建。徳川家光による寛永造営で撤下された日光東照宮旧本地堂を移築した。本尊の絵像は「阿闍梨公」(不詳、民部法眼)筆で、元は比叡山にあったが織田信長の兵火を避けて伊勢西来寺に遷された。天海が将軍に上申し、伊勢国主藤堂高虎に寛永寺に遷させた。その後、天海、武蔵慈恩寺某、比叡山横川鶏頭院某の祈祷により、1641年(寛永18年)8月3日、徳川家綱が誕生したとされる。天海の命で、同年から良源と自身の御影を子院が交代で祀るように命じた(東叡山之記、建立記)。現在御影を祀っている子院の前に「両大師」の立て札が建てられた。1792年(寛政4年)再建。のち開山堂に合祀された。(建立記ほか) | ||
位牌所 | 本坊周辺 | 本坊内。1726年(享保11年)建立。1737年(元文2年)焼失。再建。1748年(寛延1年)改造。1772年(安永1年)焼失。1775年(安永4年)再建。(東叡山之記) | ||
開山堂 | 本坊周辺 | 天海を祀る。1644年(正保1年)、幕府が創建。1781年(天明1年)再建。絵像は狩野探幽筆(江戸名所図会)。1698年(元禄11年)9月6日、勅額火事で焼失。1720年(享保5年)3月27日焼失。1737年(元文2年)5月3日焼失。戊辰戦争では焼け残った。慈眼堂とも。(下谷と上野ほか) | ||
輪王寺宮墓地 | 本坊周辺 | 現在は宮内庁が管理している。 | ||
求聞持堂 | 本坊周辺 | 本尊は虚空蔵菩薩。本尊は唐匠の作の銅像で天海が感得したものという。天海自ら造営。元は本坊東北の現龍院旧地にあった。寛文年間に焼失。像は現龍院護摩堂に遷す。 | ||
釈迦堂 | 本坊周辺 | 本尊は釈迦・阿弥陀・薬師(建立記)。釈迦・普賢・文殊ともいう(江戸名所図会)。1630年(寛永7年)天海が建立し、護国院の本堂であると共に事実上の寛永寺の本堂だったという。1651年(慶安4年)大猷院廟建設のために移転。1680年(延宝8年)、厳有院廟建設のために移転。1709年(宝永6年)常憲院廟建設のために移転。1717年(享保2年)1月焼失。1722年(享保7年)3月に再建。この伽藍が現存する。1927年(昭和2年)5月、数十m移築し修復。常念仏堂とも。(下谷と上野ほか) | ||
文殊楼 | 文殊楼周辺 | 本尊は文殊菩薩。1698年(元禄11年)建立。文殊像は天海生誕地という会津清龍寺から請来した円仁作の像という。京都廬山寺相伝故紙嚢一封を納めるという。輪王寺宮公弁法親王筆「吉祥閣」を掲げた(江戸名所図会) 。廃絶。吉祥閣ともいう。 | ||
上野大仏 | 文殊楼周辺 | 本尊は釈迦如来。地蔵、弥勒も祀る(江戸名所図会)。清水寺、京都大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。1631年(寛永8年)、越後村上藩主堀直寄が自邸内のこの地に丈六釈迦如来像を建立。粘土を漆喰で固めたものだった。1647年(正保4年)、地震で倒壊。明暦万治頃(1655-1660)、木食僧の浄雲が勧進して青銅像で再建。 桂昌院殿が堂宇を寄進(東叡山之記)。1698年(元禄11年)、輪王寺宮公弁法親王、大仏殿を建立。1841年(天保12年)、火災で被災。1843年(天保14年)、堀直央が大仏を再鋳。幕府が大仏殿を再建。1855年(安政2年)、地震で頭部損傷。堀家が修復。面部のみ現存。 | ||
祇園社 | 文殊楼周辺 | 牛頭天王を祀る。清水寺、大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。現在の精養軒のあたりか。由緒は諸説あるようだ。青龍院2世亮甚が80年以上崇敬していた絵像を4世亮体が1739年(元文4年)5月に祀る。1631年(寛永8年)、堀直時が大仏建立とともに建立したともいう(建立記)。寛永寺の地主神(江戸名所図会)。牛頭天王社、祇園堂ともいう。また浄雲が文殊菩薩を祀ったため文殊堂とも呼ばれた。廃絶。 | ||
吉祥堂 | 文殊楼周辺 | 本尊は吉祥天。1717年(享保2年)(1735年(享保20年)とも)徳川吉宗に近侍した妙教尼が創建。浄円院殿(徳川吉宗生母)が崇敬していた吉祥天という。放光堂、宝光堂。江戸名所図会には「七面」とも書かれている。廃絶。 | ||
時鐘堂 | 文殊楼周辺 | 時ノ鐘。1666年(寛文6年)柏木源兵衛が建立。1698年(元禄11年)幕府修理となる。何度も改鋳され、1787年(天明7年)8月改鋳の鐘が残っている。現存。(建立記、東叡山之記) | ||
上野東照宮 | 東照宮周辺 | 不忍池北岸にある。1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建。1651年(慶安4年)徳川家光の命で再建。この時の社殿が現存する。 | ||
東照宮随神門 | 東照宮周辺 | 楼門。後水尾天皇勅額「東照宮」を掲げた。廃絶。 | ||
東照宮本地堂 | 本地堂本尊が遷された大仏パゴダ | 東照宮周辺 | 本尊は秘仏薬師如来。前立本尊の他、四天王、薬師千体仏もまつる。康猶作。1639年(寛永16年)、酒井忠勝が建立。正保年間火災があったが修復。薬師千体仏は康猶作で土井利勝が寄進。薬師堂とも。廃絶。本尊は上野大仏パゴダに遷された。 | |
東照宮五重塔 | 東照宮周辺 | 本尊は五智如来。康猶作。1631年(寛永8年)、土井利勝が建立。建物は現存。 | ||
東照宮護摩堂 | 東照宮周辺 | 「大尊像」(康猶作)を祀る。廃絶。 | ||
清水観音堂 | 山王台 | 千手観音と聖観音を祀る。清水寺、大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。1631年(寛永8年)、天海が京都清水寺舞台を模して摺鉢山の上に創建。本尊は源信作で平盛久の守本尊と伝え、清水寺僧の義定房某が請来したという。15年ごとの開帳が行われた。1663年(寛文3年)8月、幕府が修復。1677年(延宝5年)8月修復し、幕府修復が恒例となる。根本中堂建設にともなう境内整備で、1694年(元禄7年)に現在地に遷座。御供所が付属していた。寛永寺で現存最古の建造物となっている。(建立記) | ||
祠 | 山王台 | 大黒天、えびす、金毘羅。不詳。江戸名所図会で清水観音堂そばに描かれている。廃絶。 | ||
寛永寺山王社 | 山王社跡付近 | 山王台 | 祭神は山王権現。山王権現は天台宗の守護神。清水観音堂の南にあった。現在の彰義隊墓地や西郷隆盛像のあたりとみられる。湯島聖堂は元々、この地にあった(江戸名所図会)。晃海が1637年(寛永14年)江戸城の紅葉山東照宮旧殿を用いて本覚院内に祀った(東叡山之記)。1698年(元禄11年)勅額火事では本覚院は焼失したが山王社は被災を免れた。その後、本覚院境内から遷された。徳川家綱、5石を寄進(建立記)。1698年(元禄11年)改造。御供所が付属していた。1772年(安永1年)の「明和の大火」では門だけ焼けたが社殿は無事だった。戊辰戦争で焼失はしなかったが、銃撃戦の中で悲惨な姿となり、明治初年の神仏分離で廃絶した。 | |
稲荷 | 山王台 | 不詳。江戸名所図会に山王社そばに描かれる。廃絶。 | ||
根生明神 | 山王台 | 不詳。江戸名所図会に山王社そばに描かれる。廃絶。 | ||
天海毛髪塔 | 山王台 | 本覚院内。天海の没地。現存。 | ||
仁王門 | 仁王門周辺 | 1627年(寛永4年)、永井信濃守と大江尚政が建立。延宝年間からは幕府修復となった。1698年(元禄11年)8月の根本中堂建立と共に西南に移築され、跡地に文殊楼が建てられた。同年9月6日の勅額火事で焼失。1720年(享保5年)再建。翌年3月3日焼失。1756年(宝暦6年)再建。1772年(安永1年)2月29日の「明和の大火」で焼失し廃絶。公弁法親王筆「東叡山」額が掲げられていた。(建立記ほか) | ||
黒門 | 仁王門周辺 | 位置はたびたび異なっている。初代は山の入口にあった。1698年(元禄11年)に仁王門の西側に建立。しかしすぐに焼失したとみられる。3代目も仁王門とともに1721年(享保6年)焼失。4代目は1756年(宝暦6年)再建。1772年(安永1年)焼失。後、すこし奥のところに御成門の脇に5代目の黒門を建立。上野戦争の激戦地となった。1873年(明治6年)に上野公園設置とともに東照宮鳥居の脇に移築され、1907年(明治40年)江戸・円通寺に移築された。(下谷と上野[1]) | ||
忍岡稲荷神社 | 仁王門周辺 | 仁王門の西にある。創建不詳。1652年(承応1年)本覚院晃海が社殿造営。本覚院が管理。神仏分離で廃絶された後、1873年(明治6年)に社殿建立。1928年(昭和3年)に別個に本覚院内にも再建された。穴稲荷、忍岡稲荷。(『下谷と上野』の著者は花園稲荷神社は忍岡稲荷の後身ではないと主張している) | ||
五条天神社 | 仁王門周辺 | 元は摺鉢山にあった。中世からあったことは古文献に記録されている。江戸時代に門前町に遷座し、1928年(昭和3年)9月花園稲荷神社の隣接地に遷座。 | ||
弁財天堂 | 西側 | 現在の文晁碑のあたり。廃絶か。 | ||
児稲荷神社 | 西側 | 現在の文晁碑のあたり。廃絶か。 | ||
勧学寮 | 西側 | 了翁建立。1680年(延宝8年)厳有院廟の造営のために移転。1682年(天和2年)、移転。1684年(貞享1年)講堂を建立。講堂(勧学講院と号す)には釈迦如来、のち観音を祀る。1692年(元禄5年)、万福寺5世高泉性〓撰の了翁顕彰碑を建立。1703年(元禄16年)焼失。まもなく再建。勧学寮経蔵は1670年(寛文10年)了翁が不忍池の弁財天の隣に島を築き建立。1684年(貞享1年)勧学寮内に移転。長崎興福寺の黙子如定が径山寺より請来した三聖人の銅像を祀った(江戸名所図会)。寮舎、了翁像、稲荷があった。1914年(大正3年)まで天台宗僧侶の寮舎となっていた。所化寮、百軒長屋とも呼ばれた。 | ||
不忍池弁天堂 | 不忍池 | 本尊は弁財天で脇士は多聞天と大黒天でともに円仁作という。厳密には寛永寺境外だった。下館城主水谷勝隆(備中松山藩主)が不忍池に中之島を築き、竹生島の近江・宝厳寺の弁才天を勧請。寛文年間、石橋を建設。「弁才天島」と呼ばれた。 | ||
護摩堂 | 不忍池 | 現在の大黒堂に当たるか。 | ||
聖天宮 | 不忍池 | 最初に弁財天が祀られた場所。その頃から聖天があり、地主神として祀る。(江戸名所図会) | ||
経蔵 | 不忍池 | 勧学寮に移転。 |