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敢国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月13日 (土)
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*日野西光善(1849-1923)<?-1883>:子爵[[日野西家]]当主。1877年(明治10年)10月24日、敢国神社宮司。1883年(明治16年)2月20日に[[豊国神社]]宮司に就任。のち平安神宮宮司。(略歴は[[平安神宮#組織]]を参照) | *日野西光善(1849-1923)<?-1883>:子爵[[日野西家]]当主。1877年(明治10年)10月24日、敢国神社宮司。1883年(明治16年)2月20日に[[豊国神社]]宮司に就任。のち平安神宮宮司。(略歴は[[平安神宮#組織]]を参照) | ||
*萩原員光(1821-1902)<1883-?>:豊国神社宮司から1883年(明治16年)2月20日就任。 | *萩原員光(1821-1902)<1883-?>:豊国神社宮司から1883年(明治16年)2月20日就任。 | ||
- | *西洞院信愛(1846-1904)<> | + | *西洞院信愛(1846-1904)<>:(略歴は[[賀茂御祖神社#組織]]を参照) |
*海老沼唯(1883-1946)<1913-1919>:愛媛県神社庁長。京都出身。1883年(明治16年)生。1908年(明治41年)国学院大学卒。1913年(大正2年)10月8日、敢国神社宮司。1919年(大正8年)2月24日退任。同年3月20日[[伏見稲荷大社]]主典。1922年(大正11年)7月26日休職。1923年(大正12年)7月17日、神宮神部署主事補。11月26日退任。1925年(大正14年)4月17日諏訪神社禰宜。1929年(昭和4年)3月5日[[丹生川上神社]]宮司。1933年(昭和8年)5月22日、[[照国神社]]宮司。1940年(昭和15年)3月11日退任。戦後、愛媛県神社庁長。1946年(昭和21年)7月31日死去。 | *海老沼唯(1883-1946)<1913-1919>:愛媛県神社庁長。京都出身。1883年(明治16年)生。1908年(明治41年)国学院大学卒。1913年(大正2年)10月8日、敢国神社宮司。1919年(大正8年)2月24日退任。同年3月20日[[伏見稲荷大社]]主典。1922年(大正11年)7月26日休職。1923年(大正12年)7月17日、神宮神部署主事補。11月26日退任。1925年(大正14年)4月17日諏訪神社禰宜。1929年(昭和4年)3月5日[[丹生川上神社]]宮司。1933年(昭和8年)5月22日、[[照国神社]]宮司。1940年(昭和15年)3月11日退任。戦後、愛媛県神社庁長。1946年(昭和21年)7月31日死去。 | ||
*生田長浩(1878-1943)<1919-1923>:1919年(大正8年)2月24日、敢国神社宮司。正七位。1923年(大正12年)1月18日、[[生田神社]]宮司。(略歴は[[宇佐神宮#組織]]を参照) | *生田長浩(1878-1943)<1919-1923>:1919年(大正8年)2月24日、敢国神社宮司。正七位。1923年(大正12年)1月18日、[[生田神社]]宮司。(略歴は[[宇佐神宮#組織]]を参照) | ||
+ | *富岡要太郎(?-1956)<1923->:神宮皇学館卒。[[湊川神社]]に奉職。[[菅生石部神社]]宮司を経て1923年(大正12年)1月18日、敢国神社宮司。1930年(昭和5年)12月26日、[[出雲大社]]権宮司。[[弥彦神社]]宮司。1946年(昭和21年)9月17日、[[大鳥神社]]宮司。1956年(昭和31年)2月25日死去。73歳。 | ||
*桜井稲麿(1884-1937)<>:埼玉県小川町出身。1884年(明治17年)生。1900年(明治33年)国学院卒。1911年(明治44年)小川神社社掌。1912年(大正1年)から[[全国神職会]]会報の編集を担当する。1913年(大正2年)、大日本神祇会を設立。神職講習録を発行。1917年(大正6年)日本大学宗教科入学。1918年(大正7年)神宮神部署主事。[[神宮神部署]]群馬支署長。昭和初期、『大衆神道』を発行。東照宮禰宜を経て敢国神社宮司。[[水無神社]]宮司。[[飛騨総社]]社司。1937年(昭和12年)死去。桜井東花とも。 | *桜井稲麿(1884-1937)<>:埼玉県小川町出身。1884年(明治17年)生。1900年(明治33年)国学院卒。1911年(明治44年)小川神社社掌。1912年(大正1年)から[[全国神職会]]会報の編集を担当する。1913年(大正2年)、大日本神祇会を設立。神職講習録を発行。1917年(大正6年)日本大学宗教科入学。1918年(大正7年)神宮神部署主事。[[神宮神部署]]群馬支署長。昭和初期、『大衆神道』を発行。東照宮禰宜を経て敢国神社宮司。[[水無神社]]宮司。[[飛騨総社]]社司。1937年(昭和12年)死去。桜井東花とも。 | ||
*三輪磐根(1898-)<>:[[諏訪大社]]宮司。 | *三輪磐根(1898-)<>:[[諏訪大社]]宮司。 |
2023年5月13日 (土) 時点における最新版
敢国神社(あえくに・じんじゃ)は三重県伊賀市一之宮(伊賀国阿拝郡)にある神社。祭神は大彦命。少彦名命と金山比咩命を配祀する。 この地を開拓した古代の阿閇氏の祖神とするのが定説だが、中世には諏訪信仰や南宮信仰の神社でもあった。官社。名神大社。伊賀国一宮。国幣中社。別表神社。伊賀国総社という説もある。別当は神光院だった。 南宮社、敢国津大社、敢国角大明神とも呼ばれた。
目次 |
奉斎
- 大彦命:
- 少彦名命:左(向かって右)
- 金山比咩命:右(向かって左)
近代には総称して「敢国津神」とされている。これは『文徳実録』850年(嘉祥3年)6月4日に登場する神名(神社名)。 1687年(貞享4年)の『伊水温故』は祭神3座とする。「少彦名命」と「南宮金山日売」を主祭神とし、少彦名命の御神体は「仙人ノ影像」、南宮金山日売はとぐろを巻いた「蛇形」というまた相殿として「甲賀三郎」を祀り、十一面観音の坐像を祀っていたという。1763年(宝暦13年)『三国地志』では「少彦名命」「金山比咩命」を祭神とし、甲賀三郎を摂社祭神とする。『和漢三才図会』には「金山彦神」の1神のみ記す。 大彦命説の初見は1713年(正徳3年)の度会延経『神名帳考証』で、伊賀国の阿拝郡を根拠とした阿閇氏の祖神とされる。ただ中世には諏訪信仰の影響下にあり、諏訪神(諏訪南宮法性上下大明神)であったり、諏訪神と関係の深い南宮菩薩(南宮大社祭神)や甲賀三郎であったりされた。1568年(永禄11年)吉田兼右は中世に諏訪神が祀られるまでは大岩明神が「根本」だったと記す(兼右卿記)。大岩明神は近くの磐座に祀られていた神で、現在は境内の大石社として残る。
歴史
現在の神社由緒では658年(斉明4年)の創建とされる。 768年(神護景雲2年)、近江国甲賀郡の峰寺(不詳)に「諏訪春日姫」が降臨し、敢国神社の背後の南宮山に遷り、后神となったという。
850年(嘉祥3年)6月4日の時点で従五位下とある(文徳実録)。 867年(貞観9年)10月5日、従五位上(三代実録)。873年(貞観15年)9月27日、正五位下(三代実録)。891年(寛平3年)4月28日、正五位上(日本紀略)。 1341年(興国2年/暦応4年)、南朝が正一位を授けたという伝もある(南朝編年記略)。
1579年(天正7年)と1581年(天正9年)の「伊賀の乱」で伊賀地侍と織田信長軍が激突し、兵火に焼かれた。この時、信長が南宮山の頂上に登っている。 1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が討たれると、伊賀地侍が蜂起した。 戦乱で社殿は焼失し、「神体」が流亡した。
復興の端緒を手掛けたのが小天狗清蔵という修験者だった。1593年(文禄2年)6月8日に社殿の上棟を行っている。
1608年(慶長13年)に伊賀上野藩主に藤堂高虎が入封すると敢国神社を崇敬。改めて社殿を造営し、1609年(慶長14年)12月に本殿を上棟している。まもなく竣工したのだろう。1612年(慶長17年)、黒印地107石を寄進された。
天正の戦乱で流亡した「神体」の1体は山城国伏見に流出したという。これを伊賀国島ケ原の水口佐右衛門という人物が取り戻し、神社への還座が実現。1620年(元和6年)1月の礼状が現存している。『伊水温故』ではこの時取り戻した御神体を「甲賀三郎の像」とする。
1871年(明治4年)国幣中社。
境内
- 本社:
- 若宮八幡社:
- 子授社:
- 神明社:
- 楠社:南木神社の分社。
- 結社:
- 大石社:磐座から遷座。
- 市杵島姫社:
- 六所社:甲賀兼家の霊像も祀るという。
- 九所社:
- 桃太郎岩:
- 護摩堂:藩主藤堂高次が1636年(寛永13年)6月建立。南宮山神光院と称し、敢国神社の別当寺となった。1665年(寛文5年)1月には将軍のための祈祷を行った記録もある。廃絶。
- 御旅所:三重県伊賀市千歳野添。廃絶か。
- 府中神社:三重県伊賀市佐那具町。1907年(明治40年)周辺の神社を合祀。敢国神社の御旅所だった「花園離宮」も合併した。上記の御旅所との関係は不詳。
- 浅間社:南宮山の山頂にある。
- 磐座:神社の南200mの大岩古墳と道を隔てる場所にあった。「黒岩」と呼ばれていた。現存せず。大石社として遷座。
- 南宮山:標高350m。金山比咩命の旧社地。現在は浅間社がある。
- 大彦命墓:三重県伊賀市佐那具町。全長180m。三重県内最大の古墳。前方後円墳。北1kmにある。治定外。御墓山古墳。治定実現運動が大正年間に行われた。
組織
社家としては東家、南家、中西家があった。
宮司
- 田中尚房(1839-1891)<1873-1874>:北野天満宮宮司。
- 山本金木(1826-1906)<1875-1877>:井伊谷宮宮司。(略歴は井伊谷宮#組織を参照)
- 日野西光善(1849-1923)<?-1883>:子爵日野西家当主。1877年(明治10年)10月24日、敢国神社宮司。1883年(明治16年)2月20日に豊国神社宮司に就任。のち平安神宮宮司。(略歴は平安神宮#組織を参照)
- 萩原員光(1821-1902)<1883-?>:豊国神社宮司から1883年(明治16年)2月20日就任。
- 西洞院信愛(1846-1904)<>:(略歴は賀茂御祖神社#組織を参照)
- 海老沼唯(1883-1946)<1913-1919>:愛媛県神社庁長。京都出身。1883年(明治16年)生。1908年(明治41年)国学院大学卒。1913年(大正2年)10月8日、敢国神社宮司。1919年(大正8年)2月24日退任。同年3月20日伏見稲荷大社主典。1922年(大正11年)7月26日休職。1923年(大正12年)7月17日、神宮神部署主事補。11月26日退任。1925年(大正14年)4月17日諏訪神社禰宜。1929年(昭和4年)3月5日丹生川上神社宮司。1933年(昭和8年)5月22日、照国神社宮司。1940年(昭和15年)3月11日退任。戦後、愛媛県神社庁長。1946年(昭和21年)7月31日死去。
- 生田長浩(1878-1943)<1919-1923>:1919年(大正8年)2月24日、敢国神社宮司。正七位。1923年(大正12年)1月18日、生田神社宮司。(略歴は宇佐神宮#組織を参照)
- 富岡要太郎(?-1956)<1923->:神宮皇学館卒。湊川神社に奉職。菅生石部神社宮司を経て1923年(大正12年)1月18日、敢国神社宮司。1930年(昭和5年)12月26日、出雲大社権宮司。弥彦神社宮司。1946年(昭和21年)9月17日、大鳥神社宮司。1956年(昭和31年)2月25日死去。73歳。
- 桜井稲麿(1884-1937)<>:埼玉県小川町出身。1884年(明治17年)生。1900年(明治33年)国学院卒。1911年(明治44年)小川神社社掌。1912年(大正1年)から全国神職会会報の編集を担当する。1913年(大正2年)、大日本神祇会を設立。神職講習録を発行。1917年(大正6年)日本大学宗教科入学。1918年(大正7年)神宮神部署主事。神宮神部署群馬支署長。昭和初期、『大衆神道』を発行。東照宮禰宜を経て敢国神社宮司。水無神社宮司。飛騨総社社司。1937年(昭和12年)死去。桜井東花とも。
- 三輪磐根(1898-)<>:諏訪大社宮司。
- 太郎館季幹()<>:
- 太郎館学()<>:
権宮司
- 山本金木()<>:のち宮司
- 藤堂元施(1836-1877):津藩家老。
- 田中知邦(1845-1918)<>:(略歴は日吉大社#組織を参照)