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別格官幣社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''別格官幣社'''(べっかく・かんぺいしゃ)は、[[近代社格制度]]の中で、当時の政府に国家の功績者として顕彰された人物を祀る神社に与えられた社格。日光東照宮、湊川神社、靖国神社など28社が列格されていた。実質的な官社の社格([[神宮]]、官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社、[[指定護国神社]])のうち、8番目(神宮を除けば7番目)だった。国家の制度としては戦後廃止されたが、[[皇室祭祀]]として奉幣は現在も行われている。官社の一覧は[[官国幣社]]を参照。
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原則として一人物につき1社しか定められないが、[[徳川家康]]([[日光東照宮]]と[[久能山東照宮]])、[[北畠親房]]と[[北畠顕家|顕家]]の親子([[阿部野神社]]と[[霊山神社]])の3人は2社が認められていた。また[[北畠家]]は、一族内で霊山神社、阿部野神社、[[北畠神社]]の3社の列格が認められていた唯一の氏族である。
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昭和20年の終戦時に列格が内定していたと噂される神社があるが調査中。
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==分類==
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顕彰された人物から分類すると古代忠臣、南朝忠臣、戦国武将、天下人、明治維新功績者の5系統に分けられると考えられる。
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#古代の忠臣4人3社
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#中世の南朝忠臣14人10社
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#中世の戦国武将3社
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#近世の天下人4社
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#近代の明治維新功績者8社
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===古代忠臣===
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古代(奈良時代~平安時代)の朝廷において皇統護持に貢献したとされる忠臣4人を祀る3社がある。
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*[[天皇]]を軽視して政権を専横した[[蘇我氏]]を排除し、中大兄皇子(のちの[[天智天皇]])による大化の改新を補佐した[[藤原鎌足]](614~669)を祀る[[談山神社]]
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*宇佐八幡神託事件で法王を名乗って皇位を簒奪しようとしたとされる[[道鏡]]の陰謀を阻止し、配流の処分を受けた[[和気清麻呂]](733~799)とその姉で事件に連座した[[和気広虫|広虫]](730~799)を祀る[[護王神社]]
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*新皇を名乗って反乱を起こし皇位を簒奪しようとしたとされる[[平将門]]を討伐した[[藤原秀郷]](生没年不詳)を祀る[[唐沢山神社]]がある。
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===南朝忠臣===
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[[後醍醐天皇]]の[[鎌倉幕府]]倒幕から南北朝分裂後に至るまで[[南朝]]に仕えた忠臣14人を祀る10社がある。なお下記のほか、南朝側の天皇皇族を祀る5社がある。
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*後醍醐帝に呼応して戦い多くの武勲を挙げ、倒幕の機運を高め、建武政権樹立の功績者となったが、[[足利尊氏]]に摂津湊川で敗れた[[楠木正成]](1294~1336)を祀る[[湊川神社]]。その長男で父の死後、[[後村上天皇]]の信任を受け南朝軍の将として戦ったが、河内四條畷で高師直に敗れた[[楠木正行|正行]](1326―1348)を祀る[[四条畷神社]]がある。
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*南朝政権の中枢を担った[[北畠家]]では、[[北畠親房]]とその長男[[北畠顕家|顕家]]、次男[[北畠顕信|顕信]]、三男[[北畠顕能|顕能]]、そして顕信の子[[北畠守親|守親]]が顕彰の対象となり、[[霊山神社]]、[[阿部野神社]]、[[北畠神社]]の3社が建てられた。上述の通り、一族で3社建てられたことは他に見られず、親房と顕家の2人は2社に祀られたのも別格官幣社では徳川家康のほかは見られない特例であり、北畠一族が当時の政府に非常に重要視されたことが分かる。'''親房'''(1293―1354)は後醍醐帝側近の公家で、陸奥[[霊山城]]?、伊勢、大和、常陸などで奮戦し、[[伊勢神道]]を学び思想的指導者ともなり、戦跡の'''霊山神社'''と息子ゆかりの'''阿部野神社'''に祀られた。'''顕家'''(1318~1338)は、'''義良親王'''(のちの後村上天皇)を奉じて東北地方の抑えとして'''陸奥霊山城'''に赴き、のち'''鎮守府将軍'''として各地を転戦したが、和泉石津で敗れ、[[北畠顕家墓|墓所]]近辺の'''阿部野神社'''と戦跡の'''霊山神社'''に祀られた。親房と顕家とともに霊山神社に祀られた'''顕信'''と'''守親'''の親子(ともに生没年不詳)は、[[宇津峰宮]]を奉じて親房と顕家が去った東北戦線で奮戦した。親房の三男'''顕能'''(生没年不詳)は伊勢国一志郡多家に長く南朝の拠点となる'''霧山城'''を築き、伊勢国司として'''伊勢北畠家'''の祖となり、霧山城の麓の館跡の[[北畠神社]]に祀られた。
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*後醍醐帝側近の公家で倒幕計画に参加し、尊氏離反後、後醍醐帝の京都脱出に関わって北朝によって流罪となった[[花山院師賢]](かざんいん・もろかた)(1301~1332)を祀る[[小御門神社]]
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*隠岐を脱出した後醍醐帝を伯耆で迎えて協力し、財力で建武政権を支えたが、京都で尊氏に敗れた[[名和長年]](?-1336)を祀る[[名和神社]]
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*[[護良親王]]の倒幕の令旨を受け、筑前博多で鎌倉幕府鎮西探題を襲撃し、戦死した[[菊池武時]](1292?-1333)、その長男で父死後の九州南朝勢力を支えて各地を転戦した[[菊池武重|武重]](生没年不詳)、その弟で、[[懐良親王]]を肥後菊池の[[征西府]]に迎え、[[大宰府]]の一時占領まで果たした[[菊池武光|武光]](?―1373)の親子3人を祀る[[菊池神社]]
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*後醍醐帝に応じて鎌倉を攻めて幕府を滅ぼし、[[恒良親王]]・[[尊良親王]]を奉じて越前[[金崎城]]を拠点としたが、越前藤島で戦死した[[新田義貞]](1301~1338)を祀る[[藤島神社]]
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*新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼし、離反した尊氏を京都から追い落とし、東北戦線で奮戦した[[結城宗広]](?-1338)を祀る[[結城神社]]

2015年2月27日 (金) 時点における版

別格官幣社(べっかく・かんぺいしゃ)は、近代社格制度の中で、当時の政府に国家の功績者として顕彰された人物を祀る神社に与えられた社格。日光東照宮、湊川神社、靖国神社など28社が列格されていた。実質的な官社の社格(神宮、官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社、指定護国神社)のうち、8番目(神宮を除けば7番目)だった。国家の制度としては戦後廃止されたが、皇室祭祀として奉幣は現在も行われている。官社の一覧は官国幣社を参照。


原則として一人物につき1社しか定められないが、徳川家康日光東照宮久能山東照宮)、北畠親房顕家の親子(阿部野神社霊山神社)の3人は2社が認められていた。また北畠家は、一族内で霊山神社、阿部野神社、北畠神社の3社の列格が認められていた唯一の氏族である。

昭和20年の終戦時に列格が内定していたと噂される神社があるが調査中。

分類

顕彰された人物から分類すると古代忠臣、南朝忠臣、戦国武将、天下人、明治維新功績者の5系統に分けられると考えられる。

  1. 古代の忠臣4人3社
  2. 中世の南朝忠臣14人10社
  3. 中世の戦国武将3社
  4. 近世の天下人4社
  5. 近代の明治維新功績者8社

古代忠臣

古代(奈良時代~平安時代)の朝廷において皇統護持に貢献したとされる忠臣4人を祀る3社がある。

  • 天皇を軽視して政権を専横した蘇我氏を排除し、中大兄皇子(のちの天智天皇)による大化の改新を補佐した藤原鎌足(614~669)を祀る談山神社
  • 宇佐八幡神託事件で法王を名乗って皇位を簒奪しようとしたとされる道鏡の陰謀を阻止し、配流の処分を受けた和気清麻呂(733~799)とその姉で事件に連座した広虫(730~799)を祀る護王神社
  • 新皇を名乗って反乱を起こし皇位を簒奪しようとしたとされる平将門を討伐した藤原秀郷(生没年不詳)を祀る唐沢山神社がある。

南朝忠臣

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕から南北朝分裂後に至るまで南朝に仕えた忠臣14人を祀る10社がある。なお下記のほか、南朝側の天皇皇族を祀る5社がある。

  • 後醍醐帝に呼応して戦い多くの武勲を挙げ、倒幕の機運を高め、建武政権樹立の功績者となったが、足利尊氏に摂津湊川で敗れた楠木正成(1294~1336)を祀る湊川神社。その長男で父の死後、後村上天皇の信任を受け南朝軍の将として戦ったが、河内四條畷で高師直に敗れた正行(1326―1348)を祀る四条畷神社がある。
  • 南朝政権の中枢を担った北畠家では、北畠親房とその長男顕家、次男顕信、三男顕能、そして顕信の子守親が顕彰の対象となり、霊山神社阿部野神社北畠神社の3社が建てられた。上述の通り、一族で3社建てられたことは他に見られず、親房と顕家の2人は2社に祀られたのも別格官幣社では徳川家康のほかは見られない特例であり、北畠一族が当時の政府に非常に重要視されたことが分かる。親房(1293―1354)は後醍醐帝側近の公家で、陸奥霊山城?、伊勢、大和、常陸などで奮戦し、伊勢神道を学び思想的指導者ともなり、戦跡の霊山神社と息子ゆかりの阿部野神社に祀られた。顕家(1318~1338)は、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて東北地方の抑えとして陸奥霊山城に赴き、のち鎮守府将軍として各地を転戦したが、和泉石津で敗れ、墓所近辺の阿部野神社と戦跡の霊山神社に祀られた。親房と顕家とともに霊山神社に祀られた顕信守親の親子(ともに生没年不詳)は、宇津峰宮を奉じて親房と顕家が去った東北戦線で奮戦した。親房の三男顕能(生没年不詳)は伊勢国一志郡多家に長く南朝の拠点となる霧山城を築き、伊勢国司として伊勢北畠家の祖となり、霧山城の麓の館跡の北畠神社に祀られた。
  • 後醍醐帝側近の公家で倒幕計画に参加し、尊氏離反後、後醍醐帝の京都脱出に関わって北朝によって流罪となった花山院師賢(かざんいん・もろかた)(1301~1332)を祀る小御門神社
  • 隠岐を脱出した後醍醐帝を伯耆で迎えて協力し、財力で建武政権を支えたが、京都で尊氏に敗れた名和長年(?-1336)を祀る名和神社
  • 護良親王の倒幕の令旨を受け、筑前博多で鎌倉幕府鎮西探題を襲撃し、戦死した菊池武時(1292?-1333)、その長男で父死後の九州南朝勢力を支えて各地を転戦した武重(生没年不詳)、その弟で、懐良親王を肥後菊池の征西府に迎え、大宰府の一時占領まで果たした武光(?―1373)の親子3人を祀る菊池神社
  • 後醍醐帝に応じて鎌倉を攻めて幕府を滅ぼし、恒良親王尊良親王を奉じて越前金崎城を拠点としたが、越前藤島で戦死した新田義貞(1301~1338)を祀る藤島神社
  • 新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼし、離反した尊氏を京都から追い落とし、東北戦線で奮戦した結城宗広(?-1338)を祀る結城神社
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%88%A5%E6%A0%BC%E5%AE%98%E5%B9%A3%E7%A4%BE」より作成

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