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橿原神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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Kasihara.JPG
橿原神宮
かしはら じんぐう
概要 神武天皇宮跡に鎮座する神社。
奉斎 神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛皇后
(土岐昌訓論文)
所在地 奈良県橿原市久米町934
所在地(旧国郡)
所属(現在) 神社本庁
格式など 官幣大社別表神社勅祭社
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目次

概要

橿原神宮(かしはら・じんぐう)は、奈良県橿原市の橿原宮跡にある神武天皇を祀る神社。神武天皇陵も隣接。官幣大社別表神社勅祭社畝傍山の麓にある。

歴史

京都御所旧賢所とその前に建つ特異な形状の幣殿
創建初期の社殿配置
現在と異なり昭和造営前は直線の参道が拝殿まで続いていた。
昭和造営後の社殿配置

江戸時代、元禄年間にはこの地に神武天皇の神廟を建てようとする動きがあったという。

1873年(明治6年)3月7日、紀元節を制定。 1877年(明治10年)に明治天皇が神武天皇陵に行幸。 西内成郷らの長年の訴えにより、宮内省および勅使の実検を経て 1888年(明治21年)、橿原宮の跡地の所在が治定された。そして御料地として買い上げとなった。さらに西内成郷らは奉斎神社の創建を訴え1889年(明治22年)5月に請願。まもなく許可を受け7月23日、京都御所の旧内侍所と神嘉殿を下賜され、それぞれ本殿と拝殿とした。1890年(明治23年)3月1日竣工。 同月20日、祭神と社名と社格が決定(3月24日内務省告示第10号)。

3月29日、勅使子爵石山基正が御霊代を奉じて奈良県に到着。県境の木津駅で奉迎し、旅館に奉安。31日、旅館を出発して今井町の斎館に到着。 2日橿原神宮に到着し奉納告式


そして神武天皇祭(崩御日)前日の同年4月2日に鎮座した。鎮座祭には勅使子爵石山基正が参向した。

同年11月19日、明治天皇は2月11日を橿原神宮の例祭日に治定したと宮内省から内務省へ通達。通常、例祭日は神宮暦などに記載されるが、橿原神宮例祭のみは明治天皇の治定により不掲載とされた。

1894年(明治27年)11月、宮司山根温知が例祭を鎮座記念日の4月2日に変更するように請願したが、1895年(明治28年)5月6日、明治天皇の沙汰で据え置かれた。

1915年(大正4年)4月1日、台湾阿里山の檜で大鳥居を建立した。 1916年(大正5年)神武天皇2500年式年大祭。大正天皇参拝。 1917年(大正6年)2月1日、橿原神宮が勅祭社となる。同月11日の例祭から勅使が派遣されるようになる。初回の御祭文が明らかにされている[1]

1920年(大正9年)10月7日、勅令第471号で明治神宮と同時に権宮司が設置された。戦前の制度で権宮司の職がある神社は勅祭社の一部のみである。

1911年(明治44年)頃から第一次境内整備計画が進められ、宮司の交代が重なり、一挙には進まなかったようだが、1926年(昭和1年)3月に竣工した。

つづいて第二次境内整備計画が検討されたが、関東大震災の影響などを鑑みて土地買収を進め他日を期した。1935年(昭和10年)国費による整備が決定。さらに1937年(昭和12年)12月9日、紀元二千六百年奉祝会から整備事業案が提案され、進めることになった。奈良県でも紀元二千六百年奈良県奉祝会が組織された。 1939年(昭和14年)11月11日に遷座。12日奉幣祭が行われた。

各地で橿原神宮遙拝所が建てられた。

1937年(昭和12年)2月3日、氷川神社以下勅祭社7社の例祭祭式と祝詞を定められた(内務省令第4号)。 1940年(昭和15年)の紀元2600年記念で1938年(昭和13年)から大規模な境内整備が行われた。

1993年(平成5年)2月4日、神楽殿(旧京都御所神嘉殿)を失火で焼失。

境内

畝傍山周辺(国土地理院空中写真より)
  • 本殿:旧京都御所内侍所。建坪38坪。1855年(安政2年)造営。
  • 幣殿:
  • 内拝殿:
  • 外拝殿:
  • 第一鳥居:
  • 第二鳥居:
  • 北参道鳥居:
  • 西参道鳥居:
  • 神楽殿:京都御所神嘉殿の復元建物。下賜された神嘉殿が当初拝殿として用いられたが、のちの社殿造営で神楽殿となった。失火で焼失。のち復元再建。建坪80坪。
  • 東大谷日女命神社:姫蹈鞴五十鈴姫命
  • 長山稲荷社:宇迦能御魂神・豊宇気神・大宮能売神


  • 祝詞舎
  • 神饌所
  • 宝庫
  • 祭器庫
  • 勅使館
  • 斎館
  • 宮庁
  • 神苑
  • 畝傍山
  • 神武天皇陵
  • 綏靖天皇陵
  • 懿徳天皇陵
  • 安寧天皇陵
  • 奈良県神社庁

組織

宮司

  • 風早公紀(1841-1905)<1890-1894>:公卿。(略歴は、氷川神社#組織を参照)
  • 山根温知()<>:
  • 西内成郷(1855-1911)<1902->:1883年(明治16年)、孝元天皇陵の陵掌となり、県内各地の天皇陵の陵掌を歴任。1887年(明治20年)、県会議員。橿原宮跡の顕彰を唱え、橿原神宮の創建に尽力。1902年(明治35年)2月3日、橿原神宮宮司。1911年(明治44年)4月2日死去。57歳。
  • 桑原芳樹(1861-1943)<1911-1917>:1912年(大正1年)5月まで大神神社宮司兼務。1917年(大正6年)12月転任。(略歴は、熱田神宮#組織を参照)
  • 吉田豊(1871-1922)<1917-1918>:福岡県出身の神職。(略歴は、大和神社#組織を参照)
  • 菟田茂丸(1872-1968)<1918-1931>:福岡県出身。1900年(明治33年)国学院大学卒業。1905年(明治38年)氷川神社禰宜。1907年(明治40年)寒川神社宮司。1911年(明治44年)沼名前神社宮司。1918年(大正7年)橿原神宮宮司。1931年(昭和6年)伊勢神宮少宮司。1937年(昭和12年)橿原神宮宮司に再任。1942年(昭和17年)退任。1968年(昭和43年)2月19日死去。(神道人名辞典)
  • 高松四郎(1875-1955)<1931-1934>:(略歴は、朝鮮神宮#組織を参照)
  • 長谷外余男(1890-1973)<1934-1936>:(略歴は、熱田神宮#組織を参照)
  • 副島知一(1874-1959)<1936-1937>:佐賀県出身。1900年(明治33年)国学院卒。翌年、日本中学校教員。1906年(明治39年)、皇典講究所講師。1913年(大正2年)広島県神職管理所講師。1914年(大正3年)熱田神宮権宮司。1917年(大正6年)鶴岡八幡宮宮司。1924年(大正13年)住吉大社宮司。1933年(昭和8年)皇典講究所専務理事。1936年(昭和11年)橿原神宮宮司。1937年(昭和12年)石清水八幡宮宮司。戦後、初代京都府神社庁長。1956年(昭和31年)退任。1959年(昭和34年)6月11日死去。(神道人名辞典)
  • 菟田茂丸(1872-1968)<1937-1942>:再任。
  • 高階研一(1885-1967)<1942->:神社本庁第3代事務総長(略歴は神社本庁#組織を参照)
  • 長尾薫(1904-1982)<1971->:1971年(昭和46年)橿原神宮宮司。
  • 広瀬和俊(1931-)<-2000>:埼玉県出身。1955年(昭和30年)国学院大学宗教学科卒。1959年(昭和34年)伊勢神宮宮掌。同年、三峰神社権宮司。のち三峰神社宮司。橿原神宮宮司。(神道人名辞典)
  • 伊勢美登(1924-2009)<2000->:奈良県出身。1943年(昭和18年)運輸省水路部技術官養成所修了。海軍気象部に勤務。1952年(昭和27年)奈良県神社庁録事。1954年(昭和29年)橿原神宮出仕。のち宮司。奈良県神社庁長。(神道人名辞典)
  • 飛鳥井雅慶()<-2010->:掌典職。
  • 栃尾泰治郎(1941-)<2012-2014>:兵庫県出身。1965年(昭和40年)国学院大学神道学専攻科卒業。同年神社本庁録事。1981年(昭和56年)、神社本庁庶務部長。湊川神社、橿原神宮の宮司を歴任。(神道人名辞典ほか)
  • 久保田昌孝()<2014->:

権宮司

  • 長尾薫()<>:1904年(明治37年)生。1942年(昭和17年)3月19日、橿原神宮権宮司。(「任免裁可書」[2]
  • 鷹森茂()<>:
  • 山田敬介()<>:
  • 松中久()<>:
  • 久保田昌孝()<>:

画像


参考文献

  • 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

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