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唐沢山神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月9日 (水)
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+ | '''唐沢山神社'''(からさわやま・じんじゃ)は、栃木県佐野市にある、[[平将門]]を討伐した鎮守府将軍'''[[藤原秀郷]]'''を祀る[[霊社]]。明治16年(1883)10月創建。明治23年(1890)11月、国家の英雄を祀る神社として[[別格官幣社]]に列格。居城'''唐沢山城'''本丸跡に鎮座する。[[神社本庁]]の[[別表神社]]。 | ||
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+ | *[[藤原秀郷]] | ||
+ | 「'''藤原秀郷'''」(明治23年内務省告示第41号、土岐昌訓論文)、「'''贈正二位藤原朝臣秀郷公'''」(大正11年『霊山唐沢山案内』)、「'''鎮守府将軍贈正二位藤原秀郷公'''」(昭和9、『唐沢山神社誌』)などと表記される。'''俵藤太'''、'''田原藤太'''とも呼ばれ、下野国の在庁官人だった。下野国安蘇郡の唐沢山に築城し拠点とした。天慶2年(939)、平将門が反乱を起こすと、平貞盛らと協力し、翌年、将門を攻めて討伐したとされる。'''従四位下'''を授けられ、鎮守府将軍に任じられたという。 | ||
+ | 一般に生没年不詳とされるが、下野では正暦2年(991)に没したと伝承されている。秀郷が開基となった東明寺に葬られた。'''東明寺殿'''と贈られたという。唐沢山の西2kmに位置する、東明寺跡伝承地には現在も[[藤原秀郷墓|墳墓]]があり、神社の飛地境内になっている。また群馬県伊勢崎市の曹洞宗'''宝珠寺'''にも墓所がある。 | ||
+ | 神社創建直前の明治16年8月6日には'''正三位'''が追贈され、大正7年には'''正二位'''が追贈された。 | ||
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==由緒== | ==由緒== | ||
- | + | '''唐沢山城'''は、佐野市街地、佐野城から北西4.3kmの唐沢山(247m)にある。藤原秀郷の嫡流とされる'''佐野家'''が拠点としたが、城は江戸時代に廃城となった。明治11年3月、佐野家を盛り立てるため、旧臣縁故者が沢英社を組織。ついで13年11月10日、43代当主の佐野郷(ごう)は、秀郷の霊廟を城跡に建設するために東明会を組織した。'''佐野常民'''の賛同を得て、明治14年3月17日、郷をはじめ地元住民らが神社創建願を栃木県に提出。すでに「唐沢山神社」の社名案が願書にみえる。8月には図面を添えて払い下げを願っている。 | |
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+ | 明治14年12月、唐沢山麓の官有林の払い下げと神社建設の許可が降りた。同年、天下谷政重を受持神官とする。翌年4月3日に地鎮祭を行ない、社殿を位置を定めた。16年9月に仮社殿が竣工し、10月25日、「鎮座仮式」を行った(『佐野の古蹟 唐沢山』に17年とあるが、他資料にいずれも16年とあるので誤植と思われる)。秀郷の「遠逝」の日である10月25日を例祭日とし、「建勲賜賽」の日である4月25日を春季祭とした。 | ||
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+ | 鎮座直前の明治16年8月6日には正三位贈位が決まり、30日には佐野郷に伝達された(『公文類聚』)。この贈位の審議の際、政府では合わせて唐沢山神社の別格官幣社列格についても議論されていたらしい(『公文類聚』)。 | ||
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==歴史== | ==歴史== | ||
+ | 創建は実現したものの仮社殿でまだ社格もなかった(?)。東明会は引き続き、活動を続けた。その結果、明治23年(1890)11月29日、内務省告示第41号で別格官幣社に列格された(『法令全書』)。翌年10月25日には、秀郷900年祭を執行。佐野常民、常羽の奔走が実り、明治39年9月15日、社殿改築を申請。10月25日仮殿遷座祭。41年10月15日本殿が竣工し、同月23日に正遷座祭が行われた。明治43年(1910)10月には一連の工事が完了したらしい。大正7年11月8日には秀郷に'''正二位'''贈位。それを記念して[[藤原秀郷墓|墓所]]を当社の飛地境内に編入した。11月21日には贈位を伝える策命使が墓所に参向した。大正7年の贈位は、天皇行幸のもと、栃木県で行われた陸軍特別大演習に合わせてのものらしい(「贈位内申書」)。 | ||
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+ | '''佐野常民'''は、当社の創建整備に尽力した。明治16年の贈位には前年12月に太政大臣[[三条実美]]宛に嘆願書を出しており、明治17年には官社列格の建議を行っていることが『公文録』で確認できる。大隈重信など各方面に働きかけるとともに、山士家左〓に『田原族譜』を編纂させ、野中準に『秀郷事実考』を考証させ、大森惟中に『秀郷勲功記』を作らせ、劇を上演させるなど藤原秀郷顕彰ムードの醸成を図った。別格官幣社列格が決まった当日には喜びの漢詩を綴っている。重信は、明治40年11月23日、自邸での講演で、相手が屈するまで自説を止めない故常民を回顧し、「決心を以って、前後ほとんど17、8年間の苦心経営して、ついに唐沢山神社を拵えた」とその信念を讃えている。 | ||
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==境内== | ==境内== | ||
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+ | *[[藤原秀郷墓]]:唐沢山から西2kmにある。当社飛地境内。東明寺跡にある無格社田原八幡宮の社地であったが、大正7年の正二位贈位に際して、同宮が近隣の天満宮に合祀合併されて墓地は唐沢山神社に寄贈された。 | ||
+ | *'''田原八幡宮''':藤原秀郷墓の傍らにあった、秀郷を祀る霊社。小祠は現存? | ||
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+ | 別格官幣社列格とともに宮司が設置された。 | ||
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+ | *6金子健治()<>: | ||
+ | *7山川鵜市()<?-1921>:1921年(大正10年)9月2日、[[鎌倉宮]]宮司。 | ||
+ | *8有賀忠義()<1921-?>:1921年(大正10年)9月2日、唐沢山神社宮司。 | ||
+ | *伊達巽(1894-1988)<1935-1937>:1935年(昭和10年)唐沢山神社宮司。1937年(昭和12年)津島神社宮司。([[明治神宮#組織]]を参照) | ||
+ | *薗田武男(1907-1997)<-1945>:唐沢山神社宮司を経て1945年(昭和20年)12月28日秩父神社宮司就任。([[秩父神社#組織]]を参照) | ||
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+ | *以下未確認 | ||
+ | 1-7代は『佐野の古蹟 唐沢山』 | ||
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==参考文献== | ==参考文献== | ||
+ | *江森泰吉、明治34年『佐野の古蹟 唐沢山』 | ||
+ | *『大日本神社志』 | ||
+ | *唐沢山神社ウェブサイト | ||
*土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』 | *土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』 | ||
+ | *『唐沢山神社誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033821] | ||
==脚注== | ==脚注== | ||
<references/> | <references/> |
2022年11月9日 (水) 時点における最新版
唐沢山神社 からさわやま じんじゃ | |
概要 | 古代の忠臣を奉斎する神社。 |
奉斎 | 藤原秀郷 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 栃木県佐野市富士町1409 |
所在地(旧国郡) | |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 別格官幣社・別表神社 |
関連記事 | 武将奉斎神社 |
目次 |
概要
唐沢山神社(からさわやま・じんじゃ)は、栃木県佐野市にある、平将門を討伐した鎮守府将軍藤原秀郷を祀る霊社。明治16年(1883)10月創建。明治23年(1890)11月、国家の英雄を祀る神社として別格官幣社に列格。居城唐沢山城本丸跡に鎮座する。神社本庁の別表神社。
奉斎
「藤原秀郷」(明治23年内務省告示第41号、土岐昌訓論文)、「贈正二位藤原朝臣秀郷公」(大正11年『霊山唐沢山案内』)、「鎮守府将軍贈正二位藤原秀郷公」(昭和9、『唐沢山神社誌』)などと表記される。俵藤太、田原藤太とも呼ばれ、下野国の在庁官人だった。下野国安蘇郡の唐沢山に築城し拠点とした。天慶2年(939)、平将門が反乱を起こすと、平貞盛らと協力し、翌年、将門を攻めて討伐したとされる。従四位下を授けられ、鎮守府将軍に任じられたという。 一般に生没年不詳とされるが、下野では正暦2年(991)に没したと伝承されている。秀郷が開基となった東明寺に葬られた。東明寺殿と贈られたという。唐沢山の西2kmに位置する、東明寺跡伝承地には現在も墳墓があり、神社の飛地境内になっている。また群馬県伊勢崎市の曹洞宗宝珠寺にも墓所がある。 神社創建直前の明治16年8月6日には正三位が追贈され、大正7年には正二位が追贈された。
由緒
唐沢山城は、佐野市街地、佐野城から北西4.3kmの唐沢山(247m)にある。藤原秀郷の嫡流とされる佐野家が拠点としたが、城は江戸時代に廃城となった。明治11年3月、佐野家を盛り立てるため、旧臣縁故者が沢英社を組織。ついで13年11月10日、43代当主の佐野郷(ごう)は、秀郷の霊廟を城跡に建設するために東明会を組織した。佐野常民の賛同を得て、明治14年3月17日、郷をはじめ地元住民らが神社創建願を栃木県に提出。すでに「唐沢山神社」の社名案が願書にみえる。8月には図面を添えて払い下げを願っている。
明治14年12月、唐沢山麓の官有林の払い下げと神社建設の許可が降りた。同年、天下谷政重を受持神官とする。翌年4月3日に地鎮祭を行ない、社殿を位置を定めた。16年9月に仮社殿が竣工し、10月25日、「鎮座仮式」を行った(『佐野の古蹟 唐沢山』に17年とあるが、他資料にいずれも16年とあるので誤植と思われる)。秀郷の「遠逝」の日である10月25日を例祭日とし、「建勲賜賽」の日である4月25日を春季祭とした。
鎮座直前の明治16年8月6日には正三位贈位が決まり、30日には佐野郷に伝達された(『公文類聚』)。この贈位の審議の際、政府では合わせて唐沢山神社の別格官幣社列格についても議論されていたらしい(『公文類聚』)。
歴史
創建は実現したものの仮社殿でまだ社格もなかった(?)。東明会は引き続き、活動を続けた。その結果、明治23年(1890)11月29日、内務省告示第41号で別格官幣社に列格された(『法令全書』)。翌年10月25日には、秀郷900年祭を執行。佐野常民、常羽の奔走が実り、明治39年9月15日、社殿改築を申請。10月25日仮殿遷座祭。41年10月15日本殿が竣工し、同月23日に正遷座祭が行われた。明治43年(1910)10月には一連の工事が完了したらしい。大正7年11月8日には秀郷に正二位贈位。それを記念して墓所を当社の飛地境内に編入した。11月21日には贈位を伝える策命使が墓所に参向した。大正7年の贈位は、天皇行幸のもと、栃木県で行われた陸軍特別大演習に合わせてのものらしい(「贈位内申書」)。
佐野常民は、当社の創建整備に尽力した。明治16年の贈位には前年12月に太政大臣三条実美宛に嘆願書を出しており、明治17年には官社列格の建議を行っていることが『公文録』で確認できる。大隈重信など各方面に働きかけるとともに、山士家左〓に『田原族譜』を編纂させ、野中準に『秀郷事実考』を考証させ、大森惟中に『秀郷勲功記』を作らせ、劇を上演させるなど藤原秀郷顕彰ムードの醸成を図った。別格官幣社列格が決まった当日には喜びの漢詩を綴っている。重信は、明治40年11月23日、自邸での講演で、相手が屈するまで自説を止めない故常民を回顧し、「決心を以って、前後ほとんど17、8年間の苦心経営して、ついに唐沢山神社を拵えた」とその信念を讃えている。
境内
- 避来矢
- 藤原秀郷墓:唐沢山から西2kmにある。当社飛地境内。東明寺跡にある無格社田原八幡宮の社地であったが、大正7年の正二位贈位に際して、同宮が近隣の天満宮に合祀合併されて墓地は唐沢山神社に寄贈された。
- 田原八幡宮:藤原秀郷墓の傍らにあった、秀郷を祀る霊社。小祠は現存?
組織
宮司
別格官幣社列格とともに宮司が設置された。
- 受持神官:天下谷政重
- 1佐野郷()<>:
- 2森口健吉()<>:
- 3戸田忠友(1847-1924)<>:旧宇都宮藩主。(略歴は宇都宮二荒山神社#組織を参照)
- 4阿久津真澄()<>:
- 5額賀大直(1877-1961)<1902-1904>:神社本庁長老。千葉県神社庁庁長。千葉県出身。額賀家は香取神宮の社家の一つ。1877年(明治10年)生。1902年(明治35年)神宮皇学館本科修了。同年、一時内務省属となるが同年8月15日、唐沢山神社宮司就任。1904年(明治37年)12月7日まで。以後、寒川神社、札幌神社、氷川神社、浅間大社、日光東照宮、八坂神社、住吉大社、朝鮮神宮、香取神宮の宮司を歴任。(略歴は香取神宮#組織を参照)
- 6金子健治()<>:
- 7山川鵜市()<?-1921>:1921年(大正10年)9月2日、鎌倉宮宮司。
- 8有賀忠義()<1921-?>:1921年(大正10年)9月2日、唐沢山神社宮司。
- 伊達巽(1894-1988)<1935-1937>:1935年(昭和10年)唐沢山神社宮司。1937年(昭和12年)津島神社宮司。(明治神宮#組織を参照)
- 薗田武男(1907-1997)<-1945>:唐沢山神社宮司を経て1945年(昭和20年)12月28日秩父神社宮司就任。(秩父神社#組織を参照)
- 以下未確認
1-7代は『佐野の古蹟 唐沢山』
画像
参考文献
- 江森泰吉、明治34年『佐野の古蹟 唐沢山』
- 『大日本神社志』
- 唐沢山神社ウェブサイト
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
- 『唐沢山神社誌』[1]