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生国魂神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
生国魂神社 いくくにたま じんじゃ | |
通称「生国魂造」の複雑な屋根を持つ本殿 | |
概要 | 日本の国土の神霊を祀る神社。 |
奉斎 | 生島神、足島神 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9 |
所在地(旧国郡) | 摂津国東成郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 式内社・名神大社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社 |
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左下が本社 |
目次 |
概要
生国魂神社(いくくにたま・じんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区にある、日本の国土の神霊を祀る国魂信仰の神社。八十島祭関連旧跡。本町橋に行宮が、大阪城に元宮跡(御旅所跡)がある。神宮寺として法案寺とその塔頭の生玉十坊があった。中世には接して石山本願寺が建てられた。
奉斎
- 生島大神
- 足島大神
- 相殿:大物主大神[1]
生島神、足島神は、日本の国土の神霊とされる[2]。『古語拾遺』に「生島。是、大八州の霊なり。今生島の巫の斎ひ奉れるなり。」(岩波文庫版 35P) とある。この神は古代、天皇即位の翌年に実施されていた八十島祭の主祭神であり、宮中の神殿にも祀られていた王権に関わる重要な神である。八十島祭は難波津の島々を日本列島と見做して、国土の神霊を祀り、国土の生成発展と治世の安泰を願う、一世一代の祭りである。
生島神については「共に生気満ち諸事足らざるなきを讃美する称辞」[3]といい、「生国魂神」と同一視され、足島神の「たる」は「事物の完全充足」を意味し、「足国魂神」「咲国魂神」と同一視されている。
本地は薬師如来とされる。
歴史
神武天皇が東征の際、難波津に上陸して祭ったのが創始とされる[4]。
伝説はともかく、生島神、足島神を祀る神社であるなら、八十島祭の祭場が起源だという見方もできるが、意外にもこの見解はあまり見られない。いずれにしても、古くは現在の大阪城辺りにあったらしい。
文献上の初出は、『日本書紀』「孝徳天皇紀」である。孝徳天皇は、当社の樹を伐採したため、「仏法を尊び、神祇を軽んじた」と評価された。樹の伐採は難波宮造営のためだと考えられている。
飛鳥時代、聖徳太子が生国魂神社の奇瑞を感じて、法案寺を創建、当社の別当となったとされる[5]。
『延喜式』「神名帳」には「難波坐生国咲国魂神社二座」として記載され、四時祭には「難波大社」と書かれた。
中世、石山本願寺が創建されたのは当社の隣地であり別当寺の法案寺の境内地だったという。法案寺は浄土真宗となり、 森祐光寺と称したが、別に南寺を建て別当を相続した。
石山合戦で焼失し、1585年(天正13年)、大阪城の築城のため、現在地に遷座した。近世、生玉十坊という10ケ寺の社僧があった。法案寺のほか、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼陀羅院(以上、参道北側)、地蔵院、覚園院、持宝院(以上、参道南側。生玉公園のあたり)があった。
明治時代、神仏分離によって別当が廃止となった。社格制度が制定されると、知名度や規模を超えて、最高社格である官幣大社に列格したが、国土の神霊を奉斎し、天皇の即位儀礼に関係のある神社としての意義を認められたからだと思われる。
1912年(大正1年)の「南の大火」、1945年(昭和20年)の空襲により焼失。1950年(昭和25年)のジェーン台風により倒壊。1956年(昭和31年)に再建。
境内
- 鴫野神社
- 弁天社。かつて弁天島(現在の大阪ビジネスパークのあたり)にあった。淀姫が崇敬。淀姫の没後、淀姫神社が傍らに祀られた。用地買収により、生国魂神社境内に遷座。
- 浄瑠璃神社
- 近松門左衛門など文楽関係物故者を合祀。
- 家造祖神社
- 鞴神社
- 生国魂神社行宮
- 生国魂神社元宮跡
生玉十坊
- 法案寺:南坊。
- 医王院:青蓮寺となる。
- 観音院:正祐寺となる。
- 桜本院:生駒市の円正寺となる。桜本坊。
- 新蔵院:正祐寺となる。
- 遍照院:青蓮寺となる。
- 曼陀羅院:持明院に合併。
- 地蔵院:藤次寺に合併。
- 覚園院:宗恵院となる。
- 持宝院:三津寺に合併。
組織
大宮司・宮司
- 松園尚嘉(1840-1903)<1872-1873>:九条尚忠の次男。大乗院門跡門主。興福寺別当237世。薬師寺別当。1840年(天保11年)生。僧名は隆芳。還俗して春日大社神職。松園男爵家初代。1872年(明治5年)6月26日、生国魂神社大宮司兼広田神社大宮司[1]。7月20日兼権少教正[2]。1873年(明治6年)3月4日、丹生川上神社大宮司。1903年(明治36年)死去。
- 戸田玄成()<1873->:安房神社大宮司。1873年(明治6年)3月31日、生国魂神社大宮司[3]。11月9日、権少教正[4]。1874年(明治7年)11月25日、少教正[5]。1878年(明治11年)1月29日、制度改正で宮司[6]。1878年(明治11年)12月26日、中教正[7]。
- 西川吉輔(1816-1880)<1879-1880>:1879年(明治12年)9月1日から1880年(明治13年)1月7日まで生国魂神社宮司[8][9]。辞任して赴任せず。(略歴は、日吉大社#組織を参照)
- 松下隆和()<1880-1886>:生国魂神社禰宜を経て1880年(明治13年)1月7日、生国魂神社宮司兼権少教正[10]。1886年(明治19年)11月13日まで[11]。
- 藤井千尋()<1886->:1886年(明治19年)11月13日、生国魂神社宮司[12]。
- 穂井田忠友()<>:
- 藤江卓三(1845-1887)<>:龍野藩の儒官。播磨出身。江戸で塩谷宕陰に学ぶ。戊辰戦争で越後に赴き、新潟県判事となる。のち生国魂神社宮司。
- 野田菅麻呂(1857-1945)<>:(略歴は、熱田神宮#組織を参照)
- 中川武俊(1846-1902)<>:梨木神社宮司。金刀比羅宮宮司。(略歴は、八坂神社#組織を参照)
- 村上義雄(-1919)<-1919>:熊本藩出身。内務官僚。徳島県・台中県・新竹県・台北県・石川県の知事を歴任。1919年(大正8年)6月12日死去(官報)。
- 二宮正彰(1894-1981)<>:1925年(大正14年)6月30日、橿原神宮権宮司。1929年(昭和4年)3月5日退任。
- 二宮正彦()<>:
- 森岡一良()<>:
- 石川赳夫()<-1925->:
- 生田長浩(1878-1943)<1933-1943>:敢国神社宮司。生田神社宮司。宇佐神宮宮司。1933年(昭和8年)4月4日、生国魂神社宮司。従五位。1943年(昭和18年)1月7日、在職中死去。(略歴は宇佐神宮#組織を参照)
少宮司
画像
資料
- 生国魂神社由緒書
- 『真言密教聖典』
- 『官幣大社生国魂神社誌』[15]