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厚狭神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年8月18日 (日)
厚狭神社は山口県山陽小野田市郡にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。観山招魂社、物見山招魂場、厚西招魂社、厚狭護国神社。物見山の山頂近くにある。
目次 |
歴史
- 1866年(慶応2年)11月16日:物見山の山頂で縄張りを実施(山陽町史[1])。
- 1866年(慶応2年)11月19日:工事が始まる。周辺からの助勢の様子が日記に残る(山陽町史[2])。
- 1866年(慶応2年)12月5日:祭典。岡崎八幡宮の神職が斎主を務め、毛利能登の代拝があった(山陽町史[3])。家老毛利能登が開設。現在の山頂広場には鳥居と石祠と「物見山高野山」の石仏群、「物見山経塚」跡がある。
- 1877年(明治10年)10月16日:戊辰戦争以前も対象となり官祭招魂社に指定(山口県布達甲260号。類輯山口布達達書[4]、1959山口県文化史[5]では9月)。
- 1941年(昭和16年):物見山の山頂の下に移転。
- 1955年(昭和30年):神霊碑群を整備。474基があるという。
- 1965年(昭和40年)2月:物見山経塚が偶然発見され、経筒などが採取される(山口県地方史研究[6][7]、山陽町史[8])。
- 1976年(昭和51年):社殿再建(山陽町史[9])
- 1978年(昭和53年)4月:公園化にともなう物見山経塚の発掘調査。遺構は出土しなかったため、招魂場築造時に一度出土して再埋納されたと推定されている。(山口県地方史研究[10]、山陽町史[11])
祭神
官祭祭神。山口県風土誌[12]より。1911年(明治44年)『靖国神社誌』[13]では6柱とあり一致しない。
- 1小野万蔵:1866年(慶応2年)四境戦争で豊前国曽根村で戦死。
- 2二歩荘之介:1866年(慶応2年)四境戦争で豊前国曽根村で戦死。
- 3静間弥寿太:1866年(慶応2年)四境戦争で豊前国曽根村で負傷して死去。
- 4山田捨之丞:1866年(慶応2年)四境戦争で豊前国曽根村で負傷して吉田病院で死去。
- 5原田政之進:1866年(慶応2年)四境戦争で豊前国で捕縛され小倉で殺害。28歳。