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吉敷招魂社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年8月17日 (土)
(良城神社から転送)
吉敷招魂社(よしき・しょうこんしゃ)は山口県山口市吉敷にある招魂社。曹洞宗玄済寺境内か。官祭招魂社。指定外護国神社。吉敷招魂場、良城神社、天神山招魂社、天神山護国神社、吉敷護国神社。現在は社殿は存在しない。
目次 |
歴史
- 1866年(慶応2年)11月:吉敷毛利家の毛利元潔(毛利元一)が創建。10人を祀る。(『靖国神社百年史』)
- 1869年(明治2年)3月:灯籠建立(碑銘)。
- 1874年(明治7年):名和道一墓を建立(碑銘)。
- 1884年(明治17年)9月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[1])(『靖国神社百年史』)。
- 1885年(明治18年)7月30日:明治天皇の山口行幸にともない、桑山招魂社、江良招魂社、吉敷招魂社に祭粢料を下賜[2]。
- 1887年(明治20年):毛利元潔の願により、毛利親直、毛利登人、久岡忠吉を合祀(1963『明治維新と山口市』[3])。
- 1901年(明治34年)6月14日:官祭招魂社制度・官修墳墓制度が本格的に制定。
- 1901年(明治34年)11月:桂太郎が先祖墓碑を修復(碑銘)。
- 1907年(明治40年)1月:内海忠勝碑建立(碑銘)。
- 1911年(明治44年)3月10日:忠魂碑建立(碑銘)。
- 1939年(昭和14年):護国神社制度により護国神社と改称
- 1940年(昭和15年)3月:吉敷護国神社と改称[4]
- 1947年(昭和22年)2月28日:良城神社と改称。(『靖国神社百年史』)
- 1967年(昭和42年)11月:「英霊之碑」建立(碑銘)。この時、社殿を解体か。
祭神
官祭祭神
- 1936『山口史蹟概覧』「吉敷招魂社祭神」[5]
- 官祭祭神。山口県風土誌[6]。『吉敷村史』でも同様[7]。1911年(明治44年)『靖国神社誌』[8]でも10柱とある。5柱は四境戦争(第二次長州征討)、5柱は戊辰戦争の戦死者。
- 1小野虎之丞:1846年(弘化3年)生。高杉晋作の挙兵に応じて御楯隊に参加。大田絵堂で戦い、遊撃隊で隊長を務め、吉敷毛利家の兵制改革で良城隊を編成。1866年(慶応2年)四境戦争で五番銃隊司令士として小瀬川に出陣し8月7日大野の戦いで戦死。21歳。1902年(明治35年)11月8日従五位を贈位[9]。小野資虎。
- 2粟屋六蔵:1841年(天保12年)生。禁門の変で吉敷隊に参加。戊辰戦争では良城隊の二番銃隊司令士として参加。常陸国平潟口に進み、7月28日手岡原で負傷。8月13日平病院で死去。28歳。墓所はいわき性源寺。栗屋六蔵。粟屋令道。
- 3岡田忠作:1868年(明治1年)8月、陸奥国駒ケ峰で戦死。28歳。墓所は相馬慶徳寺。岡田信則。
- 4堀菊平:1868年(明治1年)8月、駒ケ峰で戦死。41歳。墓所は相馬慶徳寺。堀芳哉。
- 5小野金吾:1837年(天保8年)生。1864年(元治1年)禁門の変に参加。1866年(慶応2年)四境戦争で良城隊の七番銃隊司令士として従軍。小瀬川に出陣し8月2日、安芸国玖波で戦死。30歳。5日に七番小隊で招魂祭[10]。1902年(明治35年)11月8日、従五位を贈位[11]。小野資吉。
- 6松下才熊:1866年(慶応2年)8月7日、四境戦争で小瀬川に出陣し大野の戦いで戦死。21歳。墓所は籌勝院官修墳墓。松下正義。
- 7石津庄吉:1866年(慶応2年)8月7日、四境戦争で小瀬川に出陣し大野の戦いで戦死。30歳。墓所は籌勝院官修墳墓。石津重忠。
- 8波多野安熊:1866年(慶応2年)8月2日、四境戦争で安芸国玖波で負傷し21日死去。17歳。墓所は籌勝院官修墳墓。波多野詮忠。
- 9別能仁三郎:1868年(明治1年)5月2日、京都で病死。19歳。墓所は山口藩東福寺墓地。別能義勝。別能仁三年。
- 10安田源左衛門:1868年(明治1年)7月25日、陸奥国中ノ作で病死。39歳。墓所はいわき真福寺。安田治寿。
招魂場
13基の神霊碑が東西に一列に並び、両脇と裏側中央に石灯籠が建つ。 神霊碑には正面に名前、東面に死去日など、西面に享年を記す。名は「●●霊神」と刻む。1963『明治維新と山口市』掲載写真[12]によれば木柵で囲われていたようだ。
- 1毛利登人:私祭祭神。吉敷毛利家の血筋を継ぐ。甲子殉難十一烈士の一人。
- 2上野五郎:私祭祭神。毛利親直。吉敷毛利家当主。西南戦争で戦死。
- 3岡田忠作:官祭祭神。
- 4松下才熊:官祭祭神。
- 5安田源左衛門:官祭祭神。
- 6小野虎之丞:官祭祭神。
- 7小野金吾:官祭祭神。
- 8粟屋六蔵:官祭祭神。
- 9別能仁三郎:官祭祭神。
- 10波多野安熊:官祭祭神。
- 11堀菊平:官祭祭神。
- 12石津庄吉:官祭祭神。
- 13久岡忠吉:私祭祭神。
周辺
- 内海忠勝碑:1907年(明治40年)1月建立。碑文[13]
- 英霊之碑:1967年(昭和42年)11月建立。
- 忠魂碑:1911年(明治44年)3月10日建立。碑文[14]
- 報国忠士霊神碑:吉敷毛利家家臣の禁門の変の戦死者。禁門の変の1864年(元治1年)7月19日の年号がある。建立年不明。
- 名和道一墓:1874年(明治7年)建立(碑銘)。宣徳隊を組織して禁門の変に参戦。新潟県大参事。アメリカで死去。服部哲次郎。1902年(明治35年)11月贈位(碑銘)。
- 百万一心碑:
- 不詳墓碑:1901年(明治34年)11月、桂太郎が修復(碑銘)。
- 忠魂碑建立費寄付人名録:
- 宣徳社:祭神は保食之命と毛利家歴代。吉敷毛利家の祖霊社か。
報国忠士霊神碑
以下の35人の人名がある。吉敷毛利家家臣の禁門の変の戦死者とされるが、経歴は不詳。出兵者か。 高橋文雄1966『内海忠勝』[15]、1961『山口市史2』[16]に吉敷村からの出兵者27人の名前の記載があり一部一致するが不詳。
- 服部道勝
- 中尾経次
- 磯村恒忠
- 有吉正道
- 井村義清
- 小野資吉:小野金吾。吉敷招魂社祭神。
- 内藤利雄
- 佐藤之則
- 小野資良
- 羽仁福久
- 野村基之
- 吉田守忠
- 阿曽沼光郷
- 松〓規行
- 渡辺通
- 粟屋忠規
- 児玉恕貫
- 柳井清方
- 中川信之
- 光永昌義
- 伊藤成信
- 岡山行永
- 水野資虎
- 大庭守武
- 児玉祐温
- 粟屋令道:粟屋六蔵。吉敷招魂社祭神。
- 服部老彰
- 島木信之
- 小田知治
- 宗像正嘉
- 重見武吉
- 松原篤正
- 内海正輝
- 岡山義久
- 伊藤致恭
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