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湯野招魂社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月20日 (日)

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湯野招魂社は山口県周南市湯野後山(周防国都濃郡)にある招魂社。祭神は四境戦争と戊辰戦争の戦没者14柱。領主が創建。その後の戦没者の合祀は行われなかったようだ。官祭招魂社指定外護国神社。湯野温泉集落の西側の山上にある。近くに曹洞宗常照院と浄土宗性梅院(堅田家菩提寺)がある。神霊碑14基のみが並び、社殿はもともと存在せず、かつてあった拝殿も今はない。都濃湯野招魂社、後山招魂場、後山招魂社、湯野護国神社、桜田護国神社、湯野神社。

目次

歴史

山口県の招魂社
  • 1867年(慶応3年)3月:堅田小輔が創建(徳山市史)。当初の祭神は12柱というがこの時までの祭神は四境戦争の戦死者2人か。
  • 1868年(明治1年):この年創建とも。戊辰戦争戦死者の祭神は10人。
  • 1875年(明治8年)6月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[1]、徳山市史)。
  • 1876年(明治9年):他の招魂社と重複する祭神4柱を除く。
  • 1877年(明治10年)2月17日、8柱を官祭祭神とし、4月15日を例祭とする(防長風土記[2])。
  • 1877年(明治10年)7月:西郷甚八と西郷三吉を祭神に追加。3月20日が祭日。
  • 1885年(明治18年)2月17日:官祭招魂社になる(「県内二十二の官祭招魂社」)。
  • 1914年(大正3年)6月:拝殿造営(徳山市史)。
  • 1940年(昭和15年)3月:桜田護国神社と改称(徳山市史)。1939年(昭和14年)とも(新版・徳山市史)。
  • 1946年(昭和21年):湯野神社と改称(新版・徳山市史)。
  • 1983年(昭和58年):この年までには拝殿は解体された(『ふるさと物語』[3])。

祭神

  • 1982『ふるさと物語』[4]に神霊碑銘一覧。

官祭祭神

山口県風土誌[5]より。

  • 01:生瀬清見:
  • 02:原虎之助:
  • 03:弘中精助:
  • 04:久山寿太:
  • 05:池永小五郎:
  • 06:椋木直人:
  • 07:井上収蔵:1866年(慶応2年)10月4日、四境戦争で豊前国国分村で戦死。下松護国神社私祭祭神。
  • 08:山田庫次郎:1866年(慶応2年)10月7日、四境戦争で豊前国吉兼で負傷し、11月28日戦傷死。下松護国神社私祭祭神。

私祭祭神

徳山市史によると、井上四郎ら4人は他の官祭招魂社と重複するため祭神から除かれ(神霊碑は残っているので官祭祭神から除かれたということだろう)、西郷甚八と西郷三吉は後ほど合祀されたという(官祭祭神には追加されなかったか。1942年(昭和17年)頃でも祭神に数えられていないようだ防長年鑑[6])。防長風土記[7]によると合祀2人も秋穂二島招魂社祭神とするが未確認。

  • 01:井上四郎:朝日山護国神社祭神。相馬慶徳寺官修墳墓
  • 02:西郷吉甫:朝日山護国神社祭神。相馬慶徳寺官修墳墓。
  • 03:高橋市郎:朝日山護国神社祭神。相馬慶徳寺官修墳墓。
  • 04:西郷小源:朝日山護国神社祭神。相馬慶徳寺官修墳墓。
  • 05:西郷甚八:1867年(慶応3年)1月6日、豊前南方で死。
  • 06:西郷三吉:1867年(慶応3年)1月12日、豊前南方で死。

資料

  • 1905山口県風土誌[8]
  • 1957『防長風土記』[9]
  • 1960『徳山市史』[10]
  • 1985『徳山市史』[11]
  • 1968『都濃郡内維新戦没追祭碑名録』[12][13]
  • 1982『ふるさと物語』[14]
  • 津田勉2009「県内二十二の官祭招魂社」『山口県神道史研究』21
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B9%AF%E9%87%8E%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE」より作成

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