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大島神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年8月17日 (土)

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大島護国神社・社殿-13.jpg

大島神社は山口県大島郡周防大島町久賀にある招魂社官祭招魂社指定外護国神社。八田山招魂場、東久賀招魂社、八田山招魂社、大島護国神社、久賀護国神社。八田山は「やあたやま」と読む。八田八幡宮の参道沿いにある。神霊碑群がある。四境戦争(第二次長州征伐)での戦死者が中心とみられる。

目次

歴史

大島護国神社・招魂場・全体-05.jpg
  • 1865年(慶応1年):山口藩が創建。7月4日の各郡への設置の命令によるものか。
  • 1866年(慶応2年):大島口の戦いの戦死者18柱を祭祀[1]
  • 1868年(明治1年):代官斉藤市郎兵衛、郡の事業として各町村から交代で人員を動員して開いたという[2]
  • 1875年(明治8年):戊辰戦争北越戦線の戦死者2柱を合祀[3]
  • 1875年(明治8年)6月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[4])。
  • 1877年(明治10年):大島口の戦いの戦死者18柱を合祀[5]
  • 1882年(明治15年)5月:(世良修蔵招魂碑建立。)
  • 1891年(明治24年)5月:「精忠不朽之碑」建立。
  • 1892年(明治25年)3月:「大島戦蹟碑」建立[6]
  • 1893年(明治26年)8月:倉敷浅尾騒動碑[7]建立。
  • 1895年(明治28年)4月:楢崎剛十郎顕彰碑(「第二奇兵隊参謀楢崎義綱君碑銘」[8])建立
  • 1901年(明治34年)6月14日:官祭招魂社制度・官修墳墓制度が本格的に制定。
  • 1916年(大正5年)5月:伊藤惣兵衛記念碑[9]建立。
  • 1919年(大正8年)5月:(覚法寺に「贈正五位大洲鉄然師碑」[10]建立)
  • 1939年(昭和14年)4月1日:護国神社制度を施行。
  • 1953年(昭和28年)5月:社殿竣工[11]

関連旧跡

  • 本社:
  • 招魂場:八田山維新墓地。神霊碑群。
  • 八田八幡宮:
  • 精忠不朽之碑:明治百年記念公園内。同碑文[12][13]
  • 倉敷浅尾騒動碑:明治百年記念公園内。
  • 伊藤惣兵衛記念碑:明治百年記念公園内。
  • 楢崎剛十郎顕彰碑:明治百年記念公園近く。
  • 世良修蔵招魂碑
  • 大洲鉄然記念碑:浄土真宗覚法寺内

祭神

山口県の招魂社

官祭祭神

  • 『山口県風土誌』[14]より。1911年(明治44年)『靖国神社誌』[15]でも20柱とある。1954『山口県久賀町誌』では波多野五郎の記載がなく19柱とする[16]
  • 『大島郡郷土調査』「維新前後の正義戦に殉職者」[17]、1986『幕末維新全殉難者名鑑2』「長州・大島戦線」[18]には下記以外の戦死者も列記している。
  • 「精忠不朽之碑」には末武省作と宮本和七がなく、河村文〓が記載されている。


  • 1:末武省作(1850-1868):第二奇兵隊。1868年(明治1年)5月13日、戊辰戦争で、越後国朝日山で戦死。19歳。忠魂史[19]船岡山官軍墓地桜山招魂社
  • 2:宮本和七(1834-1868):振武隊。1868年(明治1年)8月16日、戊辰戦争で、越後国下乗村で負傷し柏崎で死去。35歳。忠魂史[20]高田官修墳墓
  • 3:竹中甚之助(1848-1866):1866年(慶応2年)6月16日、四境戦争で周防国大島郡屋代村三石で戦死。19歳。忠魂史の「竹中甚五郎直行」か[21]
  • 4:波多野五郎(?-1866):1866年(慶応2年)6月16日、四境戦争で周防国大島郡屋代村三石で戦死。30歳。忠魂史[22]麻郷護国神社招魂場に神霊碑。
  • 5:国行雛治郎(1845-1866):1866年(慶応2年)6月16日、四境戦争で周防国大島郡屋代村三石で戦死。22歳。国行雛次郎。忠魂史[23]。柳井市阿月に墓所。麻郷護国神社にも合祀か[24]
  • 6:泉徳太郎(?-1866):1866年(慶応2年)6月17日、四境戦争で周防国大島郡久賀村で戦死。20歳。忠魂史[25]
  • 7:仲木直太郎(1828-1866):1866年(慶応2年)6月17日、四境戦争で周防国大島郡久賀村で戦死。39歳。忠魂史[26]
  • 8:大谷八郎(1842-1866):浄土真宗の僧。照林寺住職。僧名は周乗。護国団に所属。1866年(慶応2年)6月11日、四境戦争で周防国大島郡久賀村で戦死。25歳。忠魂史[27]
  • 9:松岡茂太郎(1847-1866):1866年(慶応2年))6月11日、四境戦争で周防国大島郡安下庄で死去。20歳。忠魂史[28]
  • 10:富山勇記(1846-1866):1866年(慶応2年)6月11日、四境戦争で周防国大島郡久賀村で戦死。21歳。忠魂史[29]
  • 11:久行丈之助(?-1866):1866年(慶応2年)6月17日、四境戦争で周防国大島郡久賀村で戦死。享年不詳。忠魂史[30]
  • 12:山本与吉郎(1844-1866):1866年(慶応2年)6月17日、四境戦争で周防国大島郡岡村で死去。23歳。『山口県風土記』『忠魂史』では「山本与吉」。忠魂史[31]
  • 13:山脇種蔵(1848-1866):1866年(慶応2年)、四境戦争で周防国大島郡笛吹峠で戦死。19歳。忠魂史[32]
  • 14:岡本新太郎(?-1866):1866年(慶応2年)6月15日、四境戦争で周防国大島郡国木峠で戦死。享年不詳。忠魂史[33]
  • 15:野村吉蔵(1844-1866):1866年(慶応2年)8月10日、四境戦争で周防国大島郡三ツ石垰で負傷し死去。23歳。忠魂史[34]
  • 16:藤本鹿之助(1825-1866):1866年(慶応2年))6月11日、四境戦争で周防国大島郡久賀で負傷し死去。42歳。忠魂史[35]
  • 17:岩本直吉(1842-1866):1866年(慶応2年)6月11日、四境戦争で周防国大島郡久賀で負傷し死去。25歳。忠魂史[36]
  • 18:熊蔵(1821-1866):1866年(慶応2年)、四境戦争で周防国大島郡国木峠で戦死。46歳。松永熊蔵。忠魂史[37]
  • 19:礒右衛門(?-1866):1866年(慶応2年)6月11日、四境戦争で周防国大島郡国木峠で戦死。61歳。金谷磯右衛門。忠魂史[38]
  • 20:市蔵(1821-1866):1866年(慶応2年)6月13日、四境戦争で周防国大島郡笛吹で戦死。46歳。大波野市蔵。忠魂史[39]

私祭祭神

以下は私祭祭神とみられる

  • 木田浅吉(1843-1866):1866年(慶応2年)8月7日、芸州方面で戦死。24歳。忠魂史[40]
  • 楢崎剛十郎(1838-1866):1866年(慶応2年)4月4日、戦死。29歳。忠魂史[41]。麻郷護国神社にも合祀か[42]
  • 伊藤惣兵衛(1814-1865):豪農。久賀村の庄屋。月性と親交を持ち支援。1864年(元治1年)5月、大洲鉄然らと共に真武隊を結成。1865年(慶応1年)5月19日、病死。52歳。伊藤総兵衛。忠魂史[43]
  • (不詳)():
  • 末満彰():1944/10/20ボルネオ海峡で戦死

招魂場

画像

資料

  • 豊田稔一1972『四境役大島口の戦況』[44]
  • 1954『山口県久賀町誌』「防長征伐前後」[45]
  • 山口県護国神社ウェブサイト「大島神社」[46][47]
  • 『にしへひがしへ』「周防大島町」[48][49]
  • 『長州に棲む日々』「周防大島 八田山招魂場」[50][51]
  • 『もしかして山口県在住?こじらせ(中年)女のアイタタタ…なブログ☆』「山口の神社仏閣★大島護国神社編」[52][53]
  • 『戊辰掃苔録』「大島神社」[54][55]
  • 『靖国神社百年史』「大島神社」[56]
  • 1959『周防大島町誌』「幕末の大島戦」[57]
  • 吉村藤舟1979『大島郡戦記』[58]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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