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熊野本宮大社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年6月7日 (金)

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*崇神天皇65年:鎮座(帝王編年記)
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*859年1月27日:従五位上
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*5月28日:従二位
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*907年10月2日:正二位(『日本紀略』)
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*940年2月1日:正一位(『長寛勘文』)
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*1090年:[[白河上皇]]、熊野御幸。[[園城寺]][[増誉]]が熊野三山検校に任命され、その支配下に置かれた。
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*1096年3月1日:焼失(『百錬抄』)
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*1127年:再建(「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」)
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*1274年:[[一遍]]が参詣し神託を得る
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*1281年2月16日:[[亀山上皇]]、熊野御幸(一代要記)。上皇の最後の御幸
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*1889年:大水害
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*1891年:現在地の高台に遷座
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==境内==
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*第一殿:結宮:夫須美大神
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*第二殿:結宮:速玉大神
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*第三殿:本宮:家津御子大神([[素戔嗚尊]]):証誠殿
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*第四殿:若宮:[[天照大神]]
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*[[大斎原]]
==組織==
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===大宮司・宮司===
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*横山秀雄()<>:熊野坐神社宮司、[[宮崎神宮]]宮司、[[宇佐神宮]]宮司を歴任。
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*音無新太郎(生没年不詳)<1873-1884>:1871年(明治4年)10月時点で本宮総代。1872年(明治5年)9月5日、熊野坐神社権宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139433/1/35]。中講義[https://dl.ndl.go.jp/pid/9576551/1/162]。1873年(明治6年)3月、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139433/1/35]。1882年(明治15年)従七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/11931600/1/144]。1884年(明治17年)退任(神道人名辞典)。1882年(明治15年)12月20日、従七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/11931600/1/144]。中講義。
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*鈴木松太郎(1872-1955)<>:(略歴は、[[伏見稲荷大社#組織]]を参照)
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*多村知興(?-1916)<1884-1885>:[[吉田神社]]宮司を経て1884年(明治17年)10月14日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2943596/1/2]。1885年(明治18年)4月28日、[[伊太祁曽神社]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2943753/1/4]。(略歴は、[[賀茂別雷神社#組織]]を参照)
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*高島主一()<>
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*浜田男麻呂(生没年不詳)<1885-1887>:高知県士族。1875年(明治8年)弘文天皇陵調査のために岐阜県[[自害峰]]に派遣[https://dl.ndl.go.jp/pid/9539357/1/44]。1876年(明治9年)教部省十四等出仕[https://dl.ndl.go.jp/pid/12019183/1/166]。1876年(明治9年)6月10日、陵墓調査のために敦賀金崎([[尊良親王御陵墓見込地]])に派遣された[https://dl.ndl.go.jp/pid/1234828/1/41][https://dl.ndl.go.jp/pid/1232885/1/57]。1876年(明治9年)6月17日、嘉念坊墓所([[善俊墓]])調査のために飛騨高山に派遣[https://dl.ndl.go.jp/pid/9538598/1/144]。1881年(明治14年)11月12日、東京[[平田神社]]の祭典に参列[https://dl.ndl.go.jp/pid/2263751/1/14]。[[寒川神社]]禰宜を経て1885年(明治18年)4月28日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2943753/1/4]。1887年(明治20年)3月17日退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139433/1/36]。1888年(明治21年)9月13日、兵庫県皇典講究分所司計[https://dl.ndl.go.jp/pid/3545266/1/2]。1891年(明治24年)時点で司法省明石区裁判所執達吏[https://dl.ndl.go.jp/pid/779762/1/24]。著書『土佐高賀茂大社私説』[https://www.digital.archives.go.jp/img/741385]、「紀伊国熊野坐神社祭神弁」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3545188/1/7]、「神武天皇従熊野巡幸実地考」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1557926/1/12]、書写「豊受太神宮正殿御玉奈井図」(目録[https://dl.ndl.go.jp/pid/2979567/1/85])、「王子神社考」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1557950/1/9][https://dl.ndl.go.jp/pid/1557955/1/17][https://dl.ndl.go.jp/pid/1557954/1/16][https://dl.ndl.go.jp/pid/1557955/1/17]、「御代数之義建白」、「玉前神社記並に寒川神社記」(目録[https://dl.ndl.go.jp/pid/897289/1/30])、「皇后略伝」(目録[https://dl.ndl.go.jp/pid/897289/1/213])、「追尊天皇略伝」(目録[https://dl.ndl.go.jp/pid/897289/1/215])。浜田男麿。
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*九鬼宗隆()<>:綾部九鬼家当主。
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*竹内春栄(生没年不詳)<1887-1902>:和歌山県出身。1886年(明治19年)4月12日、和歌山県皇典講究分所委員補[https://dl.ndl.go.jp/pid/3545192/1/2]。主典、権禰宜、禰宜を経て1887年(明治20年)4月25日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2944379/1/1]。1902年(明治35年)4月9日、退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948929/1/4]。
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*九鬼家隆(1956-)<2001-現職>:綾部九鬼家当主。国学院大学文学部神道学科卒。最初は明治神宮に奉職。
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*三浦純一(生没年不詳)<1902-1905>:内務省官吏か。兵庫県属。1892年(明治25年)4月14日、官国幣社神職尋常試験委員[https://dl.ndl.go.jp/pid/2945904/1/3]。1902年(明治35年)4月9日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2948929/1/4]。8月12日正七位[https://dl.ndl.go.jp/pid/2949036/1/1]。1905年(明治38年)5月2日、退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2949881/1/5]。
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*小串重威(1878-1927)<1905-1908>:[[多度大社]]社家の出身。小串重煕の長男。1878年(明治11年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1054166/1/147]。1900年(明治33年)[[神宮皇学館]]卒業。1901年(明治34年)[[氷川神社]]禰宜。1905年(明治38年)5月2日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2949881/1/5]。1908年(明治41年)12月9日退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2950987/1/5]。1911年(明治44年)多度神社社司[https://dl.ndl.go.jp/pid/1054166/1/147]。1915年(大正4年)11月10日、多度神社の国幣大社昇格と共に宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953092/1/9]。1927年(昭和2年)9月13日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956678/1/5]。
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*鈴木松太郎(1872-1955)<1908-1911>:1908年(明治41年)12月14日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2950991/1/3](5日の空白期間あり)。1911年(明治44年)3月17日、[[砥鹿神社]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2951674/1/6]。(略歴は、[[伏見稲荷大社#組織]]を参照)
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*須田直太郎(?-1922)<1911-1915>:秋田県出身。1894年(明治27年)国学院卒業。長野県尋常中学上田支校に赴任[https://dl.ndl.go.jp/pid/1539419/1/40]。1900年(明治33年)国学院に奉職[https://dl.ndl.go.jp/pid/3364715/1/56]。1911年(明治44年)3月17日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2951674/1/6]。1915年(大正4年)2月17日、[[金崎宮]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2952869/1/2]。1922年(大正11年)4月2日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955024/1/8]。著書『官幣中社金崎宮誌』。
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*亀井真澄(生没年不詳)<1915-1921>:新潟県出身。1907年(明治40年)神宮皇学館本科卒。1913年(大正2年)3月4日[[結城神社]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2952275/1/4]。1915年(大正4年)2月17日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2952869/1/2]。1921年(大正10年)3月2日、[[石上神宮]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954688/1/7]。1925年(大正14年)2月12日、貴船神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955889/1/6]。1931年(昭和6年)6月19日退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2957809/1/13]。
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*横山秀雄(1891-1948)<1921-1926>:大分県神社庁長。神奈川県出身。1891年(明治24年)生。1914年(大正3年)神宮皇学館本科卒。1921年(大正10年)3月2日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954688/1/7]。陸軍歩兵中尉。1926年(昭和1年)10月1日、[[宮崎神宮]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956383/1/2]。のち宇佐神宮宮司。(略歴は、[[宇佐神宮#組織]]を参照)
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*伊藤真広(1882-1928)<1926-1928>:新潟県出身。1882年(明治15年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1184865/1/39]。1905年(明治38年)皇典講究所神職講習会修了[https://dl.ndl.go.jp/pid/3364774/1/54]。気比神宮主典を経て1907年(明治40年)金鑚神社禰宜[https://dl.ndl.go.jp/pid/1031210/1/43]。1914年(大正3年)4月18日、金崎宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2952614/1/2]。1915年(大正4年)2月17日、結城神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2952869/1/2]。1917年(大正6年)5月26日、岩木山神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953558/1/2]。1922年(大正11年)3月31日、神宮神部署新潟支署長[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955016/1/3][https://dl.ndl.go.jp/pid/3364976/1/34]。1923年(大正12年)1月24日、神宮神部署神部[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955264/1/5]。1924年(大正13年)2月4日、神宮神部署主事[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955582/1/6]。同日北海道支署長[https://dl.ndl.go.jp/pid/2955585/1/2]。1925年(大正14年)頃、神宮奉斎会函館本部に奉職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1866570/1/538]。1926年(昭和1年)10月1日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956383/1/2]。1928年(昭和3年)6月26日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956929/1/4]。
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*東弘門(1884-1946)<1928-1936>:熊本県伊倉町の出身。1884年(明治17年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/2979518/1/71]。1902年(明治35年)神宮皇学館専科卒業。1911年(明治44年)石上神宮主典。1913年(大正2年)神宮神部署主事補。長崎支署、熊本支署に勤務。1927年(昭和2年)神宮神部署福岡支署長。1928年(昭和3年)8月11日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2956951/1/4]。1936年(昭和11年)8月31日、退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2959383/1/3]。伊倉八幡宮社司。1946年(昭和21年)死去。
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*高島主一(1888-?)<1936-?>:1888年(明治21年)生[https://dl.ndl.go.jp/pid/1210369/1/209]。1887年(明治20年)生とも[https://dl.ndl.go.jp/pid/3006393/1/412]。皇典講究分所卒業。1911年(明治44年)湊口神社社掌。上田八幡神社社司。伊弉諾神社主典を経て1933年(昭和8年)9月27日、[[寒川神社]]宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958496/1/7]。1936年(昭和11年)8月31日、熊野坐神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2959383/1/3]。湊町長[https://dl.ndl.go.jp/pid/9574263/1/47]。著書『官幣大社熊野坐神社年表』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139433]。
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*九鬼宗隆(1914-2003)<1951-2001>:綾部[[九鬼家]]当主。和歌山県神社庁長。[[子爵]]。兵庫県出身。1914年(大正3年)生。1934年(昭和9年)従五位。1938年(昭和13年)[[国学院大学]]神道部卒。1941年(昭和16年)[[梅宮神社]]主典。1943年(昭和18年)[[賀茂御祖神社]]主典。1946年(昭和21年)襲爵。1951年(昭和26年)熊野本宮大社宮司。1961年(昭和36年)神社本庁に加盟。2001年(平成13年)退任。2003年(平成15年)6月27日死去。
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*九鬼家隆(1956-)<2001->:綾部九鬼家当主。神社本庁理事。和歌山県神社庁長。1956年(昭和31年)生。国学院大学文学部神道学科卒。1979年(昭和54年)[[明治神宮]]に奉職。熊野本宮大社禰宜、権宮司を経て、2001年(平成13年)5月1日、熊野本宮大社宮司。
===少宮司・権宮司===
===少宮司・権宮司===
*熊代繁里(1818-1876)<>:
*熊代繁里(1818-1876)<>:
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*(湯川潔)()<>:1876年(明治9年)7月から1877年(明治10年)12月まで権宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139433/1/35]。
==画像==
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2024年6月7日 (金) 時点における最新版

熊野本宮大社
くまの ほん ぐう たいしゃ
Kumano-hongu-taisha 002.jpg
概要 熊野三山の一。熊野神社の総本社。
奉斎 家都御子神
(土岐昌訓論文)
所在地 和歌山県田辺市本宮町本宮1110
所在地(旧国郡) 紀伊国牟婁郡
所属(現在) 神社本庁
格式など 式内社名神大社従二位朱印地拝領神社官幣大社別表神社
関連記事 熊野信仰


目次

概要

歴史

  • 崇神天皇65年:鎮座(帝王編年記)
  • 859年1月27日:従五位上
  • 5月28日:従二位
  • 907年10月2日:正二位(『日本紀略』)
  • 940年2月1日:正一位(『長寛勘文』)
  • 1090年:白河上皇、熊野御幸。園城寺増誉が熊野三山検校に任命され、その支配下に置かれた。
  • 1096年3月1日:焼失(『百錬抄』)
  • 1127年:再建(「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」)
  • 1274年:一遍が参詣し神託を得る
  • 1281年2月16日:亀山上皇、熊野御幸(一代要記)。上皇の最後の御幸
  • 1889年:大水害
  • 1891年:現在地の高台に遷座

境内

  • 第一殿:結宮:夫須美大神
  • 第二殿:結宮:速玉大神
  • 第三殿:本宮:家津御子大神(素戔嗚尊):証誠殿
  • 第四殿:若宮:天照大神
  • 大斎原

組織

宮司

  • 音無新太郎(生没年不詳)<1873-1884>:1871年(明治4年)10月時点で本宮総代。1872年(明治5年)9月5日、熊野坐神社権宮司[1]。中講義[2]。1873年(明治6年)3月、熊野坐神社宮司[3]。1882年(明治15年)従七位[4]。1884年(明治17年)退任(神道人名辞典)。1882年(明治15年)12月20日、従七位[5]。中講義。
  • 多村知興(?-1916)<1884-1885>:吉田神社宮司を経て1884年(明治17年)10月14日、熊野坐神社宮司[6]。1885年(明治18年)4月28日、伊太祁曽神社宮司[7]。(略歴は、賀茂別雷神社#組織を参照)
  • 浜田男麻呂(生没年不詳)<1885-1887>:高知県士族。1875年(明治8年)弘文天皇陵調査のために岐阜県自害峰に派遣[8]。1876年(明治9年)教部省十四等出仕[9]。1876年(明治9年)6月10日、陵墓調査のために敦賀金崎(尊良親王御陵墓見込地)に派遣された[10][11]。1876年(明治9年)6月17日、嘉念坊墓所(善俊墓)調査のために飛騨高山に派遣[12]。1881年(明治14年)11月12日、東京平田神社の祭典に参列[13]寒川神社禰宜を経て1885年(明治18年)4月28日、熊野坐神社宮司[14]。1887年(明治20年)3月17日退任[15]。1888年(明治21年)9月13日、兵庫県皇典講究分所司計[16]。1891年(明治24年)時点で司法省明石区裁判所執達吏[17]。著書『土佐高賀茂大社私説』[18]、「紀伊国熊野坐神社祭神弁」[19]、「神武天皇従熊野巡幸実地考」[20]、書写「豊受太神宮正殿御玉奈井図」(目録[21])、「王子神社考」[22][23][24][25]、「御代数之義建白」、「玉前神社記並に寒川神社記」(目録[26])、「皇后略伝」(目録[27])、「追尊天皇略伝」(目録[28])。浜田男麿。
  • 竹内春栄(生没年不詳)<1887-1902>:和歌山県出身。1886年(明治19年)4月12日、和歌山県皇典講究分所委員補[29]。主典、権禰宜、禰宜を経て1887年(明治20年)4月25日、熊野坐神社宮司[30]。1902年(明治35年)4月9日、退任[31]
  • 三浦純一(生没年不詳)<1902-1905>:内務省官吏か。兵庫県属。1892年(明治25年)4月14日、官国幣社神職尋常試験委員[32]。1902年(明治35年)4月9日、熊野坐神社宮司[33]。8月12日正七位[34]。1905年(明治38年)5月2日、退任[35]
  • 小串重威(1878-1927)<1905-1908>:多度大社社家の出身。小串重煕の長男。1878年(明治11年)生[36]。1900年(明治33年)神宮皇学館卒業。1901年(明治34年)氷川神社禰宜。1905年(明治38年)5月2日、熊野坐神社宮司[37]。1908年(明治41年)12月9日退任[38]。1911年(明治44年)多度神社社司[39]。1915年(大正4年)11月10日、多度神社の国幣大社昇格と共に宮司[40]。1927年(昭和2年)9月13日死去[41]
  • 鈴木松太郎(1872-1955)<1908-1911>:1908年(明治41年)12月14日、熊野坐神社宮司[42](5日の空白期間あり)。1911年(明治44年)3月17日、砥鹿神社宮司[43]。(略歴は、伏見稲荷大社#組織を参照)
  • 須田直太郎(?-1922)<1911-1915>:秋田県出身。1894年(明治27年)国学院卒業。長野県尋常中学上田支校に赴任[44]。1900年(明治33年)国学院に奉職[45]。1911年(明治44年)3月17日、熊野坐神社宮司[46]。1915年(大正4年)2月17日、金崎宮宮司[47]。1922年(大正11年)4月2日死去[48]。著書『官幣中社金崎宮誌』。
  • 亀井真澄(生没年不詳)<1915-1921>:新潟県出身。1907年(明治40年)神宮皇学館本科卒。1913年(大正2年)3月4日結城神社宮司[49]。1915年(大正4年)2月17日、熊野坐神社宮司[50]。1921年(大正10年)3月2日、石上神宮宮司[51]。1925年(大正14年)2月12日、貴船神社宮司[52]。1931年(昭和6年)6月19日退任[53]
  • 横山秀雄(1891-1948)<1921-1926>:大分県神社庁長。神奈川県出身。1891年(明治24年)生。1914年(大正3年)神宮皇学館本科卒。1921年(大正10年)3月2日、熊野坐神社宮司[54]。陸軍歩兵中尉。1926年(昭和1年)10月1日、宮崎神宮宮司[55]。のち宇佐神宮宮司。(略歴は、宇佐神宮#組織を参照)
  • 伊藤真広(1882-1928)<1926-1928>:新潟県出身。1882年(明治15年)生[56]。1905年(明治38年)皇典講究所神職講習会修了[57]。気比神宮主典を経て1907年(明治40年)金鑚神社禰宜[58]。1914年(大正3年)4月18日、金崎宮宮司[59]。1915年(大正4年)2月17日、結城神社宮司[60]。1917年(大正6年)5月26日、岩木山神社宮司[61]。1922年(大正11年)3月31日、神宮神部署新潟支署長[62][63]。1923年(大正12年)1月24日、神宮神部署神部[64]。1924年(大正13年)2月4日、神宮神部署主事[65]。同日北海道支署長[66]。1925年(大正14年)頃、神宮奉斎会函館本部に奉職[67]。1926年(昭和1年)10月1日、熊野坐神社宮司[68]。1928年(昭和3年)6月26日死去[69]
  • 東弘門(1884-1946)<1928-1936>:熊本県伊倉町の出身。1884年(明治17年)生[70]。1902年(明治35年)神宮皇学館専科卒業。1911年(明治44年)石上神宮主典。1913年(大正2年)神宮神部署主事補。長崎支署、熊本支署に勤務。1927年(昭和2年)神宮神部署福岡支署長。1928年(昭和3年)8月11日、熊野坐神社宮司[71]。1936年(昭和11年)8月31日、退任[72]。伊倉八幡宮社司。1946年(昭和21年)死去。
  • 高島主一(1888-?)<1936-?>:1888年(明治21年)生[73]。1887年(明治20年)生とも[74]。皇典講究分所卒業。1911年(明治44年)湊口神社社掌。上田八幡神社社司。伊弉諾神社主典を経て1933年(昭和8年)9月27日、寒川神社宮司[75]。1936年(昭和11年)8月31日、熊野坐神社宮司[76]。湊町長[77]。著書『官幣大社熊野坐神社年表』[78]
  • 九鬼宗隆(1914-2003)<1951-2001>:綾部九鬼家当主。和歌山県神社庁長。子爵。兵庫県出身。1914年(大正3年)生。1934年(昭和9年)従五位。1938年(昭和13年)国学院大学神道部卒。1941年(昭和16年)梅宮神社主典。1943年(昭和18年)賀茂御祖神社主典。1946年(昭和21年)襲爵。1951年(昭和26年)熊野本宮大社宮司。1961年(昭和36年)神社本庁に加盟。2001年(平成13年)退任。2003年(平成15年)6月27日死去。
  • 九鬼家隆(1956-)<2001->:綾部九鬼家当主。神社本庁理事。和歌山県神社庁長。1956年(昭和31年)生。国学院大学文学部神道学科卒。1979年(昭和54年)明治神宮に奉職。熊野本宮大社禰宜、権宮司を経て、2001年(平成13年)5月1日、熊野本宮大社宮司。

少宮司・権宮司

  • 熊代繁里(1818-1876)<>:
  • (湯川潔)()<>:1876年(明治9年)7月から1877年(明治10年)12月まで権宮司[79]

画像

参考文献

  • 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE」より作成

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