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大覚寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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大覚寺(だいかくじ)は京都府京都市右京区嵯峨にある真言宗本山寺院。本尊は五大明王真言宗大覚寺派大本山。門跡寺院嵯峨天皇が創建し、歴代法皇や皇族(大覚寺宮)が住職を務めるなど特に皇室と関係が深い。中世の300年間は興福寺一乗院が兼務した。嵯峨天皇宸筆の般若心経に対する信仰が有名。後宇多法皇らの御所となり、大覚寺統の拠点となった。兼務していた蓮華光院門跡を合併。嵯峨御流華道の総司所が置かれている。山号は嵯峨山大覚寺門跡嵯峨御所。(参考:同名寺院大覚寺_(同名)


目次

歴史

平安時代:嵯峨院と弘法大師の祈祷

弘仁5年(814)閏7月27日、嵯峨天皇は北野で遊猟の後に立ち寄り、侍臣に衣を賜ったとあるのが大覚寺の前身である離宮嵯峨院の初見。のち弘仁9年春の大飢饉に際して天皇は一字三礼して般若心経を書写し、また空海に命じて嵯峨院持仏堂の五大明王像を祀る五覚院で祈祷させたという。ここに大覚寺の淵源がある。

天皇崩御後の清和天皇時代、嵯峨天皇長女で淳和天皇皇后であった正子内親王が自らが過ごした嵯峨院の興廃を嘆いて、嵯峨天皇と淳和天皇の菩提を弔うため寺院とした。開山としたのは承和の変で廃太子となった淳和天皇皇子の恒寂法親王(恒貞親王)であった。勅によって大覚寺との名前が定められた。貞観18年(876)、2月25日のことであった。元慶5年(881)8月23日には寺地決定され、「葛野郡二条大山田地三十六町」と定められた。東は朝原山、西は観空地・棲霞観東路、北は山嶺とされた。その後、宇多天皇が行幸するなどのことはあったが、しばらくは目立った記録は残されていない。 3代の定昭は、奈良興福寺一乗院を創建する。以後、後嵯峨法皇の入寺まで大覚寺は興福寺一乗院が管理することとなった。


鎌倉時代:歴代法皇の入寺

大覚寺の存在が注目されるようになるのは南北朝時代の到来と軌を一にしている。後嵯峨法皇、亀山法皇、後宇多法皇が歴代住職となっている。

鎌倉時代の仁治3年(1242)に即位した後嵯峨天皇は、幕府執権北条氏よりの立場を取り、安定した親政を行った。在位4年で皇子の後深草天皇に譲位し、さらに亀山天皇を即位させた。後嵯峨院の諡号を自ら定めるなど、嵯峨帝を景仰していた上皇は、文永5年(1268)、ゆかりの大覚寺で出家し法皇となり素覚と称し、自らが住職となった。この年、後嵯峨法皇は長子後深草上皇の子ではなく亀山天皇の皇子を皇太子と定めたことが皇統の分裂につながっていく。崩御まで30年近く院政を行った。 大覚寺統の始祖となる亀山天皇は禅宗に帰依し、南禅寺を創建したことで知られるが、僧名を金剛源(金剛眼)と称したように真言宗を信仰し、嘉元3年(1305)崩御間近に、密教の灌頂も受けている。 ただ後嵯峨法皇や亀山法皇が主な御所としたのは亀山殿(現在の天龍寺の地)であり、「大覚寺統」の名前の由来となったのはその皇子の後宇多法皇が大覚寺を主な御所とし、「大覚寺殿」と呼ばれたためであった。 後宇多天皇は文永11年(1274)8歳で即位し、弘安10年(1287)20歳で退位した。院政を敷いたのは14年後の正安3年(1301)の皇子の後二条天皇即位後であった。空海の伝記を自ら執筆するなど密教の信仰が篤い上皇は、俗人であったのにも関わらず、徳治2年(1307)4月、醍醐寺報恩院憲淳から伝法灌頂を受けた。同年7月、皇后遊義門院の崩御を機に東寺で出家し、さらに翌年、東寺仁和寺真光院禅助から灌頂を受け、金剛性と名乗り、大覚寺に移住した。大覚寺から院政を行なったが、翌3年、天皇崩御のため、院政停止となった。 以後、大覚寺に籠もり、『増鏡』で「「近ごろは、大覺寺のほとりに御堂建てて、籠りおはしましつつ、いよいよ密教の深き心ばへをのみ、勤めて学ばせ給へば、をのづからも京に出でさせ給事なく、また参り通う人もまれなるやうにて」とあるように密教の信仰に専念した。やがて大覚寺復興を決意し、元亨元年(1321)4月、伽藍造営事業に着手した。伽藍再興に心を砕いたことは同年筆の『御手印御遺告』の冒頭に大覚寺のことを記したことにも表れている。 当時の史料は残されていないが、江戸時代に製作された「大覚寺伽藍古図」によると、大沢池の北側に中心伽藍と御所を造営。その周辺に仏母心院、不壊化身院、教王常住院、五覚院、蓮華峰寺、西来院、済治院、遍照寺、観空寺などの子院を建てたという。池の西側を中心とする現在の伽藍とは大きく異なっている。中心地区は西側に金堂、講堂、御影堂、心経堂を置き、東側に御所を配置した。『続史愚抄』には伏見殿の上御所を移して寝殿としたとか、古い紫宸殿を移したとか書かれている。子院のうち蓮華峰寺は法皇の寿陵で、崩御後、ここに葬られた(後宇多天皇陵)。

しかし、これらの伽藍は20年も絶たずに建武3年(延元元年、1336)8月28日、火災で焼失した(『新千載和歌集』詞書)。長らく復興されたなかったことは約50年後の永徳2年(弘和2年、1382)に当時の寛尊住職が詠んだ和歌に「年をへて荒れこそまされ嵯峨の山」とあることにも表れている(『風雅和歌集』)。


室町時代:宸筆心経信仰

後宇多天皇ののち、皇子の性円法親王が継承したが、南北朝の対立が激化し、後醍醐天皇が吉野に遷幸すると性円は南朝方につき、吉野に赴いたという。そこで北朝は寛尊法親王を大覚寺門跡に任じた。法親王は大覚寺統の祖である亀山天皇皇子であったが、北朝に通じていた。南北朝時代の大覚寺の動向については諸説ある。

この頃には嵯峨天皇宸筆の般若心経に対する信仰が高まり、「頂戴」が行われていたという。その早い例として川島氏は康安元年(正平16年、1361)に後光厳天皇が借りだした例を上げている。頂戴とは拝見したり、般若心経の破片を飲んだりしたことである。そのようにして疾病平癒などの祈願を行ったという。

南朝最後の後亀山天皇は明徳3年(元中9年、1392)、三種の神器を後小松天皇に譲った。寺伝では神器の譲渡が行われたのが正寝殿とするが少なくとも現在の建物は当時のものではない。

くじびきにより青蓮院門跡だった足利義教が第6代将軍に就任すると、幕府権力を立て直すために弾圧を強化。同じくくじ引きでの候補だった弟の大覚寺門跡義昭を、義教は警戒。義昭も不満を募らせる。永享9年(1437)7月、義昭は寺を脱出した。吉野で挙兵したとの噂が流れ、討伐軍を送った。実際は、四国、九州に潜伏するが、やがて島津氏に打たれた。 永徳寺(宮崎県串間市)などに墓がある。

盗賊によって殺害された性守の次の門跡、義俊は、連歌師としても知られる。紹巴とも親しく交わった。天文3年(1534)、空席となった蓮華光院門跡を兼帯するようになる。両寺の関係は古く、北朝の命によって入寺した寛尊も元は蓮華光院門跡であった。 義俊は近衛家出身で、以後、貴族の入寺は幕末まで全て近衛家出身者だった。

江戸時代

戦国時代、応仁元年(1467)、応仁2年(1468)、天文5年(1536)と度々焼失している。天正17年(1589)、空性法親王が門跡となると、伽藍復興へと動き出した。寛永年間には整備がいったん完了し、現在の伽藍の基礎ができた。天明年間には五大堂が造営された。慶長16年(1611)、徳川家康は1016石を安堵している。元和元年(1615)、尊性法親王が性演を招いて蓮華光院門跡を復興。

江戸時代末期、慈性法親王輪王寺宮となり江戸寛永寺に移った。真言宗の門跡から天台宗の門跡に移るのは異例の人事であった。幕府が尊王派であった親王を警戒して江戸に移したとも言われる。

近代

古義真言宗、西部真言宗、真言宗大覚寺派(第1次)、古義真言宗、真言宗を経て戦後、真言宗大覚寺派の大本山となった。

明治維新で廃絶となった蓮華光院を合併。

大正時代、大正天皇即位式の饗応殿が下賜されたのに伴い、伽藍の整備が行われ、現在の姿となった。念願の心経殿が再建された。

伽藍

  • 勅封心経殿:現在の大覚寺の事実上の中心となる堂。現在のものは大正14年の再建。法隆寺夢殿を模して設計された。高床式コンクリート造り。本尊は薬師如来で、嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇が書写した勅封般若心経を奉安する。60年に一度、開封される。現存しないが後深草天皇、伏見天皇のものもあったともいう。
  • 御影堂:嵯峨天皇弘法大師後宇多天皇、恒寂親王を祀る。勅封心経殿の拝殿となっている。大正14年の造営。大正天皇即位式の饗宴殿を移築。
  • 五大堂:不動明王などの五大明王を祀る仏堂。本堂。江戸時代の天明年間の再建とされる。元は現在の御影堂正面の石舞台の場所にあったが、大正時代の整備で現在地に移された。元は弘法大師が唐より伝来したという五大明王を祭ったとされる。
  • 御霊殿:後水尾天皇を祀る。蓮華光院御影堂を明治4年に移築。安井堂ともいう。
  • 霊明殿:阿弥陀如来を祀る。右側に草繋全宜門跡を祀る。功労者を祀る。
  • 宸殿:門跡寺院の御所としての中心殿舎。東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものという。
  • 正寝殿:剣璽の間、御冠の間
  • 心経宝塔:昭和42年(1967)建立。秘鍵大師を本尊とする。
  • 五社明神:空海が離宮の鎮守として創建したという。伊勢外宮内宮八幡宮春日社住吉社を祀る。
  • 天神島:天満宮がある。
  • 菊ケ島:
  • 華供養塔:

護摩堂、大日堂聖天堂などもある。

院家

  • 覚勝院 現存
  • 方広院 高尾山薬王院
  • 金剛王院 成田山新勝寺
  • 常住金剛院
  • 大虚空蔵院
  • 菩提心院
  • 戒蔵院
  • 速成就院
  • 大勝院
  • 宝幢院
  • 大智院
  • 無垢染院
  • 総持王院
  • 大金剛院

多くは後世の院室兼帯寺院の号としてみられるものだが、本当に実際にこのような院家があったのかどうかは不明。

関連旧跡

歴代住職

大覚寺宮家の祭祀を参照。

  • 45中御門神海()<>:
  • 46楠玉諦()<>:
  • 47高幡龍暢(1827-1912)<>:讃岐出身。旧姓は奈良。文政10年12月18日生まれ。屋島寺八栗寺神護寺の住職を歴任。1898年(明治31年)大覚寺門跡。1912年(大正1年)9月2日死去。86歳。
  • 48龍池密雄(1843-1934)<>:備後出身。旧姓は和田。1843年(天保14年)生。1873年(明治6年)、高野山顕正院住職。高野山総持院、福山明王院住職を歴任。1914年(大正3年)高野山富性院門主。大覚寺門跡。金剛峰寺座主。1934年(昭和9年)3月4日死去。
  • 49小川光義(1853-1929)<1929-1929>:徳島県出身。1853年(嘉永6年)3月30日生。1899年(明治32年)安祥寺住職。1929年(昭和4年)大覚寺門跡。1929年(昭和4年)12月14日死去。
  • 藤村密幢()<>:
  • 釈法伝()<>:
  • 谷内清巌(1867-1953)
  • 草繋全宜(1884-1969)
  • 乃村龍澄(1883-1977):1883年(明治16年)
  • 横山定雄()<>:
  • 味岡良戒(1903-1988)
  • 黒田昇龍()<>:
  • 井上紀生():立江寺住職。1989年(平成1年)、大覚寺門跡。
  • 上井寛円(1906-2005)
  • 片山宥雄(1919-2015):明王院住職。
  • 新開真堂()<>:
  • 下泉恵尚(1927-)<2008->:徳島県出身。最明寺住職。2008年(平成20年)大覚寺門跡。
  • 黒沢全紹()<>:補陀洛寺住職。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA」より作成

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