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天海旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年3月22日 (水)
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+ | *1549年:[[比叡山]]へ修学。実全に師事。のち[[園城寺]]や[[南都]]でも学ぶ。 | ||
+ | *1571年:[[織田信長]]の比叡山焼打で、甲斐国の[[武田信玄]]のもとに避難。 | ||
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+ | *1590年:蘆名盛重に招かれ、[[江戸崎不動院]]に入る。 | ||
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+ | *1615年(元和1年)7月9日:徳川家康から[[豊国神社]]破却について諮問を受ける。 | ||
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+ | *1623年(元和9年)4月:津藩主藤堂高虎が天海に諮って[[上野東照宮]]創建を計画。この時点で小祠を祀ったとも。1627年(寛永4年)9月17日正遷宮。 | ||
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+ | *1642年(寛永19年):[[讃岐・金倉寺]]の復興を命じ、真言宗から天台宗とする。 | ||
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+ | *1643年7月3日:[[善光寺]]に朱印状を下し、寛永寺末とする。 | ||
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+ | *1643年10月2日:[[寛永寺本覚院]]で死去。108歳。日光山に埋葬。 | ||
+ | *(1652年):天海、[[道成寺]]を天台宗に改宗 | ||
+ | ===死後の年譜=== | ||
+ | *1644年(正保1年)1月:[[寛永寺開山堂]]建立 | ||
+ | *1644年:[[延暦寺慈眼堂]]、建立 | ||
+ | *1645年(正保2年)11月17日:朝廷、東照大権現に宮号宣下。 | ||
+ | *1647年(正保4年):[[和歌山東照宮]]に慈眼堂建立。 | ||
+ | *1648年3月:天海版大蔵経完成。4月17日に日光に奉納。 | ||
+ | *1648年4月11日:朝廷、[[大師号]]「慈眼大師」下賜。 | ||
+ | *1649年:[[日光慈眼堂]]落慶 | ||
== 一覧 == | == 一覧 == | ||
- | *[[ | + | *[[会津・清龍寺]]:福島県大沼郡会津美里町。文殊信仰。両親が祈願 |
- | * | + | *護法石:福島県大沼郡会津美里町。隣接して「慈眼大師御誕生地」碑がある。 |
- | * | + | *[[会津・龍興寺]]:福島県大沼郡会津美里町。得度の寺。両親の墓もある。 |
- | *[[ | + | *[[会津稲荷堂]]:福島県会津若松市。黒川城(鶴ケ城)にあった。別当を務める。 |
- | * | + | *[[江戸崎不動院]]:茨城県稲敷市江戸崎。住職を務める。 |
- | + | *[[喜多院]]:埼玉県川越市。 | |
- | *[[喜多院]] | + | *[[日光山]]:栃木県日光市。 |
- | *[[日光山]] | + | *[[延暦寺南光坊]]:滋賀県大津市の[[比叡山]]。 |
- | *[[比叡山]] | + | *[[金峰山寺]]:奈良県吉野郡吉野町の[[大峰山]]。寛永寺直轄とした天海を中興とする。 |
- | *[[ | + | |
+ | ==霊廟== | ||
+ | *[[延暦寺慈眼堂]]:滋賀県大津市。 | ||
+ | *[[日光輪王寺慈眼堂]]:栃木県日光市。 | ||
+ | *[[寛永寺開山堂]]:東京都台東区。 | ||
+ | *[[喜多院慈眼堂]]:埼玉県川越市。 | ||
+ | *[[天海毛髪塔]]:東京都台東区上野公園。天海の没地。寛永寺本覚院に建てられた。 | ||
- | + | ==弟子== | |
- | + | 法灯を継ぐというよりは庇護下に入ることで権威を得ようとした傾向があるように考えられる。 | |
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2023年3月22日 (水) 時点における最新版
天海(てんかい)(1536-1643)は天台宗の僧侶。日光山の中興開山。徳川家康のブレーン。慈眼大師。
目次 |
略歴
年譜
- 1536年1月1日:陸奥国会津高田で誕生
- 1546年:会津龍興寺で得度。会津高田稲荷堂の舜海に師事。
- 1549年:比叡山へ修学。実全に師事。のち園城寺や南都でも学ぶ。
- 1571年:織田信長の比叡山焼打で、甲斐国の武田信玄のもとに避難。
- 1577年:会津の蘆名氏に寄寓。
- 1577年:世良田長楽寺で春豪から葉上流の伝授を受けた。
- 1590年:小田原の豊臣秀吉に参陣。
- 1590年:蘆名盛重に招かれ、江戸崎不動院に入る。
- 1599年:喜多院住職。
- 1603年:宗光寺住職
- 1607年:徳川家康、天海に比叡山復興を命じる。延暦寺南光坊に入る。探題奉行となり、論義法要を復興する。
- 1608年:駿府に赴く。
- 1609年:権大僧正。
- 1611年:後陽成天皇から毘沙門堂を賜る(復興は1665年のこととなる)
- 1612年:徳川家康、喜多院に関東天台宗法度を下した。関東天台宗の本山と認められ、東叡山と号す。
- 1613年:徳川家康から日光山の管轄を命じられる。
- 1614年:天海、長岡蔵王堂別当の越後・安禅寺を天台宗に改宗させ、関山神社別当宝蔵院末とする。これ以前に宝蔵院は天海門下の、俊海により天台宗となる。
- 1614年:金峰山寺学頭。のち吉野山は寛永寺末となる。
- 1614年:弟子の俊海が顕光寺勧修院に入る。のち戸隠山は寛永寺末となる。妙高山中興の俊海と同一人物か。
- 1615年(元和1年):天海が後陽成天皇から京都御所の高閣を授かり坂本に移築し、滋賀院の起源となる。
- 1615年(元和1年)7月9日:徳川家康から豊国神社破却について諮問を受ける。
- 1616年4月17日:徳川家康死去。久能山での葬儀を執行。
- 1616年7月26日:大僧正
- 1616年:川越藩主に招かれ、箭弓稲荷神社別当の福聚寺を創建。
- 1617年:日光東照宮を創建
- 1619年:徳川義直に招かれ、名古屋東照宮と別当尊寿院を創建。
- 1619年(元和5年):徳川家康の命で、天海が四天王寺を復興。
- 1621年:日光山本坊(日光山光明院)を再建。
- 1621年11月24日:和歌山東照宮と別当天曜寺を創建。鎮座の導師を務めた。
- 1622年:徳川秀忠、天海にはかり寛永寺創建を発願
- 1623年(元和9年)4月:津藩主藤堂高虎が天海に諮って上野東照宮創建を計画。この時点で小祠を祀ったとも。1627年(寛永4年)9月17日正遷宮。
- 1623年:幸善の請願で出羽慈恩寺が延暦寺南光坊の末寺となることを許す(のち寛永寺末となる)
- 1625年10月:寛永寺本坊、落慶
- 1626年(寛永3年)7月:伯耆大山寺学頭就任。
- 1626年:津軽藩、慶好院と天海に相談し、鎌倉五山を模して領内に真言五山の制を設ける。
- 1632年:伯耆大山の大山衆徒中に法度を出す。
- 1632年:光前寺に法度を下す。翌年にも。
- 1632年:仲仙寺に法度を下す。
- 1633年:(仙波東照宮を修造)
- 1634年:焼失した武蔵慈恩寺の新しい本尊として南光坊本尊だった千手観音を寄進。
- 1634年:天海、日吉東照宮を創建。
- 1637年3月:天海版大蔵経の事業が開始
- 1639年:『東照宮縁起』編纂
- 1640年:貫前神社別当の光明院に法度を下す。
- 1640年:世良田長楽寺住職。 まもなく世良田東照宮も創建する。
- 1641年:天海、大光普照寺に色衣着用を許可
- 1641年(寛永18年):羽黒山別当の天宥、天海に師事。羽黒山は天台宗となる。
- 1642年(寛永19年):讃岐・金倉寺の復興を命じ、真言宗から天台宗とする。
- 1642年(寛永19年):天海による延暦寺根本中堂が落慶
- 1643年7月3日:善光寺に朱印状を下し、寛永寺末とする。
- 1643年1月:高麗寺雲上院に法度を下し、寛永寺末とする。
- 1643年10月2日:寛永寺本覚院で死去。108歳。日光山に埋葬。
- (1652年):天海、道成寺を天台宗に改宗
死後の年譜
- 1644年(正保1年)1月:寛永寺開山堂建立
- 1644年:延暦寺慈眼堂、建立
- 1645年(正保2年)11月17日:朝廷、東照大権現に宮号宣下。
- 1647年(正保4年):和歌山東照宮に慈眼堂建立。
- 1648年3月:天海版大蔵経完成。4月17日に日光に奉納。
- 1648年4月11日:朝廷、大師号「慈眼大師」下賜。
- 1649年:日光慈眼堂落慶
一覧
- 会津・清龍寺:福島県大沼郡会津美里町。文殊信仰。両親が祈願
- 護法石:福島県大沼郡会津美里町。隣接して「慈眼大師御誕生地」碑がある。
- 会津・龍興寺:福島県大沼郡会津美里町。得度の寺。両親の墓もある。
- 会津稲荷堂:福島県会津若松市。黒川城(鶴ケ城)にあった。別当を務める。
- 江戸崎不動院:茨城県稲敷市江戸崎。住職を務める。
- 喜多院:埼玉県川越市。
- 日光山:栃木県日光市。
- 延暦寺南光坊:滋賀県大津市の比叡山。
- 金峰山寺:奈良県吉野郡吉野町の大峰山。寛永寺直轄とした天海を中興とする。
霊廟
弟子
法灯を継ぐというよりは庇護下に入ることで権威を得ようとした傾向があるように考えられる。