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応神天皇旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
応神天皇旧跡 |
目次 |
概要
応神天皇は第15代天皇である。伝説的な事歴を持つ天皇であるが、神社においては一般には八幡神として信仰されている。もともと伝説的な天皇であったため八幡神と習合したものと思われるが、ここでは八幡信仰の要素を取り除いた応神天皇の事歴伝説に焦点を当てたい。もちろん、八幡信仰の要素はすでに不可分になっている。むしろ、これは多様な要素が複雑にからみあった八幡信仰の性格を知るための一作業である。八幡信仰の一要素たる応神天皇信仰に注目するものである。また、記紀から派生した伝説を知る作業の一環であり、また天皇伝説地および天皇奉斎神社を知る作業の一貫でもある。
事歴伝説
記紀の応神天皇の事歴に各伝承地を付会して記述する。これらの伝承地は個別的に存在しているものであり、本来は相互に関係の薄いものである。なお、伝承地を網羅することを目指すものではない。
生誕伝説
応神天皇生誕に関する伝説は、神功皇后の伝説とも深く関わってくる。『古事記』『日本書紀』にはいわゆる鎮懐石、宇美の伝説が記載されている。神勅に背いて死を賜った仲哀天皇に代わり、神功皇后は神の託宣を受け、新羅征討を実施した。その新羅征討中に産気付いてしまった。『古事記』神功皇后記には次のようにある。
かような事がまだ終わりませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎮めなされるために石をお取りになって裳の腰におつけになり、筑紫の国にお渡りになってからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされたところを宇美と名づけました。またその裳につけておいでになった石は筑紫の国の伊斗の村にあります。(武田祐吉・中村啓信『新訂 古事記』307頁)
この伝説によると、神功皇后は、新羅征討中に産気付いてしまったが、石を腰に巻いて産気を遅らせ、九州に帰還してから、宇美というところで出産したとされる。そして、その石は伊斗という村にあるという。『日本書紀』にも、神功皇后は臨月を迎えたので、石を挟んで、帰還後にこの地で出産することを祈願し、帰還後の12月14日、筑紫で応神天皇を産み、その場所を「宇〓(サンズイ+弥)」と呼んだとある。挟んだ石は筑前の怡土郡の道のほとりにあると記している。さらに鎮懐石のことは、『万葉集』にも記載があり、筑前国怡土郡深江の子負原というところの、海に臨む丘の上に二つの石があり、これが神功皇后が用いた鎮懐の石だと記している。「鎮懐石」の呼称はこれに基づいている。卵のような形の大小の石が二つあったという。また『筑前風土記』および『筑紫風土記』にも記述があるという(『釈日本紀』)。
この応神天皇誕生の地である宇美の地は、現在の福岡県糟屋郡宇美町とされ、現在、宇美八幡宮が鎮座している。 宇美八幡宮には産湯の水や、産湯を浴びせた場所にあった「湯蓋の森」や産衣を掛けた「衣掛の森」という巨樹、産婆の湯方殿を祀った湯方社がある。
しかし、誕生地と伝える伝承地はここだけではない。壱岐、肥後産島、紀伊日高に応神天皇誕生地と伝える場所がある。壱岐の伝承地は明確でないが、湯ノ本温泉は応神天皇の産湯であるとされる。肥後の産島は八代海に浮かぶ天草諸島の一島で、ここで応神天皇が誕生したとされ、産島神社がある。紀伊では日高郡に伝承地があり、産湯八幡神社が鎮座している。
また鎮懐石が納められた怡土郡の子負原とされるところは福岡県糸島郡二丈町の鎮懐石八幡宮だという。江戸時代、鎮懐石は盗まれてしまったが、再発見されたときに鎮懐石八幡宮が建てられて奉安された。
やはり鎮懐石の伝承地も他にもあり、壱岐や山城にも納められたともいい、壱岐の本宮八幡神社や壱岐の月読神社、京都の月読神社に奉安されているという。月延石とも呼ばれている。
胞衣塚
記紀には記述はないが、応神天皇の胞衣を埋納したという地が全国にいくつかある。最も代表的なのは、箱に納められて埋納され、その上に松が植えられたという筑前の「葦津ヶ浦」の伝説である。この胞衣を埋納した上に植えた松を筥松といい、これが筥崎宮の起源とされる。また筑前の宇美八幡宮の北側に「胞衣が浦」という山があり、宇美八幡宮上宮が鎮座しているが、ここも胞衣を埋納したとされる場所の一つである。宇美八幡宮は前述のとおり、応神天皇生誕地とされる場所である。 また紀伊日高郡には、応神天皇行在所に応神天皇の胞衣を埋納したという伝説があり、衣奈八幡神社となっている。
忍熊王の乱と紀伊滞在
神功皇后は九州から畿内に凱旋しようとするが、皇子(のちの応神天皇)誕生を知った忍熊王(応神天皇の異母兄弟)が自らの皇位継承のため、反乱を起こした。『日本書紀』によると、危険を察知した神功皇后は、皇子を南海経由の別ルートで紀伊に送り出した。皇子は紀伊水門に到着し、皇后とは紀伊日高で再会した。この後、神功皇后は小竹宮に入った。神功皇后は、武内宿禰と武振熊を派遣して、忍熊王を討って反乱を平定した。
この忍熊王の乱の際の紀伊滞在の記述に基づく応神天皇の伝説が、和歌山県北端の加太(和歌山市加太)から南端の串本(串本町)までの紀伊半島沿岸部に広く分布している。
紀伊の応神天皇旧跡伝承地 |
海部郡の加太浦周辺には次の伝説がある。皇子は、武内宿祢とともに紀伊川河口に上陸して、そこに頓宮を設けて、しばらく滞在したという。その跡地に芝原八幡宮が創建されたという。現在の木本八幡宮である。あるいは加太浦に神功皇后と皇子が上陸し、そこから矢を放ったところ下地尾の地に刺さったという。その矢の到達地に創建されたのが射箭頭八幡神社である。
名草地域にも岡田、且来、野上に皇子行在所伝説地がある。それぞれ、岡田八幡神社、旦来八幡神社、野上八幡宮がある。
また『日本書紀』に日高の地名が見えることから、日高郡にも伝説地が集中している。神功皇后が応神天皇を出産したのは宇美ではなく紀伊日高とされ、その地には産湯八幡神社(前述)がある。あるいは、皇子は大引浦に上陸して、豪族の岩守というものがこれを迎えて、この地に導いて行在所を建てた。そして、その行在所に応神天皇の胞衣を納めたという。この地に創建されたのが衣奈八幡神社(前述)である。あるいは、皇子が上陸したのは由良の神崎山(あるいは平石)であるといい、その地に創建された神社を起源とするのが、由良の宇佐八幡神社であるという。また、日高地域には行在所であったという吉田八幡神社や、小竹宮(後述)跡とされる小竹八幡神社 元宮がある。
このほか、紀伊半島南端の串本にも上陸地伝説地があり、水門神社が鎮座している。
紀ノ川沿いの伝説によると、神功皇后は紀伊川を遡って大和を目指したという。この伝説は、『日本書紀』には、神功皇后は紀伊で皇子と再会し、小竹宮(後述)に入ったあと移動した記述がないことに基づいて、忍熊王の反乱が終わるまで紀伊に滞在していたのだろうというした解釈によるものだと思われる。
伝説によると、皇子は武内宿祢とともに安原の地に上陸し、神功皇后は衣奈浦より上陸して安原で合流して、頓宮を建てた。この跡地が安原八幡宮であるという。神功皇后と皇子は安原から、紀伊川北岸の小竹宮に向かうが、その途中に貴志川近くで滞在した。この行在所跡が貴志川八幡宮という。そして小竹宮に入った。また小竹宮は志野神社とされる。神功皇后と皇子は、紀伊川をさらに遡って大和に向かい、その途中に名手の地や隅田の地で滞在した。この跡地が、名手八幡神社、隅田八幡神社であるという。
小竹宮は、神功皇后の頓宮で、皇后が皇子と紀伊日高で再会したあとに移ったところである。この伝説地に関しては、日高郡の小竹八幡神社 元宮(前述)が代表的である。そのほか、紀伊川沿いの志野神社(前述)や、大和吉野の波宝神社、和泉の旧府神社が知られている。
名称交換伝説
『古事記』によると、武内宿祢が皇子(のちの応神天皇)をつれて、禊のために近江・若狭方面に赴いて越前の敦賀で行在所を建てたとき、気比大神(気比神宮)が皇子と名前を交換するように神勅を下した。『古事記』には次のようにある。
かくて建内の宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狭の国を経た時に、越前の敦賀に仮宮を造ってお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになる伊奢沙別の大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せのとおりおかえ致しましょう」と申しました。(『新訂 古事記』309頁)
一方、『日本書紀』「神功皇后紀」には神功皇后13年2月8日にやはり武内宿祢に伴われて、笥飯大神(気比大神)を拝したとあり、また『日本書紀』「応神天皇紀」に笥飯大神(気比大神)の参拝のとき、大神と名前を交換して、大神を「去来紗別神」といい、太子(応神天皇)を「誉田別尊」と名付けたという。
敦賀の皇子行在所の伝承地には八幡神社(敦賀市三島町)が創建されている。
皇宮
神功皇后は、皇子を皇太子とし、大和の磐余に若桜宮を造営して都とした(『日本書紀』)。磐余稚桜宮(『延喜式』)ともいい、現在の奈良県桜井市のあたりにあったとされる。式内、稚桜神社がその跡地とされ、論社が市内に二社存在する。池ノ内の稚桜神社、谷の若桜神社がそれである。いずれも応神天皇は祀られてはいない。
応神天皇は、神功皇后の崩御後、「軽島之明宮」にて即位したとされる。「軽島之明宮」(古事記)は、「明宮」(『日本書紀』)、「軽島豊阿伎羅宮」(『摂津国風土記』逸文)、「軽島明宮」(『延喜式』)とも表記する。これは現在の奈良県橿原市大軽町周辺の軽寺跡が跡地とされ、同地の春日神社に記念碑が建立されている。春日神社の近くには応神天皇の霊を祀った塚があり、その神霊が春日神社に合祀されているともいう。
行幸説話
即位後の応神天皇行幸の記述を見ると、『古事記』には、近江行幸(途中の山城宇治)の記事が、『日本書紀』には近江行幸(途中の山城宇治)(6年2月)、吉野宮行幸(19年10月)、大隅宮行幸(22年3月)、淡路島行幸(22年9月)、小豆島行幸(22年9月)、葉田葦守宮行幸(22年9月)が記されている。また『播磨国風土記』には、播磨国飾磨郡、揖保郡などに行幸した説話が多数登場する(しかし、後世に著名な伝承地は見当たらない)。
即位6年2月の近江行幸については、記紀には途中の山城宇治での説話があるのみで、近江における具体的な記述はない。しかし、これを敷衍した説話がある。近江行幸のとき、応神天皇は奥津島神社(現存)に参拝した。このとき、宇津野々辺というところに行在所を設けた。その後、この行在所跡にて日輪の形を二つ見るという奇瑞があったので、神社を建てたという。これが近江八幡の日牟礼八幡宮の創建だという。(日牟禮八幡宮ウェブサイト、『全国八幡神社名鑑』104)
吉野宮、大隅宮、葉田葦守宮は、応神天皇の離宮であった。吉野宮は応神天皇の代に初めて記録に見え、のちの天皇もたびたび利用する離宮である。これは考古学調査が進んでおり、吉野の宮滝遺跡がその跡地だといわれている(ただし、天武天皇朝以降の遺跡とされる。)。
大隅宮(おおすみのみや)は、難波大隅島にあった離宮で、その伝承地には大隅神社(おおすみ)が鎮座している。大隅島はいわゆる八十島の一つといわれる。応神天皇崩御後に宮跡に祀ったのが創始とされる。その後、漂着した賀茂神社の神体を合祀したという(『平成祭礼データ』)。あるいは、大隅宮跡は大隅神社のある大道村の西側にあり、祠が祀られていたともいう(『大阪府全志3』398)。
葉田葦守宮(はだのあしもりのみや)は吉備(岡山県)にあった離宮で、妃の兄媛(えひめ)が故郷に帰ったのを慕って、吉備に行幸したときの離宮である。 葉田葦守宮の伝承地には葦守八幡宮が鎮座している。葦守八幡宮は兄媛の甥である中津彦命が応神天皇崩御後に宮跡に祀ったのが始まりとされる。
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興味深いのは小豆島である。『日本書紀』には小豆島に立ち寄ったとのみ書かれており、具体的なことは記載がない。しかし、小豆島においては伝説が伝えられており、5箇所の八幡宮が応神天皇の旧跡として伝承されている。 応神天皇は淡路島を経て小豆島に上陸した。最初に上陸したのは吉備ケ崎で、付近で休息した(伊喜末八幡神社)。同地より再び乗船し、沿岸を周って双子浦の潮土山(富丘山)の麓に停泊して上陸した(富丘八幡神社)。景勝地であったのでこの場で宿泊した。宿泊した場所に柏の木を植えた(宝生院の真柏)。翌朝、陸路、池田の里に向かい、途中の八幡山にて島玉神を祀った(島玉神。孔雀園跡地)。生田の森から乗船した(亀山八幡神社)。三都半島を超えて、内海水木の御荷ケ崎(鬼ケ崎)に着船した。そこから北へ向かい、奇勝といわれる神懸山(寒霞渓)に登山。そこで狩猟した。下山して馬目木台(宮山、亀甲山)に至る。再び狩猟してここに宿泊した(内海八幡神社)。翌朝、旭峠を超えて、橘港より乗船。吉備に向かおうとするが、風波のため、福田港に寄港した。突然のことだったので、田中に丸木と刈穂による行宮を建てた(福田八幡神社)。平安時代になって託宣によって旧跡に八幡宮が建てられたという。以上、主に『香川県史蹟名勝天然記念物調査報告 第3巻』に依った。
記紀には記述はないが、小豆島と吉備児島半島の間にある直島にも応神天皇行幸の伝承がある。島には「応神天皇腰掛岩」がある。直島八幡宮が鎮座している。
崩御と霊廟
『日本書紀』によると、応神天皇は、即位41年2月15日、110歳で明宮にて崩御したとし、また一説には大隅宮にて崩御したとも伝えている。『古事記』には9月9日、130歳にて崩御し、川内恵賀之裳伏岡に葬られたと記述されている。『延喜式』に恵我藻伏崗陵とあり、「在河内国志紀郡。兆域東西五町。南北五町。陵戸二烟。守戸三烟。」とある。
これは古くから誉田御廟山古墳だと考えられてきた。江戸時代を通じて、江戸幕府は誉田御廟山古墳を応神天皇陵だと見做してきており、明治維新後もこの見解は踏襲された。これは、誉田八幡宮が古墳の傍らにあったことの影響が大きいだろう。欽明天皇の時代に勅願によって創建されたという神社で(『誉田宗廟縁起』)、幕末に到るまで誉田御廟山古墳を管理してきた。護国寺という神宮寺もあった。
あるいは、誉田御廟山古墳は後の改葬で、当初は百舌鳥御廟山古墳に葬られたとする伝説もある。誉田御廟山古墳には後に改葬されたものという。これは百舌鳥御廟山古墳を奥の院としていた百舌鳥八幡宮の社伝による(『泉州志』)(『前王廟陵記』でも改葬説に言及している)。かつては小祠があり百舌鳥八幡宮の社僧が奉仕していたという。1901年(明治34年)12月9日、百舌鳥陵墓参考地に治定された(『陵墓参考地一覧』、『事典 陵墓参考地』、ただし『大阪府全志5』424には1902年(明治35年)3月に陵墓参考地となったとしている)。
このほか、近畿地方から離れるが、神奈川県の応神塚古墳は、相模国一宮の寒川神社祭神の墳墓ともされる。寒川神社祭神は一説には八幡神とされ、応神塚古墳は応神天皇の墳墓ということになり、名称もその伝承に由来するものと思われる。
西が百舌鳥御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)と百舌鳥八幡宮、東が誉田御廟山古墳(現・応神天皇陵)と誉田八幡宮 |
近代の皇霊祭祀における応神天皇
前近代における応神天皇の祭祀で、霊廟的要素あるいは祖霊祭祀の要素があったと推定できるのは、「二所宗廟」の一つとされた石清水八幡宮と、陵墓に付随していた誉田八幡宮くらいであろう。前近代において、宮中に御黒戸と呼ばれる歴代天皇を祀る仏教式の霊廟があったが、応神天皇が祀られていた形跡はない。
明治維新に伴い、皇室においては神仏分離が行われて、祖霊祭祀の神式化が行われた。仏式の陵墓が数多く残るなど、神式化は不完全に終わったが、皇霊祭祀(皇室の祖霊祭祀)を主軸の一つとする近代天皇祭祀の成立につながった。その皇霊祭祀の中枢となっているのが宮中三殿の皇霊殿である。1869年(明治2年)、神祇官神殿に歴代天皇の霊が奉斎されたのに始まるが、このとき応神天皇の霊も鎮座した。1889年(明治22年)に宮中三殿が成立し、現在も祭祀が行われている。
皇霊殿および陵墓を中心とする一元的な皇霊祭祀を含む近代天皇祭祀が確立する一方、天皇皇族と特別な関係を主張する由緒を持っていた各地の皇霊奉斎神社は、一部が官社になったほかは近代天皇祭祀の枠組みに外に置かれてしまった。その由緒が否定されたわけではないが、制度上は数ある神社の一つになってしまった。応神天皇に関する場合、誉田八幡宮は、官社に列格せず、応神天皇陵を管轄する霊廟としての国家的地位も認められなかった。応神天皇陵域をも含んでいた神域は断絶された。誉田八幡宮と応神天皇陵は制度上はおのおの別個の存在となってしまったのだ。
近代神祇制度では、国家的に重要と認められた神社は、官社に列格され、制度上、特別な地位に置かれた。その中でも、一部の皇霊奉斎神社に対してには「宮」号や「神宮」号が認められた(「宮」号や「神宮」号を持つ神社が全て皇霊を祀るわけではない。)。「宮」号や「神宮」号を称することで特別な待遇を受けるわけではないが、一つの格式であった。
近代において、宇佐八幡宮は官幣大社に列格され、「宇佐神宮」と称すこととなった。宇佐八幡宮が「八幡宮」ではなく「神宮」を称したのはなぜか。同様に、あるいは場合によってはそれ以上に国家的に重要な、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮が「八幡宮」を称しているのに対して、なぜ「宇佐神宮」なのか。おそらく八幡大神としての応神天皇ではなく、天皇としての応神天皇を祀る代表的神社としての性格を強調するためではなかっただろうか。前述の通り、「神宮」を称するのは皇霊奉斎神社が多い。また近代において、著名な天皇皇族を祀る多数の「神宮」や「宮」が創建されていったが、各天皇皇族を記念する霊廟的な神社が多い。これらを考えると、宇佐神宮は「橿原神宮」や「鎌倉宮」に類する位置付けとされたと考えられ、特に宇佐神宮には、「二所宗廟」の一社たる石清水八幡宮や陵墓縁の誉田八幡宮を退けて、応神天皇を記念する代表的な霊廟としての地位が期待されたのではないだろうか。
近代には応神天皇を祀る神宮がもう一つ創建される予定だった。扶余神宮である。植民地時代の朝鮮において、昭和年間に扶余に百済の都扶余を記念する神宮の造営が進められていた。そこには、朝鮮ゆかりの天皇が奉斎される予定だったが、斉明天皇、天智天皇、神功皇后とともに、応神天皇が含まれていた。記紀によると、応神天皇は百済と関わりが深かったことが記されている。しかし結局、敗戦で造営中止となった。八幡信仰に全く基づかない応神天皇奉斎神社として興味深いものであった。
応神天皇旧跡一覧
応神天皇旧跡一覧 地図 |
名称 | 所在地 | 国郡 | 概要 | 社格など | |
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応神天皇生誕地 | |||||
宇美八幡宮 | 福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1-1 | 筑前国糟屋郡 | 応神天皇誕生地に鎮座する八幡宮。記紀に由来。 | 県社・別表神社 | |
産湯八幡神社 | 和歌山県日高郡日高町産湯313 | 紀伊国日高郡 | 応神天皇誕生地に鎮座する八幡宮。 | ||
産島神社 | 熊本県天草市河浦町宮野河内 | 肥後国天草郡 | 応神天皇誕生地に鎮座する八幡宮。 | ||
鎮懐石 | 応神天皇の出産を遅らせるために神功皇后が腰に巻いた石。 | ||||
鎮懐石八幡宮 | 福岡県糸島市二丈深江 | 筑前国怡土郡 | 鎮懐石を奉安する八幡宮。 | 村社 | |
本宮八幡神社 | 長崎県壱岐市勝本町本宮西触1437 | 壱岐国壱岐郡 | 鎮懐石がある八幡宮。 | 式内社・名神大社・村社 | |
京都月読神社 | 京都府京都市西京区松室山添町15 | 山城国葛野郡 | 鎮懐石がある神社。 | 式内社・名神大社・松尾大社摂社 | |
壱岐月読神社 | 長崎県壱岐市芦辺町国分東触 | 壱岐国壱岐郡 | 鎮懐石がある神社。 | 式内社・名神大社・無格社 | |
胞衣塚 | 応神天皇の胎盤を埋納したとされる塚。 | ||||
筥崎宮 | 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1 | 筑前国那珂郡 | 応神天皇の胞衣塚に鎮座する八幡宮。 | 式内社・名神大社・筑前一宮・官幣大社・別表神社 | |
宇美八幡宮 上宮 | 福岡県糟屋郡宇美町宇美 | 筑前国糟屋郡 | 応神天皇の胞衣塚に鎮座する八幡宮。宇美八幡宮の境内社。宇美八幡宮を参照。 | ||
衣奈八幡神社 | 和歌山県日高郡由良町衣奈669 | 紀伊国日高郡 | 応神天皇の胞衣塚に鎮座する八幡宮。紀伊上陸のときの行在所旧跡。石清水八幡宮衣奈別宮。 | ||
忍熊王の乱と紀伊滞在 | 『日本書紀』によると、忍熊王の乱のとき、神功皇后および応神天皇は紀伊に上陸して滞在した。 | ||||
海部郡 | 射箭頭八幡神社 | 和歌山県和歌山市本脇260 | 紀伊国海部郡 | 紀伊上陸のときに放った矢が着地した旧跡に鎮座する八幡宮。 | 村社 |
木本八幡宮 | 和歌山県和歌山市西庄1 | 紀伊国海部郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | 県社 | |
名草郡 | 岡田八幡神社 | 和歌山県海南市岡田29 | 紀伊国名草郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | |
旦来八幡神社 | 和歌山県海南市且来1219 | 紀伊国名草郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | ||
野上八幡宮 | 和歌山県海草郡紀美野町小畑623 | 紀伊国那賀郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。石清水八幡宮野上別宮。 | 県社 | |
日高郡 | 宇佐八幡神社 | 和歌山県日高郡由良町里169 | 紀伊国日高郡 | 紀伊滞在のときの上陸地・行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | |
衣奈八幡神社 | 和歌山県日高郡由良町衣奈669 | 紀伊国日高郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。応神天皇の胞衣塚。 | ||
産湯八幡神社 | 和歌山県日高郡日高町産湯313 | 紀伊国日高郡 | 応神天皇誕生地に鎮座する八幡宮。 | ||
吉田八幡神社 | 和歌山県御坊市藤田町吉田2268 | 紀伊国日高郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | ||
紀伊川 | 安原八幡神社 | 和歌山県和歌山市相坂671 | 紀伊国名草郡 | 紀伊滞在のときの上陸地・行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | |
貴志川八幡宮 | 和歌山県紀の川市貴志川町岸宮1124 | 紀伊国那賀郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | ||
名手八幡神社 | 和歌山県紀の川市穴伏463 | 紀伊国那賀郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | ||
隅田八幡神社 | 和歌山県橋本市隅田町垂井622 | 紀伊国伊都郡 | 紀伊滞在のときの行在所旧跡に鎮座する八幡宮。石清水八幡宮隅田別宮。 | 県社 | |
牟婁 | 水門神社 | 和歌山県東牟婁郡串本町大島73-2 | 紀伊国牟婁郡 | 紀伊滞在のときの上陸地・行在所旧跡に鎮座する八幡宮。 | 村社 |
小竹宮 | 神功皇后(および応神天皇)の忍熊王の乱のときの離宮。 | ||||
小竹八幡宮 | 和歌山県御坊市薗642 | 紀伊国日高郡 | 小竹宮の旧跡に鎮座する八幡宮。ただし、遷座している。 | 郷社 | |
小竹八幡宮 元宮 | 和歌山県御坊市薗 | 紀伊国日高郡 | 小竹宮の旧跡に鎮座する八幡宮。小竹八幡宮の元宮。 | ||
志野神社 | 和歌山県紀の川市北志野557 | 紀伊国那賀郡 | 小竹宮の旧跡に鎮座する神社。 | ||
波宝神社 | 奈良県五條市西吉野町夜中176 | 大和国吉野郡 | 小竹宮の旧跡に鎮座する神社。 | 郷社 | |
旧府神社 | 大阪府和泉市尾井町198 | 和泉国和泉郡 | 小竹宮の旧跡に鎮座する神社。 | 式内社・飛地境内社 | |
敦賀行啓 | 応神天皇が皇子時代に敦賀に行啓し、気比大神に参拝した。 | ||||
弓削八幡宮 | 滋賀県高島市今津町梅原1054 | 近江国高島郡 | 敦賀行啓したときの道筋の行在所に創建された八幡宮。 | 式内社・村社 | |
八幡神社 | 福井県敦賀市三島町1丁目3-3 | 越前国敦賀郡 | 敦賀行啓したときの行在所に創建された八幡宮。 | 式内社・県社 | |
気比神宮 | 福井県敦賀市曙町11-68 | 越前国敦賀郡 | 応神天皇と名前を交換したという気比大神を祀る神社。 | 式内社・名神大社・越前一宮・官幣大社・別表神社 | |
磐余稚桜宮 | 神功皇后・履中天皇の皇宮。 | ||||
稚桜神社 | 奈良県桜井市大字池之内字宮地1000 | 大和国城上郡 | 神功皇后・履中天皇の皇宮跡に鎮座する神社。 | 式内社・村社 | |
若桜神社 | 奈良県桜井市大字谷字西浦344 | 大和国城上郡 | 神功皇后・履中天皇の皇宮跡に鎮座する神社。 | 式内社・村社 | |
軽島之明宮 | 応神天皇の皇宮。 | ||||
春日神社 | 奈良県橿原市大軽町北垣内374 | 大和国高市郡 | 応神天皇の皇宮跡に鎮座する神社。 | ||
近江行幸 | |||||
宇治神社・宇治上神社 | 京都府宇治市宇治山田1 | 山城国宇治郡 | 応神天皇の離宮跡に鎮座する神社(典拠未確認)。一般には菟道稚郎子命の離宮跡という。 | 宇治神社:府社、宇治上神社:村社 | |
日牟礼八幡宮 | 滋賀県近江八幡市宮内町257 | 近江国蒲生郡 | 応神天皇の近江行在所跡に鎮座する八幡宮。 | 県社・別表神社 | |
吉野宮 | 応神天皇などの離宮。 | ||||
宮滝遺跡 | 奈良県吉野郡吉野町宮滝 | 大和国吉野郡 | 吉野宮の遺跡。ただし、天武天皇朝以降の遺跡。 | ||
大隅宮 | 応神天皇の離宮。 | ||||
大隅神社 | 大阪府大阪市東淀川区大桐5丁目14-81 | 摂津国西成郡 | 応神天皇の離宮跡に鎮座する神社。 | 村社 | |
小豆島行幸 | |||||
小豆島五社八幡宮 | 香川県小豆郡 | 讃岐国小豆郡 | 応神天皇小豆島行幸の行在所に鎮座する八幡宮。伊喜末、富丘(潮土山)、亀山(池田)、内海(亀甲山・苗羽)、葺田(福田)の五社がある。 | 郷社・村社 | |
直島行幸 | |||||
直島八幡神社 | 香川県香川郡直島町733 | 讃岐国香川郡 | 応神天皇行在所に由来する八幡宮。 | 郷社 | |
葉田葦守宮 | 吉備行幸の際の応神天皇の離宮。 | ||||
葦守八幡宮 | 岡山県岡山市北区下足守 | 備中国賀陽郡 | 応神天皇の離宮跡に鎮座する八幡宮。 | 郷社 | |
陵墓 | |||||
誉田八幡宮 | 大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8 | 河内国古市郡 | 応神天皇陵に付随する八幡宮。 | 府社 | |
誉田御廟山古墳 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目 | 河内国古市郡 | 応神天皇陵に治定されている古墳。 | 応神天皇陵 | |
百舌鳥八幡宮 | 大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5丁706 | 和泉国大鳥郡 | 石清水八幡宮万代別宮。 | 府社 | |
百舌鳥御廟山古墳 | 大阪府堺市北区百舌鳥本町1丁 | 和泉国大鳥郡 | 応神天皇の初葬地ともされる古墳。 | 百舌鳥陵墓参考地 | |
寒川神社 | 神奈川県高座郡寒川町宮山3916 | 相模国高座郡 | 祭神が八幡大神(応神天皇)という説がある神社。近隣に寒川神社祭神の墳墓といわれる「応神塚古墳」がある。 | 式内社・名神大社・相模一宮・国幣中社・別表神社 | |
応神塚古墳 | 神奈川県高座郡寒川町岡田2380 | 相模国高座郡 | 寒川大神の墳墓とされる古墳。寒川大神は八幡大神(応神天皇)という説がある。 | 治定外 | |
霊廟 | |||||
宮中三殿 皇霊殿 | 東京都千代田区千代田 | 宮中三殿の一殿。歴代天皇皇族を祀る神殿。 | |||
石清水八幡宮 | 京都府八幡市八幡高坊30 | 山城国綴喜郡 | 「二所宗廟」の一社。三大八幡宮の一社。 | 二十二社・官幣大社・勅祭社・別表神社 | |
宇佐神宮 | 大分県宇佐市大字南宇佐2859 | 豊前国宇佐郡 | 八幡信仰の総本社。三大八幡宮の一社。 | 式内社・名神大社・豊前一宮・官幣大社・勅祭社・別表神社 | |
扶余神宮 | (朝鮮忠清南道扶余郡扶余面) | 植民地時代、百済の首都扶余の跡に創建される予定だった、百済所縁の天皇を奉斎する神社。未鎮座のまま廃絶。 | 官幣大社 |