ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

新熊野山

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*仁安年間(1166-1169):[[西行]]が児島を訪問。清田八幡宮で歌を詠んだ。
*仁安年間(1166-1169):[[西行]]が児島を訪問。清田八幡宮で歌を詠んだ。
*1170年(嘉応2年):五流尊瀧院の行宗、紀伊熊野の長床執行となったと伝える。(『両峰問答秘抄』)  
*1170年(嘉応2年):五流尊瀧院の行宗、紀伊熊野の長床執行となったと伝える。(『両峰問答秘抄』)  
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*1184年(元暦1年)9月:藤戸の戦い。その功績により波佐川庄が佐々木盛綱に与えられる。
*1187年(文治3年):五流尊瀧院の行宗、[[後白河法皇]]の病気平癒の功績により少僧都になったと伝える。(『両峰問答秘抄』)  
*1187年(文治3年):五流尊瀧院の行宗、[[後白河法皇]]の病気平癒の功績により少僧都になったと伝える。(『両峰問答秘抄』)  
*1205年(元久2年):児島荘が紀伊熊野の長床衆の所領となる(清田八幡宮棟札)。
*1205年(元久2年):児島荘が紀伊熊野の長床衆の所領となる(清田八幡宮棟札)。
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*1219年(承久1年)頃:清田八幡宮、現在地に遷座したという。
 
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*1220年(承久2年):覚仁法親王が戦乱を避け、児島に来訪(『岡山県郡治誌下』)。覚仁法親王の児島来訪が史実かどうかは疑わしい。また伝承によって頼仁親王の配流の後ともいう。
 
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*1221年(承久3年):承久の乱。[[頼仁親王]]が児島に配流となる(吾妻鏡)。
 
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*1240年(仁治1年):[[後鳥羽天皇]]供養塔を建立。現存。
 
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*1184年(元暦1年)9月:藤戸の戦い。その功績により波佐川庄が佐々木盛綱に与えられる。
 
*1210年(承元4年)9月19日:鎌倉幕府から波佐川庄復帰を認められたという。(この書状は偽文書の可能性が指摘されている)
*1210年(承元4年)9月19日:鎌倉幕府から波佐川庄復帰を認められたという。(この書状は偽文書の可能性が指摘されている)
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*1218年(建保6年):円満院門跡の覚仁法親王、園城寺長吏42世となる。
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*1219年(承久1年)頃:清田八幡宮、現在地に遷座したという。
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*1220年(承久2年):覚仁法親王が戦乱を避け、児島に来訪(『五流伝記略』)。覚仁法親王の児島来訪が史実かどうかは疑わしい。また伝承によっては頼仁親王の配流の後ともいう。
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*1221年(承久3年):承久の乱。
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*1221年(承久3年)7月25日:[[頼仁親王]]が備前国児島に配流となり、備前国守護の佐々木信実に預けられた(『吾妻鏡』同日条)。
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*1239年(延応1年):後鳥羽上皇、隠岐で崩御。
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*1240年(仁治1年):覚仁法親王と頼仁親王の兄弟が後鳥羽天皇供養塔を建立したと伝える。現存。
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*1247年(宝治1年)4月20日:五流尊瀧院の伝承ではこの日、頼仁親王が死去。諸興寺に葬り、隠徳院の諡号を贈ったという。一般に頼仁親王は1264年(文永1年)5月23日に死去したとされる。
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*1248年(宝治2年):覚仁法親王、熊野三山検校11世および新熊野検校10世に就任。
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*1255年(建長7年):後嵯峨上皇の熊野御幸で覚仁法親王が先達を務めた。
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*1266年(文永3年)4月12日:覚仁法親王、死去。桜井塚に葬られた。
*1279年(弘安2年):紀伊熊野長床衆、荘園管理と仏事を定めた『長床六十三箇条式目』を制定。
*1279年(弘安2年):紀伊熊野長床衆、荘園管理と仏事を定めた『長床六十三箇条式目』を制定。
*1327年(嘉暦2年):児島修験の良宋(良宗)、紀伊熊野関係の歌を集めた『新浜木綿和歌集』を編纂する。
*1327年(嘉暦2年):児島修験の良宋(良宗)、紀伊熊野関係の歌を集めた『新浜木綿和歌集』を編纂する。
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*1921年(大正10年)4月30日:熊野神社本殿第二殿、特別保護建造物となる(1921年(大正10年)国宝となり、戦後、国重要文化財となる)。(『岡山県郡治誌下』)
*1921年(大正10年)4月30日:熊野神社本殿第二殿、特別保護建造物となる(1921年(大正10年)国宝となり、戦後、国重要文化財となる)。(『岡山県郡治誌下』)
*1946年(昭和21年)3月30日:五流尊瀧院、[[天台寺門宗]](もしくは[[天台宗延暦寺派]])から独立して[[修験道本庁]](正式名称は「修験道」)を設立。
*1946年(昭和21年)3月30日:五流尊瀧院、[[天台寺門宗]](もしくは[[天台宗延暦寺派]])から独立して[[修験道本庁]](正式名称は「修験道」)を設立。
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*1971年(昭和46年)2月:後鳥羽天皇供養塔を学術調査。中から歯などの納入品が発見された。
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*1971年(昭和46年)2月:後鳥羽天皇供養塔を解体修理と学術調査。中から火葬した骨片95点、歯12点、香木8点、鉄製細片80点の納入品が発見された。
*2003年(平成15年)9月21日:熊野神社、長床を焼失。
*2003年(平成15年)9月21日:熊野神社、長床を焼失。
*2007年(平成19年):熊野神社、長床を再建。
*2007年(平成19年):熊野神社、長床を再建。

2020年8月16日 (日) 時点における版

新熊野山は岡山県倉敷市林の熊野神社五流尊瀧院を中心とする熊野信仰修験霊場。中国地方に勢力を擁した児島修験児島五流五流修験)の拠点である。役小角の高弟5人に由来するとされる。後鳥羽天皇皇子の覚仁法親王と頼仁親王の兄弟が中興し、頼仁親王の子孫が五院を代々継承してきたとされる。この地は紀伊熊野本宮大社長床衆の所領児島荘であり、派遣されて紀伊熊野と往復しながら荘園を管理する立場にあった山伏が定着し、地方教団を築いたと考えられている。天台宗寺門派の系統だが、一部の山伏は真言宗を兼ね、東寺とも深いつながりを持っていた時期がある。近世には聖護院門跡を中心とする本山派教団に属したが、教団内で高い地位を占めると共に、聖護院とは別に独自の免許状を発行する権限も持っていた。

目次

新熊野三山

  • 蟻峰山麓:熊野本宮に相当する
    • 五流尊瀧院
    • 熊野神社
    • 大願寺:熊野神社別当。1871年(明治4年)の絵図によると、神社本殿の西方、池(桜井塚のある)のすぐ北にあった。現在の忠魂碑前のあたり。中世の天誉、幕末の湛海の名が知られる。標柱あり。
    • 八尾羅宮:
    • 本殿:
    • 護摩堂:
    • 御庵室:
    • 庚申堂:
    • 五流稲荷大明神:
    • 三宝荒神:
    • 天満宮:
    • 高徳神社:祭神は児島高徳
    • 覚仁親王墓:治定外墓。桜井塚。
    • 後鳥羽天皇陵_備前伝承地
    • 智明権現:伯耆大山の智明権現を祀る神社。太法院跡にある。
    • 観音堂:五流尊瀧院が「熊野十二社大権現本堂」として祀る。
    • 大守家:観音堂の南にあった。
    • 三重塔:
    • 三宝荒神:
    • 吉祥坊祠:験力をふるった吉祥坊という山伏をまつったものという。
    • 役小角供養塔
    • 真浄院:非座衆の仁平寺だという。元は郷内小学校下の道路あたりあったが、1890年(明治23年)報恩院跡に移転したという。報恩院本堂と大願寺客殿を譲り受けたという[1]
    • 阿弥陀庵:覚城院跡にある。
    • 高見家:下禰宜。後鳥羽上皇宝塔の西向かいにあった。
  • 蟻峰山上:峰入り修行を行う。
    • 福岡神社:地主神。
    • 蔵王権現:
    • 歴代墓地:
  • 神蔵山:熊野新宮に相当するという。
    • 諸興寺:奥之院。元禄年間に廃絶(日本歴史地名大系)。岡山県玉野市滝の正蔵院建暦寺の本尊が諸興寺の旧本尊という伝承があるがはっきりしない。
    • 頼仁親王墓:治定墓。若宮御霊殿という御影堂があった。
    • 巌屋毘沙門堂:住心院の奥之院という。厳谷毘沙門堂。
    • 天誉隠居跡:「天誉上人見守り堂跡」の標柱が立つ。
  • 由加山:熊野那智に相当。新熊野三山の一つとされるが具体的な関係性を示す史料は見つかっていない。現在では瑜伽権現の一大霊場として知られるが、五流尊瀧院との関係や熊野信仰や修験道の要素はほぼみられないか。


長床衆

修験道寺院。

五流

五院が五流の語源となったという。五院の成立ははっきりしない。先に3院が成立し2院が後に加わったという古記録もある。江戸時代、吉祥院が新たに創立され、五院と並ぶ歴史を持つ智蓮光院も同格に扱われ、実質7院が最上位を形成した。本山派教団の中でも先達寺院の寺格が認められると共に、住職は「宿老」に昇進する資格があった。

  • 尊瀧院:大宝元年創建。開山は義学。中興は澄意。史料初出は1467年(聖護院道興安堵状)。
  • 太法院:大宝元年創建。開山は義玄。中興は隆禅。跡地に五流大仙智明大権現がある。標柱あり。
  • 建徳院:大宝元年創建。開山は義真。中興は昌範。史料初出は1594年(清田八幡宮棟札)か。五流大仙智明大権現(太法院跡)の南にあったらしい。跡地に標柱あり。小堂が残る。薬医門が移築されて通生の般若院に現存する。末裔は内藤家もしくは大内家という[2]
  • 報恩院:大宝2年創建。開山は芳元。中興は澄有。史料初出は1524年(山上雑用明鏡)。跡地に真浄院がある。標柱あり。末裔は新見家。
  • 伝法院:大宝元年創建。開山は寿元。中興は親兼。史料初出は1422年(清田八幡宮棟札)。建徳院の西にあった。標柱あり。末裔は三宅家。
  • 吉祥院:香川県丸亀市塩飽本島町笠島。末裔は宮家家(五流尊瀧院と同じ)で、宮家邦彦は外交評論家として活躍する。
  • 智蓮光院:五流総禄。中世は東寺と関連が深く、東寺の御影供に、1390年には宣有が、1436年には宣深が出仕していた。宣深は東寺領新見荘や熊野長床衆領津守庄の経営にも関わっていた。光宣(1469、東寺執行日記)真言宗だったかもしれない。五流総禄や長床政所を称し、近世の修験道制度ができる以前は中心的寺院だった可能性もある。史料初出は1427年(熊野本宮権三昧職補任状)。

公卿

五流に継ぐ地位を占めた。「公卿」は本山派教団においても寺格の一つとして認められると共に住職は「宿老」に昇進する資格があった。年行事に準じやや上位に位置付けられた。

  • 観了院:『書上帳』に十院として記載。「太法院付」と「次第」にある。尊瀧院から瑜伽道を挟んで西側にあった。
  • 大泉院:『書上帳』に十院として記載。「一老付」と「次第」にある。本城院の南に常住院と大泉院が並んでいた。
  • 常楽院:『書上帳』に十院として記載。「尊瀧院付」と「次第」にある。伝法院の南に正寿院・宝良院と並んであり、両院の東に常楽院があった。
  • 覚城院:『書上帳』に十院として記載。覚王院が改称か。1183年(寿永2年)、覚城院定仁が聖護院7世静忠(1190-1263)入峰の先達を務めた(『山伏帳』。年代が合わない)。「天和三年書上」では智蓮光院と共に「長床政所」を称す。史料初出は1594年(清田八幡宮棟札)か。「一老付」と「次第」にある。跡地に阿弥陀庵がある。熊野神社石鳥居の近く。
  • 正寿院:『書上帳』に十院として記載。「一老付」と「次第」にある。伝法院の南に正寿院・宝良院と並んであり、両院の東に常楽院があった。あるいは伝法院から瑜伽道を挟んで西にあった。
  • 南瀧院:『書上帳』に十院として記載。「太法院付」と「次第」にある。
  • 本城院:『書上帳』に十院として記載。真浄院(報恩院跡)の南、建徳院の東にあった。
  • 常住院:『書上帳』に十院として記載。「太法院付」と「次第」にある。本城院の南に常住院と大泉院が並んでいた。
  • 青雲院:『書上帳』に十院として記載。「尊瀧院付」と「次第」にある。
  • 宝良院:『書上帳』に十院として記載。「一老付」と「次第」にある。伝法院の南に正寿院・宝良院と並んであり、両院の東に常楽院があった。あるいは伝法院の北にあった。
  • 宝乗院:「一老付」と「次第」にある。尊瀧院の南西に「宝成院」があった。
  • 千寿院:「太法院付」と「次第」にある。
  • 本城院:「報恩院付」と「次第」にある。
  • 知教院:「備中矢掛一流公卿」と「次第」にある。
  • 威徳院:「讃州丸亀同(一流公卿?)・伝法院下」と「次第」にある。
  • 真瀧院:「同塩飽島同(一流公卿?)・吉祥院下」と「次第」にある。
  • 宝積坊:1594年(文禄3年)清田八幡宮棟札
  • 大善坊:備陽国誌
  • 円万院:准年行事。
  • 円明院:准年行事。
  • 『院家院室末寺修験頭分書上帳』
  • 「本山先達年行事准年行事御直院次第」

その他

  • 覚王院:史料初出は1364年で、宋弁僧正が東寺御影供に出仕(東寺私用集)。1426年に亮宋が出仕(東寺長者補任)。宗縁、隆縁という僧侶もいた(山伏帳)。応仁の頃、円海が反乱を起こし、一山を焼く。
  • 千手院:
  • 正寿院:
  • 大泉坊:
  • 不善坊:
  • 宝乗院:
  • 瀧学院:
  • 観乗院:史料初出は1418年(備陽記)。

中世の子院

近世の子院との対応関係の記述は錯綜しており判然としない

  • 千宝坊
  • 千光坊
  • 相泉坊
  • 僧南坊
  • 真龍坊
  • 瀧印坊
  • 覚如坊

非座衆

大願寺の末寺34寺。山伏ではなく普通の僧侶。社僧。近世には6寺のみ残る。

  • 倉敷・大願寺:熊野神社別当
  • 一等寺:岡山県倉敷市曽原。真言宗御室派。護国寺、有南院、福聚寺とも。一山の菩提寺。古墓群が残り、五流山伏の墓も少なくないという。山号は新熊野山。(日本歴史地名大系)
  • 神宮寺:
  • 是如院:
  • 密蔵坊:
  • 多宝坊:
  • 大覚坊:
  • 西光坊:西方寺。鎮守堂跡に標柱あり。
  • 中之坊:
  • 清楽坊:
  • 極楽寺:
  • 善誓院:
  • 阿弥陀寺:
  • 為連坊:
  • 慶珠坊:
  • 岡本坊:
  • 宝生坊:
  • 宝光坊:
  • 法華寺:
  • 観音寺:
  • 因幡坊:
  • 奥之坊:
  • 南之坊:
  • 西蔵坊:
  • 西楽坊:
  • 延長坊:
  • 玉泉寺:
  • 仁平寺:現在、熊野神社の近くにある真浄院か。
  • 実相坊:
  • 惣持坊:
  • 杉本坊:
  • 普賢坊:
  • 真如院:
  • 金蔵坊:
  • 新之坊:

宮家六党

  • 竹原
  • 中野
  • 中島
  • 岩田
  • 辻野
  • 一色

周辺

  • 木華佐久耶比〓神社:岡山県倉敷市福江。福南山妙見社。山頂に奥宮。1597年に麓の山田の地に遥拝所を設けた。1948年、山頂の奥宮が山火事で焼失。1976年、現在地に再建した。(日本歴史地名大系)
  • 鴻八幡宮:岡山県倉敷市児島下の町。熊野権現が上陸した柘榴浜の地という。県社。別当は総願寺。
  • 総願寺:岡山県倉敷市児島下の町。義学が五流尊瀧院に先立ち創建した。廃絶。宝塔と王子権現社が残る。惣願寺。宗願寺。
  • 清田八幡宮:岡山県倉敷市曽原。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。村社。神功皇后の創建。元は粒江村の青瀧八幡宮だったが、1219年頃に現在地に遷座。中世の棟札が伝わり、熊野神社の長床衆の名がみえる。熊野神社の御旅所ともいう。
  • 藤戸寺:岡山県倉敷市藤戸町藤戸。備前国児島郡。本尊は千手観音。高野山真言宗。補陀落山千手院。705年に藤戸の海に千手観音が出現。天平年間、行基がこれを祀って寺院を創建。聖武天皇勅願寺となる。806年、坂上田村麻呂が造営。1151年、大般若経が寄進され、鳥羽天皇勅願寺。中世、謡曲「藤戸」の舞台として亡者慰霊の寺として知られた。戦乱で荒廃。近世、厳島大聖院の宝光院栄遍が、岡山藩主池田忠雄の帰依を得て復興。(日本歴史地名大系)
  • 本荘八幡宮:岡山県倉敷市児島通生。祭神は品陀別命・足仲彦命・息長帯姫命。郷社。701年創建。石鳥居は1421年造営ということが明確な貴重な鳥居。
  • 惣堂大明神:崇道天皇
  • 天石門別保布羅神社:岡山県倉敷市福田町広江。祭神は天手力雄命。郷社。頼仁親王が祈願したという。旧称は天形星社という。境内の石洞神社は後鳥羽上皇の墓という。
  • タコラ山


  • 琴浦石榴浜:熊野本宮神霊の上陸地
  • 熊野地蔵:岡山県倉敷市福江。福南山の麓。蟻峰山まで行く途中の旧跡。地蔵堂があり、1276年(建治2年)銘の石仏がある。

京都・熊野・吉野

  • 熊野三山
  • 聖護院:京都府京都市左京区。中世から近代まで本山と仰いだ。
  • 新熊野神社:京都府京都市東山区。中世の児島修験の京都における拠点だった。覚王院宗縁(宋縁)など新熊野別当を兼ね、中央の政治に深く関与した山伏もいる。
  • 東寺:京都府京都市南区。児島修験は天台宗寺門派だが、真言宗も兼学し、東寺の御影供にも出仕した。
  • 大峰山寺:奈良県吉野郡天川村洞川。山上に児島修験の宿坊があった。
  • 阪堺役講五流組:成立に児島修験が関わっているという。

影響地域

  • 熊野神社:岡山県倉敷市西阿知町。
  • 遍照院:岡山県倉敷市西阿知町。遍照院の神宮寺。真言宗御室派別格本山。
  • 後山:一時期、配下に置いていたらしい。
  • 伯耆大山:中世には児島修験の山伏が修行の場としていたらしいがはっきりしたことは分からない。伯耆大山の信仰を児島修験が中国地方各地に広めたとも考えられている。
  • 阿波・妙楽寺:熊野信仰。五流建徳院の次男が入り復興させたと伝える。しかしいつまで児島修験との関係が続いたのかは不詳。1947年に廃絶。
  • 岡山東照宮:春秋の祭礼に児島修験の山伏が出仕したという。

年表

  • 701年(大宝1年):役小角高弟五鬼5人が熊野神社を祀り(3月3日という)、五流尊瀧院など5院を創建したと伝える。
  • 748年(天平20年):聖武天皇、熊野神社に児島を神領として寄進と伝える。(『岡山県郡治誌下』)
  • 761年(天平宝字5年):熊野神社の社殿を改めて造営し、諸興寺瑜伽寺を創建したと伝える。
  • 907年(延喜7年):7世の義天が宇多法皇の熊野御幸の先達を務め、その功績により僧官補任の権限を与えられたと伝える(『長床縁由』)。法橋が綾地結袈裟、権律師が貝緒、権少僧都が院号、法眼が桃色結袈裟、権大僧都法印が金襴地で、一僧祇、二僧祇、三僧祇、黒房の階級が定められ、また星屋、大夫、神人など資格や大越家免状、山号、寺号を児島修験が独自に与えることが認められたと伝える。宇多法皇の熊野御幸や熊野本宮大社への神階正一位授与の史実に結び付けた伝承とみられる。
  • 天禄年間(970-973):清田八幡宮を伝法院天禅が創建(『長床縁由』)。
  • 1098年(承徳2年)閏9月7日:諸興寺で延暦寺西塔長寿坊の薬仁という僧が『瑜祇経西決』という書を記す(青蓮院蔵・同書奥書)。諸興寺の史料初出。
  • 1118年(元永1年):五流報恩院恵覚が白河法皇の熊野御幸の先達を務め、その功績により僧官補任の永宣旨を与えられ、宿老は法印大和尚位、公卿の上座3人は法印権大僧都、次位として法印1人、法眼権少僧都4人、法眼律師3人、権律師法橋4人、法橋上人位2人とし、その他の結衆は大法師位(定数なし)と定めたという(『長床縁由』)。白河院の熊野御幸の史実に結び付けたものとみられる。
  • 1128年(大治3年):紀伊熊野の長床衆を「天下山伏之司也」と認め、150町歩の神領が与えられた。
  • 1137年(保延3年):紀伊熊野の長床衆を統括する職として長床執行が設置され、相泉坊相澄が任命された。
  • 仁安年間(1166-1169):西行が児島を訪問。清田八幡宮で歌を詠んだ。
  • 1170年(嘉応2年):五流尊瀧院の行宗、紀伊熊野の長床執行となったと伝える。(『両峰問答秘抄』)
  • 1184年(元暦1年)9月:藤戸の戦い。その功績により波佐川庄が佐々木盛綱に与えられる。
  • 1187年(文治3年):五流尊瀧院の行宗、後白河法皇の病気平癒の功績により少僧都になったと伝える。(『両峰問答秘抄』)
  • 1205年(元久2年):児島荘が紀伊熊野の長床衆の所領となる(清田八幡宮棟札)。
  • 1210年(承元4年)9月19日:鎌倉幕府から波佐川庄復帰を認められたという。(この書状は偽文書の可能性が指摘されている)
  • 1218年(建保6年):円満院門跡の覚仁法親王、園城寺長吏42世となる。
  • 1219年(承久1年)頃:清田八幡宮、現在地に遷座したという。
  • 1220年(承久2年):覚仁法親王が戦乱を避け、児島に来訪(『五流伝記略』)。覚仁法親王の児島来訪が史実かどうかは疑わしい。また伝承によっては頼仁親王の配流の後ともいう。
  • 1221年(承久3年):承久の乱。
  • 1221年(承久3年)7月25日:頼仁親王が備前国児島に配流となり、備前国守護の佐々木信実に預けられた(『吾妻鏡』同日条)。
  • 1239年(延応1年):後鳥羽上皇、隠岐で崩御。
  • 1240年(仁治1年):覚仁法親王と頼仁親王の兄弟が後鳥羽天皇供養塔を建立したと伝える。現存。
  • 1247年(宝治1年)4月20日:五流尊瀧院の伝承ではこの日、頼仁親王が死去。諸興寺に葬り、隠徳院の諡号を贈ったという。一般に頼仁親王は1264年(文永1年)5月23日に死去したとされる。
  • 1248年(宝治2年):覚仁法親王、熊野三山検校11世および新熊野検校10世に就任。
  • 1255年(建長7年):後嵯峨上皇の熊野御幸で覚仁法親王が先達を務めた。
  • 1266年(文永3年)4月12日:覚仁法親王、死去。桜井塚に葬られた。
  • 1279年(弘安2年):紀伊熊野長床衆、荘園管理と仏事を定めた『長床六十三箇条式目』を制定。
  • 1327年(嘉暦2年):児島修験の良宋(良宗)、紀伊熊野関係の歌を集めた『新浜木綿和歌集』を編纂する。
  • 1364年(正平19年/貞治3年):児島覚王院の宋弁僧正が東寺御影供に出仕(東寺私用集)。
  • 1370年(建徳1年/応安3年)10月5日:幕府と近しい関係を築いていた児島覚王院の宋縁(宗縁)(生没年不詳)の京都新熊野神社にある自坊で、後光厳天皇の譲位の発意を受けた大名会議が開かれた。
  • 1371年(建徳2年/応安4年):在京の児島覚王院の宋縁(宗縁)、興福寺強訴で興福寺衆徒から三宝院光済と共に配流を要求された。興福寺内の内紛で、衆徒と対立していた門主側に加担したとみられたため。1374年まで続き、配流が決まるが、形式的な処置で終わる。
  • 1374年(文中3年/応安7年)4月末:『太平記』作者の「小島法師」という人物が死去(『洞院公定日次記』)。小島法師を児島修験の山伏とみる説があるが異論もある。
  • 1379年(天授5年/康暦1年)閏4月14日:「康暦の政変」で管領細川頼之が失脚。その腹心となっていた児島覚王院の宗縁も京都を離れたとみられる。
  • 1467年(応仁1年)6月5日:聖護院門跡道興から知行安堵状を与えられる(五流尊瀧院蔵知行安堵状)。
  • 応仁年間(1467-1469):覚王院円海が細川勝元方と組んで反乱を起こし、五流一山を焼いたという。
  • 1492年(明応1年):熊野神社本殿再建。第2殿は現在の社殿。
  • 1493年(明応2年):聖護院道興が児島を訪問。五流が聖護院の所属となる。
  • 永正年間(1504-1521):五流太法院などが美作の後山に進出。のち衰退。(児島五流大法院訴訟文書)
  • 1515年(永正12年)2月14日:1503年(文亀3年)より熊野長床領の豊前国津守庄の利権をめぐり、智蓮光院と聖護院が争っていたが、後柏原天皇の裁決により円満院門跡の令旨に基づき智蓮光院の権限を認めた(頼継卿記)。ただしこの後も係争は続いたようである。智蓮光院は『日本歴史地名大系』『国史大辞典』では京都新熊野に所在とするが、児島の智蓮光院のことと思われる。
  • 1560年(永禄3年):建徳院の次男見隆が阿波・妙楽寺に入り復興(『日本歴史地名大系』)。
  • 天正年間(1573-1592):熊野神社長床再建。
  • 1582年(天正10年):豊臣秀吉の中国攻めで、蜂須賀正勝から加勢を求められるも拒否し、所領を没収されたという。(『岡山県郡治誌下』)
  • 1589年(天正17年):聖護院に訴え、旧領のうち100石を得る(『撮要録』など)。
  • 中世:伯耆大山と関係があったが近世には途絶えていく。
  • 1601年(慶長6年):検地により160石となる(『撮要録』など)。
  • 1613年(慶長18年):幕府、修験道法度を制定。修験者を原則として本山派または当山派のいずれかに明確に所属させた。
  • 1647年(正保4年):岡山藩池田家、熊野神社本殿を再建。
  • 1654年(承応3年):岡山藩、大願寺・神宮寺・覚城院の追放を命じる。実現せず。
  • 1666年(寛文6年):岡山藩、熊野神社に神職が設置され、備前・吉備津神社の大守家の神職が任命される。以後、熊野神社は山伏・大願寺・神職の三者による運営となる。
  • 1666年(寛文6年):岡山藩の社寺整理政策が始まる。
  • 1669年(寛文9年):岡山藩、神宮寺ほか24寺を追放。神主を置いたのはこの時だという。(『岡山県郡治誌下』)
  • 1674年(延宝2年):岡山藩から160石が安堵されると共に神主領30石を認められた(『撮要録』など)。
  • 1683年(天和3年):五流尊瀧院、「天和三年書上」を岡山藩もしくは幕府に提出。
  • 元禄年間(1688-1704):諸興寺、廃絶。
  • 1705年(宝永2年):塩飽島に讃岐・吉祥院成立(『岡山藩山伏留』)。
  • 1721年(享保6年):大願寺と報恩院が岡山藩に後鳥羽天皇供養塔の修復を申請(『岡山藩山伏留』)。
  • 1725年(享保10年)頃:吉祥院玄仙が『修験本当偽邪弁論』を記す。
  • 1734年(享保19年):智蓮光院を五流先達に含めることを聖護院門跡が許可(『岡山藩山伏留』)。
  • 1769年(明和6年):熊野神社、長床焼失。再建。
  • 1779年(安永8年)2月:庵室の修理に際して聖護院から「柴庵室」の額を与えられる。
  • 1820年(文政3年):三重塔再建。
  • 1840年(天保11年):熊野神社本殿再建。修理?
  • 1849年(嘉永2年)9月1日:五流尊瀧院、院室先達の寺格に昇格する。
  • 1862年(文久2年)6月:金光教開祖の金光大神が、弾圧を避け布教を合法化するため、五流尊瀧院の免状を受ける(1864年(元治1年)1月に返却。1867年(慶応3年)には白川家の免状を受けた)。
  • 1868年(明治1年)3月:明治政府、神仏分離令を発する。
  • 1872年(明治5年):明治政府、修験道廃止令を発する。
  • 1872年(明治5年):神仏分離が実施される。「五流の公卿及び大願寺等の社僧悉く廃止、熊野神社と改称」とある(『岡山県郡治誌下』[3])。1871年(明治4年)説もある。
  • 1873年(明治6年)5月:熊野神社、郷社に列格。(『岡山県郡治誌下』)
  • 1907年(明治40年)1月27日:熊野神社、神饌幣帛料供進神社となる。(『岡山県郡治誌下』)
  • 1918年(大正7年)9月27日:頼仁親王墓が宮内省管轄と決定(『岡山県児島郡案内誌』)。
  • 1921年(大正10年)4月30日:熊野神社本殿第二殿、特別保護建造物となる(1921年(大正10年)国宝となり、戦後、国重要文化財となる)。(『岡山県郡治誌下』)
  • 1946年(昭和21年)3月30日:五流尊瀧院、天台寺門宗(もしくは天台宗延暦寺派)から独立して修験道本庁(正式名称は「修験道」)を設立。
  • 1971年(昭和46年)2月:後鳥羽天皇供養塔を解体修理と学術調査。中から火葬した骨片95点、歯12点、香木8点、鉄製細片80点の納入品が発見された。
  • 2003年(平成15年)9月21日:熊野神社、長床を焼失。
  • 2007年(平成19年):熊野神社、長床を再建。
  • 2018年(平成30年)12月:熊野神社、本殿第二殿の修復完了。1年あまり。

資料

古典籍

  • 『長床六十三箇条式目』:1279年(弘安2年)。児島荘と児島修験を管理する紀伊熊野の山伏が定めた規則。『備陽記』、『吉備温故秘録』、『撮要録』などに収録。田中修實1994「史料紹介『長床六十三箇条式目』」『岡山民俗』に訓読あり。
  • 『山伏帳』:1417年(応永24年)頃までに成立。下巻のみ現存。紀州熊野本宮大社の諸職を務めた僧侶リストと入峰次第。児島修験の僧の名も多数ある。
  • 『東寺私用集』:東寺執行の栄増が東寺執行日記を基に編纂。成立は1490年をあまり下らない時期か。東寺と児島修験との関係を示す史料。
  • 『両峯問答秘抄』:猷助著。16世紀成立。1747年(延享4年)の写本がある。『修験道章疏2』所収。
  • 『古今熊野記録』:室町時代成立。東大史料編纂所架蔵写本。『新修倉敷市史9』。1518年(永正15年)の項目が「五流」の文言の史料初出。
  • 「備前国児島児林庄新熊野山鐘銘」『集古十種』[4]
  • 「天和三年書上」:1683年(天和3年)。幕府もしくは岡山藩の寺社奉行に提出した書類とみられる。五流尊瀧院が役小角の弟子にまで遡ると記した最古の史料。『和気絹』や『岡山紀聞』に引用されて伝わる。諸興寺や瑜伽寺に関する記述はない。後鳥羽院石塔や覚仁法親王、「御庵室」の記述はあるが、末裔との記述はない。真言修験を三宝院が管轄するようになったのは新しいことであり、五流でも真言宗を管轄していたと記す。
  • 『熊野長床宿老五流』:元禄成立の『修験道山彦』の抄出。『修験道章疏3』所収。
  • 『修験本当偽邪弁論』:1725年(享保10年)頃、吉祥院玄仙が記す。
  • 「五流伝記略」:元文年間頃の成立。『備陽国誌』(1739年(元文4年))や『吉備温故秘録』(寛政)に引用されて伝わる。
  • 『長床縁由興廃伝』:五流尊瀧院蔵。『修験道史料集2』に一部翻刻されている。全文はいまだ公開されていないようだ。1731年(享保16年)以降の、元文年間頃の成立とみられるという。
  • 『新熊野権現御伝記』:1738年(元文3年)書写か。成立自体が元文年間頃とみられる。『長床縁由興廃伝』に類似。原三正1969「新熊野権現御伝記(上)(下)」『倉子城』1〜2号に翻刻。『新熊野御伝記』。
  • 「新熊野山社中並寺家伝記」:1738年(元文3年)。正宗文庫蔵。
  • 「児島郡新熊野山補陀落寺尊瀧院開帳略縁起」:1741年(寛保1年)。『備陽記』に引用文が伝わる。
  • 『紀州熊野三所大権現由来 備前国児島郡郷内村大字林』:岡山県立図書館蔵。1859年(安政6年)の勧進帳や寛文文政の文書を1935年に書写したもの。
  • 「大願寺由来」:『再訂増補岡山藩山伏留』所収。
  • 「備前児島尊瀧院系図」[5]:33世元興までの詳細な略歴。34世隆興の名前もある。1863年(文久3年)以降の成立とみられる。
  • 「備前国児島郡林村熊野権現別当尊瀧院伝」[6]:『諸系譜第28冊』所収。後鳥羽天皇から頼仁親王、覚仁法親王、児島高徳までを簡単に図で記すのみ。
  • 「五流正統尊瀧院世系伝」[7]:頼仁親王、覚仁法親王から5世宴深までの略歴。1910年(明治43年)2月、五流尊瀧院所蔵のものを宮内省御用掛が借用し一部書写したもの。
  • 「血脈系図」[8]:頼仁親王、覚仁法親王から5世宴深までの略歴。
  • 「大悲大権現宮縁由伝」[9]
  • 「紀州熊野三所大権現由来」:1973『倉敷市史2』所収。寛文5年とするが、1869年のものとみられる。
  • 「新熊野山縁起」
  • 「新熊野十二所権現由来」
  • 「尊瀧院世系譜」
  • 「熊野本宮御神領諸国有之覚事」:熊野本宮大社の神領が列挙されており、備前児島が8000貫として最大の上納金を記している。
  • 「五流尊瀧院文書」:1冊。東大影写本。室町時代の所領関係。広島県文書館に複製資料がある。
  • 「備前尊瀧院文書」:『岡山県史 第20巻 家わけ史料』に所収。
  • 「尊瀧院文書」:『岡山県史4中世1』、『新修倉敷市史9』
  • 「尊瀧院文書」:東京大学史料編纂所蔵。文書2点。
  • 「五流正統尊瀧院正系」:東京大学史料編纂所蔵。1897年(明治30年)調査。記文・系図3点。
  • 「建徳院文書」:五流建徳院伝来の文書。龍谷ミュージアム寄託。
  • 『五流并山伏』:岡山藩の寺社方が編纂。岡山県立図書館蔵。池田家文庫「社寺旧記」の原本。6冊。1704年(宝永1年)から1871年(明治4年)まで断続的に残る。
  • 『備前軍記』「児島本太城合戦並五流山伏の事」[10]:土肥経平著。江戸中期。

史料集・調査報告

  • 『黄薇古簡集』:斎藤一興編。1793年(寛政5年)。岡山藩の古文書集。東大史料編纂所DB[11]
  • 1971『重要文化財五流尊滝院宝塔修理工事報告書』
  • 『五流山伏』:1989年。1991年改訂版。三宅淳彦編。
  • 『再訂増補岡山藩山伏留』:1996年。三宅淳彦編。
  • 2008「新熊野山遺跡確認調査報告」『倉敷埋蔵文化財センター年報11』
  • 2019「新熊野山遺跡」『倉敷市埋蔵文化財発掘調査報告17』[12]
  • 『岡山県古文書集』:
  • 『一等寺の歴史』:一等寺古墓の解説があるらしい。

地誌

  • 『備陽国誌』
  • 『備陽誌』
  • 『吉備温故秘録』
  • 『中国名所図会』
  • 1915『岡山県児島郡誌』「五流一山」[13](デジコレ送信館限定)
  • 1938『岡山県郡治誌』[14]:県内の寺院一覧があるが、なぜか五流尊瀧院の名はない。熊野神社の項目はある。
  • 1956『灘崎町史』「五流一山と郷土」[15](デジコレ送信館限定)
  • 1973『倉敷市史2』「新熊野山新宮諸興寺」、「瑜伽山蓮台寺」、「山林仏教、修験道と新熊野権現」、「郷社熊野神社本殿」、「藤戸寺志」、「頼仁親王墳墓考」、「児島本太城合戦並五流山伏の事」[16](デジコレ送信館限定)
  • 1983『岡山県史15民俗1』「児島山伏」[17](デジコレ送信館限定)
  • 1989『岡山県史4中世1』「熊野信仰と児島五流」[18](デジコレ送信館限定)
  • 1999『新修倉敷市史2』「熊野五流の展開」

文献

  • 宇垣武治1936『児島めぐり』「五流一山」「新熊野山五流尊瀧院」[19](デジコレ送信館限定)
  • 和歌森太郎1939「小島法師について」『修験道史の研究』
  • 和歌森太郎1964「児島山伏と『太平記』」『山伏』[20](デジコレ限定)
  • 大伴茂1941『山伏と尊皇』[21](デジコレ送信館限定)
  • 1953『郷内村文化財解説』
  • 鈴木昭英1959「修験道史研究資料-1-五流山伏の「無言加持法次第」」[22]
  • 豊島修1971「美作修験と後山信仰」[23]
  • 1973『重要文化財五流尊滝院宝塔』
  • 吉田寂水1976「新熊野権現と五流一山」『歴史と旅』[24](デジコレ限定)
  • 中山薫1976「修験道」『児島諸島及び石島の民俗』[25](デジコレ送信館限定)
  • 中山薫1983「児島山伏の延年」『岡山の歴史と文化』[26](デジコレ送信館限定)
  • 中山薫1988『岡山県修験道小史』
  • 宮家準1979「五流修験の成立と展開」
  • 宮家準1982「修験と寺社縁起―五流修験の「長床縁由」を中心として」『国文学 解釈と鑑賞』[27](デジコレ送信館限定)
  • 宮家準1988「熊野修験の地方的展開」
  • 宮家準1990「熊野信仰と児島修験」
  • 宮家準1992『熊野修験』
  • 宮家準1999「本山派内の一山組織」
  • 宮家準2012「神道と修験道―五流修験の『山伏記』を中心に」『國學院雜誌』113-11
  • 宮家準2013『修験道と児島五流―その背景と研究』岩田書院
  • 高橋彪1979『史上の福田・福田の伝説1 福田地内の林熊野権現と頼仁親王』[28](デジコレ送信館限定)
  • 巌津政右衛門1981「尊瀧院宝塔と納入舎利」『史迹と美術』51-4
  • 1983「新熊野山」『写真集明治大正昭和児島』[29](デジコレ限定)
  • 榎原雅治1986「山伏が棟別銭を集めた話」
  • 村山修一1992「児島五流修験」
  • 別府信吾1993「近世前期の新熊野山―岡山藩と輪王寺門跡」:2013『岡山藩の寺社と史料』に再録。
  • 別府信吾1994「近世後期、児島五流の昇進問題―岡山藩と聖護院門跡」:2013『岡山藩の寺社と史料』に再録。
  • 森章1996「桜井塚層塔の研究」
  • 田辺進2002『親子で読む郷内の歴史散歩』
  • 田辺進2005『親子で読む郷内の歴史散歩・続』
  • 田辺進2010『郷内の史跡探訪』
  • 三宅克広2003「中世後期の山伏と東寺―東寺・新熊野神社・備前児島五流をめぐって」
  • 長谷川賢二2005「阿波国における三宝院流熊野長床衆の痕跡とその意義」
  • 長谷川賢二2011「熊野信仰と天台宗・真言宗」
  • 岡野浩二2009「平安末期における天台僧の修行巡礼」:2019「聖教奥書からみた僧侶の往来」『中世地方寺院の交流と表象』に再録。
  • 岡野浩二2014「児島修験の再検討」:2019「備前国児島の五流修験」『中世地方寺院の交流と表象』に再録。
  • 田嶋正憲2009「旧児島湾南岸の中近世のムラ(村)について(上)―鉄滓・中世貝塚・児島五流・慶長検地・灘崎地域を中心に」
  • 近藤祐介2010「室町期における備前国児島山伏の活動と瀬戸内水運」
  • 水野圭士2014「細川頼之と覚王院宋縁」[30]
  • 首藤善樹2015「宿老=備前児島五流」『修験道聖護院史要覧』
  • 長村祥知2019「児島五流建徳院伝来の近世聖護院門跡発給文書」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%96%B0%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%B1%B1」より作成

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