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赤妻神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年8月20日 (日)
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*1864年(元治1年)5月8日:藩主毛利敬親が喪主となって山口の赤妻に埋葬した。当初、三条実美らは没地の下関に埋葬すべきだと主張したが、藩主は参詣に便利な山口の近くを選んだ。「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」とある。 | *1864年(元治1年)5月8日:藩主毛利敬親が喪主となって山口の赤妻に埋葬した。当初、三条実美らは没地の下関に埋葬すべきだと主張したが、藩主は参詣に便利な山口の近くを選んだ。「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」とある。 | ||
*1864年(元治1年)7月3日:藩主毛利敬親、三条実美とはかり社殿を創建。錦小路頼徳の印2個を御神体としたという。安加都麻神社と称したという。『靖国神社誌』によると、1864年(元治1年)12月の創建とある。 | *1864年(元治1年)7月3日:藩主毛利敬親、三条実美とはかり社殿を創建。錦小路頼徳の印2個を御神体としたという。安加都麻神社と称したという。『靖国神社誌』によると、1864年(元治1年)12月の創建とある。 | ||
- | *1870年(明治3年) | + | *1870年(明治3年):三条実美らが発起して墓の後方に記念碑「贈正四位錦小路君碑銘」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9573778/1/154]を建立した。 |
*1875年(明治8年)7月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992404/1/79])。(1885年(明治18年)とも) | *1875年(明治8年)7月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[https://dl.ndl.go.jp/pid/2992404/1/79])。(1885年(明治18年)とも) | ||
*1939年(昭和14年):護国神社制度により赤妻護国神社と改称。 | *1939年(昭和14年):護国神社制度により赤妻護国神社と改称。 | ||
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==資料== | ==資料== | ||
- | + | {{山口県の招魂社}} | |
+ | *「贈正四位錦小路君碑銘」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9573778/1/154]:1870年(明治3年) | ||
*「赤妻神社総絵図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13859&s=1] | *「赤妻神社総絵図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13859&s=1] | ||
*「赤妻社十歩一差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13860&s=1] | *「赤妻社十歩一差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13860&s=1] | ||
*津田勉2009「県内二十二の官祭招魂社」『山口県神道史研究』21 | *津田勉2009「県内二十二の官祭招魂社」『山口県神道史研究』21 | ||
+ | *古写真[https://dl.ndl.go.jp/pid/1108577/1/29] | ||
[[Category:山口県]] | [[Category:山口県]] |
2023年8月20日 (日) 時点における最新版
赤妻神社(あかつま・じんじゃ)は、山口県山口市赤妻町にある錦小路頼徳を祀る霊社・招魂社。官祭招魂社。赤妻官修墳墓がある。赤妻招魂場、赤妻招魂社、下字野令招魂社、宇野令護国神社、錦小路神社、安加都麻神社ともいう。
- 1864年(元治1年)4月25日:錦小路頼徳、下関の白石正一郎邸で死去。
- 1864年(元治1年)5月8日:藩主毛利敬親が喪主となって山口の赤妻に埋葬した。当初、三条実美らは没地の下関に埋葬すべきだと主張したが、藩主は参詣に便利な山口の近くを選んだ。「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」とある。
- 1864年(元治1年)7月3日:藩主毛利敬親、三条実美とはかり社殿を創建。錦小路頼徳の印2個を御神体としたという。安加都麻神社と称したという。『靖国神社誌』によると、1864年(元治1年)12月の創建とある。
- 1870年(明治3年):三条実美らが発起して墓の後方に記念碑「贈正四位錦小路君碑銘」[1]を建立した。
- 1875年(明治8年)7月:官祭招魂社に指定(1959山口県文化史[2])。(1885年(明治18年)とも)
- 1939年(昭和14年):護国神社制度により赤妻護国神社と改称。
- 1947年(昭和22年):赤妻神社と改称。
- 1968年(昭和43年):社殿整備が計画されるが頓挫。社殿のあった赤妻山は開発により削平されてしまい、墓地の横に再建された(年代不詳)。
1871年(明治4年)に東京で暗殺された広沢真臣夫妻の墓もある。