ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
醍醐寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月25日 (木)
(版間での差分)
(?執行長) |
|||
(間の3版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
+ | [[file:Kokudo0309.jpg|thumb|300px|醍醐寺周辺(国土地理院空中写真より)]] | ||
'''醍醐寺'''(だいごじ)は、京都府京都市伏見区にある、[[修験道]][[当山派]]の中心[[三宝院門跡]]を擁する[[真言宗]]の[[真言宗の本山寺院|本山寺院]]。本尊は[[薬師如来]]。[[真言宗醍醐派]]総本山。開山は[[聖宝]](832-909)。聖宝は[[三論宗]]の僧侶で、[[東大寺]]の本坊[[東南院門跡]]の開山でもあり、[[南都仏教]]と縁が深い。古代の[[官寺]]二十五大寺の一つで[[定額寺]]でもある。伽藍は笠取山の上にある上醍醐地区と、麓の下醍醐地区に分かれる。[[西国三十三所観音霊場]]第11番札所の山上の[[醍醐寺准胝観音堂|准胝観音堂]]は、焼失のため、山下に遷された。鎮守は[[上醍醐・清滝宮]]と[[下醍醐・清滝宮]]。[[真如苑]]と関係が深い。[[醍醐寺関連旧跡]]も参照。 | '''醍醐寺'''(だいごじ)は、京都府京都市伏見区にある、[[修験道]][[当山派]]の中心[[三宝院門跡]]を擁する[[真言宗]]の[[真言宗の本山寺院|本山寺院]]。本尊は[[薬師如来]]。[[真言宗醍醐派]]総本山。開山は[[聖宝]](832-909)。聖宝は[[三論宗]]の僧侶で、[[東大寺]]の本坊[[東南院門跡]]の開山でもあり、[[南都仏教]]と縁が深い。古代の[[官寺]]二十五大寺の一つで[[定額寺]]でもある。伽藍は笠取山の上にある上醍醐地区と、麓の下醍醐地区に分かれる。[[西国三十三所観音霊場]]第11番札所の山上の[[醍醐寺准胝観音堂|准胝観音堂]]は、焼失のため、山下に遷された。鎮守は[[上醍醐・清滝宮]]と[[下醍醐・清滝宮]]。[[真如苑]]と関係が深い。[[醍醐寺関連旧跡]]も参照。 | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
==伽藍== | ==伽藍== | ||
- | == | + | [[file:Kokudo0314.jpg|thumb|300px|醍醐寺金堂周辺(国土地理院空中写真より)]] |
+ | |||
+ | == 子院 == | ||
===下醍醐=== | ===下醍醐=== | ||
+ | [[file:Kokudo0315.jpg|thumb|300px|下醍醐(国土地理院空中写真より)]] | ||
+ | [[file:Kokudo0311.jpg|thumb|300px|下醍醐(国土地理院空中写真より)]] | ||
*[[醍醐寺三宝院]]:醍醐五門跡。 | *[[醍醐寺三宝院]]:醍醐五門跡。 | ||
*[[醍醐寺金剛王院]]:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。最初は西光院。 | *[[醍醐寺金剛王院]]:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。最初は西光院。 | ||
18行: | 23行: | ||
*観音堂 | *観音堂 | ||
*金剛輪院:豊臣秀吉が滞在。 | *金剛輪院:豊臣秀吉が滞在。 | ||
- | *地蔵院 | + | *[[醍醐寺地蔵院|地蔵院]] |
*妙法院 | *妙法院 | ||
*観心院 | *観心院 | ||
24行: | 29行: | ||
*成身院 | *成身院 | ||
*岳西院 | *岳西院 | ||
+ | |||
===上醍醐=== | ===上醍醐=== | ||
+ | [[file:Kokudo0310.jpg|thumb|300px|上醍醐(国土地理院空中写真より)]] | ||
*延命院:聖宝の住房 | *延命院:聖宝の住房 | ||
*念覚院 | *念覚院 | ||
531行: | 538行: | ||
|} | |} | ||
- | + | ===執行長=== | |
+ | 任期4年。宗務総長を兼務。 | ||
+ | *岡田宥秀(1907-1985)<1965->:1965年(昭和40年)醍醐寺執行長。 | ||
+ | *岩城秀雄(1923-2011)<>:自坊は[[法界寺]]。 | ||
+ | *麻生文雄(1925-2012)<1982-1985>:醍醐寺座主。1982年(昭和57年)から1985年(昭和60年)まで醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。 | ||
+ | *仲田順和(1934-)<1985-2010>:醍醐寺座主。1985年(昭和60年)から2010年(平成22年)まで醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。 | ||
+ | *壁瀬宥雅(1948-)<2010-2023>:醍醐寺座主。自坊は醍醐寺理性院。1948年(昭和23年)生。同志社大学工学部卒。種智院大学、醍醐山伝法学院卒。2010年(平成22年)醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。2023年12月8日、醍醐寺座主。チェリスト。 | ||
+ | *大原弘敬(1959-)<2024->:自坊は北九州市不動院。1959年生。高野山大学卒。2024年1月9日、醍醐寺執行長。 | ||
[[category:京都府]] | [[category:京都府]] |
2024年1月25日 (木) 時点における最新版
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区にある、修験道当山派の中心三宝院門跡を擁する真言宗の本山寺院。本尊は薬師如来。真言宗醍醐派総本山。開山は聖宝(832-909)。聖宝は三論宗の僧侶で、東大寺の本坊東南院門跡の開山でもあり、南都仏教と縁が深い。古代の官寺二十五大寺の一つで定額寺でもある。伽藍は笠取山の上にある上醍醐地区と、麓の下醍醐地区に分かれる。西国三十三所観音霊場第11番札所の山上の准胝観音堂は、焼失のため、山下に遷された。鎮守は上醍醐・清滝宮と下醍醐・清滝宮。真如苑と関係が深い。醍醐寺関連旧跡も参照。
目次 |
歴史
伽藍
子院
下醍醐
- 醍醐寺三宝院:醍醐五門跡。
- 醍醐寺金剛王院:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。最初は西光院。
- 醍醐寺理性院:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。
- 醍醐寺報恩院:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。初名は極楽房。
- 醍醐寺無量寿院:真言宗醍醐派別格本山。醍醐五門跡。
- 醍醐寺光台院:真言宗醍醐派別格本山。
- 無量光院
- 東院
- 大智院
- 持法院
- 清住寺
- 観音堂
- 金剛輪院:豊臣秀吉が滞在。
- 地蔵院
- 妙法院
- 観心院
- 菩提寺
- 成身院
- 岳西院
上醍醐
- 延命院:聖宝の住房
- 念覚院
- 持明院
- 遍照院:花台院
- 一乗院
- 円光院
組織
座主
醍醐寺では住職を座主と呼ぶ。佐和隆研『醍醐寺』による。
歴代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
開山 | 聖宝 | 832-909 | 理源大師。 | |
1 | 観賢 | 853-925 | 聖宝の弟子。讃岐国出身。仁和寺別当。般若寺を復興。東寺長者。東大寺検校。金剛峰寺座主。通称は般若寺僧正。 | |
2 | 延〓 | 861?-928 | 925- | 三論宗・真言宗の僧。長統氏。京都出身。861年(貞観3年)生とも863年(貞観5年)生とも。聖宝に師事し、三論と真言を学ぶ。宇多法皇から灌頂。911年(延喜11年)維摩会講師。924年(延長2年)2月30日東大寺別当41世(「仏家次第」では40世)。在任中に大衆の愁訴で弟子のミスを認めた。925年(延長3年)6月、東寺長者法務。同年醍醐寺座主2世。東大寺東南院院主(?)。928年(延長6年)12月13日死去とも、929年(延長7年)2月13日死去ともいう。「えんちん」とも「えんじょう」とも訓ずる。(〓は「伸+攵」)(『東大寺辞典』『日本人名大辞典』) |
3 | 延性 | 859-929 | 聖宝の弟子。通称は念覚院大僧都。 | |
4 | 貞崇 | 866-944 | 930- | 聖宝の弟子。三好氏。山城国出身。貞観寺の恵宿に師事し、のち醍醐寺で聖宝に学ぶ。鳳閣寺に住し、薬師寺に移る。930年(延長8年)に醍醐寺座主となる。933年(承平3年)10月、東寺三長者就任。942年(天慶5年)金剛峰寺座主。944年(天慶7年)7月21日死去。933年(承平3年)東大寺別当24世就任と伝えるが、寛救の在任期間と重なり、東寺三長者就任との混同という。『東大寺要録』や『東大寺別当次第』では851年(仁寿1年)に別当就任とあるが、生まれる前になってしまい、東大寺別当に就任したかの真偽は分からない。「ていすう」と訓ずる。(『東大寺辞典』) |
5 | 一定 | 884-947 | ||
6 | 定助 | 888-957 | ||
7 | 仁皎 | 873-959 | 聖宝の弟子。 | |
8 | 観理 | 894-974 | 三論宗・真言宗の僧。平氏。興福寺で出家して法相宗を学ぶ。その後、延〓の弟子となり、三論と真言を学ぶ。952年(天暦6年)維摩会講師。969年(安和2年)東大寺別当54世就任(「仏家次第」では47世)。醍醐寺座主8世。法隆寺別当7世。東大寺東南院院主(?)。応和の宗論で余慶と議論した。(『東大寺辞典』『日本人名大辞典』) | |
9 | 法縁 | 909-981 | 三論宗の僧。惟宗氏。山城国出身。基高の弟子。21歳で入寺。延〓、観理に学ぶ。969年(安和2年)維摩会講師。971年(天禄2年)5月17日東大寺別当55世就任(「仏家次第」では48世)。のち東大寺別当56世再任。977年(貞元2年)東大寺別当辞職。981年(天元4年)10月死去。醍醐寺座主9世。法隆寺別当8世。(『東大寺辞典』) | |
10 | 慶助 | 922-995 | ||
11 | 明観 | 953-1021 | 佐忠王(醍醐天皇皇子)の王子。醍醐寺座主11世。明観僧正。禅林寺住職(5世深覚の直前だが、歴代に数えないという)。 | |
12 | 覚源 | 1000-1065 | 1018- | 花山天皇の第三皇子。醍醐寺明観に師事。1018年(寛仁2年)醍醐寺座主12世。禅林寺住職(5世深覚の次だが、歴代に数えずという)。1055年(天喜3年)8月27日東大寺別当77世(「仏家次第」では「67覚深」)。11月13日大仏殿拝堂。1059年(康平2年)東大寺別当辞職。1065年(治暦1年)8月16日死去。『東大寺別当次第』に覚深とあるのは覚源の誤りという。(『東大寺辞典』『日本人名大辞典』) |
13 | 定賢 | |||
14 | 勝覚 | 1057/1058-1129 | 1086- | 真言宗の僧。三宝院門跡開山。源俊房の子。醍醐寺定賢の弟子。1086年(応徳3年)6月、醍醐寺座主14世。1096年(永長1年)白河上皇の出家の戒師を務めた。1104年(長治1年)5月29日、東大寺別当84世(「仏家次第」では74世)。14年の長期在職。東大寺領の確保に尽力。1106年(嘉承1年)、諸国封戸の徴収強化を朝廷に請願。また造東大寺長官の復活を求めた。1115年(永久3年)醍醐寺三宝院を創建。1118年(元永1年)東大寺別当辞職。1124年(天治1年)東寺長者、1125年(天治2年)兼法務。同年7月20日に東大寺別当再任(86世)。1127年(大治2年)白河上皇、鳥羽上皇の高野山行幸に供奉し、大塔落慶法要の導師を務めた。広隆寺別当。1129年(大治4年)4月1日死去。(『東大寺辞典』『国史大辞典』) |
15 | 定海 | 1074-1149 | 1116- | 真言宗の僧。三宝院流の祖。源顕房の子。醍醐寺義範に師事。勝覚に学ぶ。1116年(永久4年)醍醐寺座主15世。三宝院門跡2世。1121年(保安2年)根本薬師堂を再建。1129年(大治4年)円光寺別当。同年5月21日東大寺別当87世(「仏家次第」では77世)。1130年(大治5年)には法金剛院の供養。1131年(天承1年)護持僧。1132年(長承1年)閏4月、東寺二長者。同年5月、東大寺で千僧読経。1133年(長承2年)10月、東寺一長者。1134年(長承3年)、覚鑁と対立して金剛峰寺座主をやめる。同年6月、東大寺講堂を造営。1135年(保延1年)金剛峰寺座主に復帰。1139年(保延5年)10月成勝寺別当。1144年(天養1年)法勝寺権別当。1145年(久安1年)、東大寺別当など諸職を辞任。1149年(久安5年)4月12日死去。76歳。弟子に元海、隆賀、淳仁、行海、覚鐘、宗海、珍海らがいた。(『東大寺辞典』) |
16 | 元海 | 1094-1157 | 三宝院3世。 | |
17 | 実運 | 1105-1160 | 三宝院4世。 | |
18 | 勝賢 | 1138-1196 | 真言宗の僧。藤原通憲(信西)の子。初名は勝憲。仁和寺最源に密教を学ぶ。三宝院実運から伝法灌頂。平治の乱で父に連座して配流となるが、許されて醍醐寺座主18・20・22世。1186年(文治2年)東寺二長者。1192年(建久3年)10月8日東大寺別当97世(「仏家次第」では87世)。在任中1195年(建久6年)3月12日、東大寺大仏殿再建の落慶法要が後鳥羽天皇、七条院、将軍源頼朝の臨席の下、盛大に行われ、勝賢は呪願師を務めた。三宝院5世。1196年(建久7年)6月22日死去。(『東大寺辞典』) | |
19 | 乗海 | |||
20 | 勝賢 | 1138-1196 | 再任。 | |
21 | 実海 | ?-1182 | 1179-1182 | 1179年(治承3年)12月、醍醐寺座主21世に就任。1182年(寿永1年)10月死去。なお東大寺別当126世の実海(1268-1318)は別人と思われる。(『国史大辞典』) |
22 | 勝賢 | 1138-1196 | 再任。 | |
23 | 実継 | 1154-1204 | 三宝院門跡6世。 | |
24 | 成賢 | 1162-1231 | 三宝院門跡7世。 | |
25 | 良海 | 1197-1218 | 三宝院門跡8世。 | |
26 | 成賢 | 1162-1231 | 再任。 | |
27 | 光宝 | 1177-1239 | ||
28 | 定範 | 1165-1225 | 1221- | 三論宗の僧。藤原成範の子。東大寺東南院院主(?)。東南院で三論宗を学ぶ。勝賢、成賢に学ぶ。1191年(建久2年)10月、興福寺維摩会講師。1221年(承久3年)8月30日、醍醐寺座主28世。1213年(建保1年)12月6日、東大寺別当103世(「仏家次第」では93世)。1215年(建保3年)2月29日大仏殿拝堂。1221年(承久3年)の承久の乱では幕府よりの姿勢を見せた。同年3月、東大寺別当を辞職。1225年(嘉禄1年)2月25日死去。61歳。「じょうはん」とも「ていはん」とも訓ずる。(『東大寺辞典』) |
29 | 聖海法親王 | 1206-? | 三宝院門跡9世。 | |
30 | 光宝 | 1177-1239 | 再任。 | |
31 | 道禅 | 1190-1235 | ||
32 | 賢海 | |||
33 | 実賢 | 1176-1249 | ||
34 | 勝尊 | 生没年不詳 | 三宝院門跡10世。 | |
35 | 憲深 | 1192-1263 | 三宝院門跡11世。 | |
36 | 実深 | 1206-1274/1277 | ||
37 | 定済 | 1220-1282 | 内大臣久我定通の子。東寺三長者。醍醐寺座主37・39世。1267年(文永4年)4月22日東大寺別当114世(「仏家次第」では104世)。1281年(弘安4年)東寺長者となり、伊勢神宮と東寺西院で敵国調伏の祈祷。醍醐寺宝池院を創建。1282年(弘安5年)10月3日死去。三宝院門跡12世。(『東大寺辞典』) | |
38 | 道朝 | |||
39 | 定済 | 1220-1282 | 再任。 | |
40 | 定勝 | 生没年不詳 | 三宝院門跡13世。 | |
41 | 道性 | 1278-? | 亀山天皇皇子。三宝院門跡14世。 | |
42 | 実勝 | 1241-1291 | ||
43 | 聖兼 | 1242-1293 | 太政大臣近衛家実の子。醍醐寺座主43世。三宝院門跡15世。1276年(建治2年)11月21日東大寺別当116世(「仏家次第」では106世)。4年で東大寺別当退任。1283年(弘安6年)12月1日東大寺別当再任119世。4年で辞任。(『東大寺辞典』) | |
44 | 静厳 | 1243-1299 | 随心院門跡19世。 | |
45 | 覚済 | 1227-1303 | ||
46 | 親玄 | 1249-1322 | ||
47 | 覚済 | 1227-1303 | 再任。 | |
48 | 親玄 | 1249-1322 | 再任。 | |
49 | 聖雲法親王 | 1271-1314 | 亀山天皇皇子。遍智院宮。三宝院門跡16世。 | |
50 | 厳家 | 1275-1308 | 随心院門跡20世。 | |
51 | 聖忠 | 1268-1319 | 鷹司基忠の子。1288年(正応1年)9月10日東大寺別当121世(「仏家次第」では111世)。1296年(永仁4年)東大寺別当再任124世。1316年(正和5年)5月16日東大寺別当再任127世。醍醐寺座主51世。東寺長者法務。(『東大寺辞典』) | |
52 | 聖雲法親王 | 1271-1314 | 再任。 | |
53 | 定任 | 三宝院門跡17世。 | ||
54 | 宣覚 | |||
55 | 宣覚 | 再任。 | ||
56 | 賢助 | 1280-1333 | 三宝院門跡18世。 | |
57 | 道順 | ?-1321 | ||
58 | 聖尊法親王 | 1304-1370 | 後二条天皇皇子。遍智院宮。三宝院門跡19世。 | |
59 | 聖尋 | 生没年不詳 | 1324-1327 | 関白鷹司基忠の子。醍醐寺座主59・61世。三宝院門跡20世。1322年(元亨2年)東大寺別当130世就任(「仏家次第」では119世。)。1324年(正中1年)醍醐寺座主。1327年(嘉暦2年)東寺長者となり座主を辞任。1330年(元徳2年)醍醐寺座主再任し、同年座主と東寺長者を辞任。元弘の乱で後醍醐天皇と行動を共にして東大寺末寺の笠置寺に移るが、その後消息不明。(『東大寺辞典』) |
60 | 賢助 | 1280-1333 | 再任。 | |
61 | 聖尋 | 生没年不詳 | 1330-1330 | 再任。 |
62 | 賢助 | 1280-1333 | 再任。 | |
63 | 道祐 | |||
64 | 文観 | 1278-1357 | 弘真。小野僧正 | |
65 | 賢俊 | 1299-1357 | 三宝院門跡21世。門跡号はこの頃から。 | |
66 | 光済 | 1326-1379 | 三宝院門跡22世。 | |
67 | 覚雄 | ?-1369 | 1360- | 1359年(正平14年/延文4年)東寺長者法務。翌年醍醐寺座主。鎌倉永福寺別当。 |
68 | 光済 | 1326-1379 | 再任。 | |
69 | 聖珍法親王 | ?-1382 | 伏見天皇皇子。東南院聖尋に師事し三論宗を学ぶ。1334年(建武1年)、北朝の支持を受け、東大寺別当132世(「仏家次第」では121世)。在任中は興福寺との抗争が絶えなかった。辞任。1343年(興国4年/康永2年)8月10日東大寺別当再任(137世)。在任中の1344年(康永3年)8月15日、東大寺大衆は伊賀黒田荘の悪党追放を訴え、東大寺八幡宮の神輿を奉じて強訴。1346年(正平1年/貞和2年)1月21日までの長期間に及んだ。1353年(正平8年/文和2年)5月18日、東大寺別当139世に再任(「仏家次第」では1352年(文和1年)10月9日とする。同書では元和とするのは文和の誤りとみなした)。1354年(文和3年)と翌年に東寺長者。晩年は金剛三昧院に住して死去。醍醐寺座主69世。通称は親王僧正。三宝院門跡23世。(『東大寺辞典』) | |
70 | 光済 | 1326-1379 | 再任。 | |
71 | 光助 | 三宝院門跡24世。 | ||
72 | 定忠 | 生没年不詳 | ||
73 | 満済 | 1378-1435 | 三宝院門跡25世。 | |
74 | 義賢 | 1399-1468 | 三宝院門跡26世。 | |
75 | 政深 | 三宝院門跡27世。 | ||
76 | 義覚 | 1468-1483 | 三宝院門跡28世。足利義政の子。 | |
77 | 政紹 | 三宝院門跡29世。 | ||
78 | 持厳 | 三宝院門跡30世。随心院門跡27世。 | ||
79 | 義堯 | 三宝院門跡31世。 | ||
80 | 義演 | 1558-1626 | 三宝院門跡32世。二条晴良の子。東寺長者。秀吉と懇意。 |
執行長
任期4年。宗務総長を兼務。
- 岡田宥秀(1907-1985)<1965->:1965年(昭和40年)醍醐寺執行長。
- 岩城秀雄(1923-2011)<>:自坊は法界寺。
- 麻生文雄(1925-2012)<1982-1985>:醍醐寺座主。1982年(昭和57年)から1985年(昭和60年)まで醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。
- 仲田順和(1934-)<1985-2010>:醍醐寺座主。1985年(昭和60年)から2010年(平成22年)まで醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。
- 壁瀬宥雅(1948-)<2010-2023>:醍醐寺座主。自坊は醍醐寺理性院。1948年(昭和23年)生。同志社大学工学部卒。種智院大学、醍醐山伝法学院卒。2010年(平成22年)醍醐寺執行長・醍醐派宗務総長。2023年12月8日、醍醐寺座主。チェリスト。
- 大原弘敬(1959-)<2024->:自坊は北九州市不動院。1959年生。高野山大学卒。2024年1月9日、醍醐寺執行長。