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談山神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年10月11日 (水)
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2023年10月11日 (水) 時点における最新版
談山神社 たんざん じんじゃ | |
鎌足の遺骨を収めたとも言われる神廟(十三重塔) | |
概要 | 藤原氏の祖である藤原鎌足の霊廟。藤原鎌足の墓所。 |
奉斎 | 藤原鎌足朝臣 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 奈良県桜井市多武峰319 |
所在地(旧国郡) | 大和国十市郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 朱印地拝領神社・別格官幣社・別表神社 |
関連記事 | 中臣氏旧跡・藤原氏旧跡・藤原鎌足旧跡 |
目次 |
概要
談山神社(たんざん・じんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある、藤原氏祖藤原鎌足を祀る神社。中大兄皇子と大化の改新の密談を行った場所とされ、また鎌足の墓所があるとされる。大織冠大明神、談山大明神、談山権現、多武峰大明神などと呼ばれた。江戸時代までは、神宮寺の妙楽寺があり、神仏習合の宮寺(神祇を祀る神社を中心として、その祭祀のために僧侶・寺院が奉仕する複合施設)だった。別格官幣社。多武峰の項目も参照。
鎌足は没後、摂津阿威山に葬られたが、長男の定慧(じょうえ)が大和国多武峰に改葬し、鎌足神像を祭ったのが起源とされる。国家の変事があれば、神像が破裂鳴動するとされ、たびたび朝廷を恐れさせた。延長4年、談山権現の号が授けられる。天暦年間に天台座主実性が多武峰座主となり、以来延暦寺末となる。そのため、延暦寺と「南都北嶺」として対立していた興福寺とはたびたび抗争を繰り広げた。
領主豊臣秀長(豊臣秀吉異父弟)の命により、天正16年(1588)大和郡山に遷座。翌々年に多武峰に戻ったが、郡山にも分社が設けられた。江戸時代には3000石を領した。
明治初年、神仏分離により妙楽寺は廃絶となり、明治7年、別格官幣社となった。神仏習合の独特の建築が破却されることなく残されて、十三重塔などが現存する。
神社を中心とした施設であったことは明白である。寺院であれば、仏尊を祀ることが中心になるが、鎌足の神像を祀ることが中心となってきた。談山大明神、談山権現などと呼ばれたことも、観音や阿弥陀といった仏尊でなく、鎌足の神霊への祭祀がアイデンティティとしてあったと言える。建築様式から見ても、現在の本殿は明らかに春日造の神社建築である。確かに組織としては多武峰座主を長官とする寺院であったと言える。しかし、神社神道の神祇である鎌足神霊への祭祀をなくして多武峰としてのアイデンティティはない。同様の事例は、日光東照宮や石清水八幡宮などでも見られる。
歴史
境内
多武峰を参照
組織
宮司
名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 | |
---|---|---|---|---|
1 | 陶原昌平 | 生没年不詳 | 不詳 | 初代宮司。僧名は成亮。自坊は妙楽寺慈門院。還俗して談山神社神職となり、1873年(明治6年)から宮司の職名となる。 |
堤功長 | 1845-1913 | 不詳 | 子爵。1845年(弘化2年)生。1873年(明治6年)若松県出仕。談山神社宮司。岩手県属などを歴任。1892年(明治25年)7月から1913年(大正2年)11月まで貴族院議員。大喪使祭官。1913年(大正2年)11月18日死去。 | |
甘露寺義長 | 1852-1917 | 1875-1875 | 伯爵。甘露寺家出身。1852年(嘉永5年)生。1869年(明治2年)3月6日から7月8日まで侍従。1875年(明治8年)3月23日、談山神社宮司兼権大講義。同年10月8日、貴船神社宮司。1876年(明治9年)5月12日退任。12月28日宮中伺候。1884年(明治17年)伯爵。1885年(明治18年)3月11日、寒川神社宮司。1892年(明治25年)7月、青山御所伺候。1917年(大正6年)死去。 | |
葉室長邦 | 1839-1898 | 1879-1884 | 伯爵。葉室家出身。葉室長順の子。1839年(天保10年)生。1879年(明治12年)談山神社宮司。1884年(明治17年)3月28日、退任。同年殿掌。1898年(明治31年)12月26日死去。 | |
三室戸治光 | 1849-1920 | 1884-1887 | 三室戸家出身。三室戸陳光の子。1849年(嘉永2年)生。1884年(明治17年)4月5日、談山神社宮司。1887年(明治20年)3月退任。1920年(大正9年)死去。 | |
本山茂任 | 1826-1887 | 1887-1887 | 志士。高知藩出身。1887年(明治20年)4月23日(官報では19日)、大神神社宮司兼談山神社宮司。同年8月21日死去。62歳。(略歴は、白峰神宮#組織を参照) | |
水谷川忠起 | 1848-1923 | 1887-1891 | 男爵。奈良華族の一家で水谷川家始祖。1872年(明治5年)、春日大社大宮司。1887年(明治20年)10月4日から1891年(明治24年)3月23日まで談山神社宮司を兼務。 | |
木村弁之進 | 生没年不詳 | 不詳 | 経歴不詳。1893年(明治26年)以前に就任。1899年(明治32年)以後に退任。 | |
久我元通 | 生没年不詳 | ?-1916? | 経歴不詳。1902年(明治35年)以前就任。1916年(大正5年)頃退任。「別格官幣社談山神社御由緒調査書」提出。 | |
花園公季 | 1874-1926 | 1916?-1926 | 子爵。花園家出身。花園実延の子。1874年(明治7年)生。1883年(明治16年)1月、家督相続。1884年(明治17年)7月子爵。伊勢神宮宮掌を経て1916年(大正5年)頃、談山神社宮司。1926年(昭和1年)9月11日、休職中に死去(官報)。 | |
吉井良地 | 1894-1987 | 1925?-1929 | 西宮神社宮司。1894年(明治27年)生。1925年(大正14年)から1929年(昭和4年)まで談山神社宮司(神道人名辞典)。1987年(昭和62年)10月8日死去。 | |
菅貞幸 | 1891-1964 | 1929-1934 | 1929年(昭和4年)から1934年(昭和9年)まで談山神社宮司。(略歴は、長崎諏訪神社#組織を参照) | |
高橋城司 | 1895-1988 | 1934-1939 | 1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)2月1日まで談山神社宮司。(略歴は、日光二荒山神社#組織を参照) | |
長谷川義典 | 1898-1965 | 1939-1945 | 1939年(昭和14年)2月1日談山神社宮司。1945年(昭和20年)出雲大社権宮司。(略歴は、出雲大社#組織を参照) | |
藤原三代治 | ?-1959 | 1945-1948 | 神宮皇学館本科卒。橿原神宮主典。札幌神社禰宜、近江神宮禰宜を経て1945年(昭和20年)10月、談山神社宮司。1948年(昭和23年)9月24日、近江神宮権宮司。1959年(昭和34年)3月21日死去。51歳。 | |
加藤勝 | 1948-1984 | 田島神社宮司を経て1948年(昭和23年)9月24日、談山神社宮司。1984年(昭和59年)6月、退任。 | ||
佐藤宇祐 | 1923- | 1984-1995 | 1923年(大正12年)生。近江神宮権宮司を経て1984年(昭和59年)6月、談山神社宮司。1995年(平成7年)9月30日退任。 | |
川南勝 | 1995-2008 | 1970年(昭和45年)橿原神宮権禰宜。1988年(昭和63年)橿原神宮禰宜。1995年(平成7年)10月1日、談山神社宮司。2008年(平成20年)2月29日退任。 | ||
長岡千尋 | 1953- | 2010-2021 | 徳島県美馬市出身。1953年(昭和28年)生。国学院大学卒。神道学専攻科修了。護王神社、近江神宮を経て1984年(昭和59年)談山神社権禰宜。2007年(平成19年)禰宜。宮司代務者を経て2010年(平成22年)4月から2021年9月24日まで談山神社宮司。 | |
金子清作 | 2021- | 山口県出身。2021年9月25日談山神社宮司。 |
画像
資料
多武峰#資料を参照