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宮崎神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*1839年(天保10年):延岡藩主内藤政義が改築。 | *1839年(天保10年):延岡藩主内藤政義が改築。 | ||
*1873年(明治6年)5月:[[県社]]に列格。宮崎神社と改称。(宮崎市史続編上年表) | *1873年(明治6年)5月:[[県社]]に列格。宮崎神社と改称。(宮崎市史続編上年表) | ||
- | *1875年(明治8年) | + | *1875年(明治8年)8月10日:国幣中社に昇格。(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1384107]) |
+ | *1876年(明治9年)3月8日:宮崎神社の序列を国幣中社阿蘇神社の次とする(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1385144]) | ||
+ | *12月8日:予算を定める。(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1397809]) | ||
*1876年(明治9年)10月27日:宮崎神社、御神幸が始まる。(宮崎市史続編上年表) | *1876年(明治9年)10月27日:宮崎神社、御神幸が始まる。(宮崎市史続編上年表) | ||
- | *1878年(明治11年) | + | *1878年(明治11年)5月18日:宮崎宮と改称。(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1337174]) |
- | *1878年(明治11年) | + | *1878年(明治11年)2月:五所稲荷神社が末社となる。 |
+ | *1878年(明治11年)5月2日:政府、遷宮費を下付。(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1333129]) | ||
*1885年(明治18年)4月22日:官幣大社に昇格。(宮崎市史続編上年表) | *1885年(明治18年)4月22日:官幣大社に昇格。(宮崎市史続編上年表) | ||
*1888年(明治21年)2月:馬場を移転。(宮崎市史続編上年表) | *1888年(明治21年)2月:馬場を移転。(宮崎市史続編上年表) | ||
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*1907年(明治40年)11月2日:皇太子([[大正天皇]])行啓。 | *1907年(明治40年)11月2日:皇太子([[大正天皇]])行啓。 | ||
*1909年(明治42年):御神幸祭を復興 | *1909年(明治42年):御神幸祭を復興 | ||
- | *1913年(大正2年) | + | *1913年(大正2年)6月28日:宮崎神宮と改称(太政類典[https://www.digital.archives.go.jp/img/1647417])(7月4日?) |
*1913年(大正2年)12月15日:宮崎神宮駅(花ヶ島駅)開設 | *1913年(大正2年)12月15日:宮崎神宮駅(花ヶ島駅)開設 | ||
*1913年(大正2年):[[瀬頭御旅所]]を設置。 | *1913年(大正2年):[[瀬頭御旅所]]を設置。 |
2023年1月8日 (日) 時点における版
宮崎神宮(みやざき・じんぐう)は、宮崎県宮崎市神宮(日向国宮崎郡)にある神武天皇を祀った神社。高千穂宮跡とされる。祭神は神武天皇で、相殿に鵜〓草葺不合尊と玉依姫命を祀る。官幣大社。神社本庁別表神社。神宮号宣下神社。宮崎県護国神社や宮崎県神社庁がある。境外に別宮狭野神社や摂社皇宮神社がある。旧称は神武天皇社、宮崎宮、宮崎神社。
目次 |
歴史
- 神代:健磐龍命(神武天皇の孫で阿蘇神社祭神とされる)が高千穂宮跡に神武天皇の霊を祀って鎮祭したのが始まりという。
- 崇神天皇時代:社殿増築
- 景行天皇時代:熊襲征討の歳に造営
- 応神天皇時代:日向国造が祀る
- 1197年(建久8年):地頭土持信綱が社殿造営。奈古神社とも関連。
- 1473年(文明5年):伊東祐国が社領を寄進。
- 1502年(文亀2年)8月3日:台風で舟塚宮が崩壊。
- 1503年(文亀3年)11月19日:舟塚宮再建。
- 1644年(正保1年):延岡藩主有馬康純が改築
- 元禄年間:神武天皇社と奈古八幡社に5石を寄進。
- 1792年(寛政4年)6月19日:高山彦九郎が参詣。
- 1813年(文化10年):延岡藩主内藤政順が改築
- 1834年(天保5年):島津義久、御祓料として18石を寄進。
- 1839年(天保10年):延岡藩主内藤政義が改築。
- 1873年(明治6年)5月:県社に列格。宮崎神社と改称。(宮崎市史続編上年表)
- 1875年(明治8年)8月10日:国幣中社に昇格。(太政類典[1])
- 1876年(明治9年)3月8日:宮崎神社の序列を国幣中社阿蘇神社の次とする(太政類典[2])
- 12月8日:予算を定める。(太政類典[3])
- 1876年(明治9年)10月27日:宮崎神社、御神幸が始まる。(宮崎市史続編上年表)
- 1878年(明治11年)5月18日:宮崎宮と改称。(太政類典[4])
- 1878年(明治11年)2月:五所稲荷神社が末社となる。
- 1878年(明治11年)5月2日:政府、遷宮費を下付。(太政類典[5])
- 1885年(明治18年)4月22日:官幣大社に昇格。(宮崎市史続編上年表)
- 1888年(明治21年)2月:馬場を移転。(宮崎市史続編上年表)
- 1899年(明治32年):神武天皇御降誕大祭会を設立。
- 1899年(明治32年):改築始まる
- 1907年(明治40年)10月20日:改築完了し遷座。(宮崎市史続編上年表)
- 1907年(明治40年)11月2日:皇太子(大正天皇)行啓。
- 1909年(明治42年):御神幸祭を復興
- 1913年(大正2年)6月28日:宮崎神宮と改称(太政類典[6])(7月4日?)
- 1913年(大正2年)12月15日:宮崎神宮駅(花ヶ島駅)開設
- 1913年(大正2年):瀬頭御旅所を設置。
- 1915年(大正4年)6月:県社狭野神社が宮崎神宮別宮となる(戦後は独立神社となる)。
- 1920年(大正9年)3月28日:皇太子(昭和天皇)行啓
- 1934年(昭和9年)10月5日:御東遷2600年奉告祭。秩父宮隣席。(宮崎市史年表)
- 1935年(昭和10年)11月14日:陸軍特別大演習に際して昭和天皇行幸。1949年(昭和24年)、1958年(昭和33年)1973年(昭和48年)にも。
- 1937年(昭和12年)7月:神武養正講社設立
- 1938年(昭和13年)11月22日:神域拡張工事起工(宮崎市史年表)
- 1940年(昭和15年)3月31日:2600年記念事業として境内整備。東神苑整備ならびに参道拡張工事竣工(宮崎市史年表)
- 1940年(昭和15年)4月3日:流鏑馬神事復活。(宮崎市史年表)
- 1951年(昭和26年)3月:宮崎神宮境内に国立林業試験場九州支場宮崎分場を開設。1967年(昭和42年)まで
- 1955年(昭和30年)3月10日:宮崎県護国神社、竣工遷座祭
- 1971年(昭和46年)3月7日:宮崎神宮敷地内に宮崎県立総合博物館を開設。
境内
- 本社:
- 狭野神社:宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。境外別宮。県社。霧島六社権現の一つ。神武天皇の生誕地ゆかり。
- 皇宮神社:宮崎県宮崎市下北方町横小路。境外摂社。
- 五所稲荷神社:末社。祭神は保食神・塩土翁・道臣命・椎根津彦命・大久米命。創建不詳。元は宮崎神宮本殿の東側にあった。1827年(文政10年)9月奉納の手水鉢が現存する。1871年(明治4年)11月に境内の水分神社・事代主神社および周辺の稲荷神社(下北方田ノ上)、地主神社(花ケ島)、稲荷秋葉神社(下北方)を合祀した。1878年(明治11年)2月に宮崎神宮末社と定められた。1899年(明治32年)から1907年(明治40年)までの本殿造営にともない現在地に遷座した。
- 宮崎県護国神社:宮崎県宮崎市神宮。別の神社
- 宮崎県神社庁:宮崎県宮崎市神宮。
- 船塚陵:本社の真後ろにある。神武天皇が鵜戸から乗ってきた船を埋めた塚、もしくは神武東征に用いるつないだ場所という。船塚古墳。古墳時代後期の前方後円墳。下北方古墳群の中で最後期に当たるとみられる。全長76.8m、高さ7.34m。船琴山、船場陵。
- 瀬頭御旅所:宮崎県宮崎市瀬頭。1913年(大正2年)建立。
- 大淀御旅所:中村御旅所。場所は不定か。
- 西神苑
- 東神苑
- ご神田
- 神宮会館
- 流鏑馬馬場
- 徴古館
組織
宮司
宮崎県護国神社宮司を兼務する。
- 伊牟田泉(1817-1892)<1875-1878>:1817年(文化14年)生。熊本県菊池市の田島菅原神社の出身。神道講釈に長ける。1848年(嘉永1年)清乃屋を開く。1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで宮崎神社宮司。1886年(明治19年)8月、神宮教玉名分教会長。1892年(明治25年)4月死去。伊牟田直治。
- 丸野房雄()<1878-1879>:1876年(明治9年)石清水八幡宮宮司。1878年(明治11年)宮崎宮宮司。1879年(明治12年)12月、都農神社宮司。
- 和田磐春(?-1880)<1880-1880>:薩摩出身。平田国学を学び、後醍院真柱に師事する。1873年(明治6年)6月、小国神社権宮司兼権中講義。10月梅宮神社権宮司中講義。1874年(明治7年)4月9日、権大講義。15日、梅宮神社宮司。12月東京府十二等出仕。1876年(明治9年)1月解職。8月復職。12月鎌倉宮権宮司。1877年(明治10年)12月8日、廃官。17日鎌倉宮禰宜。1878年(明治11年)11月、寒川神社宮司。1880年(明治13年)1月、宮崎宮宮司。大講義を経て3月22日権少教正。8月19日死去。著書『恵比寿考』。
- 永友宗年(1854-1927)<1881-1889>:1854年(安政1年)生。名和大年に師事。上京して井上頼圀に師事。1878年(明治11年)都農神社に奉仕。1881年(明治14年)宮崎宮宮司。1889年(明治22年)5月1日、都農神社宮司。1927年(昭和2年)死去。著書に『日向国神祇史料』14巻、『日向雑記』5巻、『続日向雑記』4巻、『日向全書』5巻。
- 上井栄雄(1852-1924)<1896-1900>:鹿児島県出身。1852年(嘉永5年)生。1885年(明治18年)伊和神社宮司。1887年(明治20年)制度変更にともない、4月7日改めて任命。1895年(明治28年)5月24日、安仁神社宮司。1896年(明治29年)2月4日、宮崎宮宮司。1900年(明治33年)転任。戸隠神社宮司から転任して1921年(大正10年)12月28日、鶴岡八幡宮宮司就任。1924年(大正13年)3月12日休職。1924年(大正13年)5月12日死去。73歳。著書に『戸隠山案内記』。
- 青木陳実(1854-1918)<1900-1908>:下野国安蘇郡出身。1854年(安政1年)生。国学を堀秀成や御巫清直に学ぶ。1873年(明治6年)2月、大原野神社権禰宜。伊勢神宮主典。1896年(明治29年)11月、神宮権禰宜。1900年(明治33年)宮崎宮宮司。1908年(明治41年)9月1日、白峰宮宮司。1910年(明治43年)頃、結城神社宮司、1913年(大正2年)2月6日、平安神宮宮司。1916年(大正5年)10月2日、賀茂別雷神社宮司。1918年(大正7年)6月3日死去。著書『祝詞作文自在』。
- 田中直達()<1908-1924>:内務官僚。東京府庶務課長、小石川区長、1889年(明治22年)3月、牛込区長を兼務。4月、山梨県書記官。山梨県参事官、鹿児島県書記官、宮崎県書記官を歴任。1908年(明治41年)9月1日、宮崎宮宮司。1924年(大正13年)退職。
- 神尾清澄(1885-1943)<1933-1936>:滋賀県出身。1885年(明治18年)生。陸軍歩兵伍長。1916年(大正5年)8月8日、伊佐須美神社宮司。1918年(大正7年)7月8日、樺太神社宮司。1929年(昭和4年)3月5日、石上神宮宮司。1933年(昭和8年)4月4日、宮崎神宮宮司。1936年(昭和11年)12月19日、賀茂御祖神社宮司。在職で1943年(昭和18年)2月22日死去。
- 河合繁樹()<1936->:1936年(昭和11年)宮崎神宮宮司。塩竈神社宮司。宮城県神社庁長。
- 片岡常男(1895-)<1944->:1944年(昭和19年)宮崎神宮宮司。
- 横山秀雄(-1948)<>:熊野坐神社宮司、宮崎神宮宮司、宇佐神宮宮司を歴任。
- 井上国雄()<1960-1964>:1960年(昭和35年)から1964年(昭和39年)まで宮崎神宮宮司。都農神社宮司。
- 甲斐武教(1908-1991)<1965-1983>:西米良村村長。1965年(昭和40年)から1983年(昭和58年)まで宮崎神宮宮司。
- 黒岩龍彦(1923-2008)<1983-2008>:宮崎県出身。国学院大学予科修了。道義倫理学科に進学するが学徒動員。1976年(昭和51年)宮崎神宮権宮司。1983年(昭和58年)宮崎神宮宮司、宮崎県護国神社宮司、宮崎県神社庁庁長。
- 杉田秀清()<2008-2019>:国学院大学卒。鵜戸神宮宮司を経て2008年(平成20年)から2019年(令和1年)まで宮崎神宮宮司。、
- 本部雅裕(1951-)<2019->:宮崎県出身。1974年(昭和49年)国学院大学文学部神道学科卒。鵜戸神宮に奉職。宮崎県神社庁参事。2008年(平成20年)鵜戸神宮宮司。2019年(令和1年)7月1日、宮崎神宮宮司。宮崎県神社庁庁長。
権宮司
- 黒岩龍彦
- 黒岩昭彦
画像
資料
- 『古事類苑』「宮崎宮」[7]
- 永友宗年1891『宮崎宮略縁起』[8]
- 永友宗年1917『日向国神祇史料』「宮崎神宮」[9]
- 日吉昇1899『日州名所案内』[10]
- 曽小川彦千代1899『日向都案内記』「宮崎宮」[11]
- 若山甲蔵1907『宮崎県案内記』[12]
- 宮崎県1912『宮崎県行啓誌』「宮崎宮」[13]:明治の造営
- 宮崎町1915『神都宮崎』[14]
- 宮崎神宮1916『宮崎神宮略記』
- 1922『宮崎神宮奉務綱要』[15]
- 1922『宮崎県史蹟調査』「宮崎宮」[16]
- 1929『日向地誌』「船塚陵」[17]
- 1932『宮崎県神社誌』「宮崎神宮」[18]
- 1933『大日本神社志』[19]
- 1936『南九州の旅』「宮崎神宮」[20]
- 1939「宮崎神宮境域拡張整備起工祭」[21]
- 上村幸盛 1939『宮崎碑文志』「宮崎神宮御旅所碑」[22]
- 1939『紀元二千六百年祝典記録1』「宮崎神宮境域拡張整備事業に関する審議」[23]
- 1940『紀元二千六百年祝典記録7』「宮崎神宮境域の拡張整備」[24]
- 1940『神武天皇御紀謹解』「宮崎神宮」[25]
- 1940『聖地日向―皇紀二千六百年』[26]
- 松尾宇一1940『神武天皇宮崎皇居考証文献資料』「」[27]
- 伊吹蘚石1940『宮崎神宮御神幸之図』:1940『紀元二千六百年記念更新官幣大社宮崎神宮御神幸列之図』も同じか
- 河合繁樹1940『宮崎神宮神事流鏑馬の由来』
- 河合繁樹編 1941『宮崎神宮徴古館陳列品解説書』[28]
- 1941「宮崎神宮境域拡張整備工事竣工奉献式」[29]
- 1943『宮崎神宮の流鏑馬まつり』[30]
- 1959『宮崎市史』「宮崎神宮」[31]
- 1959『宮崎市史』「御東遷二千六百年祭」[32]
- 1978『宮崎市史続編下』「宮崎神宮御神幸祭」[33]
- 1984『神武天皇論宮崎神宮史』宮崎神宮社務所
- 藤原惠洋1992「創建神社の意匠特性と復古主義的意匠の創出に関する考察―制限図様式と創建神社の意匠に関する研究(2)」『デザイン学研究』91[34]
- 黒岩龍彦1994『神武さま―大悲物憂きことなく』
- 斉藤政美・黒木秀一2003「宮崎神宮の野生植物」『宮崎県総合博物館野外調査会研究紀要』24
- 黒木秀一2007『宮崎神宮の森今昔』
- 服部保ほか2010「宮崎神宮社叢の種多様性の特性」『保全生態学研究』15-1[35]
- 黒岩昭彦2011「紀元二千六百年奉祝事業の審議経過について―宮崎神宮への追加事業を中心に」『神道宗教』222・223
- 黒岩昭彦2014「占領下の八紘之基柱―「神道指令」と「八紘一宇」の護持」『神道宗教』233
- 黒岩昭彦2016「「妖怪博士」の宮崎紀行―宮崎神宮に参拝した井上圓了」『みやざき民俗』68
- 黒岩昭彦2017「戦艦「日向」と宮崎神宮」『神道文化』29
- 黒岩昭彦2018「宮崎神宮の「藤まつり」」『みやざき民俗』70
- 渡邉一弘2015「宮崎神宮「日誌」に見る昭和二十年」『昭和のくらし研究』14
- 永瀬節治2015「昭和前期の宮崎都市計画の特色とその地域的・社会的文脈」『都市計画論文集』50-3[36]
- 神武会2018『神武さん参り』
- 本部雅裕2022『不易と流行―古希に人生を顧みる』
- 『養正』:社報