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木曽御嶽信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2011年10月25日 (火) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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木曽御嶽信仰

Ontake C003 王滝御嶽神社 里宮08.jpg Ontake-hi 001.jpg
左:王滝里宮  右:御嶽大神碑

目次

概要

木曽御嶽信仰(きそおんたけしんこう)は、覚明・普寛を開祖とする、江戸時代後期に成立した木曽御嶽山に対する信仰である。


歴史

木曽御嶽信仰以前の蔵王権現信仰と木曽御嶽山

蔵王権現信仰

木曽御嶽山

木曽御嶽信仰の登場

覚明による開山

普寛による開山

御嶽講の形成

普寛の弟子の動き

幕府による弾圧と公認運動

木曽御嶽信仰の再編

現代の木曽御嶽信仰

信仰

祭神

木曽御嶽信仰における信仰の対象となる神は、御嶽大神こと御嶽山座王権現である。これは、修験道の主祭神である蔵王権現に由来する神格である。蔵王権現は修験道の地方伝播とともに各地の霊山に祀られたが、それらの山は御嶽(みたけ)と呼ばれることが多く、木曽御嶽山(おんたけさん)もその一つであった。

蔵王権現

御嶽山座王大権現の性格を知るうえで、その前提として蔵王権現について概説する[1]

蔵王権現は修験道の主祭神である。権現の名が示すとおり、仏尊ではなく神祇である。中世に成立した縁起によると、白鳳年間に役行者が吉野の山上で仏の出現を祈願したとき、最初に釈迦が現れ、次に観音が現れ、後に弥勒が出現したが、役行者はいずれも拒否したところ、最後に岩盤より青黒忿怒の金剛蔵王が出現した。役行者はこれを歓んで、吉野蔵王堂(現在の大峯山寺)を創建したとされる。

しかしながら、史料的な初出は中国後周(951-958)に成立した『義楚六帖』である。同書には「日本国都城の南五百余里に金峯山あり、頂上に金剛蔵王菩薩あり、第一の霊異なり」(原漢文)とある。これでは蔵王権現ではなく、金剛蔵王菩薩と記されているが、金峰山に祀られている仏尊であり、のちの蔵王権現であるに違いない。役行者が蔵王権現を出現させたという説話の所見は平安末期12世紀前半成立の『今昔物語集』である。金剛蔵王菩薩は胎蔵界曼荼羅に登場する仏尊であるが、名称を案ずるに蔵王権現の起源の一つであるようだが、図像的特徴が全く異なっている。

現在の蔵王権現の図像が成立したのは鎌倉時代である。蔵王権現の図像的特徴は次の通りである。一面三目二臂、青黒の忿怒、頭には三鈷冠を戴く。左手は剣印を腰に据え、右手は三鈷杵を持って高く上げる。左足は岩を踏み、右足は膝を上げて空中を踏む。これらの図像は金剛童子に由来すると考えられている。この図像が成立する以前の平安末期の蔵王権現像(三仏寺投入堂)では直立する姿となっている。

蔵王権現の本地仏は、釈迦如来弥勒菩薩千手観音菩薩とされる。蔵王権現は釈迦如来の教令輪身であり、金峰山は霊鷲山が日本に飛来したものとされた。末法思想が流行すると、蔵王権現は弥勒菩薩の化身とされ、金峰山は浄土とされた。貴族が吉野詣を行い、極楽往生を願ったのはこのためであった。当初は釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩の各説が並立していたようだが、鎌倉時代に釈迦如来が過去、弥勒菩薩が来世、千手観音菩薩が現在を担当するものとして統合されたようだ。

覚明普寛以前の木曽御嶽山の祭神

次に覚明、普寛が中興する前の木曽御嶽山に座王権現に関する記録を記す。木曽御嶽山では、蔵王権現ではなく、座王権現と記されている。

1507年(永正4年)の史料によると、「御嶽山上座王権現六社」として王権現:大己貴命、日権現:少彦名命、八王子:国狭槌命、栗迦羅:火須勢理命、士祖権現:日本武命、金剛童子:伊弉諾尊が挙げられている。王権現が現在の剣ヶ峰頂上(3067m)にある奥社で、日権現が現在の王滝頂上(2936m)にある奥社である。ただし、現在の各奥宮が中世の祭祀を直接的に継承しているかどうかは明らかでない。一般的に蔵王権現の神名は一定せず、金山彦命安閑天皇あるいは櫛真智命とされることがあるが、大己貴命及び少彦名命の二神とされることも多い。御嶽山では、大己貴命及び少彦名命の二神としたようで、それが王権現と日権現の祭神だと考えられたのだろう。「座王権現」が六社の総称なのか、王権現(および日権現)を呼ぶのかはよく分からない。

天正の縁起に「座王権現と申は現世にてはみろく菩薩也、今生にては権現也、後世にては釈迦如来とげんじて」とある。現世、過去世、未来世の適用の仕方は異なっているが、前述の通り、釈迦如来や弥勒菩薩は吉野の蔵王権現の本地仏である。

木曽御嶽信仰

太元尊神(国常立尊)を祀る大元宮

木曽御嶽山では蔵王権現ではなく座王権現と表記し、その独自性を主張してきた。普寛はこれを継承して、さらに普寛独自の解釈を加えることにより、蔵王権現とは全く別の神格として御嶽山座王権現が成立した[2]。明治になり、神仏分離を契機に、御嶽山座王大権現は御嶽大神と呼称されるようになった。

普寛は、座王権現を国常立尊だと解釈した。これは画期的なことであった。これ以降、従来の大己貴命、少彦名命の二柱に国常立尊が加えられて、三柱が御嶽山座王権現だと考えられるようになった。

国常立尊は、『日本書紀』において最初に登場する神祇であるが、吉田神道においては、万物の根源神であるとされ、太元尊神と呼称された。普寛は吉田神道を学んでいたらしい。御嶽山座王権現が太元尊神とされたことで、御嶽山座王権現は太元尊神の万物を統御する最高神の性格を付与された。詳しくは「天地開闢太元尊神国常立尊阿字所現忿怒身御嶽山座王大権現」などと呼ばれるようになった[3]。順明が木曽で組織した太元講の名称は、この御嶽山座王権現すなわち太元尊神の名称に由来する。この太元講は剣ヶ峰山頂に太元尊神像を奉納している。

また普寛は、御嶽山座王権現の本地を胎蔵界大日如来だと考えた。これも従来の信仰とは異なるところであった。御嶽山座王権現の「根本真言」は胎蔵界大日如来のそれである「アビラウンケン・ボロン・キリク」とされた[4]。いうまでもなく、大日如来は密教における最高存在であり、万物の宇宙そのものを神格化した仏尊である。

このようにして、座王権現は宇宙神的性格を与えられたのであった。

御嶽山大和本宮の神像

また、御嶽山座王権現が従来の蔵王権現とは異なることは図像によっても表現された。上述のように蔵王権現は忿怒相の明王系の姿をしていたが、御嶽山座王権現はそれと大きく異なり、衣冠束帯姿で描かれている[5]。あるいは、日輪を背負った無冠の長髪の貴人の姿で描かれることもある。

大又三社の御嶽三神像の中神像は、衣冠束帯の立像で光背には日輪を背負っている。両手で笏をもっている。戦後に建立された王滝御嶽神社による田の原遥拝所の像もこの系譜に連なるものだと思われる。田の原遥拝所の国常立尊は、束帯のような服装の立像で、手は前に組み、袖の中に隠している。髪を肩まで垂らしている。輪光背を背にしている。

一方、御嶽教の国常立尊は、特徴的なものである。大和時代をイメージしたと思われる服を着用した雲上に立つ立像である。忿怒相で目は三つ。額には七本の光を放つ八咫鏡。髪を肩まで垂らしている。首には勾玉の輪をかける。両手は腹の前にあり、火の玉の地球を持つ。これは国常立尊による天地開闢の場面を表したものだという。そして光背に教団の紋が付けられている。

重要な神々

御嶽山座王権現に次ぐ重要な神々として、武尊山大権現意波羅山大権現八海山大頭羅神王三笠山刀利天が挙げられる。いずれも普寛が開山した霊山の神である。

武尊山大権現
武尊山山頂の日本武尊像

武尊山大権現は上野の武尊山の神である。日本武尊とされる。武尊山(2158m)は山系に属さない独立峰である。山頂には日本武尊の銅像が祀られているが、神社は存在しない。山麓に里宮が祀られているほか、周辺に分社が多く見られるが、木曽御嶽信仰との関わりはほとんどない。木曽御嶽信仰においては、武尊山大権現は普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、八海山大神に取って変わられたこともあって、目立たない存在となった。

意波羅山大権現

意波羅山大権現秩父御嶽山(1081m)の麓にある意波羅山の神である。意波羅大明神、意波羅三社大権現、伊和羅三社大権現、意波羅天宮などとも表記される。秩父御岳山は普寛の出身地の秩父落合村の裏にある山である。三社大権現と呼ばれるのは、当初、秩父御岳山に意波羅天宮、刀利天宮、提頭羅天宮を祀る神社を建てたことに基づくと思われる[6]

御嶽山内では意波羅山大権現は王滝口三笠山に祀られた[7]。また王滝口八合目金剛童子に神使であると思われる猪の上に御幣を立てて表された意波羅天宮の銅像がある。通常、猪は摩利支天の神使とされるが、意波羅山大権現と摩利支天の関係は不明である。普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、三笠山大神に取って変わられたこともあって、山中の神祠としては目立たない存在となった。

八海山大頭羅神王
八海山

八海山大頭羅神王は越後八海山の神である。八海山大神とも呼ばれる。八海山(1778m)は越後山脈に連なる険しい霊山である。山麓には三つの里宮があるが、頂上奥社はない。霊神碑があるなど、木曽御嶽信仰の伝統が強く残る霊山である。

大頭羅神王提頭頼〓善神に由来する神である。提頭頼〓(だいずらだ)善神は、四天王の持国天のことで、十六善神の一神でもある。神道の神としては、国狭槌尊とされる。『日本書紀』本書によれば、宇宙で二番目に出現した神であり、国狭槌尊は国常立尊の次に出現した神である。いつ、八海山大神が国狭槌尊とされたかは未確認だが、その意図は国常立尊の次ぐ根源性を持つ神として位置づけることにあったのではないだろうか。

八海山大頭羅神王は医療の神とされ、特に眼病を司る神とされる。そのため、八海山を祭る霊場には目に関する奉納物が多い。また水の神ともされる。黒沢口、王滝口、あるいは開田口のいずれの八海山大神も清水が湧出する場所であり、神水として神聖視されている。やはり眼病に効果があるとされる。

図像は、持国天に通じるがより定式化されている。持国天と同様に鎧を着けた中国風の武将の姿で、護法神の系譜にあることを印象付ける。右手には剣を持ち、腰のあたりに構える。左手には薬壺を持ち、胸の前に掲げる。顔面は忿怒相。持国天でも見受けられるように、光背には輪光背を背負い、上部と左右に炎がある。岩盤あるいは雲のうえに立つ。ちなみに三笠山大神も特徴としてはほぼ同様で、右手の持物が剣ではなく、槍となっており、左手の持物が薬壺ではなく、羂索を持っているのが違いである。八海山大神の神像は、黒沢王滝の八海山のほか、大又三社御嶽教木曽大教殿御嶽教大和本宮に祀られている。ただし越後の八海山尊神社においては、右手に剣、左手に薬壺を持つのは共通しているももの、武将姿ではなく、上古風の服を着た老人として表現されている。この神像は八海山山頂大日岳、山上遥拝所、里宮霊風殿に祀られている。

三笠山刀利天

三笠山刀利天は上野の三笠山の神である。三笠山大神とも呼ばれる。三笠山は、現在の諏訪山(1549m)で日本三百名山の一つとして知られている。山内に三笠山大神を祀った祠がある。八海山、秩父御岳山、武尊山が空に聳え立つ霊山であるのに対して当山は山地の奥深いところにある。大小の山々が連なる山地のなかで、この山に見出された神格というのはどのようなものであったのだろうか。

刀利天とは、本来仏教では「〓利天」といい、須弥山の頂上にある世界のことであり、帝釈天が住む天である。しかしながら、木曽御嶽信仰においては、一つの神格として信仰されるようになった。どのような関係にあるのかは不明である。

神道の神としては、豊斟淳尊とされる。『日本書紀』本書によれば、豊斟淳尊は宇宙で三番目に出現した神であり、国狭槌尊の次(国常立尊の次の次)に出現した神である。いつ、三笠山大神が豊斟淳尊とされたかは未確認だが、その意図は国常立尊に次ぐ根源性を持つ神として位置づけることにあったのではないだろうか。

三笠山大神の図像的特徴は、八海山大神とほぼ同じである。八海山大神は右手に剣を持っているが、三笠山大神は右手に槍を持っており、左手の持物が薬壺ではなく、羂索を持っているのが異なる特色である。三笠山大神の神像は、黒沢王滝の三笠山のほか、大又三社、御嶽教木曽大教殿、御嶽教大和本宮に祀られている。


三神
御嶽三神碑

現在の木曽御嶽信仰においては、御嶽大神八海山大神三笠山大神の三神が一組で祀られることが多い。御三方などとも言われる。この三神が御嶽を代表する神だとされている。しかしながら、普寛の当初にはこの組み合わせは存在しなかった。

現存する普寛筆の神号軸によると、中央に「御嶽山座王大権現」、向かって右に「武尊山大権現」、向かって左に「意波羅山大権現」とある[8]。意波羅三社大権現[9]との表記のものもある。別の者が記したものには「武尊山武尊大権現」、「伊和羅三社大権現」とあるものもある[10]。このように普寛は御嶽、八海山、三笠山の組み合わせではなく、御嶽、武尊山、意波羅山を一組として考えていたことが分かる。

普寛の弟子、金剛院順明筆による神号軸によると、向かって右に「八海山大頭羅神王」、向かって左に「意波羅三社大権現」とあり[11]、武尊山に代わって八海山が向かって右側に祀られるようになった。

さらに普寛の弟子、広山の落款がある画像には、中央に御嶽、向かって右に八海山、向かって左に三笠山の神像が描かれている[12]。この組み合わせは、普寛最後の弟子である一心の筆による神号軸に多く見られ、中央に「御嶽山座王大権現」、向かって右に「八海山大頭羅神王」、向かって左に「三笠山刀利天宮」となっている[13]

以上のことから、普寛のときには御嶽、武尊山、意波羅山の組み合わせだったものが、順明は武尊山を八海山に変え、広山は意波羅山を三笠山に変え、一心はこの形式を普及させたものとの推測が成り立つ。

御嶽山の神仏

赤岩巣の覚明碑。「勢至」の文字が確認できる。
黒沢奥宮の向かって右に白川大神像がある。
摩利支天社

・数多くの神仏のなかでも特に重視されるのは、不動明王である。これは一般の山岳信仰に見られることであり、木曽御嶽信仰もその系譜に連なることを示していると言える。不動明王は御嶽行者を守護する仏尊とされ、普寛泰賢順明は不動明王の化身だったとされる。普寛を通力不動、泰賢を神勅不動、順明を神力不動として信仰することも行われていた。また木曽御嶽信仰において広く行われる御座儀礼は、普寛が不動明王より直に伝授されたものとされる。木曽御嶽信仰に限ることではないが、滝場には必ず不動明王を祀られる。百間滝不動明王、清滝不動明王、新滝不動明王、中央大日大聖不動明王、荒沢不動明王、かんまんの滝不動明王、波切不動明王などの名前がみえる。不動明王の眷属である三十六童子成田山より勧請されて山頂一ノ池のお鉢に祀られている。

・行者との関係でいえば、勢至菩薩も注目できる。御嶽山開山の覚明は、勢至菩薩の化身(あるいはその化身である月天子の化身)とされたのであった。赤岩巣の覚明碑には「御嶽山勢至覚明大菩薩」とある。

阿留摩耶天は重要な神格である。木曽御嶽信仰独自の神格である。天狗とされるが、その詳細はよく分からない。継子岳II峰に阿留摩耶天を祭る祠がある。

白川大神も重要な神祇である。白河大神、白川権現ともいう。白川大神は、四国八十八所霊場の第38番札所金剛福寺にて覚明に御嶽山開山を命じたとされる神である。もとは御嶽山三十八座の一座で、白川地区に鎮座する白川神社がそれである。白川重頼のことともいう。山内では黒沢口六合目に霊場がある。社殿はないが、石碑や神像が建てられている。また特筆すべきことには、白川大神は四国の御嶽講の守護神とされている。これは覚明が白川大神から御嶽山開山の託宣を受けたのが四国巡礼の最中だったことにちなむものである。1861年(文久1年)には四国の御嶽講の開祖の一人とされる西覚らが登拝中、白川大神は託宣を下して、四国の行者の守護神となった。1864年(元治1年)8月15日、阿波に白川神社が創建された。なお図像は衣冠束帯姿で現される。黒沢口六合目の神像は衣冠姿で馬に乗っている。剣ヶ峰頂上には衣冠姿の立像が奥宮横に祀られている。御嶽教木曽大教殿境内にも衣冠姿の神像がある。

摩利支天は、御座行法の守護神とされる[14]。御嶽山山上のピークの一つが摩利支天山と名付けられ、山頂近くの「摩利支天乗越」というところに摩利支天社が祀られている。また王滝八合目の金剛童子の側に銅像が祀られている。一心講では「表不動 裏摩利支天」と呼ばれるほど重視しており、丸江講の講祖盛心は一心講弾圧のあと、弾圧を避けるために一社の神職となったが、そのときに創建した神社が摩利支天社であった。図像としては、王滝八合目の銅像では、三面六臂の忿怒相として表現されている。

龍神は、山上にある五つの池に住む神として信仰されている。白龍、黒龍、赤龍、青龍、黄龍の五龍神である。水神である。

・このほか、山内に祀られている神仏としては、大江大権現、十二大権現、金剛童子、長崎大明神がある。 大黒天、弁才天、薬師如来、文殊菩薩なども信仰されている。


弘法大師も重要視されている。木曽御嶽信仰は、どちらかと言えば、密教でも天台宗と関係が深いが[15]、弘法大師信仰も入り込んでいた。各地に弘法大師来訪の伝説があるように御嶽山にも弘法大師が登拝したという伝説がある。護摩堂原霊神場には弘法大師堂があり、黒沢口八合目半には弘法大師の像が祀られている。

霊神

霊神信仰

霊神(れいじん)とは、過去の行者を神格化した存在である。霊神信仰は、時代や地域によって異なるし、講社によっても異なるが、その内容や特徴としては次の点が挙げられる。

  • 死者の魂は御嶽山に行き、死後も御嶽山で修行している。
  • 単なる祖霊、死霊ではなく、畏怖すべき神々の一員である。
  • 御座で降りてきて託宣を下し、信者と対話できる。
  • 講社や信者を守る存在である。
  • 霊神碑を建てて、定期的に参詣する。
  • 葬送儀礼や祖先祭祀(仏壇や墓参)からは独立している。

霊神信仰は木曽御嶽信仰の創始のころからあったわけではないらしい。その起源はよく分からない。死者の魂が木曽御嶽山に鎮まるという信仰は、普寛のころからあった。普寛の「亡骸は いずくの里に埋むるとも 心は御嶽の有明の月」という歌はよく知られている。これは辞世の歌とも言われるがそうではなく、生前から好んで書きつけていた歌である。一心や一山がさらに、この「死せば魂は木曽御嶽山に鎮まる」という信仰を喧伝したと言われている。伝承では普寛の葬儀のときに、普寛の霊が泰賢に憑依したといい、これが霊神を降霊する御座の始まりという。

全ての行者に対して、霊神号が贈られるわけではない。基準は講社によって大きく異なるが、霊神となった行者がその講社においては、礼拝尊崇の対象となるのであり、誰でも霊神になれるわけではないという。礼拝の対象となるのは行者のなかでも信者の信頼を受け、優れた能力を持ち、権威ある者に限られるという[16]。霊神と認められることで、御嶽大神(御嶽山座王大権現)を頂点とする木曽御嶽信仰のパンテオンに組み込まれ、神々の一員となるのであった。霊神は死後も木曽御嶽山で修行を続けていると考えられている。修行を積むに連れて、神としての高位に登ることができると考えられている。全ての霊神が御座で降りるとは限らず、一定の段階に至った霊神しか降りないともいわれている。

また行者のヒエラルキーとして開山(覚明・普寛)、講祖、行者の系譜に連なることとなる。霊神は、講社教会の神殿に祀られたり、地元の霊神場や木曽御嶽山の霊神場などに霊神碑が建てられたりして祭祀される。


霊神碑

霊神碑は霊の依代[17]として建立される石碑である。御嶽山の参道沿いや、あるいは各地の木曽御嶽信仰の霊場に建立される。楕円形の扁平な石に「●●霊神」と刻むのが一般的である。

同じ講社の霊神碑は土地利用の関係もあって、一定の箇所に建てられることが多い。多数の霊神碑を建てられるように最初から講社ごとに用地を確保することも多い。このような霊神碑が集まって建てられている場のことを霊神場(れいじんば)と呼ぶ。霊神場では、御嶽三神の碑を上部に据え、続いて覚明・普寛や講祖の碑を置き、その下にその他の碑を並べていくような配列が多い。

現在では、業者が入り、各講社に霊神場用の用地を斡旋していることもある。霊神場が集中している地域として、木曽御嶽山の参道があり、各地の木曽御嶽信仰の霊山にも設けられることがある。

昭和60年代において、御嶽山の三岳村区域で約15000基の霊神碑が確認されている[18]。そのうち14000基近くは護摩堂原霊神場に集中している。ただし、戦時中の金属供出で供出された銅像・銅碑類も多いという。

木曽御嶽山のほかでは岩崎御嶽山には4500基超の霊神碑があることが知られている[19]。これは木曽御嶽山外で最大の霊神場とされる。また八海山には約570基の霊神碑がある[20]

一般に、お墓参りをするときに交流も何もない他家のお墓にはほとんど関心を置かず、背景としてしか認識していないように思えるのと同じように、自身の所属する講社以外の霊神碑にはあまり関心を寄せないようである。

霊神碑の歴史
最初期の霊神碑等
番号 場所・霊神 建立年 概要
1 大泉寺の覚明碑 1838年(天保9年) 覚明最古。
2 赤岩巣の覚明碑 1859年(安政6年) 山内で覚明最古。
3 木曽町川西の覚明碑 1843年(天保14年) 「神霊」号最古。
4 小日和田峠頂上の覚明像 1845年(弘化2年) 「霊神」号最古。
5 王滝里宮の普寛碑 1845年(弘化2年) 普寛最古。
6 護摩堂原の亀翁霊神 1846年(弘化3年) 現在の形態の最古。
山内黒沢口最古。
覚明普寛以外で最古。

覚明の名が刻まれた最古の碑は大泉寺にある1838年(天保9年)のものである。これを皮切りにいくつか行者の碑が建てられていく。それは右表の通りである。しかし、江戸時代には、石碑石像の建立は覚明普寛や講祖に限られていた[21]。それが、富士信仰や各地の霊山で見られる登山記念碑や、大峰山で立てられる碑伝(ひで)などの影響も受けて、建碑の習慣が持ち込まれ、ついで各行者を祀る石碑が立てられるようになったらしい[22]

先駆者への追慕の習慣は仏教において伝統的になされてきたし、建碑の習慣も取り立てて珍しいものでもない。しかし、ここまで大量の石碑を建立させることは従来の信仰ではなかった。この動機はなんだろうか。現在でこそ、祖霊社に合祀されることがあるものの、霊神碑は基本的に具体的個別的個人一人のために建てられる。漠然とした先駆者全般というイメージではない。一人一人への追慕尊崇の念が非常に強かったのであり、きっとそれは御座によって培われたのではないだろうか。

霊神には「●●霊神」という神号が贈られる。これは吉田神道垂加神道で人物を神として祀るときに用いられきた称号であった[23]。霊神号を扁平石に刻んだ初例は関東を中心とした巴講である。巴講はもともと御嶽講ではなく、復古神道を学んだ中里允修が、天心術という独自の教えを広めるための組織であった。中里允修は死後、石碑を建てられ、亀翁霊神として祀られた。これが霊神碑の初例とされる[24]

1855年(安政2年)に、王滝の庄屋が王滝登山道の奉納物調査を行なっているがこのときのリストには覚明普寛および一心の碑が確認できるが、霊神碑と思われるものはない[25]。黒沢口には亀翁霊神碑がすでに建てられていたがそのほかについては不詳であるものの、それほど多くはないだろう。この時点では霊神碑の建立は定着していなかったものと思われる。

「霊神」号を刻む石碑が一般化するのは明治7,8年ころからと言われている[26]。これは御嶽講が教派神道各派に所属し始めた時期であり、霊神碑建立自体の増加も同じ時期からであるという[27]。それまでは行者とか菩薩とか仏教風の称号が用いられていた。これが神仏分離を経て、神道風の用語を用いるようになったものと考えられている。


霊神碑の形態

形態は様々である。石碑が最も多いが、石碑の形もバリエーションに富む。祀られるのは一名が基本だが、二名の場合、三名の場合などもある。さらには数十名を列記したものもある。

楕円形の扁平石が最も多い。自然石を用いたものや御影石を加工したものが用いられる。一般的な霊神碑で1基40万円から50万円という。ほかに墓石のような角柱を建てるものもある。特殊なものとしては、神鏡型のものや扁平石の正面に像を彫り込んだものがある。

石碑以外にも様々な形態を取るものがある。代表的なのは、石像、銅像だろう。これには立像・座像・胸像などのタイプがあるが、座像が一番多い印象を受ける。ほかに祠の形態を取るものがある。なかに御幣を納めることが多い。また五輪塔の形をしたものもある。さらに特殊なものとしては、碑伝のようなものを建てるものや、磨崖仏のように岩に掘り込んだものもある。形は様々であるが、その用途目的は石碑のものと同様であるのでこれらも霊神碑の範疇と考えて差し支えない。

近年の変化

しかし、近年、霊神観に急激な変化が起きていることが指摘されている[28]

一概には言えないがあえて一言でいえば、祖先祭祀化であるといえる。行者が生前に自らに霊神号を贈り、予め霊神碑を建立したり、あるいは、行者だけでなく、信者に対して、霊神号を贈り、霊神碑を建てたりしている。後者においては、「●●家霊神」というように家の祖先を祀るようになってきている。あるいは子供の霊を祀った霊神碑の建立も行われてきている。

従来、霊神は畏敬の存在であった。その敷居が下がり、より親しい存在になってきているといえる。

霊神碑には遺骨を納めないものであったが、近年は分骨を納めるもののいるという。この変化は八海山のような木曽御嶽山以外でも広まっている[29]。御嶽教、木曽御嶽本教などの教団では納骨堂の建立も行われている。

無縁墓の場合と同様に、無縁霊神碑の問題も起きている。

儀礼

御座

御座(おざ)とは、神々や霊神を行者に降臨させて託宣を聞くシャーマニズム儀礼である。木曽御嶽信仰の展開の原動力となったのが、この御座儀礼であった。神仏や霊神との直接的な交流を可能とするこの儀礼が、強い求心力を持ったのであった。


霊山と社寺

組織

画像

参考文献

  • 1990(平成2)「御岳山信仰と丸境巴講」境町の文化財を守る会『会誌』18
  • 1990(平成2)「御嶽教と丸古猿島教会」境町の文化財を守る会『会誌』18
  • 王滝村1961(昭和36)『村誌王滝』
  • 蟹江文吉2003(平成15)「吾妻屋終治と木喰上人」『湖国新聞』平成15年6月8日
  • 田中義能1939年(昭和14年)『神道御嶽教の研究』昭和62復刻『神道十三派の研究』下巻 第一書房
  • 野田太郎1930(昭和5)『御岳開山覚明霊神伝』文昌堂
  • 三岳村誌編さん委員会編1987(昭和62)『三岳村誌』三岳村誌編さん委員会
  • 宮田登1978(昭和53)「近世御嶽信仰の実態」『富士・御嶽と中部霊山』
  • 芳村忠明「御嶽教特立の制度的意義」『御嶽のひかり』
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  • 秋山高志2008(平成20)「御嶽教(明治三十八年茨城県北部)教導職名簿」『富士山文化研究』9
  • 小島正巳・時枝務2007(平成19)「妙高山麓における木曽御嶽講滝行場の一様相―新潟県妙高市猪野山の事例」『信濃 〔第3次〕』59-7
  • 小林奈央子2005(平成17)「霊山と女性信者―中部地域の御嶽講を事例として」『山岳修験』36
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  • 菅原壽清2007(平成19)「付録 覚明・普寛とその弟子の時代」『山岳修験 別冊 日本における山岳信仰と修験道』
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  • 菅原壽清2008(平成20)「御座にみる木曽御嶽信仰の現在」『山岳修験』42
  • 菅原壽清・時枝務・中山郁編2009(平成21)『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』岩田書院
  • 菅野洋介2009(平成21)「十九世紀における宗教の共存と在地社会―木曽御嶽信仰をめぐって」広瀬良弘編『禅と地域社会』吉川弘文館
  • 生駒勘七1966(昭和41)『御岳の歴史』木曽御岳本教
  • 生駒勘七1978(昭和53)「御嶽信仰の成立と御嶽講」鈴木昭英編『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中部霊山』名著出版
  • 生駒勘七1988(昭和63)『御岳の信仰と登山の歴史』第一法規出版
  • 青木保1985(昭和60)『御岳巡礼―現代の神と人』筑摩書房
  • 石黒智教2008(平成20)「近現代における修験と御嶽講―北名古屋市域の事例から」『山岳修験』42
  • 浅香幸雄1959(昭和34)「信仰登山集落の形成―木曽御岳の場合-1-」『東京教育大学地理学研究報告』3
  • 中山郁1996(平成8)「御岳行者の修行について―新滝行場の事例から」『山岳修験』17
  • 中山郁1998(平成10)「修行型の巫者と非自発的憑霊―木曽御岳行者の事例から」『山岳修験』21
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  • 中山郁1999(平成11)「史料紹介 木食普寛『武尊山開闢縁記』について」『山岳修験』23
  • 中山郁2003(平成15)「御嶽普寛神社蔵『普寛行者道中日誌』について」『神道宗教』189
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  • 中山郁2004(平成16)「木食普寛の祈祷活動 御座儀礼と御嶽講の成立をめぐって」『宗教研究』77-4
  • 中山郁2005(平成17)「山を開くということ―木曽御嶽開山再考」『山岳修験』35
  • 中山郁2005(平成17)「教団儀礼の創出―御嶽信仰系教団における儀礼の機能」『山岳修験』36
  • 中山郁2005(平成17)「木食晋寛の祈祷活動と御座儀礼の成立」『神道宗教』199
  • 中山郁2007(平成19)『修験と神道のあいだ 木曽御嶽信仰の近世・近代』弘文堂
  • 中山郁2007(平成19)「木曽御嶽信仰の質的転換―木食普寛の開山活動について」『山岳修験 別冊 日本における山岳信仰と修験道』
  • 中山郁2007(平成19)「教派神道における神道祭式―天理教、金光教、御嶽教の事例から」『國學院大學研究開発推進センター研究紀要』1
  • 中山郁2008(平成20)「木曽御嶽信仰研究の過去・現在・未来」『山岳修験』42
  • 中山郁2008(平成20)「夜明け前の御嶽山―御嶽神社と明治維新」『明治聖徳記念学会紀要』45
  • 中西雅之1980(昭和55)「御岳信仰の神観念について―とくに御座立てを中心として」『宗教学論集』10、駒澤大学宗教学研究会
  • 津田応助1924(大正13)『覚明霊神―御岳開山』
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  • 鶴藤幾太1939(昭和14)「山嶽教諸派」鶴藤幾太 1939年(昭和14年)『教派神道の研究』大興社
  • 尾前広吉「御獄教」『日本宗教講座』4
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  • 牧野眞一1996(平成8)「木曽御岳講の都市的性格」『宗教学論集』、駒澤大学宗教学研究会
  • 牧野眞一2001(平成13)「木曽御嶽講の先達―行者化とその継承について」『民俗学研究所紀要』25
  • 牧野眞一2003(平成15)「書評と紹介 菅原壽清著『木曽御嶽信仰―宗教人類学的研究』」『宗教研究』77-1
  • 牧野眞一2007(平成19)「関東地域における一心・一山系講の展開」『山岳修験 別冊 日本における山岳信仰と修験道』
  • 木曽御嶽学術大会実行委員会2008(平成20)「第二十八回日本山岳修験学会 木曽御嶽学術大会―大会を終えて」『山岳修験』42
  • 山本一信1936年(昭和11年)「御嶽教開祖普寛行者略伝」『埼玉史談』43


  • 井上岩次郎1918(大正7)『木曽総社御嶽山縁起巴講由来記』井上岩次郎
  • 河野省三1951(昭和26)『神道教師教養読本』御嶽教大本庁
  • 吉野寛望1989(平成1)『普寛霊場関係資料の解説(上巻)普寛行者と其の弟子達』私家版
  • 吉野寛望1989(平成1)『普寛行者とその弟子(中巻)』私家版
  • 金井紫雲1936(昭和11)『木曽御岳山開闢普寛行者の由来並本庄町の一班』木曽御岳山開闢普寛行者霊場
  • 御嶽教大本庁宣教部 1979(昭和54)『御嶽教の歴史』御嶽教大本庁
  • 御嶽教一心教会1976(昭和51)『御嶽教と並木一心霊場の由来』御嶽教一心教会
  • 御嶽教滋賀大教会2009(平成21)『御嶽山丸江元講行法次第』御嶽教滋賀大教会
  • 御嶽教滋賀大教会編2007(平成19)『普寛堂宝物拝見記』御嶽教滋賀大教会
  • 御嶽神社社務所編1961(昭和36)『木曽おんたけと御嶽神社』御嶽神社社務所
  • 御嶽普寛神社社務所『御嶽普寛神社参拝の栞』御嶽普寛神社社務所
  • 今井弘1885(明治18)『覚明一代記』今井弘
  • 山野重徳編1881(明治14)『御岳山肝要集』山野重徳
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  • 神宮嵩寿1906(明治39)『礼儀宝典』関口康寿
  • 神宮嵩寿1906(明治39)『祈祷禁厭神占伝』御嶽教庁
  • 神田憲次郎1923(大正12)『八海山案内』八海神社社務所
  • 神道大教木曽御岳川越大教会1980(昭和55)『御岳山百年の歩み』神道大教木曽御岳川越大教会
  • 星野滝治郎編1893(明治26)『神道御岳山諸経集―但し身体加持付』宏盟堂
  • 西海賢二1997(平成9)『木曽御嶽本教五十年のあゆみ』木曽御嶽本教
  • 大阪本部七十年の歩み編纂委員会 編2005(平成17)『宝生大教会大阪本部70年の歩み』御嶽教宝生大教会
  • 大谷源平 1894(明治27)『御岳教大谷社神拝式』大谷源平
  • 大地の巡礼一心2005(平成17)『覚明霊神御嶽開山記―詩による組曲』大地の巡礼一心
  • 田近清暉監修・深瀬央道文責2008(平成20)『御嶽山王滝口信仰資料拝見記』御嶽教滋賀大教会
  • 渡辺匡一2004(平成16)「『御嶽教会講社開設告文』『御嶽教会講社略規約』紹介・翻刻」『むろまち』8
  • 渡辺銀治郎1939(昭和14)『御嶽教祭事規範』御嶽教大本庁
  • 渡辺銀治郎1941(昭和16)『御嶽教正統伝祈祷禁厭神占宝典』御嶽教大本庁
  • 芳村正秉1882(明治15)『御嶽教会講社開設告文』神習教御嶽教会
  • 北村清蔵1929(昭和4)『御嶽教神拝肝要集』御嶽教大本庁
  • 本田瑞穂1889(明治22)『御岳教三要祝詞略解』祓教会本院
  • 野田国徳1911(明治44)『霊徳真義』御嶽教国光大教会本部
  • 鈴木源1948(昭和23)『御嶽山御由来記』木曽御嶽本教出版協会
  • 1942(昭和17)『御嶽教教典』御嶽教大本庁
  • 1920(大正9)『御岳教管長大教主親教尼港殉国諄辞』御嶽教大本庁
  • 「御岳教祖普寛行者修覆金貸付帳」『埼玉叢書』

脚注

  1. この項目は鈴木昭英 昭和63「蔵王権現と仏教」『仏教と神々』大法輪閣を参照した。
  2. 木曽御嶽信仰では、蔵王権現も御嶽山座王権現とは別の神格として信仰されている。
  3. 2008(平成20)『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』55頁
  4. 『普寛堂宝物拝見記』32頁
  5. 「御嶽山神影」『御嶽山王滝口 信仰資料拝見記』72頁
  6. 『普寛行者道中日誌』
  7. 『御嶽の歴史』112頁
  8. 『普寛堂宝物拝見記』
  9. 『丸江元講宝物拝見記』
  10. 『普寛堂宝物拝見記』
  11. 『普寛堂宝物拝見記』
  12. 『王滝拝見記』
  13. 丸江元講宝物拝見記
  14. 『木曽のおんたけさん』227
  15. もともと普寛は本山派修験(天台宗修験)の修験者であった。また覚明は天台宗輪王寺宮門跡より覚明大菩薩の諡号を受けている。幕末に御嶽山法務別当を務めたのは天台宗自証院の僧侶であった。児野護摩堂は天台宗寛永寺の末寺となっていた。
  16. 『木曽御嶽信仰』251頁
  17. 『木曽御嶽信仰』240頁
  18. 1987年(昭和62年)『三岳村誌』728頁
  19. 小林奈央子2006「岩崎御嶽山霊神場に見る御嶽講の現在」
  20. 「八海山信仰と八海講」472頁
  21. 『木曽御嶽信仰』248
  22. 『木曽御嶽信仰』248
  23. 「●●霊社」、「●●霊神」などがあった。
  24. 『三岳村誌』733
  25. 『村誌王滝』1594頁
  26. 『三岳村誌』734
  27. 『三岳村誌』733
  28. 『木曽御嶽信仰』252頁
  29. 「八海山信仰と八海講」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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