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善通寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
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2022年12月30日 (金) 時点における版
善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市善通寺町にある、空海ゆかりの真言宗の本山寺院。空海の生誕地。四国八十八所霊場第75札所。本尊は薬師如来。寺伝によると、伽藍は、空海が学んだ唐の青龍寺を模して建てられたという。法然、重源、一遍の旧跡。讃岐国利生塔。真言宗善通寺派総本山。
目次 |
歴史
伽藍
東院
東院は「伽藍」とも呼ばれる。善通寺の本来の中心部。
- 金堂:本尊は薬師如来。当初は空海作の像だったが、1558年(永禄1年)の火災で焼失。現在の本尊は1700年(元禄13年)の造立。北川運長作の高さ3mの巨像で、内部に当初の像の焼けた破片を収めるという。807年(大同2年)建立。1699年(元禄12年)再建。一重裳階付入母屋造の本瓦葺。棟梁は竹内盛貞。有栖川宮幟仁親王筆の「大宝楼閣陀羅尼」額を掲げる。
- 釈迦堂:本尊は釈迦如来。左右に十大弟子。後嵯峨院・亀山院・後宇多院の位牌も祀る(善通寺案内記)。明治維新まで常に光明真言念仏を唱えていたため、常行堂ともいう。常行堂は1243年(寛元1年)3月には存在。現在の建築は延宝年間再建の旧御影堂。1831年(天保2年)移築。
- 法華堂:鎌倉時代中期に存在。
- 講堂:1243年(寛元1年)3月には存在。
- 五重塔:本尊は五智如来。空海が建立。1070年(延久2年)の強風で倒壊。後宇多上皇の院宣で泉涌寺素廸に再建を命じられている。1344年(康永3年)讃岐国利生塔に指定され、12月10日に落慶。1558年(永禄1年)の兵火で焼失。桃園天皇綸旨より1804年(文化1年)10月16日に再建。1840年(天保11年)焼失。1845年(弘化2年)仁孝天皇綸旨により再建が進められたが途中、明治維新の混乱で中断し、1902年(明治35年)完成。高さ43m。総欅造り。扉の梵字は慈雲の筆。五重大塔。
- 祠:楠
- 五社明神社:北殿の祭神は大歳大明神・大麻大明神(大麻比古神社か)・蕪津大明神(賀富良津神社か)で、南殿の祭神は雲気大明神(雲気神社か)・広浜大明神(広浜神社か)。『善通寺案内記』では北殿に宝生如来、阿〓如来、大日如来、南殿に釈迦如来、阿弥陀如来とある。社殿は江戸時代前期の造営。流造本瓦葺。
- 三帝御廟:後嵯峨天皇・亀山天皇・後宇多天皇の爪髪を収める。治定外。元は東院の北100mの地(遍照院跡)にあったが1964年(昭和39年)に東院境内に移設された。
- 佐伯祖廟:祭神は佐伯善通と玉寄御前。空海の父母。尊像を奉安。佐伯明神と玉寄明神と呼ばれる。社殿は1983年(昭和58年)の造営。元は現在の善通寺駐車場のあたりに鎮座していた。旧称は佐伯八幡宮。
- 「足利尊氏利生塔」:鎌倉時代の石塔。足利尊氏が諸国に建立を命じた利生塔の一つと伝えられる(実際には善通寺五重塔が利生塔に指定された)。
- 旅大師堂:空海の像が刻まれた道標。遍路道沿いにあったが移設された。覆堂がある。
- 法然逆修塔:法然を祀る。堂の中に五輪塔がある。讃岐配流となった法然が建立。実際には室町時代から桃山時代の建立とみられる。「法然上人逆修之塔」。
- 五百羅漢:
- 西国霊場:西国霊場の写し霊場。2006年(平成18年)建立。
- 秩父霊場:秩父霊場の写し霊場。2006年(平成18年)建立。
- 坂東霊場:坂東霊場の写し霊場。2006年(平成18年)建立。
- 南大門:日露戦争の戦勝記念に1908年(明治41年)再建。高麗門。「五岳山」額。屋根の四隅に四天王の像を祀る。『高野大師行状図画』に南大門に関する逸話がある。
- 東門:赤門の名で知られる。善通寺駅方面から参詣者を迎え入れる。
- 中門:浄土門とも。東院から西院に向かう出口にある門。江戸時代末の再建。「善通寺」額は豪潮の筆。
- 鐘楼:江戸時代末の再建。1958年(昭和33年)、京都三和梵鐘鋳造所が鋳造した梵鐘。
- 天神社:祭神は菅原道真。1914年(大正3年)頃の造営とみられる。流造本瓦葺。天満宮とも。
- 龍王社:祭神は善女龍王。池の中の島に鎮座。江戸時代の造営。
- 経堂:
- 筆塚:
- 茶筅塚:1968年(昭和43年)建立。
- 寛延七義士顕彰碑:大西権兵衛ら7人。1750年(寛延3年)に百姓一揆を起こした。1923年(大正12年)建立。
西院
西院は「誕生院」と呼ばれる。1249年(建長1年)の開創。空海が生まれた佐伯邸跡とされる。明治初年までは善通寺とは別の寺院だった。
- 御影堂:本尊は空海。本尊は空海自筆の秘仏画像。1209年(承元3年)と1225年(嘉禄1年)に上洛した。1209年(承元3年)8月2日の土御門天皇の天覧の時、またたきをしたため、瞬目大師と呼ばれる。その他、大師児形像、大師像(御前立ち)、四天王像、八祖画像、多聞天、吉祥天を祀るという。御影堂拝殿は1831年(天保2年)の再建。入母屋造本瓦葺。中には「屏風浦誕生所」額、「弘法」額がある。地下に「戒壇巡り」がある。奥殿は宝形造本瓦葺。奥殿の地が玉寄御前の部屋の跡といい、空海降誕の地そのものという。大師堂ともいう。御影堂の前廊は1915年(大正4年)の造営。
- 産湯井:閼伽井、御誕生水とも。
- 御影池:中央に弥勒菩薩があり、それを空海、佐伯善通、玉寄御前の像が囲む。空海が唐に渡る前、この池に姿を写して御影(御影堂の本尊)を描いて母に残したという。
- 親鸞堂:本尊は親鸞。鎌田の御影。親鸞が62歳で関東地方を巡教した時、下総国鎌田荘(千葉県市川市)の吉田源五左衛門易幹という者の家に滞在。去る時に名残を惜しまれたので自らの木像を刻んで背面に詩を刻み、師の法然が逆修塔を建てた善通寺に参詣を果たせないのでこの像を善通寺に送って誓願を遂げたいと遺命した。その後、吉田家で祀られていたが、「早く善通寺に送れ」との夢告があり、孫の吉田源次左衛門年幹が善通寺に収めたという。1953年(昭和28年)造営。
- 閻魔堂:本尊は十王。倶生神2体と奪衣婆も祀る。像は1705年(宝永2年)北川運長が造立。元は東院にあった。1958年(昭和33年)の再建。
- 護摩堂:本尊は不動明王。1940年(昭和15年)造営。
- 地蔵堂:本尊は地蔵菩薩。石仏。ほやけ地蔵尊。1940年(昭和15年)の造営。
- 聖霊殿:本尊は阿弥陀如来。1940年(昭和15年)に日中戦争の戦没者を祀る忠霊堂として建立。宝形造銅板葺。檜皮葺の裳階が付く。
- 光明殿:本尊は空海・十三仏。上部に五輪塔を備える納骨堂。2009年(平成21年)建立。
- 聖天堂:本尊は聖天。2004年(平成16年)再建。宝形造瓦葺。
- 弁天社:祭神は弁財天。1867年(慶応3年)、まんのう町の吉祥寺から勧請したという。
- 鐘楼:1978年(昭和53年)建立。
- ビルマ戦没者慰霊塔:ビルマ連邦共和国議会議長ネウイン寄進の仏像と仏舎利を収める。ビルマ戦線で戦没した18万余の「英魂」を祀る。また「ビルマ国の勇士並びに英印軍の戦士の霊」も合祀。1970年(昭和45年)8月15日建立。1968年(昭和43年)の銘板がある。「パゴダ供養塔」。
- 仁王門:誕生院の正門。1370年(建徳1年/応安3年)造立の金剛力士を祀る。門は1889年(明治22年)造営。仁王門の前には廿日橋が掛かる。
- 勅使門:1936年(昭和11年)造営。同年の空海1100年御遠忌記念。
- 正覚門:楼門。西院を出て香色山に通じる門。2階には1716年(享保1年)鋳造の梵鐘を収める。門前には済世橋が架かる。門と橋は1978年(昭和53年)の造営。
- 宸殿:1907年(明治40年)造営。1922年(大正11年)、皇太子時代の昭和天皇が行啓した。2012年(平成24年)東野光生の襖絵が奉納された。
- 大玄関:1907年(明治40年)宸殿と共に造営。
- 小玄関:1907年(明治40年)宸殿と共に造営。
- 表書院:
- いろは会館:寺務所。宿坊
- 大旭殿:
- 暁雲殿:
- 大浴場:
- 宝物館:1907年(明治40年)創設。1972年(昭和47年)造営。
- 遍照閣:本尊は釈迦如来。十大弟子(中村晋也作)も祀る。四国霊場お砂踏み道場がある。2階の講堂には空海を祀る。1986年(昭和61年)建立。1984年(昭和59年)の1150年遠忌記念。
- 先師墓地:172基の墓塔がある。
香色山
- 佐伯祖神碑:山頂にある。佐伯神廟とも。
- 愛染明王:山頂にある。石仏。
- 不動明王:山頂にある。石仏。
- 経塚:山頂にある。1996年(平成8年)、平安時代のものとみられる経筒が出土。過去に1792年(寛政4年)一度発見され埋め戻されたもの。
- ミニ四国霊場:山中にある。
- 稲荷神社:山麓にある。1775年(安永4年)創建。善通寺会陽と関係があるという。1986年(昭和61年)再建。1976年(昭和51年)鳥居を建立。香色山稲荷大明神。
- 稲荷神社奥殿:山腹にある。
- 荒神社:
- 日切地蔵:
- 粟島大明神:
- 空海記念碑:麓にある。1983年(昭和58年)建立。前年に四国の有志が中国西安の青龍寺跡に建立した記念碑の縮小模造。
周辺
- 犬塚:香川県善通寺市仙遊町か。「鑁」の梵字を刻む笠塔婆。鎌倉時代の作。空海の義犬の伝説がある。仙遊寺の近くにある。
- 鎌倉神社:香川県善通寺市善通寺町。祭神は平景政。
- 荒魂神社:香川県善通寺市善通寺町。善通寺赤門の前にある。
- 砂古荒魂神社:香川県善通寺市善通寺町。拝殿は1994年(平成6年)再建の現代的な建築。善通寺の北側にある。
- 荒魂神社:香川県善通寺市善通寺町。香色山の麓にある。
- 荒魂神社:香川県善通寺市稲木町。
- 神櫛神社:香川県善通寺市上吉田町。祭神は神櫛王。空海が創建。
- 丸山八幡宮:香川県善通寺市善通寺町。北向八幡宮。
子院など
- 誕生院:香川県善通寺市善通寺町。元は一子院だったとみられる。
- 観智院:香川県善通寺市善通寺町。本尊は秘仏十一面観音。子安観音と呼ばれる。807年(大同2年)空海が創建。十善坊といったが1715年(正徳5年)7月観智院と改称。1925年(大正14年)再建。1934年(昭和9年)の空海1100年御遠忌のときに修行大師像を建立。その下は納骨堂となっている。
- 華蔵院:香川県善通寺市善通寺町。本尊は秘仏毘沙門天。華蔵坊。1830年(天保1年)再建。
- 玉泉院:香川県善通寺市南町。本尊は阿弥陀如来。中世には存在。観智院の南にある。寿永年間に西行が庵を結んだ。西行の像もある。西行庵。「玉の泉」がある。現存。
- 勧学院:中世に存在。廃絶。
- 安養院:中世に存在。廃絶。
- 遍照院:廃絶。跡地に三帝御廟があった。
- 五智院:香川県善通寺市善通寺町。本尊は五智如来。延享年間造立の石仏。香色山麓にあり香色山四国霊場の出発点。元は赤門の東にあった。1981年(昭和56年)再建。
- 仙遊寺:香川県善通寺市仙遊町。本尊は地蔵菩薩。稚児大師も祀る。両像とも石仏。空海が5、6歳の時に泥土で仏像を作り、小堂を建てて祀ったという。のち地元の人はこの地を仙遊ケ原と呼び、地蔵菩薩を祀った。第11師団練兵場の建設のため、移転を余儀なくされたが、乃木希典は霊夢を受け、元の位置に霊跡を保存した。1951年(昭和26年)7月7日、堂宇を建て仙遊寺と称した。第11師団の日露戦争戦没者の奉安殿がある。。2013年(平成25年)8月に旧堂を解体。2018年(平成30年)11月再建。再建時に不動明王も新たに祀られた。「仙遊原古蹟」碑。
- 曼荼羅寺:香川県善通寺市吉原町。平安時代には善通寺と一体的に運営された。
組織
別当
- 延誉()<>:1071年(延久3年)善通寺別当。
- 縁実
誕生院院主
明治まで善通寺と誕生院は別寺だった。誕生院が善通寺権別当などの立場で善通寺を管理していた。 光胤以後、坊城家の猶子となる。高国以後、阿波出身が多い。
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 宥範 | 1270-1352 | 1341-1352 | 讃岐国那珂郡櫛梨荘の出身。1270年(文永7年)生。地元の新善光寺で出家。香川郡無量寿院の覚道に師事。18歳で信濃善光寺に赴き、浄土教を学ぶ。帰国して覚道に灌頂を受けた。1294年(永仁2年)高野山に登り、密教を学ぼうとするが戦乱で果たせなかった。下野国に下り、鶏足寺で中興2世の頼尊に天台学を学ぶが、同寺の火災で中断。衣寺で妙祥に学ぶ。1306年(徳治1年)37歳で帰国。笑原の観音堂、櫛梨の正覚寺を経て、善通寺寂円坊に住す。また無量寿院のかたわらに草庵を建てて住した。1309年(延慶2年)から1326年(嘉暦1年)にかけてたびたび上洛して成恵や光誉から安祥寺流の伝授を受けた。1330年(元徳2年)頃、『妙印抄』80巻を編纂。1331年(元弘1年/元徳3年)7月、善通寺に入寺。善通寺東北院に住す。1335年(建武2年)誕生院住職。一山の主座に挙げられ、善通寺の大勧進職となり、諸堂を修復。1341年(興国2年/暦応4年)7月20日の幕府下知状「善通寺別院弘法大師誕生院住持職の事」で誕生院住持に任命され、誕生院中興初代となる。1342年(興国3年/康永1年)足利直義の命で切幡寺の利生塔の落慶を勤める。法印に任命。1352年(正平7年/文和1年)7月1日死去。金刀比羅宮の伝承では金光院別当初代とされる。宥鑁とも。1371年(応安4年)3月15日、贈僧正。伝記「贈僧正宥範発心求法縁起」(1402年(応永9年))が伝わる。 |
2 | 宥源 | 生没年不詳 | 1352- | 生没年不詳。1352年(正平7年/文和1年)の宥範譲状に名前がみえ、宥範の贈位請願奏文に「誕生院住持権少僧都宥源」とある。 |
3 | 宥快 | ?-1416 | 1410年(応永17年)12月17日の請文が伝わる。1416年(応永23年)7月13日死去。 | |
4 | 宥紹 | 生没年不詳 | 1631年(寛永8年)に随心院に提出した書類に「宥範、宥源、宥紹、宥栄(宥快はない)の4代は誕生院の先住の事」とある。 | |
5 | 宥栄 | 生没年不詳 | 宥紹譲状に宥深が成長するまでの後見人とある。1631年(寛永8年)に随心院に提出した書類に「宥範、宥源、宥紹、宥栄(宥快はない)の4代は誕生院の先住の事」とある。 | |
6 | 宥深 | 生没年不詳 | 八条家の出身。新宮小法師丸。1631年(寛永8年)に随心院に提出した書類に「宥範、宥源、宥紹、宥栄(宥快はない)の4代は誕生院の先住の事」とある。 | |
7 | 宥鋭 | 生没年不詳 | ||
8 | 宥応 | 生没年不詳 | ||
9 | 宥助 | 生没年不詳 | ||
10 | 宥筌 | 生没年不詳 | ||
11 | 宥勢 | 生没年不詳 | ||
12 | 宥成 | 生没年不詳 | 与田寺に引退。 | |
13 | 尊翁 | 生没年不詳 | 近江国出身。浅井秀頼の伯父という。舎那院を経て誕生院住職。聖通寺と尾背寺(尾野瀬寺)を兼務。宥存、宥孝とも。 | |
14 | 〓瓊 | ?-1642 | 大野原城主大平国裕の子。1642年(寛永19年)7月3日死去。宥鑁とも。(〓は「夕」の下に「寅」) | |
15 | 〓貞 | ?-1673 | 1673年(延宝1年)7月30日死去。佐伯八幡宮の棟札に名前がある。宥貞とも。(〓は「夕」の下に「寅」) | |
16 | 宥謙 | ?-1691 | 1666-1691 | 伊勢国出身。慶宝寺謙意について出家。初名は真謙。高野山で学ぶ。高野山の衆僧から善通寺の復興を託され、1666年(寛文6年)に誕生院院主。御影堂、客殿などを再興。1678年(延宝6年)11月1日権大僧都。1685年(貞享2年)850年遠忌を執行。1691年(元禄4年)8月23日死去。金剛灯院。 |
17 | 光胤 | ?-1722 | 1691-1715 | 公家坊城俊完の実子。石清尾八幡宮別当五智院の光有の弟子。五智院住職を経て1691年(元禄4年)、誕生院院主。1696年(元禄9年)7月、幕命で瞬目大師画像を上覧。金堂再興。1715年(正徳5年)、円龍に譲り、我拝師山(出釈迦寺か)に隠棲。1722年(享保7年)6月30日死去(7月30日とも)。釈迦院。これ以降、歴代住職は坊城家の猶子となった。 |
18 | 円龍 | 1654-1718 | 1715-1718 | 讃岐国出身。坊城俊広の猶子。1654年(承応3年)生。宥謙、光胤の弟子。いったん山城国の愛宕山宝蔵院の住職となり、のち誕生院院主(1715年(正徳5年)か)。在職4年で1718年(享保3年)9月4日死去。65歳。紹光院。 |
19 | 光歓 | 1674-1742 | 1718-1742 | 高松藩士深井権右衛門の子。坊城俊清の猶子。浄厳の甥。1674年(延宝2年)生。光胤から意教流密教を授かる。河内地蔵寺の蓮体(浄厳の弟子)や白峰寺の等空から新安祥寺流を授かる。1718年(享保3年)10月、誕生院院主。1734年(享保19年)900年遠忌を執行。1741年(寛保1年)4月、瞬目大師御影を桜町天皇の叡覧に供す。五重塔再建を発願。1742年(寛保2年)12月12日死去。69歳。興願院。 |
20 | 光天 | 1733-1751 | 1743-1751 | 京都出身。藤井兼矩の子。坊城俊清の猶子。1733年(享保18年)生。1742年(寛保2年)夏、10歳のとき、善通寺に下り、光歓に師事して出家。翌年、師匠の死去で住職となったが、受法も十分でなかったので1749年(寛延2年)高野山に登り快弁に師事した。讃岐の戻ることなく1751年(宝暦1年)3月、死去。19歳。住無為院。 |
21 | 光国 | 1709-1778 | 1754-1777 | 坊城俊逸の猶子。阿波国板野郡出身。1709年(宝永6年)生。俗姓は坂東。円通寺の真龍について出家。17歳で南都に出て恵光(浄厳の弟子。霊雲寺2世)に師事。1734年(享保19年)東大寺戒壇院寺護職となるが、不如法のことがあったとして1746年(延享3年)追放された。京都に遊学。九条尚実の信任を得て1754年(宝暦4年)空席だった善通寺誕生院院主に就任。権僧正を経て僧正に昇進。五重塔再建のため勧進を本格化させるが初重が完成したところで1777年(安永6年)に退任。1778年(安永7年)7月18日死去。70歳。寂潤光国、高国とも。密華園院。以後、阿波出家の住職が増える。 |
22 | 寛充 | 1737-1809 | 1777-1796 | 阿波国出身。1737年(元文2年)生。徳島藩馬宮玄益の子。坊城俊親の猶子。阿波木津の長谷寺の体遍の弟子。長谷寺に住し、1777年(安永6年)、善通寺誕生院に住す。1784年(天明4年)、950年遠忌を執行。五重塔をおおむね完成させた。1792年(寛政4年)2月、香色山の頂上で金銀の経函を発掘。埋め戻して明王像を建てた。1796年(寛政8年)60歳で含情院に隠棲。随心院門跡の院室号を与えられ、大乗院と号した。1809年(文化6年)10月7日、阿波長岸の観音寺で死去。73歳。愛金剛院。 |
23 | 厳蔵 | ?-1824 | 1796-1824 | 阿波国板野郡出身。高国の甥。坊城俊親の猶子。生年不詳。木津長谷寺で寛充について得度。長谷寺住職のあと、山城西明寺で自誓受戒。河内で慈雲に学んだ。醍醐寺で俊賢から松橋流を受法した。1796年(寛政8年)、師命で善通寺に移る。1804年(文化1年)10月、五重塔の仕上げを済ませて落慶の仁王会を実施。1823年(文政6年)降誕1050年法会を執行。1824年(文政7年)5月22日死去。金剛手院。 |
(隆鳳) | 1824? | 歴代に数えず。高野山親王院住職。厳蔵は高野山正智院乗如、蓮金院龍遍、南院唯円らにはかって高野山親王院から隆鳳を招いたが、宗義について意見の相違があり、まもなく高野山に帰った。1824年(文政7年)のことか。 | ||
24 | 厳暁 | ?-1847 | 1824?-1847 | 阿波国板野郡出身。木津長谷寺の曇柔(寛充の弟子)に師事。藩命で長岸観音寺住職。1824年(文政7年)善通寺住職か。御影堂、厩舎を造営。1840年(天保11年)12月の五重塔の焼失を受け再建に着手。僧正に昇進。浄財を募って初重の用材を集めた。1847年(弘化4年)7月7日死去。 |
25 | 厳猷 | 1806-1858 | 1847-1856 | 阿波国板野郡出身。1806年(文化3年)生。観音寺厳教について出家。1847年(弘化4年)善通寺住職。1848年(嘉永1年)参内して大僧都。1852年(嘉永5年)権僧正。道猷の譲で高野山如意輪寺に入る。降鎮(円通寺の降鎮かは不明という)に学んだ。1856年(安政3年)、慈定に譲って引退して西行の旧跡にいたが、慈定の死去のため翌年再任。しかし、1858年(安政5年)8月7日死去。53歳。大摩尼院。真言宗の歴史を研究し、『弘法大師弟子譜』など多くの著作を残した。隆然とも。 |
26 | 慈定 | 1814-1857 | 1856-1857 | 阿波国板野郡出身。1814年(文化11年)生。撫養の正興寺性蕊について出家。南都や高野山で学び、密教諸流を学び、諸学に通じ、書を得意とした。東大寺真言院の龍肝に師事した。高野山円通寺の降鎮にも師事した。厳猷の委嘱により1856年(安政3年)に誕生院住職となる。1857年(安政4年)4月18日死去。44歳。智観とも。 |
27 | 厳猷 | 1806-1858 | 1857-1858 | 再任。1856年(安政3年)、慈定に譲って引退して西行の旧跡にいたが、慈定の死去のため翌年再任。しかし、1858年(安政5年)8月7日死去。 |
28 | 佐伯旭雅 | 1828-1891 | 1858-1876 | 阿波国出身。1858年(安政5年)善通寺誕生院住職。1876年(明治9年)随心院門跡。泉涌寺長老。 |
住職
現在は法主と称する。世数の数え方の方法は不詳
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
50 | 佐伯旭雅 | 1828-1891 | 1858-1876 | 阿波国出身。1858年(安政5年)善通寺誕生院住職。1876年(明治9年)随心院門跡。泉涌寺長老。 |
51 | 佐伯法遵 | 1853-1912 | 1876-1905 | 伊予国出身。随心院門跡。1877年(明治10年)善通寺住職。1901年(明治34年)随心院門跡。1905年(明治38年)引退。1906年(明治39年)泉涌寺長老。1911年(明治44年)泉涌寺派管長兼小野派管長。1912年(大正1年)5月27日死去(18日とも)。60歳。宥善とも。 |
52 | 佐伯宥粲 | 1864-1937 | 1905-1937 | 讃岐国綾歌郡出身。俗姓は田辺。1864年(元治1年)生。1877年(明治10年)善通寺で佐伯旭雅について得度。東寺総校、高野山大学林で学ぶ。1887年(明治20年)佐伯旭雅に支具灌頂、悉曇灌頂、瑜祇灌頂を受ける。1887年(明治20年)渡米。シカゴ大学を卒業し、各地を視察して1901年(明治34年)5月に帰国。1905年(明治38年)善通寺住職。香川県仏教会長、四国霊場会長。1931年(昭和6年)の改革で善通寺の大本山昇格と共に玉泉院に引退。1937年(昭和12年)8月16日、東京中野で死去。74歳。 |
53 | 蓮生観善 | 1874-1958 | 1937-1949 | 初代真言宗善通寺派管長。 |
54 | 亀谷宥英 | 1889-1969 | 1949-1969 | 自坊は讃岐宝光寺・京都福勝寺。1889年(明治22年)生。宗務長。1928年(昭和3年)11月11日、管長事務取扱に就任認可。1949年(昭和24年)2月8日、善通寺法主・管長に決定。1969年(昭和44年)12月18日死去。80歳。種智院大学学長。 |
55 | 蓮生善隆 | 1915-2005 | 1970-1996 | 自坊は与田寺。蓮生観善の弟子。1915年(大正4年)生。高野山大学卒。日本大学法文学部大学院宗教科および慶応義塾大学史学科中退。宗派社会部長、誕生1200年記念奉賛会法会部長を歴任。1970年(昭和45年)2月25日、善通寺法主・管長に選出。1996年(平成8年)退任。2005年(平成17年)1月12日死去。89歳。 |
56 | 高吉清順 | 1925-2008 | 1996-2008 | 随心院門跡。自坊は曼荼羅寺。1925年(大正14年)生。1944年(昭和19年)京都専門学校卒。1994年(平成6年)善通寺執行長・宗派宗務総長。1996年(平成8年)3月1日、善通寺法主・管長。1998年(平成10年)12月1日、随心院門跡。2008年(平成20年)5月2日死去。83歳。 |
57 | 樫原禅澄 | 1940- | 2008-2018 | 自坊は常楽寺。1940年(昭和15年)生。1962年(昭和37年)高野山大学卒。1965年(昭和40年)常楽寺住職。1981年(昭和56年)善通寺執行・宗派教学部長。1996年(平成8年)3月1日、執行長・宗務総長。2008年(平成20年)善通寺法主・管長。 |
58 | 菅智潤 | 1949- | 2018-2023予定 | 自坊は円明寺。1949年(昭和24年)生。1972年(昭和47年)種智院大学卒。2008年(平成20年)宗務総長。2018年(平成30年)3月1日、法主・管長に就任。 |