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春日信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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春日信仰 

目次

概要

春日信仰は、春日神に対する信仰である。春日神の主たる性格は、藤原氏(中臣氏・大中臣氏)の祖神・氏神であることであり、歴代の天皇を藤原氏が輔弼したことから、王権輔弼の神としての性格を持っている。また三社託宣では「慈悲」の神として信仰された。 総本社は、春日大社である。またその元となった神社として、枚岡神社鹿島神宮香取神宮がある。

歴史

上古 鹿島信仰と中臣氏

中臣氏の発祥地は諸説あるが、一説には常陸国とされる。中臣鎌足の生誕地の伝承地が常陸国鹿島にあり、『大鏡』などでもその説が述べられている。その当否はともかく、常陸国鹿島は中臣氏に縁深い地であることには間違いなかった。『常陸国風土記』によると鹿島神宮崇神天皇の時代に中臣氏の遠祖の神聞勝命が創建したとされ、代々中臣氏が奉仕してきた。中臣氏と香取神宮との関係は明らかではないが、香取神宮は鹿島神宮と一対で捉えられており、並んで崇敬されてきたものとされる。のち中臣氏が香取神宮に奉仕するようになった。大和朝廷の東国経営の拠点でもあった鹿島神宮、香取神宮の神威は高いものがあり、中臣氏の直接の祖神である天児屋根命を祀る河内国枚岡神社よりも重視されてきたと言える。『新撰姓氏録』によると河内国には中臣氏が多く、河内国も中臣氏の拠点の一つであったらしい。

古代 春日大社の成立

春日大社の成立については諸説あるが、『神宮雑例集』には和銅2年(710)に平城京が開かれたのに合わせて祀られたとある。天平8年の「東大寺古図」によると現在の神域の場所に「神地」とあり、当初は社殿はなく祭場のみがあったとも言われている。平城遷都に合わせて興福寺も厩坂(橿原市)から移転した。『三代実録』に記される神護景雲2年(768)は社殿が整備された年だと考えられている。このときの祭文が『神祇官勘文』に残っている。当時は鹿島神宮の封戸を割いて春日大社に当てており、鹿島神宮の遥宮のような位置づけだったという。

別所に祀られている神々を合祀して成立した神社としては平野神社梅宮大社が知られており、いずれも『延喜式』に「春日祭神」、「平野坐神」、「梅宮祭神」とあり、「神社」と書かれていないのが共通している。

初期の分社として、天平12年(740)、大中臣清麻呂が摂津国島下群寿久郷の隠棲の地に春日神社を移し祀り、天平勝宝8年(756)、津島子松が伊勢国度会郡津島崎に祀り、延暦16年(797)に離宮院に遷したと『神宮雑例集』にある。前者は式内社の摂津国「須久久神社」(論社は須久久神社清水春日神社)とされ、後者は三重県伊勢市の官舎神社とされる。

長岡京の時代、大原野神社が祀られる。宮地直一によると、北家の藤原内麻呂の流れが神主になっていることから内麻呂が建てたのではないかとしている。その性格は藤原氏の私祭であった。文徳天皇の時代になって外戚の祖神となったことから官祭となった。 []吉田神社]]も同様で藤原山蔭が私祭として創建したと思われる。山蔭の曾孫の詮子が円融天皇の妃となり一条天皇を生んだ。寛和2年、一条天皇が即位し、吉田神社が大原野神社に準じて官祭とすることが決まった。 しかしながら、春日大社は平安時代以降、上下の信仰を集め、興福寺との関係もでき、大原野神社や吉田神社が春日大社の勢いを超えることはなかった。


文徳天皇時代、嘉祥3年(850)、正一位の神階が贈られ、年2度の春日祭が開始される。仁寿元年、大原野神社の大原野祭が官祭が始まる。宮地直一によると、大原野神社は北家ゆかりの神社であり、文徳天皇は北家の藤原冬嗣の娘順子の生まれであり、この時代に冬嗣の子の良房が右大臣になったためとしている。桓武天皇以来、平野神社、梅宮大社のように天皇の外戚の祖神を重視した慣習の延長線上にある処置だという。貞観8年に春日大社と大原野神社に斎女が置かれたのも良房の時代であった。


永延3年(989)、一条天皇、春日大社行幸。初めての天皇行幸。


興福寺と春日大社はそもそも成立が異なるが、地理的に隣接し、中臣氏・藤原氏の氏神と氏寺という関係から、次第に関係を深めていった。


平安時代後期から興福寺を始めとする奈良の寺院では経典の出版事業が盛んに行われたが、それらは春日大社に奉納されるという形式を取ったため、春日版と呼ばれた。

中世 藤原氏の神から慈悲の神へ

長保5年(1003)、春日若宮が出現。保延元年(1135)に若宮神社が祀られた。翌年には若宮おん祭りが創始された。 若宮やおん祭りの創始には興福寺の春日大社支配を強める意向が働いていたといわれる。

平安時代末期から、春日神木動座が行われるようになる。興福寺が朝廷の処置に不満があるときに、大衆が春日大社の神木を担ぎ出し、京都まで担いで強訴に赴いた。神木が入洛している間は、藤原氏はボイコットし、朝廷の政務が停滞したため、大きな圧力となった。

鎌倉時代には、明恵(1173-1232)と貞慶(1155-1213)が深く春日明神を信仰したことで知られている。 貞慶は興福寺で修行したがのち笠置寺で移った。『春日権現験記』によると貞慶が建久7年(1196)に笠置寺般若台に鎮守として春日大明神を祭ろうと春日大社に参詣し、御蓋山の榊に神霊を勧請。続いて若宮に参拝したところ、貞慶に春日大明神が降臨。「般若台を守ろう」との託宣を和歌で得たという。またあるとき、春日三殿の本地仏である、飛雲に乗る来迎様の地蔵菩薩を感得。地蔵像を作らせ、東大寺知足院に奉安した。現在でも秘仏として祀られている。 華厳宗の僧侶・明恵は、釈迦への思慕の念が強く、インドに渡ることを決意するが、釈迦の垂迹でもある春日明神から諭されて断念したという。

鎌倉時代にはまた、京都の藤原氏貴族の間で、春日大社を遥拝することが普及。『玉葉』などに記されている。その本尊として春日曼荼羅が用いられた。

治承4年(1180)、平氏による南都焼討が行われたが、春日大社は東西の五重塔が焼けただけで済んだ。

『沙石集』や『地蔵菩薩霊験記』によると、貞慶の弟子の障円は碩学の誉れが高かったのにも関わらず、魔道に落ちた。障円が女に取り付いて地獄の様子について語ったが、春日野の地獄について語った。生前、どんな罪を犯しても、少しでも春日大明神を信仰したものは地獄に行かず、春日野の下にある地獄に収容されるという。その春日野地獄では毎日、地蔵菩薩が口に水を注いでくれたり、ありがたい経文を聞かせてくれたりして、最終的に極楽浄土に行くことができるという。地蔵菩薩は言うまでもなく、春日神の本地仏であり、春日神の慈悲の徳目が現れた説話とも言える。

春日地蔵信仰は春日野地獄から助けてくれるというだけでなく、極楽浄土に連れて行ってくれるとして来迎図の地蔵菩薩として信仰された。


神仏習合 春日浄土信仰・春日地蔵・春日舎利信仰 二十二社の成立 三社託宣の成立

慈悲万行菩薩

元興寺極楽坊

延慶2年(1309)、西園寺公衡が『春日権現験記』が春日大社に奉納。鎌倉時代後期の縁起絵巻の代表作とされる。

近世

奈良の町や村で春日講(しゅんにちこう)が盛んになる。やはり各種の春日曼荼羅が本尊として用いられる。

近代

明治19年、春日祭復興。


信仰

春日信仰のパンテオン

春日神

春日神(春日明神、春日大明神、春日権現、春日大権現)は奈良の在地の神ではなく、春日大社も神々を合祀する形で「人工的に」建てられた神社である。

武甕槌命は常陸国鹿島神宮の祭神であり、経津主命は下総国香取神宮の祭神である。天児屋根命と比売神は河内国枚岡神社の祭神である。中臣氏発祥の地は諸説あるが、一説には常陸国であり、鹿島神宮を氏神(氏族として信仰する神)としていたという。香取神宮は鹿島神宮と対になる神であり、ともに戦の神である。天児屋根命は中臣氏の始祖神である。奈良に都ができた時に中臣氏がゆかりの神々を合祀して成立した。

当初は鹿島神宮の分社という位置づけだったと思われ、武甕槌命が主祭神であったが、次第に藤原氏の始祖神として天児屋根命が重視されるようになったようである。のちには4神を意識することなく、春日神で統一した神格として信仰されるようになった。


平城京から長岡京に遷都すると春日神を祀る大原野神社が建てられ、平安京に遷都すると吉田神社が建てられ、藤原氏の守護神として崇敬された。

伊勢八幡とともに三社託宣の神の1神とされ、「慈悲」を司る神とされた。

春日野地蔵 慈悲万行菩薩 興福寺南円堂の本尊が不空羂索観音であり、藤原北家の南円堂重視の姿勢と、不空羂索観音がまとう鹿皮との関連からも武甕槌命と結び付けられて、本地仏とされた。

春日若宮

  • 天押雲根命

「若宮御根本縁」によると、春日若宮が出現したのは長保5年(1003)年3月3日。春日四殿(比売神)の板敷から「心太(ところてん)」のようなものが3升ほど出てきて、やがてその中から5寸ほどの蛇が出現したという。春日三殿(天児屋根命)と比売神の御子神とされ、しばらくは二殿と三殿の間の「獅子の間」に祀られてきた。 およそ130年後の保延元年(1135)に関白藤原忠通が万民救済のために現在地に社殿を造営し、若宮神社が成立した。翌年、若宮おん祭が創始され、現代まで続いている。

清水健や永島福太郎によると、若宮社の創建とおん祭の創始には興福寺が深く関わっており、興福寺は本地垂迹説の興隆に乗じて、春日社支配を強めたとされる。若宮社の創建とおん祭の創始は興福寺による春日社支配の試みの一環であるという。興福寺は10世紀ごろから春日社支配を進め、藤原氏の氏長者の御願による春日社での興福寺僧の法会が増加し、春日社の神威を利用して神木動座の強訴なども行った。春日社の祭祀権を手中に収めるためにおん祭を創始し、興福寺が祭礼を取り仕切ったと考えられている。若宮の御旅所は興福寺旧境内の東端にあたり、おん祭を通じて春日社支配を強めようとした興福寺の姿勢が伺われる。

若宮の本地仏は文殊菩薩とされる。本地仏としての文殊菩薩を礼拝するために制作された春日文殊曼荼羅も伝存している。春日若宮は本社の四神と並んで重視され、宮曼荼羅や鹿曼荼羅にも必ず若宮が描かれる。

一説によると春日若宮の荒魂として現れたのが春日赤童子だという。

その他の神々

春日本迹曼荼羅(宝山寺本)には春日四神、若宮のほか、率河社、水谷社、氷室社、一言主社、榎本社が描かれている。以上がゆかり深い神々と考えられる。

  • 榎本神:春日野の地主神で、延喜式神名帳に「春日神社」とあるのはこの神社という。現在は猿田彦神とされる。榎本神は、春日野の土地を支配していたが、春日明神から「この土地を3尺(1m)ほど貸してください」と頼まれた。榎本神は耳が悪く、よく確かめずに承諾してしまった。実は「3尺」とは地下3尺のことであり、春日明神は地下1mまで春日野の土地を借りきってしまった。今では春日大社の本社を囲む回廊に間借りしている。本地仏は毘沙門天とされる。
  • 春日赤童子:法相宗の護法童子密教での不動明王の眷属・制多迦童子がモデルとなったと考えられている。岩座の上に忿怒相・赤身の童子が右手で杖を持ち、左手で頬杖を突く姿で描かれる。春日明神が法相宗を擁護するときの姿と言われるが、春日若宮の荒魂とも言われる。若宮おん祭での「馬長児僧位僧官授与式」では赤童子の御前で行われる。興福寺南円堂の本尊前に祀られている。
  • 神鹿:春日神の神使。四神のうち、特に武甕槌命の神使。武甕槌命が常陸国の鹿島神宮から鹿に乗って大和国まで神幸したとされていることにちなむ。この伝説に因み、春日鹿曼荼羅を始めとして、春日信仰では鹿を描くことが多い。神鹿御正体や神鹿舎利容器など、鹿が造形として表現されることも多い。また各地の春日神社には狛犬の代わりに神鹿が据えられることがある。春日大社では鹿苑が設けられ、鹿が飼われている。亡くなった鹿を埋葬する鹿塚がある。また釈迦が悟りを開いてから初めての説法(初転法輪)が鹿を相手に行ったとも言われ、興福寺の本尊や武甕槌命の本地仏が釈迦如来であることと関係しているようにも思えるがどうだろうか。
  • 中臣祐房:若宮神主の始祖。若宮神社の脇の通合神社に祀られている。

春日信仰の美術

  • 春日宮曼荼羅
  • 春日社寺曼荼羅
  • 春日本地仏曼荼羅
  • 春日垂迹曼荼羅
  • 春日本迹曼荼羅
  • 春日鹿曼荼羅
  • 春日浄土曼荼羅
  • 春日名号曼荼羅
  • 春日神鹿御正体
  • 鹿島立神影図

系譜

  • 春日遷座旧跡
  • 積田神社
  • 中山神社
  • 赤瀬春日神社
  • 夜都岐神社 鹿足石
  • 安部山
  • 登弥神社


主な春日神社

神仏習合

人物

  • 藤原不比等:春日大社を創建
  • 藤原内麻呂:大原野神社を創建か
  • 藤原山蔭:吉田神社を創建
  • 西園寺公衡:春日権現験記を制作
  • 貞慶:春日講式を制定
  • 明恵
  • 一条天皇

画像

参考文献

  • 宮地直一『神祇史の研究』[1]
  • 『死者の救済史』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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