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寛永寺関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | *根本中堂 | ||
+ | *渋沢堂 | ||
+ | *不忍池弁天堂 | ||
+ | *五条天神社 | ||
+ | *忍岡稲荷神社 | ||
+ | *天海毛髪塔 | ||
+ | *清水観音堂 | ||
+ | *東照宮五重塔 | ||
+ | *上野東照宮 | ||
+ | *時鐘堂 | ||
+ | *上野大仏 | ||
+ | *上野大仏パゴダ | ||
+ | *釈迦堂 | ||
+ | *輪王寺宮墓地 | ||
+ | *開山堂 | ||
+ | *輪王殿 | ||
+ | *阿弥陀堂 | ||
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2023年4月2日 (日) 時点における版
寛永寺の関連旧跡。
目次 |
伽藍
江戸時代
名称 | 近世 | 現代 | エリア | 概要 |
---|---|---|---|---|
根本中堂 | 根本中堂周辺 | 本尊は薬師如来。寛永寺の本堂。延暦寺根本中堂を模した。1697年(元禄10年)徳川綱吉の命で起工。1698年(元禄11年)8月落慶。9月6日には霊元法皇による勅額「瑠璃殿」が掲げられた(「勅額火事」を受け、複製を掲げた)。本坊の完成を寛永寺の創建とみると、1625年(寛永2年)から73年後にようやく本堂が備わった。1698年(元禄11年)、300石寄進。本尊の薬師如来は近江石津寺の最澄作の像。十二神将は出羽立石寺の円仁作の像。日光月光菩薩も祀る。脇壇不動明王は延暦寺西塔正教坊護摩堂の円珍作の像。脇壇毘沙門天は唐匠の作(江戸名所図会では定朝作)で天海が感得し、1705年(宝永2年)春に霊異を示したという。廃絶。場所を移して再建されている。(建立記ほか) | ||
竹台 | 根本中堂周辺 | 根本中堂の前の左右にある。延暦寺根本中堂の竹台から移植したもので、遡れば円仁が五台山から請来したものという。山王権現と八百万神が影向するという。「たけのうてな」。復興寛永寺にも再現されている。 | ||
石楠花塚 | 根本中堂周辺 | 夜叉が影向するという。廃絶。 | ||
勅額門 | 根本中堂周辺 | 後水尾天皇宸筆「寛永寺」額が掲げられた。廃絶。 | ||
宝蔵 | 根本中堂周辺 | 1697年(元禄10年)建立。廃絶。 | ||
勅額蔵 | 根本中堂周辺 | 勅額「瑠璃殿」の実物を保管。この勅額は現存するという。廃絶。 | ||
御供所 | 根本中堂周辺 | 廃絶。 | ||
法華堂 | 根本中堂周辺 | 1627年(寛永4年)9月、紀伊徳川家徳川頼宣が建立。当初の本尊は釈迦・文殊・普賢(康猶作)。1698年(元禄11年)、最澄親筆の法華経を祀る宝塔を中心に左に釈迦如来、右に普賢菩薩と改めた。幕末の江戸名所図会では普賢菩薩のみとある。常行堂と渡り廊下で接続し、「担い堂」「二つ堂」とも呼ばれた。廃絶。(建立記ほか) | ||
常行堂 | 根本中堂周辺 | 本尊は阿弥陀・観音・勢至。1627年(寛永4年)、尾張徳川家徳川義直が建立。内陣の隅に摩多羅神も祀り鳥居もあったらしい。1698年(元禄11年)、中尊を成朝作の宝冠阿弥陀像に改めた。法華堂と渡り廊下で接続し、「担い堂」「二つ堂」とも呼ばれた。廃絶。(建立記ほか) | ||
輪蔵 | 根本中堂周辺 | 傅大士、普建、普成を祀る。天海寄進の一切経を収める。1627年(寛永4年)、水戸徳川家徳川頼房が建立。当初は法華堂の前にあった。根本中堂建立以後は法華堂の後ろになる。多宝塔と相対する。廃絶。経蔵。転輪蔵。(建立記ほか) | ||
多宝塔 | 根本中堂周辺 | 本尊は?。寛永年間、天海自ら造営。延宝以後は幕府が造営する伽藍となる。常行堂の前にあり、輪蔵に相対した。根本中堂建立以後は常行堂の後ろになる。雲水塔という。廃絶。 | ||
三十番神社 | 根本中堂周辺 | 三十番神を祀る。天海自ら造営。多宝塔の後ろにあった。廃絶。 | ||
鐘楼 | 鐘楼跡 | 根本中堂周辺 | 1631年(寛永8年)、土井利勝が建立。四隅には左甚五郎、道頓堀の吉兵衛、佐野の善兵衛、神田の源太郎の彫刻があしらわれたという。鐘銘「武州東叡山鐘銘並序」は林羅山筆。1790年(寛政2年)土井利和が改鋳。東照宮に付属する性格が強いか。現在の小松宮彰仁親王像のあたり。廃絶。 | |
本坊 | 江戸時代の表門 | 移設現存する表門 | 本坊周辺 | 1625年(寛永2年)建立。1698年(元禄11年)9月6日、勅額火事で焼失。1737年(元文2年)5月3日焼失。1772年(安永1年)11月1日焼失。1831年(天保2年)11月23日焼失。1868年(明治1年)5月、戊辰戦争で焼失。1881年(明治14年)美術館建設。本院とも。御本坊。表門は移築されて現存。 |
宸殿? | 本坊跡 | 本坊周辺 | 宸殿という名称はみえないが、江戸名所図会に描かれる殿舎は桜と橘らしき植樹があり宸殿というにふさわしいたたずまい。 | |
庫裏 | 本坊周辺 | |||
護摩堂 | 本坊周辺 | 本坊内。 | ||
慈恵堂 | 本坊周辺 | 良源を祀る。1636年(寛永13年)、天海が本坊内に創建。徳川家光による寛永造営で撤下された日光東照宮旧本地堂を移築した。本尊の絵像は「阿闍梨公」(不詳、民部法眼)筆で、元は比叡山にあったが織田信長の兵火を避けて伊勢西来寺に遷された。天海が将軍に上申し、伊勢国主藤堂高虎に寛永寺に遷させた。その後、天海、武蔵慈恩寺某、比叡山横川鶏頭院某の祈祷により、1641年(寛永18年)8月3日、徳川家綱が誕生したとされる。天海の命で、同年から良源と自身の御影を子院が交代で祀るように命じた(東叡山之記、建立記)。現在御影を祀っている子院の前に「両大師」の立て札が建てられた。1792年(寛政4年)再建。のち開山堂に合祀された。(建立記ほか) | ||
位牌所 | 本坊周辺 | 本坊内。1726年(享保11年)建立。1737年(元文2年)焼失。再建。1748年(寛延1年)改造。1772年(安永1年)焼失。1775年(安永4年)再建。(東叡山之記) | ||
開山堂 | 本坊周辺 | 天海を祀る。1644年(正保1年)、幕府が創建。1781年(天明1年)再建。絵像は狩野探幽筆(江戸名所図会)。1698年(元禄11年)9月6日、勅額火事で焼失。1720年(享保5年)3月27日焼失。1737年(元文2年)5月3日焼失。戊辰戦争では焼け残った。慈眼堂とも。(下谷と上野ほか) | ||
輪王寺宮墓地 | 本坊周辺 | 現在は宮内庁が管理している。 | ||
求聞持堂 | 本坊周辺 | 本尊は虚空蔵菩薩。本尊は唐匠の作の銅像で天海が感得したものという。天海自ら造営。元は本坊東北の現龍院旧地にあった。寛文年間に焼失。像は現龍院護摩堂に遷す。 | ||
釈迦堂 | 本坊周辺 | 本尊は釈迦・阿弥陀・薬師(建立記)。釈迦・普賢・文殊ともいう(江戸名所図会)。1630年(寛永7年)天海が建立し、護国院の本堂であると共に事実上の寛永寺の本堂だったという。1651年(慶安4年)大猷院廟建設のために移転。1680年(延宝8年)、厳有院廟建設のために移転。1709年(宝永6年)常憲院廟建設のために移転。1717年(享保2年)1月焼失。1722年(享保7年)3月に再建。この伽藍が現存する。1927年(昭和2年)5月、数十m移築し修復。常念仏堂とも。(下谷と上野ほか) | ||
文殊楼 | 文殊楼周辺 | 本尊は文殊菩薩。1698年(元禄11年)建立。文殊像は天海生誕地という会津清龍寺から請来した円仁作の像という。京都廬山寺相伝故紙嚢一封を納めるという。輪王寺宮公弁法親王筆「吉祥閣」を掲げた(江戸名所図会) 。廃絶。吉祥閣ともいう。 | ||
上野大仏 | 文殊楼周辺 | 本尊は釈迦如来。地蔵、弥勒も祀る(江戸名所図会)。清水寺、京都大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。1631年(寛永8年)、越後村上藩主堀直寄が自邸内のこの地に丈六釈迦如来像を建立。粘土を漆喰で固めたものだった。1647年(正保4年)、地震で倒壊。明暦万治頃(1655-1660)、木食僧の浄雲が勧進して青銅像で再建。 桂昌院殿が堂宇を寄進(東叡山之記)。1698年(元禄11年)、輪王寺宮公弁法親王、大仏殿を建立。1841年(天保12年)、火災で被災。1843年(天保14年)、堀直央が大仏を再鋳。幕府が大仏殿を再建。1855年(安政2年)、地震で頭部損傷。堀家が修復。面部のみ現存。 | ||
祇園社 | 文殊楼周辺 | 牛頭天王を祀る。清水寺、大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。現在の精養軒のあたりか。由緒は諸説あるようだ。青龍院2世亮甚が80年以上崇敬していた絵像を4世亮体が1739年(元文4年)5月に祀る。1631年(寛永8年)、堀直時が大仏建立とともに建立したともいう(建立記)。寛永寺の地主神(江戸名所図会)。牛頭天王社、祇園堂ともいう。また浄雲が文殊菩薩を祀ったため文殊堂とも呼ばれた。廃絶。 | ||
吉祥堂 | 文殊楼周辺 | 本尊は吉祥天。1717年(享保2年)(1735年(享保20年)とも)徳川吉宗に近侍した妙教尼が創建。浄円院殿(徳川吉宗生母)が崇敬していた吉祥天という。放光堂、宝光堂。江戸名所図会には「七面」とも書かれている。廃絶。 | ||
時鐘堂 | 文殊楼周辺 | 時ノ鐘。1666年(寛文6年)柏木源兵衛が建立。1698年(元禄11年)幕府修理となる。何度も改鋳され、1787年(天明7年)8月改鋳の鐘が残っている。現存。(建立記、東叡山之記) | ||
上野東照宮 | 東照宮周辺 | 不忍池北岸にある。1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建。1651年(慶安4年)徳川家光の命で再建。この時の社殿が現存する。 | ||
東照宮随神門 | 東照宮周辺 | 楼門。後水尾天皇勅額「東照宮」を掲げた。廃絶。 | ||
東照宮本地堂 | 本地堂本尊が遷された大仏パゴダ | 東照宮周辺 | 本尊は秘仏薬師如来。前立本尊の他、四天王、薬師千体仏もまつる。康猶作。1639年(寛永16年)、酒井忠勝が建立。正保年間火災があったが修復。薬師千体仏は康猶作で土井利勝が寄進。薬師堂とも。廃絶。本尊は上野大仏パゴダに遷された。 | |
東照宮五重塔 | 東照宮周辺 | 本尊は五智如来。康猶作。1631年(寛永8年)、土井利勝が建立。建物は現存。 | ||
東照宮護摩堂 | 東照宮周辺 | 「大尊像」(康猶作)を祀る。廃絶。 | ||
清水観音堂 | 山王台 | 千手観音と聖観音を祀る。清水寺、大仏、祇園社と京都を模した堂社の一つ。1631年(寛永8年)、天海が京都清水寺舞台を模して摺鉢山の上に創建。本尊は源信作で平盛久の守本尊と伝え、清水寺僧の義定房某が請来したという。15年ごとの開帳が行われた。1663年(寛文3年)8月、幕府が修復。1677年(延宝5年)8月修復し、幕府修復が恒例となる。根本中堂建設にともなう境内整備で、1694年(元禄7年)に現在地に遷座。御供所が付属していた。寛永寺で現存最古の建造物となっている。(建立記) | ||
祠 | 山王台 | 大黒天、えびす、金毘羅。不詳。江戸名所図会で清水観音堂そばに描かれている。廃絶。 | ||
寛永寺山王社 | 山王社跡付近 | 山王台 | 祭神は山王権現。山王権現は天台宗の守護神。清水観音堂の南にあった。現在の彰義隊墓地や西郷隆盛像のあたりとみられる。湯島聖堂は元々、この地にあった(江戸名所図会)。晃海が1637年(寛永14年)江戸城の紅葉山東照宮旧殿を用いて本覚院内に祀った(東叡山之記)。1698年(元禄11年)勅額火事では本覚院は焼失したが山王社は被災を免れた。その後、本覚院境内から遷された。徳川家綱、5石を寄進(建立記)。1698年(元禄11年)改造。御供所が付属していた。1772年(安永1年)の「明和の大火」では門だけ焼けたが社殿は無事だった。戊辰戦争で焼失はしなかったが、銃撃戦の中で悲惨な姿となり、明治初年の神仏分離で廃絶した。 | |
稲荷 | 山王台 | 不詳。江戸名所図会に山王社そばに描かれる。廃絶。 | ||
根生明神 | 山王台 | 不詳。江戸名所図会に山王社そばに描かれる。廃絶。 | ||
天海毛髪塔 | 山王台 | 本覚院内。天海の没地。現存。 | ||
仁王門 | 仁王門周辺 | 1627年(寛永4年)、永井信濃守と大江尚政が建立。延宝年間からは幕府修復となった。1698年(元禄11年)8月の根本中堂建立と共に西南に移築され、跡地に文殊楼が建てられた。同年9月6日の勅額火事で焼失。1720年(享保5年)再建。翌年3月3日焼失。1756年(宝暦6年)再建。1772年(安永1年)2月29日の「明和の大火」で焼失し廃絶。公弁法親王筆「東叡山」額が掲げられていた。(建立記ほか) | ||
黒門 | 仁王門周辺 | 位置はたびたび異なっている。初代は山の入口にあった。1698年(元禄11年)に仁王門の西側に建立。しかしすぐに焼失したとみられる。3代目も仁王門とともに1721年(享保6年)焼失。4代目は1756年(宝暦6年)再建。1772年(安永1年)焼失。後、すこし奥のところに御成門の脇に5代目の黒門を建立。上野戦争の激戦地となった。1873年(明治6年)に上野公園設置とともに東照宮鳥居の脇に移築され、1907年(明治40年)江戸・円通寺に移築された。(下谷と上野[1]) | ||
忍岡稲荷神社 | 仁王門周辺 | 仁王門の西にある。創建不詳。1652年(承応1年)本覚院晃海が社殿造営。本覚院が管理。神仏分離で廃絶された後、1873年(明治6年)に社殿建立。1928年(昭和3年)に別個に本覚院内にも再建された。穴稲荷、忍岡稲荷。(『下谷と上野』の著者は花園稲荷神社は忍岡稲荷の後身ではないと主張している) | ||
五条天神社 | 仁王門周辺 | 元は摺鉢山にあった。中世からあったことは古文献に記録されている。江戸時代に門前町に遷座し、1928年(昭和3年)9月花園稲荷神社の隣接地に遷座。 | ||
弁財天堂 | 西側 | 現在の文晁碑のあたり。廃絶か。 | ||
児稲荷神社 | 西側 | 現在の文晁碑のあたり。廃絶か。 | ||
勧学寮 | 西側 | 了翁建立。1680年(延宝8年)厳有院廟の造営のために移転。1682年(天和2年)、移転。1684年(貞享1年)講堂を建立。講堂(勧学講院と号す)には釈迦如来、のち観音を祀る。1692年(元禄5年)、万福寺5世高泉性〓撰の了翁顕彰碑を建立。1703年(元禄16年)焼失。まもなく再建。勧学寮経蔵は1670年(寛文10年)了翁が不忍池の弁財天の隣に島を築き建立。1684年(貞享1年)勧学寮内に移転。長崎興福寺の黙子如定が径山寺より請来した三聖人の銅像を祀った(江戸名所図会)。寮舎、了翁像、稲荷があった。1914年(大正3年)まで天台宗僧侶の寮舎となっていた。所化寮、百軒長屋とも呼ばれた。 | ||
不忍池弁天堂 | 不忍池 | 本尊は弁財天で脇士は多聞天と大黒天でともに円仁作という。厳密には寛永寺境外だった。下館城主水谷勝隆(備中松山藩主)が不忍池に中之島を築き、竹生島の近江・宝厳寺の弁才天を勧請。寛文年間、石橋を建設。「弁才天島」と呼ばれた。 | ||
護摩堂 | 不忍池 | 現在の大黒堂に当たるか。 | ||
聖天宮 | 不忍池 | 最初に弁財天が祀られた場所。その頃から聖天があり、地主神として祀る。(江戸名所図会) | ||
経蔵 | 不忍池 | 勧学寮に移転。 |
現代
- 根本中堂
- 渋沢堂
- 不忍池弁天堂
- 五条天神社
- 忍岡稲荷神社
- 天海毛髪塔
- 清水観音堂
- 東照宮五重塔
- 上野東照宮
- 時鐘堂
- 上野大仏
- 上野大仏パゴダ
- 釈迦堂
- 輪王寺宮墓地
- 開山堂
- 輪王殿
- 阿弥陀堂
画像
写真
古絵図
境内図
伽藍図
徳川家寛永寺墓地
- 上野東照宮:徳川家康を祀る。
- 大猷院廟:3代将軍家光の廟。1652年(承応1年)建立。1720年(享保5年)焼失。厳有院廟に合祀。
- 厳有院廟:4代将軍家綱の墓。1681年(天和1年)建立。1698年(元禄11年)焼失。同年再建。大猷院殿(徳川家光)・浚明院殿(徳川家治)・文恭院殿(徳川家斉)を合祀。
- 常憲院廟:5代将軍綱吉の墓。1709年(宝永6年)建立。有徳院殿(徳川吉宗)・温恭院殿(徳川家定)を合祀。
- 宝樹院廟:家綱母。1653年(承応2年)建立。1664年(寛文4年)建立?
- 高巌院廟:家綱室。1680年(延宝8年)建立。高巌院殿のほか、証明院殿、心観院殿、乗台院殿を合祀。
- 長昌院廟:6代将軍家宣母。1705年(宝永2年)建立。
- 浄光院廟:綱吉室。1709年(宝永6年)建立。浄光院殿のほか、随性院殿を合祀。
- 御位牌所:1726年(享保11年)建立し浄円院殿(8代将軍吉宗母)霊牌を奉安。1737年(元文2年)焼失。再建。1748年(寛延1年)修復。1772年(安永1年)焼失。1775年(安永4年)再建。1748年(寛延1年)、至心院殿尊牌と深徳院殿尊牌を合祀。
- 最樹院廟:11代将軍家斉父。1828年(文政11年)建立。
墓地ほか
- 田安徳川家御霊屋
- 一橋徳川家御霊屋
- 天海毛髪塔
- 谷中墓地
- 輪王寺宮上野墓地
- 彰義隊墓地
- 藤堂家墓地:上野動物園内。
- 動物慰霊碑:上野動物園内。
- 王仁博士顕彰碑
- 徳川家光殉死者墓地
- 東京大空襲慰霊碑
- 寛永寺霊園
- 有馬家墓地:越前丸岡藩主
子院
本坊円頓院の他、三十六坊あった。また子院には数えないが直轄寺院が2寺あった。
名称 | 旧地 | 現在地 | 諸役 | 開山 | 開基・檀越 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
0 | 円頓院 | 本坊 | 1625年(寛永2年)落慶。現在の江戸・輪王寺。開山堂があり「両大師」と呼ばれる。 | ||||
1 | 凌雲院 | 本堂東1 | (廃) | 学頭 | 亮運 | 長岡藩主・堀直寄 | 寛永初年の創建。堀直寄の諡号から天海が名付けた。1647年(正保4年)以降、学頭を務めた。慈海、慈等などが住した。清水家・一橋家・田安家墓所などがあった。 |
2 | 本覚院 | 本堂東2 | 博物館西 | 山王社別当 | 晃海 | 熊本藩主・細川忠利 | 本尊は釈迦如来。江戸城内にあった紅葉山山王社を寛永寺に移転するにあたり、天海の自坊の地に1637年(寛永14年)創建。紅葉山山王社別当の城琳寺住職であった晃海が初代住職となった。山王社は当初境内にあったが山王台南端に遷座(神仏分離で廃絶)。(天台宗東京教区ウェブサイト) |
3 | 見明院 | 本堂東3 | 博物館西 | 盛憲 | 会津藩主・保科正之 | 本尊は千手観音。寛永末年の創建。1698年(元禄11年)焼失。会津藩が再建。1872年(明治5年)桜木町に移転。1890年(明治23年)移転。1914年(大正3年)桜木町に移転。1945年(昭和20年)東京大空襲で焼失。1948年(昭和23年)、寛永寺から千手観音を迎えて現在地に再建。1953年(昭和28年)広尾島津家上屋敷から現在の本堂を移築。(天台宗東京教区ウェブサイトほか) | |
4 | 真如院 | 本堂東4 | 博物館西 | 豪俔 | 和歌山藩主・徳川頼宣 | 本尊は阿弥陀如来。1626年(寛永3年)の創建。豪俔は延暦寺双厳院の僧だった。上野戦争で焼失。1872年(明治5年)再建。1914年(大正3年)桜木町9番地に移転。1945年(昭和20年)東京大空襲で焼失。1949年(昭和24年)桜木町8番地に移転。1989年(平成1年)に復興(現在地に移転か)。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
5 | 青龍院 | 本堂東5 | (廃) | 亮盛 | 広島藩主・浅野光晟 | 1644年(正保1年)創建。亮盛は延暦寺行学坊住職で、瀧山寺学頭となり、寛永寺青龍院を兼務した。瀧山寺東照宮別当か。1945年(昭和20年)寛永寺に合併。(日本歴史地名大系) | |
6 | 福聚院 | 本堂東6 | 博物館西 | 浄円院位牌所別当、開山堂別当 | ? | 米沢藩主・上杉吉憲 | 1644年(正保1年)官命により創建。伝法灌頂の道場とする。空無建立の江戸六地蔵の一があった。 |
7 | 東漸院 | 本堂東7 | 博物館西 | 大猷院廟別当、文恭院殿(厳有院に合祀)別当 | 宣祐 | 備中松山藩主・水谷勝隆 | 本尊は薬師如来。1649年(慶安2年)創建。1651年(慶安4年)大猷院廟別当となる。のち文恭院殿別当も兼ねる。1698年(元禄11年)焼失。1709年(宝永6年)焼失。1876年(明治9年)桜木町に移転。1889年(明治22年)桜木町16番地に移転。1915年(大正4年)桜木町9番地に移転。東京大空襲で焼失。1947年(昭和22年)桜木町7番地の旧宝勝院の伽藍を譲り受けて復興。(天台宗東京教区ウェブサイト) |
8 | 寒松院 | 本堂西1 | 博物館西 | 東照宮別当 | ? | 津藩主・藤堂高虎 | 本尊は阿弥陀如来。1627年(寛永4年)上野東照宮の別当として創建。上野戦争で彰義隊本営となり焼失。1882年(明治15年)跡地に上野動物園が開園。1888年(明治21年)現在の寛永寺の裏に再建。1945年(昭和20年)東京大空襲で焼失。現在地に移転。上野動物園内に藤堂家墓地が残る。(天台宗東京教区ウェブサイト) |
9 | 涼泉院 | 本堂西2 | (廃) | 胤海 | 鳥取藩主・池田光仲 | 1628年(寛永5年)創建。(東叡山寛永寺子院記) | |
10 | 覚成院 | 本堂西3 | 博物館西 | 忠俊 | 前橋藩主・酒井忠世 | 本尊は薬師如来。1634年(寛永11年)創建。酒井家に加えて1704年(宝永1年)に榊原政邦が、1713年(正徳3年)には小笠原長円が檀家となる。1748年(寛延1年)にはさらに大久保家、田沼家が加わる。1868年(明治1年)の上野戦争で焼失。1885年(明治18年)桜木町28番地に再建、1902年(明治35年)桜木町47番地に移転。1914年(大正3年)9月現在地に移転。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
11 | 明王院 | 本堂西4 | (廃) | 寛周 | 鹿児島藩主・島津光久 | 1652年(承応1年)創建(東叡山寛永寺子院記) | |
12 | 元光院 | 本堂西5 | 博物館西 | 長清 | 神尾元光 | 本尊は阿弥陀如来。寛永年間の創建。長清は天海の弟子。神尾元光は不詳。現在の東京芸術大学の地に創建。1914年(大正3年)現在地に移転。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
13 | 護国院 | 清水門1 | 旧地に存続 | 釈迦堂別当 | 生順 | 森越中守 | 1625年(寛永2年)創建の「東叡山最初の子院」という。1630年(寛永7年)釈迦堂建立。釈迦堂は根本中堂完成まで寛永寺の本堂だった。当初は東京国立博物館裏あたりにあったが、1651年(慶安4年)大猷院廟を建立するにあたり、北寄りに移転。さらに1709年(宝永6年)徳川綱吉霊廟建立にあたり現在地に移転。1717年(享保2年)釈迦堂焼失。1722年(享保7年)釈迦堂再建。1927年(昭和2年)、市立第二中学校(現都立上野高校)設立のため境内地の大半を譲渡。この時、釈迦堂を護国院の本堂とした。徳川家光寄贈の大黒天画像がある。(天台宗東京教区ウェブサイト) |
14 | 等覚院 | 清水門2 | 博物館西 | 俊海 | 岡山藩主・池田綱政 | 寛永年間の創建。(東叡山寛永寺子院記) | |
15 | 養寿院 | 清水門3 | 津梁院隣 | 広海 | 越後高田藩主・松平光長 | 本尊は阿弥陀如来。寛永年間の創建。寛永寺の西辺にあったが、移転を繰り返し、1917年(大正6年)、寛永寺裏の現在地に移転。当初の本尊は准提観音だった。天王寺福泉院にあった笠森稲荷が1870年(明治3年)遷座。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
16 | 円珠院 | 清水門4 | 旧地に存続 | ? | 山口藩主・毛利綱広 | 本尊は薬師如来。1652年(承応1年)創建。現在の寛永寺第二霊園あたりにあったが、1680年(延宝8年)、厳有院廟建立のため現在地に移転。1697年(元禄10年)焼失。山口藩によりまもなく再建。古建築としては薬医門が現存。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
17 | 東円院 | 清水門5 | (廃) | ? | 桑名藩主・松平定綱 | 1640年(寛永17年)創建。屏風坂の上にあったが、1651年(慶安4年)に西北隅に移転。1698年(元禄11年)、最北に移転。1709年(宝永6年)移転。(東叡山寛永寺子院記) | |
18 | 松林院 | 清水門6 | (廃) | 久存 | 浜田藩主・松平康映 | 元は独立した寺院だったらしい。当初は金剛寺と称した。寛永年間に寛永寺内に移転。(東叡山寛永寺子院記) | |
19 | 津梁院 | 谷中門1 | 旧地に存続 | 厳有院廟別当 | ? | 弘前藩主・津軽信牧 | 寛永年間の創建。1680年(延宝8年)厳有院廟別当となる。(東叡山寛永寺子院記) |
20 | 林光院 | 谷中門2 | 博物館西 | 長昌院御霊屋別当 | 宣雄 | 山形藩主・松平忠弘 | 本尊は阿弥陀如来(旧大慈院本尊)。寛永年間の創建。旧称は林広院。1651年(慶安4年)、大猷院廟建立のために西北に移転。1705年(宝永2年)、長昌院御霊屋別当となった時に改称。1709年(宝永6年)修復。上野戦争で焼失。1902年(明治35年)桜木町48番地に移転。1920年(大正9年)桜木町9番地に移転。東京大空襲で焼失。1950年(昭和25年)8月現在地に再建。1989年(平成1年)再建。(天台宗東京教区ウェブサイト) |
21 | 春性院 | 谷中門3 | 博物館西 | 高巌院御霊屋別当 | 広海 | 本尊は阿弥陀如来。1680年(延宝8年)創建。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
22 | 浄名院 | 谷中門4 | 旧地に存続 | 圭海 | 福岡藩主・黒田忠之 | 本尊は阿弥陀如来・地蔵尊。1666年(寛文6年)創建。旧称は浄円院。4代将軍徳川家綱の母宝樹院の菩堤寺。1723年(享保8年)、妙立孫弟子の玄門を1世として律院となる。永代寺にあった江戸六地蔵第六番が再造された。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
23 | 大慈院 | 谷中門5 | (廃) | 常憲院廟別当 | 慶海 | 高崎藩主・松平輝貞 | 1709年(宝永6年)常憲院廟別当として創建。跡地に川越喜多院本地堂を移築して現在の寛永寺本堂が再建された。(東叡山寛永寺子院記) |
24 | 勧善院 | 谷中門6 | (廃) | 宝樹院御霊屋別当 | 舜承 | 彦根藩主・井伊直興 | 1661年(寛文1年)創建。旧称は常徳院。1683年(天和3年)改称。虫塚があった。(東叡山寛永寺子院記) |
25 | 観成院 | 谷中門7 | (廃) | 浄光院御霊屋別当 | 賢空 | 1709年(宝永6年)、浄光院御霊屋別当として創建。(東叡山寛永寺子院記) | |
26 | 普門院 | 下寺通01 | (廃) | 清水観音堂別当 | 秀海 | 徳島藩主・蜂須賀忠英 | 寛永初年の創建。旧称は慈眼院。慈眼大師天海の号を忌避して改称。(東叡山寛永寺子院記) |
27 | 常照院 | 下寺通02 | (廃) | ? | 金沢藩主・前田利常 | 1634年(寛永11年)創建。元禄の火災で移転。(東叡山寛永寺子院記) | |
28 | 顕性院 | 下寺通03 | (廃) | ? | 名古屋藩主・徳川義直 | 1648年(慶安1年)創建。(東叡山寛永寺子院記) | |
29 | 明静院 | 下寺通04 | (廃) | ? | 福井藩主・松平忠昌 | 寛永年間の創建。(東叡山寛永寺子院記) | |
30 | 修禅院 | 下寺通05 | 博物館西 | 玄海 | 山形藩主・松平直基 | 寛永初年の創建。旧称は寂光院。(東叡山寛永寺子院記) | |
31 | 一乗院 | 下寺通06 | (廃) | ? | 佐賀藩主・鍋島勝茂 | 1640年(寛永17年)創建。本堂の左にあったが元禄に移転。(東叡山寛永寺子院記) | |
32 | 吉祥院 | 下寺通07 | 博物館西 | 詮長 | 水戸藩主・徳川頼房 | 本尊は釈迦如来。寛永初年の創建。のち檀家に讃岐松平家も加わる。上野戦争で焼失。現在地に移転。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
33 | 宝勝院 | 下寺通08 | (廃) | 豪仙 | 仙台藩主・伊達忠宗 | 寛永年間の創建。旧建物は東漸院に譲られる。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
34 | 泉龍院 | 下寺通09 | 博物館西 | 慶倫 | 佐倉藩主・松平康信 | 本尊は阿弥陀如来。寛永初年の創建。1698年(元禄11年)の勅額火事で下寺通りに移転。上野戦争で彰義隊の宿営となり焼失。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
35 | 現龍院 | 下寺通10 | 博物館西 | 什誉 | 真岡藩主・稲葉正成 | 本尊は阿弥陀如来。1628年(寛永5年)創建。稲葉正成の菩提寺として夫人の春日局が創建したとみられる。徳川家光に殉死した堀田正盛・阿部重次らの墓がある。当初は現在の現龍院墓地のあたりにあったが、1720年(享保5年)下寺通りに移転。明治以後に谷中浄名院裏に移転。1914年(大正3年)現在地に移転。歴代には3世亮伝、学頭の鈴明、執当の鈴然、紅葉山別当の公副、寛永寺住職となった浦井亮玄らがいる。(天台宗東京教区ウェブサイト) | |
36 | 寿昌院 | 下寺通11 | (廃) | 最樹院御霊屋別当 | 行栄 | 盛岡藩主・南部重信 | 寛永年間に行栄が不忍池の湖畔に創建。旧称は福生院、寿松院。1654年(承応3年)寛永寺の北に移転。1688年(元禄1年)、正式に寛永寺の子院に加わる。(日本歴史地名大系) |
X | 生池院 | 不忍池 | (廃) | 不忍池弁天別当 | ? | 備中松山藩主・水谷勝隆 | 寛永寺子院ではなく直轄寺院。寛永年間に下谷町二丁目に創建。不忍池と弁天島が築かれて移転した。不忍池も幕末まで寛永寺境内ではなかった。妙音寺と号す。山号は天龍山。(日本歴史地名大系) |
X | 妙教院 | 東照宮南 | (廃) | ? | 寛永寺子院ではなく直轄寺院。1735年(享保20年)創建。跡地に精養軒がある。明暁庵とも。(日本歴史地名大系) |
- 覚王院?
- 精進院
- 喜多院
- 願性院
- 仏頂院
- 養玉院:三貌院、三明院。大手町から上野に移転。対馬藩主宗家の菩提寺。品川区如来寺に合併か。
- 願王院?
- 恵恩院?
- 毘沙門堂門跡宿所:江戸時代初期に谷中門の北あたりにあった。
その他
近世の直末寺院
輪王寺宮の直末との厳密な区分は不詳