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気比神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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気比神宮(けひ・じんぐう)は、福井県敦賀市曙町(越前国敦賀郡)にある気比信仰の総本社。祭神は伊奢沙別命、日本武命、帯中津彦命、息長帯姫命、誉田別命、豊姫命、武内宿祢命。仲哀天皇旧跡応神天皇旧跡時宗他阿真教旧跡官社名神大社。従一位勲一等。越前国一宮官幣大社神社本庁別表神社気比神宮関連旧跡も参照。神宮号宣下神社古事記神話登場神社笥飯宮笥飯大神宮とも。

目次

歴史

  • 仲哀天皇8年3月:神功皇后武内宿禰とはかり、安曇連に気比大神を奉斎させた。この時、気比大神は玉妃命に神懸って託宣を下し、三韓出兵の戦勝を述べたという。(気比宮社記)
  • 神功皇后摂政13年2月:『日本書紀』によると武内宿禰、皇子(応神天皇)を連れて気比大神を参拝した。『古事記』によると伊奢沙和気大神(気比大神)が夢に現れ、皇子と名前を交換するように託宣した。この逸話に従うと、応神天皇は元の名前は「伊奢沙和気」で、気比大神の元の名前は「誉田別」だったことになる。
  • 692年(持統6年)9月:封戸20戸寄進。(日本書紀)
  • 702年(大宝2年):文武天皇が社殿を造営。仲哀天皇と神功皇后を合祀した。
  • 715年(霊亀1年):藤原武智麻呂の夢に気比大神が出現し、仏道による救済を願ったため、気比神宮寺を創建。全国的にも神宮寺の初例とされる。
  • 731年(天平3年)12月10日:従三位となり神封寄進(「新抄格勅符抄」)。
  • 765年(天平神護1年)9月7日:神封寄進(「新抄格勅符抄」)。
  • 776年(宝亀7年):神宮司を設置。
  • 793年(延暦12年)2月:朝廷、気比神宮のための封戸・租を国司が他に流用するため、国府の管轄を外し、神庫に納めるように指示した。
  • 806年(大同1年):「新抄格勅符抄」に神封244戸とある。
  • 839年(承和6年)2月26日:『続日本後紀』に「越前国気比大神宮」と記され、越前国司の管轄から神祇官の管轄となり、朝廷との関係を深めた。
  • 839年(承和6年):遣唐使船派遣にあたり祈願
  • 850年(嘉祥3年):正二位
  • 855年(斉衡2年)5月5日:「気比大神宮寺」と「御子神宮寺」に常住僧5人を置き、また「心願住者」(志願者?)5人を認め、10人の僧侶を認めたという。(文徳実録)
  • 858年(天安2年)4月7日:朝廷、気比神宮寺に仏像造立費として稲10000束を充てる(文徳実録)。
  • 859年(貞観1年)2月15日:朝廷、越前国司に命じて気比神宮寺に大般若経1部を置く(三代実録)。
  • 859年(貞観1年)7月14日:朝廷、気比神宮と気多大社(「気比気多両社」)に神祇大祐正六位上の大中臣朝臣豊雄を遣わし、神宝幣帛を奉納。(三代実録)
  • 859年(貞観1年):従一位
  • 860年(貞観2年)2月27日:朝廷、気比神宮寺を定額寺とする(三代実録)。
  • 878年(元慶2年)2月27日:祝部から報告。気比神宮で失火があったという知らせがあったから様子を見に行ったが誤報だった。朝廷で陰陽寮に占いをさせたところ、神社を穢す出来事だとされ、国司に命じて気比神宮を掃除し、経典を転読させた。(三代実録)
  • 884年(元慶8年)9月9日:神戸百姓を国役を免除。(三代実録)
  • 893年(寛平5年):正一位勲一等(『類聚三代格』)
  • 927年(延長5年):『延喜式』に「気比神社七座」として記される。
  • 1104年(長治1年)6月19日:気比神宮の神人が上京して大内裏の陽明門で国司高階為家の非法を訴えた。(中右記)
  • 1191年(建久2年)12月12日:気比神宮焼失の報。すぐに再建の命令が出された。(玉葉)
  • 1212年(建暦2年)9月:気比神宮政所が「神領作田所当米已下所出物等惣目録」を提出。社領は敦賀郡を中心に肥沃な土地や敦賀港・三国港の要衝と海岸線沿いにあり、一部は越中越後にも広がっており、2111石あった。本家は皇室で約702石、領家は九条良輔で約292石、大宮司の取り分は約177石だった。
  • 13世紀:青蓮院慈源(九条道家の子)の頃、気比神宮社務職を青蓮院門跡が務めるようになる。
  • 1256年(康元1年):火災
  • 1265年(文永2年)12月6日:修造の日時を勘する。(帝王編年記)
  • 1291年(正応4年):元寇にあたり祈願
  • 1301年(正安3年):遊行上人2世の他阿真教が気比神宮を参拝。自ら浜の砂を運んで沼地であった参道を整備したという。(他阿上人縁起)
  • 1336年(延元1年/建武3年):火災
  • 1337年(延元2年/建武4年):大宮司気比氏治の父子が南朝に付き恒良親王尊良親王を迎えて北朝軍と戦い敗れた。
  • 1506年(永正3年):火災
  • 1526年(大永6年):正遷宮にあたり、神宮寺御読経所で読経。
  • 1570年(元亀1年)3月:織田信長の朝倉攻めで朝倉方に付いていた気比神宮は焼失。社領など没収。
  • 1603年(慶長8年):福井藩主結城秀康、100石寄進。
  • 1604年(慶長9年):福井藩により社殿造営開始。
  • 1614年(慶長19年):社殿造営完成。正遷宮。気比宮社記
  • 1645年(正保2年):大鳥居造営(現存)
  • 1871年(明治4年)5月14日:国幣中社に列格。
  • 1895年(明治28年)3月27日:神宮号。官幣大社。
  • 1945年(昭和20年):空襲で社殿焼失
  • 1950年(昭和25年):社殿再建
  • 1985年(昭和60年):「昭和の大造営」開始

(日本歴史地名大系、国史大辞典、日本大百科全書、世界大百科事典ほか)

境内

名称 エリア 種別 祭神 概要
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本社
本社周辺 本社 伊奢沙別命仲哀天皇神功皇后
東殿宮 本社周辺 本社 日本武尊
総社宮 本社周辺 本社 応神天皇
平殿宮 本社周辺 本社 玉姫命
西殿宮 本社周辺 本社 武内宿禰命
神明社 本社周辺 末社 天照皇大神豊受大神
伊佐々別神社 本社周辺 摂社 九社之宮の一つ。
天利劔神社 本社周辺 摂社 九社之宮の一つ。官社。
天伊弉奈姫神社 本社周辺 摂社 九社之宮の一つ。官社。
天伊弉奈彦神社 本社周辺 摂社 九社之宮の一つ。官社。
擬領神社 本社周辺 末社 九社之宮の一つ。。
劔神社 本社周辺 末社 九社之宮の一つ。
金神社 本社周辺 末社 九社之宮の一つ。
林神社 本社周辺 末社 九社之宮の一つ。
鏡神社 本社周辺 末社 九社之宮の一つ。
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大鳥居
大鳥居周辺
蓮池 大鳥居周辺 その他 お砂持ち神事の場。
猿田彦神社 大鳥居周辺 末社 猿田彦大神 1775年(安永4年)鎮座。
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角鹿神社
東側 摂社 都怒我阿羅斯等命 官社。松尾神社を合祀か。
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児宮
東側 末社 伊弉冊尊 元は神宮寺にあった。986年(寛和2年)9月20日遷宮の記録があり古い。
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大神下前神社
東側 末社 大己貴命 気比神宮4守護神の一つ。元は天筒山の麓に鎮座していた。1911年(明治44年)現在地に遷座し、稲荷神社と金刀比羅神神社を合祀した。官社。
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土公
東側
常宮神社 境外 旧摂社 神功皇后・仲哀天皇・天八百万比〓尊 1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。県社
玉佐々良彦神社 境外 旧摂社 常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。伊覩神社とも。
天鈴神社 境外 旧摂社 常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。
天国津比〓神社 境外 旧摂社 常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。
天国津彦神社 境外 旧摂社 常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。
天筒山 境外

組織

大宮司

  • 気比氏治(?-1337)<>:南朝の武将。恒良親王を擁して金崎城に籠もるが自害。
  • 気比斉晴(?-1337)<>:南朝の武将。気比氏治の子。
  • 島計富(1626-1709)<>:角鹿氏。

宮司

  • 矢幡太刀彦(生没年不詳)<1875-1876>:福岡県出身の神職。1875年(明治8年)気比神宮宮司。翌年退職。その後、神道事務局神宮奉斎会に奉職。中津市の神宮教会所(中津大神宮?)創建に関わる。(『神道人名辞典』、国学関連人物データベース)
  • 成田其一()<1876->:1873年(明治6年)4月、若狭彦神社宮司。1876年(明治9年)4月、気比神宮宮司。
  • 飯田武郷(1827-1900)<1873-1873>:幕末明治の国学者。1827年(文政10年)生。高島藩江戸屋敷に生まれる。1843年(天保14年)平田派入門。1852年(嘉永5年)『日本書紀通釈』起稿。1853年(嘉永6年)伊勢神宮参拝。1863年(文久3年)密かに勤王の士を集める。1866年(慶応2年)家督を譲り、討幕の機に備える。1868年(明治1年)12月9日から1869年(明治2年)5月19日まで皇学所御用掛。1869年(明治2年)8月から1872年(明治5年)9月まで高島藩皇学所教授。1873年(明治6年)3月15日、気比神宮宮司兼権大講義。同年12月8日、貫前神社宮司。1874年(明治7年)8月8日、諏訪大社権宮司。1875年(明治8年)4月14日、甲斐浅間神社権宮司。1876年(明治9年)4月6日、宮司を解かれ、教導職に専任。12月8日、大講義。大教院講師。1878年(明治11年)11月20日、教導職退任。同年、修史館御用掛。1880年(明治13年)から1886年(明治19年)まで東京大学教授。1888年(明治21年)12月皇典講究所講師。1890年(明治23年)国学院講師。1891年(明治24年)慶応義塾大学部教授、1893年(明治26年)神宮教校教授。1896年(明治29年)帝国大学文科大学講師。1899年(明治32年)、約50年かけた大著『日本書紀通釈』を脱稿。1900年(明治33年)8月26日死去。
  • 今井清彦(1857-1922)<1891-?>:金崎宮宮司兼務。(略歴は、伏見稲荷大社#組織を参照)
  • 櫟本憲昌(生没年不詳)<>:宗像大社宮司。藤崎八旛宮宮司。
  • 金子吉祇(1861-1924)<>:越後出身の神職。(略歴は、射水神社#組織を参照)
  • 井上真平(生没年不詳)<1906-1914>:鹿児島県出身の神職。1906年(明治39年)6月21日から1914年(大正3年)4月18日(5月7日とも)まで気比神宮宮司。1906年(明治39年)6月21日から途中まで金崎宮宮司を兼務。(略歴は甲斐浅間神社#組織を参照)
  • 河村常造(1868-?)<1914-1918>:1914年(大正3年)4月18日、気比神宮宮司。1918年(大正7年)4月18日、神宮神部署主事。(略歴は、石上神宮#組織を参照)
  • 志賀正光(1882-1945)<1933-1936>:東京出身。1882年(明治15年)生。菅生石部神社宮司、大物忌神社宮司を経て1933年(昭和8年)6月16日、気比神宮宮司。1936年(昭和11年)12月19日諏訪大社宮司。1945年(昭和20年)2月11日、在職中死去。(略歴は菅生石部神社#組織を参照)
  • 行弘糺()<>:
  • 桑原廉一郎()<1942-1981>:井伊谷宮宮司、貴船神社宮司を経て1942年(昭和17年)気比神宮宮司。
  • 桑原恒明()<1981->:1981年(昭和56年)気比神宮宮司。2014年(平成26年)退任。
  • 福本佑喜()<2014->:2014年(平成26年)気比神宮宮司。
  • 桑原宏明

権宮司

  • 田辺屯倉麿()<>:1874年(明治7年)4月在職。

画像

資料

  • 『敦賀志』[1][2]
  • 『気比宮社記』:平松周家著。[3]
  • 『福井県敦賀郡誌』「神社」[4]
  • 『官幣大社気比神宮宮報』
    • 1939年(昭和14年)度[5]
    • 1940年(昭和15年)度[6]
    • 1941年(昭和16年)度[7]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B0%97%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

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