ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

井伊谷宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2022年5月21日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
移動: 案内, 検索
参道

井伊谷宮(いいのや・ぐう)は、静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にある、南朝の皇子宗良親王を祀る霊社官幣中社宗良親王墓龍潭寺井伊家龍潭寺墓地などが隣接する。神社本庁別表神社皇族奉斎神社南朝皇族奉斎神社

目次

歴史

創建時の社殿
社殿
  • 1385年(元中2年/至徳2年)8月10日:宗良親王、死去。没地は不明だが、井伊谷を没地とする伝承が古くからあった。冷湛寺殿と号したという。
  • 1742年(寛保2年)8月、信濃国伊那郡の旗本の知久頼久が龍潭寺境内に宗良親王の墓塔を建立した。
  • 1861年(文久1年):平塚瓢斎の依頼で山本金木が宗良親王の事跡や墓所などを調査して報告(内容は現存せず)。
  • 1868年(明治1年)11月上旬:刑法官の新貞老が旧跡と神社造営の調査のため井伊谷を視察。
  • 1868年(明治1年)11月3日:龍潭寺、政府に宗良親王墓の改修および、親王を祀る二宮神社の祭祀を盛大にすることを建言。
  • 1868年(明治1年)11月29日:彦根藩主井伊直憲、宗良親王墓の改修に協力したいと上申。
  • 1868年(明治1年)12月5日:政府、彦根藩に政府による宗良親王墓の修理への協力を許可。10日には龍潭寺にも彦根藩の営繕について相談するように通達した。
  • 1869年(明治2年)1月:奥山方広寺、政府に上申し、開山無文元選王が兄の宗良親王の葬儀を行い、開山堂に親王の位牌を祀り祭祀を続けてきたという縁から、宗良親王の祭祀を方広寺に命じるように請願した。5月22日にも宗良親王墓の祭祀を方広寺に任せるように上申。
  • 1869年(明治2年)2月13日:政府、宗良親王を祀る神社の創建を決定。営繕司に費用見積もりを命じた。「遠江国龍潭寺宗良親王御社」とある。彦根藩に造営への協力を命じた。形式的には協力だが、工事の実行は全て彦根藩が負担した。総経費は1万3644両余りで、そのほとんどは彦根藩が負担した。
  • 1869年(明治2年)2月28日:着工し、3月29日には上棟した。7月には完成したという。渭伊神社の社叢からも材木が切り出された。「山本金木日記」にも一部始終が記録される。
  • 1869年(明治2年)12月:龍潭寺、宗良親王墓の祭祀を行ってきたのは龍潭寺であるから、住職完応が還俗して宗良親王御宮の祠官になるように静岡藩に上申。
  • 1870年(明治3年)1月24日:静岡藩は社僧の還俗とは異なる事例であるので政府に伺ったところ神祇官は問題ないと回答。完応は還俗して奥山泰人と改名。神勤を請願した。
  • 1870年(明治3年)3月14日、彦根藩、奥山泰人と共に宗良親王佩用太刀を龍潭寺から東京の神祇官に護送。
  • 1870年(明治3年)4月22日:神祇官、青柳高鞆を井伊谷に派遣。青柳高鞆は静岡藩・彦根藩の役人と共に検分。正式に神職に任命されていないが奥山泰人に鍵を渡した。
  • 1870年(明治3年)9月21日:井伊直憲、御霊代の神鏡を献納を上申。許可されて翌年1月4日に献納した。
  • 1871年(明治4年):8月から9月にわたり3回の台風で大破。政府が修理した。
  • 1871年(明治4年)10月:「宗良親王御宮守」の奥山泰人、浜松郡政役所に稟議書を提出。早く遷宮を行うように請願。
  • 1872年(明治5年)1月4日:神祇省、鎮座祭の早期執行を上申する。
  • 1872年(明治5年)1月23日:政府、神祇省からの伺い(22日)に基づき宗良親王御社を井伊谷宮と命名(29日、浜松県に通達)。鎌倉宮の前例に基づく。同日、三田葆光に鎮座祭参向を命じる。
  • 1872年(明治5年)2月4日:御霊代の神鏡(井伊直憲献納)を小御所で天覧。
  • 1872年(明治5年)2月10日:創建の趣旨を記した「示諭」を配布。
  • 1872年(明治5年)2月12日:鎮座祭が行われた。三田葆光が派遣された。御祭文が現存。13日祭典。祝詞が現存。
  • 1872年(明治5年)7月20日:戸田忠至に井伊谷祭参向を命じる。
  • 1873年(明治6年)6月9日:官幣中社に列格した。
  • 1873年(明治6年)6月15日:初代宮司に彦根藩士の中野千依を任命。
  • 1875年(明治8年)3月28日:太政官、井伊直憲に井伊谷宮創立への貢献への報償として金1000円下賜。
  • 1875年(明治8年)6月10日:井伊直憲の請願で境内に井伊社の創建を許可。
  • 1878年(明治11年)10月28日:政府、静岡県令大迫貞清に井伊谷宮奉幣使を命じる。
  • 1885年(明治18年)9月:宗良親王500年祭。
  • 1930年(昭和5年)6月1日:昭和天皇行幸。
  • 1932年(昭和7年):宗良親王550年祭。
  • 1934年(昭和9年):建武中興600年祭。
  • 1970年(昭和45年):井伊谷宮崇敬会設立。境内整備事業を開始。幣殿、祝詞殿を新築。拝殿を改修。
  • 1972年(昭和47年)2月12日:鎮座100年式年大祭。幣帛料下賜。
  • 1983年(昭和58年)8月5日:皇太子時代の平成の天皇が参拝。
  • 1985年(昭和60年)9月22日:宗良親王600年祭。幣帛料下賜。社務所・参集殿を造営。
  • 2020年(令和2年)8月1日:史料館を開館。
  • 2022年(令和4年):鎮座150年式年大祭。

(国史大辞典、日本歴史地名大系、引佐町史ほか)

境内

  • 本社:
  • 井伊社:祭神は井伊道政・井伊高顕。井伊道政(1309-1404)と井伊高顕(1386没か)の親子は宗良親王に仕えたという。
  • 祖霊社:
  • 宗良親王墓

組織

大宮司・宮司

代数 生没年 在職年 略歴
1 中野千依 1873- 彦根藩士。1873年(明治6年)5月に写字生として政府に出仕し、6月15日、井伊谷宮宮司。1874年(明治7年)5月10日、出雲神社宮司。
2 岡部譲 1849-1937 1874-1890 国学者。賀茂真淵の子孫。1874年(明治7年)5月25日、井伊谷宮宮司。1878年(明治11年)から1890年(明治23年)の退職まで秋葉神社祠官を兼務。(略歴は、伏見稲荷大社#組織を参照)
山本金木 1826-1906 1888-1888 1826年(文政9年)生。父は金山神社の賀茂鞆音。父の兄の山本豊前の養子となる。吉田家から許状を得る。国学を学び、平田篤胤に没後入門。1861年(文久1年)、平塚瓢斎の依頼を受けた羽田野敬雄の仲介で、宗良親王の墓所や菩提寺などについて調査。1868年(明治1年)、戊辰戦争で報国隊に加わる。1872年(明治5年)、日坂八幡宮祠官。1873年(明治6年)渭伊神社祠官。権少講義。小国神社権禰宜、日吉神社権禰宜を経て1874年(明治7年)9月、敢国神社権宮司。11月、三重県管内神道教導取締。1875年(明治8年)4月、中講義。12月、敢国神社宮司。三重県下神道事務分局副長。1877年(明治10年)7月、権大講義。1877年(明治10年)9月、井伊谷宮権宮司。12月、制度改正で禰宜。1885年(明治18年)渭伊神社祠官を兼務。1888年(明治21年)9月から10月まで井伊谷宮宮司。1894年(明治27年)10月、渭伊神社社司。1906年(明治39年)11月27日死去。81歳。著書『橘蔭詠草』『山本大隅日記』。弟に靖国神社宮司の賀茂水穂がいる。(『引佐町史下巻』[1]
大井菅麻呂 1836-1910? 1898-1910 国学者。1836年(天保7年)生。静岡浅間神社の社家の出身。大井安親の子。本居豊穎に入門。1883年(明治16年)伊佐須美神社禰宜。同年安房神社禰宜。1886年(明治19年)4月6日、小国神社宮司。1893年(明治26年)正七位。1898年(明治31年)5月22日から7月5日まで静岡浅間神社宮司。同年10月23日、井伊谷宮宮司。1899年(明治32年)12月従六位。1905年(明治38年)正六位。1910年(明治43年)6月17日退任。同年従五位。同年死去か。著書『駿河国式社略記』『大井菅麻呂和歌雑録』『三等神葬祭式』『大井菅麿日記』。静岡県立中央図書館に大井文庫がある。大井菅麿。
林治一 ?-1960 1910-1913 1910年(明治43年)6月17日、井伊谷宮宮司。1913年(大正2年)7月12日、浅間大社宮司。1924年4月12日休職。吉田神社宮司を経て昭和6年6月20日、日光二荒山神社宮司。日光東照宮宮司。昭和11年9月24日退任。1960年(昭和35年)2月13日死去。
梶川敬治 ?-1913 1913-1913 1913年(大正2年)7月12日、井伊谷宮宮司。同年8月3日死去。
吉川頼易 ?-1933? 1913- 賀茂御祖神社禰宜。1913年(大正2年)9月8日、井伊谷宮宮司。1916年(大正5年)5月30日、大和神社宮司。のち生国魂神社宮司。1933年(昭和8年)死去か。著書『言霊の花』。
石川赳夫 ?-1919 1919年(大正8年)9月5日まで。生国魂神社宮司。
山崎常磐 1865-1954 1919- 山崎八峰の三男。1865年(慶応1年)生。戊辰戦争に報国隊として参加?。冀北学舎で学ぶ。雨桜神社社司。1901年(明治34年)静岡県神職会副議長。1916年(大正5年)全国神職会副議長。1916年(大正5年)10月2日、播磨・海神社宮司。1919年(大正8年)9月、井伊谷宮宮司。1924年(大正13年)3月12日休職。報国隊関係史料を収集した。1954年(昭和29年)10月14日死去。著書『遠州報国隊略歴』『報国隊逸事』『武藤氏考』『井伊谷宮事歴』。
大橋朗 1924-1933 山本金木の孫。靖国神社禰宜を経て1924年(大正13年)3月15日から1933年(昭和8年)5月13日まで井伊谷宮宮司。
桑原廉一郎 1895-1982 1933-1935 気比神宮宮司。福井県神社庁長。1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)まで井伊谷宮宮司。1895年(明治28年)生。1982年(昭和57年)死去。
後藤周次郎 1876- 1935-1943 静岡県出身。1876年(明治9年)生。1906年(明治39年)国学院大学師範部卒。1912年(大正1年)10月22日、竈門神社宮司。1920年(大正9年)11月19日から1923年(大正12年)9月27日まで西寒多神社宮司。多度神社宮司を経て1935年(昭和10年)井伊谷宮宮司。
遠北英雄 1903-2007 1943-1952 和歌山県出身。1903年(明治36年)生。1928年(昭和3年)国学院大学卒。日光東照宮主典、厳島神社主典を経て、1941年(昭和16年)小御門神社宮司。1943年(昭和18年)井伊谷宮宮司。1952年(昭和27年)9月20日、雄山神社宮司。1961年(昭和36年)北海道神宮奉賛会事務局長。1966年(昭和41年)12月8日から1987年(昭和62年)まで小石川大神宮宮司。2007年(平成19年)3月28日死去。
藤野信太郎 1891-1968 1952-1968 1891年(明治24年)生。1921年(大正10年)細江神社社掌。1937年(昭和12年)気賀町町会議員。1947年(昭和22年)気賀町町会議長。1952年(昭和27年)井伊谷宮宮司。1961年(昭和36年)静岡県神社庁長。1968年(昭和43年)5月21日死去。77歳。
岡部厳夫 1919-1991 1970-1991 1919年(大正8年)生。1942年(昭和17年)国学院大学卒。神社本庁に勤務。1958年(昭和33年)浜松賀茂神社宮司。1962年(昭和37年)静岡県神社庁参事。1970年(昭和45年)4月30日、井伊谷宮特命宮司。1973年(昭和48年)宮司。1983年(昭和58年)静岡県神社庁長。神社本庁理事。1991年(平成3年)2月16日死去。71歳。
岡部和弘 1954- 1992- 1954年(昭和29年)生。1977年(昭和52年)国学院大学専攻科卒。鶴岡八幡宮三島大社に奉仕。1992年(平成4年)9月20日、井伊谷宮宮司。賀茂神社宮司。

権宮司

  • 丹羽与三郎
  • 山本金木


資料

  • 藤井貞文「井伊谷宮創建始末」
  • 『井伊谷宮南朝奉仕始末』
  • 『引佐町史下巻』「井伊谷宮の創建」[2]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E8%B0%B7%E5%AE%AE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール