ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
山口県護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2024年4月12日 (金) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
山口県護国神社(やまぐちけん・ごこくじんじゃ)は、山口県山口市にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。内務大臣指定護国神社。神社本庁別表神社。占領期の名称は御霊神社。
目次 |
奉斎
- 7513柱(鎮座時[1])
- 7158柱(1946年現在)
- 52122柱(2002年現在)
- 52128柱(2019年ごろ?)
内訳
2002年現在とみられる
- 明治維新前後:1399
- 佐賀熊本福岡の乱:38
- 西南戦争:483
- 日清戦争:327
- 北清事変:252
- 日露戦争:1995
- 満洲事変:479
- 日中戦争:5909
- 太平洋戦争:41195
- 殉職自衛官:45
歴史
- 1903年(明治36年):防長靖献会、設立。招魂祭を山口町桜畠練兵場(現境内の南隣。現在の陸上自衛隊訓練場)で行う(『靖国神社百年史』)
- 1938年(昭和13年):起工(『靖国神社百年史』)
- 1941年(昭和16年)8月:竣工(『靖国神社百年史』)
- 1941年(昭和16年)9月22日:山口県護国神社を県社同様に取り扱うこととする(岩国市史[3])
- 1941年(昭和16年)10月9日:内務大臣指定の「山口県護国神社」になる。(『靖国神社百年史』)
- 1941年(昭和16年)11月20日:鎮座祭。(『神道史大辞典』には12/27、山口市史では11月26日[4])(『靖国神社百年史』)
- 1947年(昭和22年)3月31日:御霊神社と改称(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1952年(昭和27年)8月8日:山口県護国神社に復称(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1953年(昭和28年):山口県護国神社奉賛会(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1956年(昭和31年)6月:社殿社務所透垣、棟包装工事(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1957年(昭和32年)4月:境内拡張整備(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1958年(昭和33年)10月:参道橋梁改修(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)4月:社殿檜皮葺葺替(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)5月:権殿玉垣鳥居建設(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)10月:倉庫(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)11月3日:合祀概了奉告臨時大祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1961年(昭和36年)8日:いさお館(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1961年(昭和36年)11月23日:鎮座20周年式年大祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1963年(昭和38年)4月:手水舎社務所屋根(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1963年(昭和38年)10月26日:幣帛(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1964年(昭和39年)4月:第二次境内拡張整備 相撲場改修(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1964年(昭和39年)8月:第三時拡張。石段改修。手水移転。池改修(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1964年(昭和39年):隊友会山口県支部連合会、護国神社で殉職自衛官12柱の慰霊祭を斎行[5]。
- 1965年(昭和40年)3月:山口県護国神社敬神講(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1965年(昭和40年)11月3日:終戦20周年臨時大祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1968年(昭和43年)1月5日:葺き替えのため仮殿遷座祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1968年(昭和43年)4月13日:本殿遷座祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1971年(昭和46年)10月30日:鎮座30周年記念。式年祭。境内環境整備を完了。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1972年(昭和47年)3月24日:「山口県護国神社における自衛隊殉職者の奉斎実施準則」を制定。
- 1972年(昭和47年)4月19日:殉職自衛官27人を相殿に合祀[6]。
- 1973年(昭和48年)1月22日:殉職自衛官の遺族が、合祀申請手続きの取消と慰謝料を求めて国と隊友会山口県支部連合会を提訴[7]。
- 1979年(昭和54年)3月22日:山口地裁で判決。原告の訴えを認めた[8]。
- 1982年(昭和57年)6月1日:広島高裁で判決。一審判決を支持[9]。
- 1988年(昭和63年)6月1日:最高裁判決。一審判決を破棄[10]。
- 1995年(平成7年):参集殿建立。
- 1996年(平成8年)7月1日、別表神社加列(神社本庁年誌)
- 2012年(平成24年):奉賛会を改組して崇敬奉賛会を設立。
境内
- 本社
- 権殿
組織
社司・宮司
- 渡辺織雄(1868-1950)<1941-1945>:戦前期の山口県の神職。(略歴は長門・住吉神社#組織を参照)
- 上山昇(1905-1984)<1961-?>:山口県神社庁長。神社本庁理事。大帯姫八幡宮の社家か。1905年(明治38年)生。上山恒寿(玉祖神社宮司)の長男。1924年(大正13年)神宮皇学館専科卒。1931年(昭和6年)東洋大学文学部卒。1931年(昭和6年)大帯姫八幡宮社掌。大政翼賛会山口県支部錬成部長、山口県立石城山道場長を歴任。1948年(昭和23年)大帯姫八幡宮宮司。1953年(昭和28年)5月31日、山口県神社庁参事。1957年(昭和32年)から1974年(昭和49年)まで山口県神社庁長。1961年(昭和36年)5月5日、山口県護国神社宮司を兼務。1967年(昭和42年)6月9日、豊栄神社・野田神社宮司を兼務。1984年(昭和59年)10月13日死去。80歳。
- 長尾誠(1908-1984)<1972-1984>:1908年(明治41年)生。1933年(昭和8年)八幡宮社掌。1972年(昭和47年)山口県護国神社宮司。自衛官合祀訴訟に対応。1984年(昭和59年)5月31日死去。76歳。
- 小方基次(1940-2022)<>:今八幡宮社家。1940年(昭和15年)生。1963年(昭和38年)国学院大学文学部史学科卒。豊栄神社権禰宜、禰宜。今八幡宮宮司。2022年(令和4年)死去。
- 津田勉(1956-)<>:1956年(昭和31年)生。国学院大学文学部神道学科卒。幕末維新期の招魂社の成立に関する研究を多数発表。国学院大学研究開発推進機構研究開発推進センター共同研究員。
資料
文献
- 『山口県護国神社十年史』:不詳。古書店目録にある
- 1944『防長歴史暦・中』「山口県護国神社例祭」[11]
- 1963『神社名鑑』「山口県護国神社」[12]
- 津田勉1996「山口県護国神社の創建」『山口県神道史研究』8
合祀拒否訴訟関係
- 播磨信義1975「護国神社への自衛官合祀拒否訴訟について―政教分離原則と妻の「祭祀権」を中心に」[13]
- 国立国会図書館1976『靖国神社問題資料集』「殉職自衛官護国神社合祀拒否訴訟」[14]
- 山口立1978「山口県護国神社への合祀手続きの取り消し等請求事件について」『防衛法研究』2[15](館内限定)
- 北川健1978「歴史と現代・殉職自衛官合祀問題と長州藩明治維新史研究」[16]
- 横畠典夫・杉本順市・和田康則1979「資料・自衛隊らによる合祀・手続の取消請求事件の判決について」『宗務時報』47[17]
- 小堀久男1980「信教の自由と政教分離―殉職自衛官合祀違憲判決をめぐって」[18]
- 田中伸尚1980『自衛隊よ、夫を返せ』[19](館内限定)
- 平野武1981「山口地裁殉職自衛官合祀判決について」『宗教法研究2』[20]
- 1982「自衛官合祀拒否訴訟控訴審判決」『宗務時報』60[21]
- 1986「殉職自衛官合祀と宗教的人格権の関係1」『愛知学院大学宗教法制研究所紀要』33[22]
- 1986「殉職自衛官合祀と宗教的人格権の関係2」『愛知学院大学宗教法制研究所紀要』33[23]
- 1988「判例・自衛官合祀違憲訴訟最高裁大法廷判決」『宗務時報』79[24]
- 1989「宗教関係判例紹介」『宗務時報』81[25]
- 今村嗣夫1989『こわされた小さな願い―最高裁と少数者の人権―自衛官<合祀>拒否訴訟』キリスト新聞社
- 松澤広樹2005「山口自衛官合祀拒否訴訟におけるアイデンティティ形成と訴訟遂行―憲法訴訟の政治社会学」[26]
- 浅野有紀2018「法多元主義からみる日本における自治規範の一例」『法多元主義―交錯する国家法と非国家法』