ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
禅林寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(?歴代住職) |
(?歴史) |
||
3行: | 3行: | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
===古代=== | ===古代=== | ||
- | + | 元は[[真言宗]]寺院として始まった。 | |
- | + | 853年(仁寿3年)、[[空海]]の弟子の'''真紹'''が藤原関雄という人物の旧宅を購入して[[大日如来]]を祀って創建。 | |
- | + | 863年(貞観5年)9月6日、[[定額寺]]となる。この時の三代実録の記事によると、河内[[観心寺]]を移して禅林寺としたという。「禅林・観心両寺座主職相承次第」(東寺文書)という文書があり、観心寺と禅林寺は兼務されていたらしい。868年(貞観10年)、真紹は「禅林寺清規」15条を定め、宗叡に伝えた。 | |
+ | 877年(元慶1年)、[[清和上皇]]の勅願で寺内に[[山城・円覚寺]]が創建され、禅林寺の伽藍も整えられた。 | ||
+ | 993年(正暦4年)火災で焼失。深覚が伽藍再建した。 | ||
- | + | 1160年(永暦1年)、[[後白河上皇]]が[[熊野那智大社]]を分霊して[[若王子神社]]を創建し、禅林寺の鎮守となった。 | |
[[石山寺]]と[[観心寺]]を末寺とした。 | [[石山寺]]と[[観心寺]]を末寺とした。 | ||
13行: | 15行: | ||
===中世=== | ===中世=== | ||
- | [[東大寺]]別当の[[永観]] | + | [[東大寺]]別当の[[永観]](ようかん)が浄土教の拠点として中興。永観は塔頭東南院を創建し、日課一万遍の念仏を行なっていたといい、『禅林寺縁起』などに記された見返り阿弥陀の説話が著名である。1082年(永保2年)、永観が阿弥陀堂で行堂念仏していたところ(常行三昧と思われる)、阿弥陀仏が永観と共に行堂を始め、振り向いて「永観遅し」と諌めたという。首を左に振り向いた姿を表した異形の阿弥陀像がのちに本尊となる。永観堂(えいかんどう)という当寺の通称にその名を残している。'''静遍'''が法然の『選択本願念仏集』を批判しようと熟読したところ、返って自らの非を悟り改宗した。改宗のときに、すでに亡くなっていた法然を11世住職とし、自らは12世とした。永観も静遍も真言宗系の[[東大寺]]念仏別所である[[光明山寺]]に住したこともある。静遍が[[証空]]に譲り、証空が住した。その後、浄音が17世となったときに正式に真言宗から浄土宗(西山派)となったという。発展して、西山派西谷流の拠点となった。 |
- | + | 1264年(文永1年)には[[亀山天皇]]が禅林寺の隣に離宮[[禅林寺殿]]を建て、[[南禅寺]]の起源となる。 | |
室町時代には聖衆来迎院という堂を中心に[[当麻曼陀羅]]の信仰が盛んになった。 | 室町時代には聖衆来迎院という堂を中心に[[当麻曼陀羅]]の信仰が盛んになった。 | ||
- | + | 応永年間、[[後小松天皇]]生母の通陽門院が堂塔を修復。 | |
- | + | 1467年(応仁1年)9月18日、東岩倉の戦いで南禅寺などと共に焼失。 | |
===近世=== | ===近世=== | ||
- | + | 応仁の乱で荒廃後、1497年(明応6年)法然を祀る御影堂や書院を再建。永正年間、方丈(釈迦堂)や境内の堂宇を廊でつなぐ臥龍廊が建てられた。1607年(慶長12年)、阿弥陀堂を再建。御影堂は1600年(慶長5年)再建ともいう(禅林寺正選歴代記)。 | |
- | + | 1573年(天正1年)、[[豊臣秀吉]]から寺領43石が寄進され、幕末まで維持した。 | |
- | + | 宏善や甫叔らといった歴代が皇室の帰依を受け、1572年(元亀3年)、香衣出世の寺と認められ、本山としての地位を確立した。 | |
===近代=== | ===近代=== | ||
- | + | 1912年(大正1年)現在の御影堂を建立。1928年(昭和3年)には多宝塔を建立した。 | |
(日本歴史地名大系、国史大辞典) | (日本歴史地名大系、国史大辞典) |
2021年7月17日 (土) 時点における版
禅林寺(ぜんりんじ)は、京都府京都市左京区永観堂町にある、浄土宗西山派の本山寺院。浄土宗西山禅林寺派総本山。本尊は「見返り阿弥陀」として知られる阿弥陀如来。元は真言宗の門跡寺院で、大日如来を本尊としたが、証空が譲られて浄土宗西山派西谷流の拠点になったとされる。南都仏教と関わりが深く、東大寺関連旧跡。一時期は三論宗も盛んに学ばれた。古代の定額寺でもある。鎮守は若王子神社。通称の永観堂がよく知られる。無量寿院と号す。山号は聖衆来迎山。南に建てられた離宮禅林寺殿は後に南禅寺となった。(参考:同名寺院禅林寺_(同名))
目次 |
歴史
古代
元は真言宗寺院として始まった。 853年(仁寿3年)、空海の弟子の真紹が藤原関雄という人物の旧宅を購入して大日如来を祀って創建。 863年(貞観5年)9月6日、定額寺となる。この時の三代実録の記事によると、河内観心寺を移して禅林寺としたという。「禅林・観心両寺座主職相承次第」(東寺文書)という文書があり、観心寺と禅林寺は兼務されていたらしい。868年(貞観10年)、真紹は「禅林寺清規」15条を定め、宗叡に伝えた。 877年(元慶1年)、清和上皇の勅願で寺内に山城・円覚寺が創建され、禅林寺の伽藍も整えられた。 993年(正暦4年)火災で焼失。深覚が伽藍再建した。
1160年(永暦1年)、後白河上皇が熊野那智大社を分霊して若王子神社を創建し、禅林寺の鎮守となった。
石山寺と観心寺を末寺とした。 仁和寺側の記録では禅林寺は仁和寺の院家として扱われてる(仁和寺関連旧跡)。
中世
東大寺別当の永観(ようかん)が浄土教の拠点として中興。永観は塔頭東南院を創建し、日課一万遍の念仏を行なっていたといい、『禅林寺縁起』などに記された見返り阿弥陀の説話が著名である。1082年(永保2年)、永観が阿弥陀堂で行堂念仏していたところ(常行三昧と思われる)、阿弥陀仏が永観と共に行堂を始め、振り向いて「永観遅し」と諌めたという。首を左に振り向いた姿を表した異形の阿弥陀像がのちに本尊となる。永観堂(えいかんどう)という当寺の通称にその名を残している。静遍が法然の『選択本願念仏集』を批判しようと熟読したところ、返って自らの非を悟り改宗した。改宗のときに、すでに亡くなっていた法然を11世住職とし、自らは12世とした。永観も静遍も真言宗系の東大寺念仏別所である光明山寺に住したこともある。静遍が証空に譲り、証空が住した。その後、浄音が17世となったときに正式に真言宗から浄土宗(西山派)となったという。発展して、西山派西谷流の拠点となった。
1264年(文永1年)には亀山天皇が禅林寺の隣に離宮禅林寺殿を建て、南禅寺の起源となる。 室町時代には聖衆来迎院という堂を中心に当麻曼陀羅の信仰が盛んになった。 応永年間、後小松天皇生母の通陽門院が堂塔を修復。 1467年(応仁1年)9月18日、東岩倉の戦いで南禅寺などと共に焼失。
近世
応仁の乱で荒廃後、1497年(明応6年)法然を祀る御影堂や書院を再建。永正年間、方丈(釈迦堂)や境内の堂宇を廊でつなぐ臥龍廊が建てられた。1607年(慶長12年)、阿弥陀堂を再建。御影堂は1600年(慶長5年)再建ともいう(禅林寺正選歴代記)。 1573年(天正1年)、豊臣秀吉から寺領43石が寄進され、幕末まで維持した。
宏善や甫叔らといった歴代が皇室の帰依を受け、1572年(元亀3年)、香衣出世の寺と認められ、本山としての地位を確立した。
近代
1912年(大正1年)現在の御影堂を建立。1928年(昭和3年)には多宝塔を建立した。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)
伽藍
- 阿弥陀堂:現在の本堂。
- 御影堂:法然を祀る。祖師堂ともいう。祖廟堂?
- 方丈:釈迦堂ともいう。
- 古方丈:
- 瑞紫殿:本尊は阿弥陀如来。創建時に祀られた大日如来など五仏のうち、唯一残ったとされ、「火除けの阿弥陀」と呼ばれている。
- 開山堂:
- 多宝塔:
- 弁天堂:
- 位牌堂:
- 画仙堂:
- 千仏洞:
- 寺務所:
- 宗務所:
- 聖峰閣:
- 清和天皇髪塔:治定外
- 後三条天皇骨塔:治定外
- 聖衆来迎院:廃絶。
他に浴室、総門、中門、庫裏、鶴寿台、永観堂会館、図書館がある。
子院
- 智福院:現存
- 帰命院:
- 真善院:
- 信行律院:
- 東南院:永観が創建。
- 薬王院:
- 松岳院:現存。松岳庵
- 花月庵:
- 井正庵:
- 円覚寺:宗叡が創建。現在は京都府京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町にある。
組織
歴代住職
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 真紹 | 797-873 | 空海の弟子。東寺二長者。真紹僧都。禅林寺僧都。石山僧都。 | |
2 | 宗叡 | 809-884 | 真紹の甥。真如法親王に随従して入唐。帰国。東大寺別当(??)。東寺長者。京都・円覚寺開山となる。宗叡僧正。禅林寺僧正。後入唐僧正。 | |
3 | 真如法親王 | 799-865? | 平城天皇皇子。インドを目指し入唐し行方不明になる。実際には住職になっていないが真紹、宗叡に縁のある人物であることから偲んで一世に数えたという。 | |
4 | 安載 | 安載内供。 | ||
(寛空) | 884-972 | 寛空僧正。短期間のため一世とせず。 | ||
(寛忠) | 906-977 | 敦固親王(宇多天皇皇子)の王子。寛忠僧正。短期間のため一世とせず。 | ||
(元果) | 914-995 | 元果僧都。短期間のため一世とせず。「元杲」か。 | ||
(明観) | 953-1021 | 佐忠王(醍醐天皇皇子)の王子。醍醐寺11世。明観僧正。短期間のため一世とせず。(略歴は醍醐寺#組織を参照) | ||
5 | 深覚 | 955-1043 | 勧修寺長吏。東大寺別当60世・62世・68世。東寺長者。(略歴は勧修寺#組織を参照) | |
(覚源) | 1000-1065 | 花山天皇皇子。東大寺別当77世。覚源僧正。(略歴は東大寺#組織を参照) | ||
6 | 深観 | 1001-1050 | 花山天皇第4皇子。東大寺別当73世。東寺長者。金剛峰寺座主。深観僧都。坐禅院僧都。宮大僧都。(略歴は東大寺#組織を参照) | |
7 | 永観 | 1032-1111 | 禅林寺中興。三論宗の僧侶。長座念仏して舎利の倍増を得る。念仏行道に励むとき、阿弥陀像が先を走り、振り向き「永観遅し」と言ったという。永観堂の名の由来。永観律師。以降、浄土教の寺院となる。東大寺別当83世。(略歴は永観旧跡を参照) | |
8 | 覚叡 | 覚叡阿闍梨。 | ||
9 | 永恵 | 永恵上人。 | ||
10 | 珍海 | 1091-1152 | 照登親王(花山天皇皇孫)の王子。あるいは仏画土佐派始祖の藤原基光の子。仏画に長けた。珍海已講。禅林寺僧都。 | |
11 | 法然 | 1133-1212 | 浄土宗開祖。実際には住職になっていないが、浄土宗に帰したのち一世に数える。諡号は円光大師。 | |
12 | 静遍 | 1166-1224 | 1166年(仁安1年)生。仁和寺出身の真言僧だったが、禅林寺の寺伝では法然の著書を読み帰依したという。源頼朝の帰依を受けたという。静遍僧都。1224年(元仁1年)4月20日死去。 | |
13 | 証空 | 1177-1247 | 浄土宗西山流の開祖。1177年(治承1年)生。1247年(宝治1年)11月26日死去。西山国師。 | |
14 | 道誉 | 1179-1240 | 天台宗の僧侶。藤原兼房の子。1179年(治承3年)生。園城寺にいた。禅林寺僧正。道誉僧正。1240年(仁治1年)9月5日死去。 | |
15 | 道智 | 1217-1269 | 天台宗の僧侶。摂政九条道家の子。1217年(建保5年)生。園城寺長吏。死後、その霊が怪異を起こしたため、近くに離宮禅林寺殿を建てた亀山天皇が慰めるために無関普門を招いて堂宇を設けたのが南禅寺の始まりという。現在、南禅寺の鎮守神として塔頭最勝院に祀られている。道智僧正。狛僧正。駒僧正。御霊神。1269年(文永6年)3月3日死去。 | |
16 | 永空正覚 | ?-1259 | 1259年(正元1年)9月2日死去。 | |
17 | 法興浄音 | 1201-1271 | 西谷流の開祖。証空の弟子。1201年(建仁1年)生。仁和寺の西側に京都・光明寺(西谷光明寺、新光明寺)を創建。1271年(文永8年)5月22日死去。智空。 | |
18 | 朝阿観智 | ?-1313 | 西谷光明寺2世。1313年(正和2年)6月12日死去。光空。 | |
19 | 覚融行観 | 1241-1325 | 西谷光明寺3世。1241年(仁治2年)生。観智の弟子。関東に布教に進出し、武蔵・光明寺(鵜木光明寺)を創建。西山派の教学を大成。1325年(正中2年)6月9日死去。 | |
20 | 覚願 | 生没年不詳 | ||
21 | 覚生 | ?-1271 | 1271年(文永8年)6月9日死去。 | |
22 | 観意 | ?-1347 | 1347年(正平2年/貞和3年)10月31日死去。 | |
23 | 観教 | ?-1389 | 行観の弟子。鵜木光明寺から晋山。1389年(元中6年/康応1年)4月20日死去。 | |
24 | 道覚浄弁 | ?-1395 | 鵜木光明寺から晋山。1395年(応永2年)8月15日死去。 | |
25 | 識阿空寂 | ?-1406 | 上野国に進出し、吾妻・善導寺を創建。1406年(応永13年)12月10日死去。 | |
26 | 宏空円光 | ?-1420 | 吾妻善導寺2世。1420年(応永27年)11月7日死去。 | |
27 | 光融妙静 | ?-1428 | 「善導寺を創し」(『禅林寺誌』)とあるが、吾妻善導寺のことか。1428年(正長1年)2月29日死去(3月29日死去とも)。 | |
28 | 空〓召運 | ?-1463 | 尾張・曼陀羅寺開山天真乗運の弟子。曼陀羅寺2世。尾張常念寺を創建。1463年(寛正4年)4月14日死去。(〓は瑞のつくり+しんにょう ) | |
29 | 在空栄運 | ?-1472 | 天真乗運の弟子。二尊院の恵篤善空にも師事。1472年(文明4年)5月8日死去。 | |
30 | 曉堂妙諫 | ?-1491 | 1491年(延徳3年)2月29日死去。 | |
31 | 撮堂賢立 | ?-1488 | 吾妻善導寺から晋山。1488年(長享2年)7月13日死去。 | |
32 | 天承祐音 | ?-1505 | 尾張曼陀羅寺から晋山。「永承祐音」は誤りか1505年(永正2年)9月22日死去。 | |
33 | 一冲融舜 | ?-1523 | 尾道宝土寺から晋山。「一沖融舜」1523年(大永3年)11月18日死去(1524年(大永4年)とも)。 | |
34 | 舜叔宏善 | ?-1557 | 伽藍を復興。『禅林寺縁起』を作成。粟生光明寺18世を兼任。1557年(弘治3年)7月23日死去。 | |
35 | 実空顕貞 | ?-1564 | 京都善長寺から晋山。1564年(永禄7年)7月13日死去。 | |
36 | 智空甫叔 | ?-1586 | 紀伊・総持寺から晋山。実父が建てた醍醐融雲寺の開山となる。引退しようとした時、正親町上皇が綸旨を下して留めたといい、「御留の綸旨」と言って現存するという。弟子に安楽庵策伝がいる。1586年(天正14年)6月2日死去。 | |
37 | 果空俊式' | ?-1623 | 紀伊総持寺から晋山。徳川家康と二条城で面会し、当流総本寺と認められ、西山派諸法度を受けたという。本堂、御影堂などを再建。「杲空俊弌」1623年(元和9年)9月2日死去。 | |
38 | 頂空寿仙 | ?-1618 | 京都万年寺を創建。1618年(元和4年)2月15日死去。 | |
39 | 行空龍道 | ?-1635 | 越前・安養寺から晋山。1635年(寛永12年)5月3日死去。 | |
40 | 真空久円 | ?-1645 | 堺・十万寺(北十万)に住し、紀伊総持寺を経て晋山。光林寺(京都か)に引退1645年(正保2年)4月6日死去。 | |
41 | 月空清感 | ?-1599 | 安芸・誓願寺から晋山。1599年(慶長4年)1月8日死去。 | |
42 | 積峰慶善 | ?-1658 | 桑名・浄土寺から晋山。1658年(万治1年)2月22日死去。 | |
43 | 圭道秦〓 | ?-1665 | 三河・崇福寺から晋山。紫衣参内の綸旨を得る。本堂再興。本堂と御影堂の間の廊下を作る。江戸で客死。〓は王+賛。「圭道泰〓」。1665年(寛文5年)6月10日死去。 | |
44 | 養空霊徹 | ?-1679 | 越前・長寿院(現在、明石に移転)から晋山。常紫衣の許可を得る。1679年(延宝7年)1月13日死去。 | |
45 | 寰空貞凖 | ?-1685 | 桑名浄土寺から尾張曼陀羅寺に転じたのち晋山。1685年(貞享2年)3月22日死去。 | |
46 | 是空回隆 | ?-1704 | 伊勢養草寺、三河・法蔵寺を経て晋山。引退して摂津浄橋寺に住す。1704年(宝永1年)1月3日死去。 | |
47 | 太空湖南 | ?-1697 | 淡路日光寺から晋山。江戸で1697年(元禄10年)10月死去。 | |
48 | 天空助三 | ?-1710 | 大津九品寺、桑名浄土寺を歴任して当寺に晋山。本堂再興。1710年(宝永7年)12月16日死去。 | |
49 | 三空普及 | ?-1720 | 播磨如来寺から晋山。信行庵(不詳)に隠居。1720年(享保5年)11月4日死去。 | |
50 | 浣谿炬範 | ?-1725 | 熱田正覚寺、曼陀羅寺を経て晋山。醍醐一音寺に隠居。1725年(享保10年)7月24日死去。 | |
51 | 乙空恵海 | ?-1724 | 美濃慈恩寺、伊勢養草寺を経て晋山。1724年(享保9年)8月6日死去。 | |
52 | 台空阿三 | ?-1724 | 京都休務寺、播磨法界寺を歴任して晋山。1724年(享保9年)9月24日死去。 | |
53 | 演空良義 | ?-1738 | 桑名薬師寺、高砂十輪寺を経て晋山。御影堂を修復。延寿寺に退隠。1738年(元文3年)11月29日死去。 | |
54 | 霊空是堪 | ?-1761 | 伊勢大林寺、桑名浄土寺を経て晋山。信行庵(不詳)に隠居。1761年(宝暦11年)7月22日死去。 | |
55 | 英空灌龍 | ?-1754 | 曼陀羅寺から晋山。1754年(宝暦4年)6月26日死去。 | |
56 | 瑞空愿亮 | ?-1764 | 播磨利生寺から晋山。書に優れたという。1764年(明和1年)3月18日死去。 | |
57 | 貫空巨道 | ?-1768 | 美濃立政寺から晋山。1768年(明和5年)7月28日死去。 | |
58 | 盤空有倫 | ?-1780 | 淡路日光寺から晋山。1780年(安永9年)10月18日死去。 | |
59 | 霊空万瀏 | ?-1787 | 播磨利生寺から晋山。仏陀寺で1787年(天明7年)10月4日死去。 | |
60 | 攀空泰凖 | ?-1795 | 1795年(寛政7年)11月27日死去。 | |
61 | 綜空練耕 | ?-1810 | 祐福寺から晋山。1810年(文化7年)5月24日死去。 | |
62 | 澹空旭応 | 1740-1822? | 1740年(元文5年)生。書家・画家としても知られる。岳陽と号す。1822年(文政5年)10月10日山科来迎寺で死去?。83歳。著書に『往生論註疏』。1821年(文政4年)3月20日死去? | |
63 | 誠空義諦 | ?-1832 | 利生寺から晋山。播磨で死去。1832年(天保3年)1月3日死去。 | |
64 | 実空俊瑞 | ?-1841 | 正覚寺から晋山。専求寺で死去。1841年(天保12年)5月17日死去。 | |
65 | 水空洗懐 | ?-1841 | 越前安養寺から晋山。1841年(天保12年)9月6日死去。 | |
66 | 観空照〓 | ?-1848 | 十輪寺から晋山。〓は王+(隣のつくり)1848年(嘉永1年)7月25日死去。 | |
67 | 仁空観識 | ?-1855 | 祐福寺から晋山。祥光寺に退隠。尾張極楽寺で1855年(安政2年)9月22日死去。 | |
68 | 恬空泰然 | ?-1861 | 越前安養寺から晋山。1861年(文久1年)11月26日死去。 | |
69 | 万空霊円 | ?-1862 | 伊勢大林寺から晋山。1862年(文久2年)12月22日死去。 | |
70 | 淵空旭泉 | ?-1866 | 曼陀羅寺から晋山。1866年(慶応2年)5月17日死去。 | |
71 | 徹空俊玉 | ?-1881 | 東山天華。近代日本で最初の公立精神病院「京都癲狂院」を建てたという。西福寺で1881年(明治14年)7月22日死去。 | |
72 | 亀空観鏡 | ?-1889 | 佐幹観鏡。曼陀羅寺から晋山。1889年(明治22年)5月23日死去。 | |
73 | 洪空基範 | ?-1885 | 柴田基範。初の公選。美濃立政寺から晋山。1885年(明治18年)6月7日死去。著書『当麻曼荼羅講説』[1]。 | |
74 | 恭空儼敬 | ?-1891 | 吉谷恭空。美濃立政寺から晋山。1891年(明治24年)4月28日死去。 | |
75 | 範空亮弁 | ?-1907 | 清水亮弁。美濃立政寺から晋山。1907年(明治40年)9月26日死去。 | |
76 | 超空亮厳 | 1852-1920 | 1908-? | 近藤亮厳。自坊は兵庫阿弥陀寺。1852年(嘉永5年)生。1908年(明治41年)禅林寺法主。御影堂再建。法然700回大遠忌執行。1920年(大正9年)9月1日死去。耆山と号す。著書『耆山語録』『法のおさらえ』。 |
管長代務 | 1848-1924 | 1920-1920 | 青井俊法。1920年(大正9年)9月4日管長代務者就任認可(官報)。 | |
77 | 才空俊法 | 1848-1924 | 1920-? | 青井俊法。自坊は金沢光覚寺。1848年(嘉永1年)生。1920年(大正9年)9月4日管長代務者就任認可(官報)。同年11月8日管長就任認可(官報)。のち辞職。1924年(大正13年)6月10日死去。 |
管長事務取扱 | 1924-1924 | 酒見真功。1924年(大正13年)6月6日管長事務取扱就任認可(官報)。のち辞職。 | ||
78 | 大空圭学 | ?-1933 | 1924-? | 祖父江圭学。1924年(大正13年)9月29日管長就任認可(官報)。1933年(昭和8年)3月31日死去。 |
管長事務取扱 | 1929-1929 | 藤原齢教。1929年(昭和4年)11月6日管長事務取扱就任認可(官報)。 | ||
79 | 照空玄光 | ?-1938 | 1929-? | 大西玄光。自坊は下京区専求寺。1929年(昭和4年)12月28日管長就任認可(官報)。のち辞職。1938年(昭和13年)3月22日死去。 |
管長事務取扱 | (顕空隆明) | ?-1955 | 1936-1936 | 柴田隆明。1936年(昭和11年)6月12日管長事務取扱就任認可(官報)。 |
80 | 普空朴聞 | 1871-1939 | 1936-1939 | 淵江朴聞。広島県出身。1871年(明治4年)生。宗学本校卒。1936年(昭和11年)8月21日管長就任認可(官報)。在任中、1939年(昭和14年)9月29日死去。69歳。 |
管長事務取扱 | (顕空隆明) | ?-1955 | 1939-1939 | 柴田隆明。1939年(昭和14年)10月4日管長事務取扱就任認可(官報)。 |
81 | 顕空隆明 | ?-1955 | 1939-? | 柴田隆明。自坊は融雲寺。1936年(昭和11年)6月12日から8月21日まで管長事務取扱就任認可(官報)。1939年(昭和14年)10月4日管長事務取扱就任認可(官報)。同年12月13日管長就任認可(官報)。1955年(昭和30年)1月30日死去。77歳。 |
82 | 軌空隆範 | 1885-1965 | 伊藤隆範。自坊は京都安養寺。三重県出身。1885年(明治18年)生。1965年(昭和40年)3月2日死去。伊藤天力。 | |
83 | 然空準良 | ?-1967 | 五十嵐準良。自坊は養福寺。1967年(昭和42年)9月16日死去。80歳。 | |
84 | 教空亮明 | ?-1986 | ?-1983 | 三輪亮明。1986年(昭和61年)5月15日死去。 |
85 | 英空儼雄 | ?-1994 | 1983-1988 | 久我儼雄。自坊は等善寺。1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)まで禅林寺法主。1994年(平成6年)2月6日死去。 |
86 | 鑁空観堂 | ?-2010 | 1899-1993 | 丹羽観堂。自坊は愛知長善寺。1899年(明治32年)から1993年(平成5年)まで禅林寺法主。2010年(平成22年)4月7日死去。93歳。 |
87 | 東空凖玄 | 1918-2007 | 1993-2000 | 森凖玄。自坊は岐阜光照寺。岐阜県出身。1918年(大正7年)生。11歳で出家。第二次世界大戦で従軍し戦犯となる。1947年(昭和22年)復員。1967年(昭和42年)宗学院講師。1977年(昭和52年)2月、立政寺貫主。1993年(平成5年)11月17日から2000年(平成12年)1月31日まで禅林寺法主。2007年(平成19年)2月11日死去。90歳。輪山東空。 |
88 | 徹空隆明 | 1933- | 2000-2005 | 五十嵐隆明。自坊は養福寺。1933年(昭和8年)生。龍谷大学文学部卒。宗務総長などを歴任。2000年(平成12年)から2005年(平成17年)まで禅林寺法主。同和園理事長。 |
89 | 修空善龍 | 1918-2012 | 2005-2010 | 小木曽善龍。自坊は京都香泉寺。1918年(大正7年)生。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)まで禅林寺法主。2012年(平成24年)2月16日死去。94歳。 |
90 | 恭空玄礼 | 1941- | 2010-2018 | 中西玄礼。自坊は姫路大覚寺。1941年(昭和16年)生。1963年(昭和38年)龍谷大学仏教学部仏教学科卒。1965年(昭和40年)大学院修了。1981年(昭和56年)大覚寺住職。2010年(平成22年)から2018年(平成30年)まで禅林寺法主。 |
91 | 儼昭 | 1950- | 2018-2023予定 | 久我儼昭。自坊は等善寺。1950年(昭和25年)生。1975年(昭和50年)龍谷大学大学院文学研究科修了。宗務総長・執事長を経て2018年(平成30年)6月1日禅林寺法主。 |
(稲村修道『禅林寺誌』(大正2)ほか)
歴代門跡
- 1真紹(797-873)
- 2宗叡(809-884)
- 3深覚(955-1043)
- 4深観(1001-1050):東大寺別当
- 5良深(1025-1077)
- 6永観(1033-1111):東大寺別当
- 7尊誉
- 8覚誉
- 9道智(1217-1269)
(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』) 良深、尊誉、覚誉は『禅林寺誌』に記載なし
歴代座主
- 真紹(797-873)
- 宗叡(809-884)
- 峰教():
- 禅安():
- 円性():
- 神行():
- 神予():
- 神隆():
- 円明():
- 寛忠(906-977):敦固親王第三王子。
- 深覚(955-1043)
- 深観(1001-1050):東大寺別当
- 良深(1025-1077):
- 覚任(1088-1152):般若寺別当。東寺三長者。
- 実意():
- 公祐():
- 範賢():
- 公深():
- 長厳(1152-1228)
- 能意():
- 教深():
- 実位():
- 公遍():
- 長能():
- 守恵():
- 道朝():
- 守恵():再任。
- 道耀(1234-1304):東寺長者。
- 守恵():再任。
- 益守():
(『石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第』[2]より)
画像
参考文献
- 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版