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禅林寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年3月11日 (月)
禅林寺(ぜんりんじ)は、京都府京都市左京区永観堂町にある、浄土宗西山派の本山寺院。浄土宗西山禅林寺派総本山。本尊は「見返り阿弥陀」として知られる阿弥陀如来。元は真言宗の門跡寺院で、大日如来を本尊としたが、証空が譲られて浄土宗西山派西谷流の拠点になったとされる。南都仏教と関わりが深く、東大寺関連旧跡。一時期は三論宗も盛んに学ばれた。古代の定額寺でもある。鎮守は若王子神社。通称の永観堂がよく知られる。無量寿院と号す。山号は聖衆来迎山。南に建てられた離宮禅林寺殿は後に南禅寺となった。(参考:同名寺院禅林寺_(同名))
目次 |
歴史
古代
元は真言宗寺院として始まった。 853年(仁寿3年)、空海の弟子の真紹が藤原関雄という人物の旧宅を購入して大日如来を祀って創建。 863年(貞観5年)9月6日、定額寺となる。この時の三代実録の記事によると、河内観心寺を移して禅林寺としたという。「禅林・観心両寺座主職相承次第」(東寺文書)という文書があり、観心寺と禅林寺は兼務されていたらしい。868年(貞観10年)、真紹は「禅林寺清規」15条を定め、宗叡に伝えた。 877年(元慶1年)、清和上皇の勅願で寺内に山城・円覚寺が創建され、禅林寺の伽藍も整えられた。 993年(正暦4年)火災で焼失。深覚が伽藍再建した。
1160年(永暦1年)、後白河上皇が熊野那智大社を分霊して若王子神社を創建し、禅林寺の鎮守となった。
石山寺と観心寺を末寺とした。 仁和寺側の記録では禅林寺は仁和寺の院家として扱われてる(仁和寺関連旧跡)。
中世
東大寺別当の永観(ようかん)が浄土教の拠点として中興。永観は塔頭東南院を創建し、日課一万遍の念仏を行なっていたといい、『禅林寺縁起』などに記された見返り阿弥陀の説話が著名である。1082年(永保2年)、永観が阿弥陀堂で行堂念仏していたところ(常行三昧と思われる)、阿弥陀仏が永観と共に行堂を始め、振り向いて「永観遅し」と諌めたという。首を左に振り向いた姿を表した異形の阿弥陀像がのちに本尊となる。永観堂(えいかんどう)という当寺の通称にその名を残している。静遍が法然の『選択本願念仏集』を批判しようと熟読したところ、返って自らの非を悟り改宗した。改宗のときに、すでに亡くなっていた法然を11世住職とし、自らは12世とした。永観も静遍も真言宗系の東大寺念仏別所である光明山寺に住したこともある。静遍が証空に譲り、証空が住した。その後、浄音が17世となったときに正式に真言宗から浄土宗(西山派)となったという。発展して、西山派西谷流の拠点となった。
1264年(文永1年)には亀山天皇が禅林寺の隣に離宮禅林寺殿を建て、南禅寺の起源となる。 室町時代には聖衆来迎院という堂を中心に当麻曼陀羅の信仰が盛んになった。 応永年間、後小松天皇生母の通陽門院が堂塔を修復。 1467年(応仁1年)9月18日、東岩倉の戦いで南禅寺などと共に焼失。
近世
応仁の乱で荒廃後、1497年(明応6年)法然を祀る御影堂や書院を再建。永正年間、方丈(釈迦堂)や境内の堂宇を廊でつなぐ臥龍廊が建てられた。1607年(慶長12年)、阿弥陀堂を再建。御影堂は1600年(慶長5年)再建ともいう(禅林寺正選歴代記)。 1573年(天正1年)、豊臣秀吉から寺領43石が寄進され、幕末まで維持した。
宏善や甫叔らといった歴代が皇室の帰依を受け、1572年(元亀3年)、香衣出世の寺と認められ、本山としての地位を確立した。
近代
1912年(大正1年)現在の御影堂を建立。1928年(昭和3年)には多宝塔を建立した。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)
伽藍
- 本堂:本尊は見返り阿弥陀如来(回顧阿弥陀如来)。嘉禎年間の建立という。四天王寺から当麻曼荼羅と共に移築したと伝える。南壇には十一面観音(永観の本地仏)、永観像(自作)、倍舎利塔(後奈良天皇寄進)、厄除地蔵(空海作)、地蔵尊(霊鑑寺宮寄進)、北壇には当麻曼荼羅、清和天皇像、中将姫像、、後門に釈迦、外陣に賓頭盧などを祀るという。阿弥陀堂。(禅林寺誌)
- 御影堂:本尊は法然像(自作)。左に善導像(唐朝将来という。「放光善導」と称す)、右に証空像を祀る。多くの位牌もある。1497年(明応6年)後土御門天皇が再建。1912年(大正1年)12月、再建。祖師堂、大殿ともいう。
- 釈迦堂:本尊は釈迦如来三尊像(快慶作)。永正年間に後柏原天皇が建立。歴代天皇や歴代将軍の位牌を祀るという。方丈。(禅林寺誌)
- 瑞紫殿:本尊は火除阿弥陀如来(空海作)。創建時に祀られた大日如来など五仏のうち、唯一残ったとされ、「火除けの阿弥陀」と呼ばれている。地蔵(源信作)、大黒天(最澄作)、阿弥陀如来、舎利塔、阿弥陀如来、太子誕生像、並河喜庵像(施主)なども祀る。伝授堂とも。1895年(明治28年)再建。(禅林寺誌)
- 講堂:1828年(文政11年)再建。(禅林寺誌)現存しない?
- 祖廟堂:法然の「梵字形大師心骨」を祀るという。証空が生涯供養していた。左に証空、右に浄音、阿弥陀如来坐像を祀る。1764年(明和1年)8月再建。1895年(明治28年)2月増築。(禅林寺誌)廃絶して代わりに多宝塔が建てられた?
- 茶所:旧伝法堂(禅林寺誌)
- 教会所:1834年(天保5年)5月建立。1895年(明治28年)北野祥光寺から移築。(禅林寺誌)
- 勧学院:1572年(元亀3年)9月、正親町天皇が綸旨を下して設置。再建。(禅林寺誌)
- 弁天堂:1866年(慶応2年)再建。(禅林寺誌)
- 鎮守:1497年(明応6年)創建。九社を祀る。熊野、日吉、赤山、八幡、大神宮、春日、北野、祇園、稲荷。(禅林寺誌)春日社とも呼ばれる。
- 古方丈:
- 開山堂:
- 多宝塔:
- 位牌堂:
- 画仙堂:
- 千仏洞:
- 寺務所:
- 宗務所:
- 聖峰閣:
- 清和天皇髪塔:治定外
- 後三条天皇骨塔:治定外
- 聖衆来迎院:廃絶。
他に浴室、総門、中門、庫裏、鶴寿台、永観堂会館、図書館がある。
子院
- 智福院:現存
- 帰命院:
- 真善院:
- 信行律院:浄土律の律院か
- 東南院:永観が創建。
- 薬王院:
- 松岳院:現存。松岳庵
- 花月庵:
- 井正庵:
- 円覚寺:宗叡が創建。現在は京都府京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町にある。
組織
歴代住職
- 古代は座主と呼ばれた。現在は法主と称す。現在は浄土宗西山禅林寺派管長を兼務する。
- 五十嵐隆明2018『京都永観堂禅林寺史』などに基づく。稲村修道1913『禅林寺誌』も参照。
- 江戸時代に54世霊空是堪が1752年(宝暦2年)に執筆した『禅林寺正選歴代記』が基になっている。他に『禅林寺歴代前記』、『禅林寺歴代後記』がある。
- 古代~中世の史料としては『石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第』[1]があるが別に掲げる。
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 真紹 | 797-873 | 空海の弟子。東寺二長者。真紹僧都。禅林寺僧都。石山僧都。『歴代前記』に1世。『歴代後記』に1世。 | |
2 | 宗叡 | 809-884 | 真紹の甥。真如法親王に随従して入唐。帰国。東大寺別当(??)。東寺長者。京都・円覚寺開山となる。宗叡僧正。禅林寺僧正。後入唐僧正。『歴代前記』に2世。『歴代後記』に2世。 | |
3 | 真如法親王 | 799-865? | 平城天皇皇子。インドを目指し入唐し行方不明になる。実際には住職になっていないが真紹、宗叡に縁のある人物であることから偲んで一世に数えたという。『歴代前記』に歴代外で記載。『歴代後記』になし。 | |
4 | 安載 | 生没年不詳 | 安載内供。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
(寛空) | 884-972 | 寛空僧正。『歴代前記』に3世。『歴代後記』になし。 | ||
(寛忠) | 906-977 | 敦固親王(宇多天皇皇子)の王子。寛忠僧正。『歴代前記』に4世。『歴代後記』になし。 | ||
(元果) | 914-995 | 元果僧都。短期間のため一世とせず。「元杲」か。『歴代前記』に5世。『歴代後記』になし。 | ||
(明観) | 953-1021 | 佐忠王(醍醐天皇皇子)の王子。醍醐寺11世。明観僧正。(略歴は醍醐寺#組織を参照)『歴代前記』に6世。『歴代後記』になし。 | ||
5 | 深覚 | 955-1043 | 勧修寺長吏。東大寺別当60世・62世・68世。東寺長者。『歴代前記』では「保覚」。(略歴は勧修寺#組織を参照)『歴代前記』に7世。『歴代後記』に3世。 | |
6 | 深観 | 1001-1050 | 花山天皇第4皇子。東大寺別当73世。東寺長者。金剛峰寺座主。深観僧都。坐禅院僧都。宮大僧都。(略歴は東大寺#組織を参照)『歴代前記』に8世。『歴代後記』に4世。 | |
(覚源) | 1000-1065 | 花山天皇皇子。東大寺別当77世。覚源僧正。(略歴は東大寺#組織を参照)『歴代前記』に9世。『歴代後記』になし。 | ||
(義範) | 1023-1088 | 性信の弟子。『歴代前記』に10世。『歴代後記』になし。 | ||
7 | 永観 | 1032-1111 | 禅林寺中興。三論宗の僧侶。長座念仏して舎利の倍増を得る。念仏行道に励むとき、阿弥陀像が先を走り、振り向き「永観遅し」と言ったという。永観堂の名の由来。永観律師。以降、浄土教の寺院となる。東大寺別当83世。(略歴は永観旧跡を参照)『歴代前記』に11世。『歴代後記』に5世。 | |
(勝覚) | 1058-1129 | 東寺長者。醍醐寺座主。東大寺別当。広隆寺別当。『歴代前記』に12世。『歴代後記』になし。 | ||
8 | 覚叡 | 生没年不詳 | 覚叡阿闍梨。『歴代前記』に13世。『歴代後記』になし。 | |
(元海) | 1094-1157 | 東寺長者。醍醐寺座主。『歴代前記』に14世。『歴代後記』になし。 | ||
(良深) | 1025-1077 | 東寺長者。昭登親王王子。深覚、深観の弟子。『歴代前記』に15世。『歴代後記』に7世。 | ||
(尊誉) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に16世。『歴代後記』に8世。 | ||
9 | 永恵 | 生没年不詳 | 永恵上人。『歴代前記』になし。『歴代後記』に11世。 | |
10 | 珍海 | 1091-1152 | 照登親王(花山天皇皇孫)の王子。あるいは仏画土佐派始祖の藤原基光の子。仏画に長けた。珍海已講。禅林寺僧都。『歴代前記』になし。『歴代後記』に6世。 | |
(覚誉) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に17世。『歴代後記』に9世。 | ||
(勝賢) | 1138-1196 | 東寺長者。醍醐寺座主。東大寺別当。信西の子。『歴代前記』に18世。『歴代後記』になし。 | ||
11 | 法然 | 1133-1212 | 浄土宗開祖。実際には住職になっていないが、浄土宗に帰したのち一世に数える。諡号は円光大師。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
12 | 静遍 | 1166-1224 | 1166年(仁安1年)生。仁和寺出身の真言僧だったが、禅林寺の寺伝では法然の著書を読み帰依したという。源頼朝の帰依を受けたという。静遍僧都。1224年(元仁1年)4月20日死去。『歴代前記』に20世。『歴代後記』に12世。 | |
13 | 証空 | 1177-1247 | 浄土宗西山流の開祖。1177年(治承1年)生。1247年(宝治1年)11月26日死去。西山国師。『歴代前記』になし。『歴代後記』に13世。 | |
14 | 道誉 | 1179-1240 | 天台宗の僧侶。藤原兼房の子。1179年(治承3年)生。園城寺にいた。禅林寺僧正。道誉僧正。1240年(仁治1年)9月5日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
15 | 道智 | 1217-1269 | 天台宗の僧侶。摂政九条道家の子。1217年(建保5年)生。園城寺長吏。死後、その霊が怪異を起こしたため、近くに離宮禅林寺殿を建てた亀山天皇が慰めるために無関普門を招いて堂宇を設けたのが南禅寺の始まりという。現在、南禅寺の鎮守神として塔頭最勝院に祀られている。道智僧正。狛僧正。駒僧正。御霊神。1269年(文永6年)3月3日死去。『歴代前記』に19世。『歴代後記』に10世。 | |
16 | 永空正覚 | ?-1259 | 1259年(正元1年)9月2日死去。『歴代前記』に25世。『歴代後記』に19世。 | |
17 | 法興浄音 | 1201-1271 | 西谷流の開祖。証空の弟子。1201年(建仁1年)生。仁和寺の西側に京都・光明寺(西谷光明寺、新光明寺)を創建。1271年(文永8年)5月22日死去。智空。『歴代前記』になし。『歴代後記』に14世。 | |
18 | 朝阿観智 | ?-1313 | 西谷光明寺2世。1313年(正和2年)6月12日死去。光空。『歴代前記』になし。『歴代後記』に15世。 | |
19 | 覚融行観 | 1241-1325 | 西谷光明寺3世。1241年(仁治2年)生。観智の弟子。関東に布教に進出し、武蔵・光明寺(鵜木光明寺)を創建。西山派の教学を大成。1325年(正中2年)6月9日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』に16世。 | |
20 | 覚願 | 生没年不詳 | 『歴代前記』に31世。『歴代後記』に20世。 | |
21 | 覚生 | ?-1271 | 1271年(文永8年)6月9日死去。『歴代前記』に21世。『歴代後記』になし。 | |
(道範) | 1178?1252 | 金剛峰寺執行。静遍に学ぶ。『歴代前記』に22世。『歴代後記』になし。 | ||
(成賢) | 1162?1231 | 醍醐寺座主。東寺三長者。勝賢に師事。『歴代前記』に23世。『歴代後記』になし。 | ||
(道教) | 1200?1236 | 成賢に師事。『歴代前記』に24世。『歴代後記』になし。 | ||
(憲深) | 1192?1263 | 醍醐寺座主。成賢に師事。『歴代前記』に26世。『歴代後記』になし。 | ||
(実深) | 1206?1274/77 | 醍醐寺座主。東寺三長者。成賢、憲深に師事。『歴代前記』に27世。『歴代後記』になし。 | ||
(実勝) | 1241?1291 | 醍醐寺座主。親快に師事。『歴代前記』に28世。『歴代後記』になし。 | ||
(頼瑜) | 1226?1304 | 大伝法院学頭。実勝に師事。『歴代前記』に29世。『歴代後記』になし。 | ||
(聖雲親王) | 1271-1314 | 醍醐寺座主。亀山天皇皇子。実勝に師事。『歴代前記』に30世。『歴代後記』になし。 | ||
22 | 観意 | ?-1347 | 1347年(正平2年/貞和3年)10月31日死去。『歴代前記』に32世。『歴代後記』になし。 | |
(聖尊親王) | 1304?1370 | 醍醐寺座主。後二条天皇の皇子。賢助に師事。聖尊法親王。『歴代前記』に33世。『歴代後記』になし。 | ||
(弘顕) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に34世。『歴代後記』になし。 | ||
(広済) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に35世。『歴代後記』になし。 | ||
(広鑁) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に36世。『歴代後記』になし。 | ||
(広喜) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に37世。『歴代後記』になし。 | ||
(円慈) | 生没年不詳 | 般舟院開山の恵篤善空か。1412-1492 『歴代前記』に38世。『歴代後記』になし。 | ||
23 | 観教 | ?-1389 | 行観の弟子。鵜木光明寺から晋山。1389年(元中6年/康応1年)4月20日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』に17世。 | |
24 | 道覚浄弁 | ?-1395 | 鵜木光明寺から晋山。1395年(応永2年)8月15日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
25 | 識阿空寂 | ?-1406 | 上野国に進出し、吾妻・善導寺を創建。1406年(応永13年)12月10日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』に18世。 | |
26 | 宏空円光 | ?-1420 | 吾妻善導寺2世。1420年(応永27年)11月7日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
27 | 光融妙静 | ?-1428 | 「善導寺を創し」(『禅林寺誌』)とあるが、吾妻善導寺のことか。1428年(正長1年)2月29日死去(3月29日死去とも)。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
28 | 空〓召運 | ?-1463 | 尾張・曼陀羅寺開山天真乗運の弟子。曼陀羅寺2世。尾張常念寺を創建。1463年(寛正4年)4月14日死去。(〓は瑞のつくり+しんにょう )『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
29 | 在空栄運 | ?-1472 | 天真乗運の弟子。二尊院の恵篤善空にも師事。1472年(文明4年)5月8日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
30 | 曉堂妙諫 | ?-1491 | 1491年(延徳3年)2月29日死去。『歴代前記』になし。『歴代後記』になし。 | |
31 | 撮堂賢立 | ?-1488 | 吾妻善導寺から晋山。1488年(長享2年)7月13日死去。『歴代前記』に39世。『歴代後記』に21世。 | |
32 | 天承祐音 | ?-1505 | 尾張曼陀羅寺から晋山。「永承祐音」は誤りか1505年(永正2年)9月22日死去。『歴代前記』に40世。『歴代後記』に22世。 | |
33 | 一冲融舜 | ?-1523 | 尾道宝土寺から晋山。「一沖融舜」1523年(大永3年)11月18日死去(1524年(大永4年)とも)。『歴代前記』に41世。『歴代後記』に23世。 | |
34 | 舜叔宏善 | ?-1557 | 伽藍を復興。『禅林寺縁起』を作成。粟生光明寺18世を兼任。1557年(弘治3年)7月23日死去。『歴代前記』に42世。『歴代後記』に24世。 | |
35 | 実空顕貞 | ?-1564 | 京都善長寺から晋山。1564年(永禄7年)7月13日死去。『歴代前記』に43世。『歴代後記』に25世。 | |
(明空真鏡) | ?-1580 | 1580年(天正8年)死去。『歴代前記』に44世。『歴代後記』に27世。 | ||
(超月幽隆) | 生没年不詳 | 『歴代前記』に45世。『歴代後記』に26世。 | ||
36 | 智空甫叔 | ?-1586 | 紀伊・総持寺から晋山。実父が建てた醍醐融雲寺の開山となる。引退しようとした時、正親町上皇が綸旨を下して留めたといい、「御留の綸旨」と言って現存するという。弟子に安楽庵策伝がいる。1586年(天正14年)6月2日死去。『歴代前記』に46世。『歴代後記』に28世。 | |
(沢良) | 生没年不詳 | 祐福寺12世の沢良教雲か。『歴代前記』に47世。『歴代後記』に29世。 | ||
37 | 果空俊式' | ?-1623 | 紀伊総持寺から晋山。徳川家康と二条城で面会し、当流総本寺と認められ、西山派諸法度を受けたという。本堂、御影堂などを再建。「杲空俊弌」1623年(元和9年)9月2日死去。『歴代前記』に48世。『歴代後記』に30世。 | |
38 | 頂空寿仙 | ?-1618 | 京都万年寺を創建。1618年(元和4年)2月15日死去。『歴代前記』に49世。『歴代後記』に31世。 | |
(諫空舜有) | 生没年不詳 | 桑名浄土寺4世。『歴代前記』に50世。『歴代後記』に32世。 | ||
(空眼行清) | 生没年不詳 | 紀伊総持寺14世。善導寺12世。『歴代前記』に51世。『歴代後記』に33世。 | ||
(道空俊長) | 生没年不詳 | 粟生光明寺30世の道空純長(?-1638)か。『歴代前記』になし。『歴代後記』に34世。 | ||
(快空祈践) | 生没年不詳 | 名古屋西光院6世か。『歴代前記』になし。『歴代後記』に35世。 | ||
39 | 行空龍道 | ?-1635 | 越前・安養寺から晋山。1635年(寛永12年)5月3日死去。『歴代前記』に52世。『歴代後記』に36世。 | |
(澄空寿全) | 生没年不詳 | 頂空寿仙と同一か。奈良称名寺に住す。智空甫叔に師事。(日本仏家人名辞書)『歴代前記』になし。『歴代後記』に37世。 | ||
(泰空政山) | 生没年不詳 | 伊勢盛広院に住す。『歴代前記』になし。『歴代後記』に38世。 | ||
40 | 真空久円 | ?-1645 | 堺・十万寺(北十万)に住し、紀伊総持寺を経て晋山。光林寺(京都か)に引退1645年(正保2年)4月6日死去。『歴代前記』に53世。『歴代後記』に39世。 | |
41 | 月空清感 | ?-1599 | 安芸・誓願寺から晋山。1599年(慶長4年)1月8日死去。『歴代前記』に54世。『歴代後記』に40世。 | |
42 | 積峰慶善 | ?-1658 | 桑名・浄土寺から晋山。1658年(万治1年)2月22日死去。『歴代前記』に55世。『歴代後記』に41世。 | |
43 | 圭道秦〓 | ?-1665 | 三河・崇福寺から晋山。紫衣参内の綸旨を得る。本堂再興。本堂と御影堂の間の廊下を作る。江戸で客死。〓は王+賛。「圭道泰〓」。1665年(寛文5年)6月10日死去。『歴代前記』に56世。『歴代後記』に42世。 | |
44 | 養空霊徹 | ?-1679 | 越前・長寿院(現在、明石に移転)から晋山。常紫衣の許可を得る。1679年(延宝7年)1月13日死去。『歴代前記』に57世。『歴代後記』に43世。 | |
45 | 寰空貞凖 | ?-1685 | 桑名浄土寺から尾張曼陀羅寺に転じたのち晋山。1685年(貞享2年)3月22日死去。『歴代後記』に44世。 | |
46 | 是空回隆 | ?-1704 | 伊勢養草寺、三河・法蔵寺を経て晋山。引退して摂津浄橋寺に住す。1704年(宝永1年)1月3日死去。『歴代後記』に45世。 | |
47 | 太空湖南 | ?-1697 | 淡路日光寺から晋山。江戸で1697年(元禄10年)10月死去。『歴代後記』に46世。 | |
48 | 天空助三 | ?-1710 | 大津九品寺、桑名浄土寺を歴任して当寺に晋山。本堂再興。1710年(宝永7年)12月16日死去。『歴代後記』に47世。 | |
49 | 三空普及 | ?-1720 | 播磨如来寺から晋山。信行庵(不詳)に隠居。1720年(享保5年)11月4日死去。『歴代後記』に48世。 | |
50 | 浣谿炬範 | ?-1725 | 熱田正覚寺、曼陀羅寺を経て晋山。醍醐一音寺に隠居。1725年(享保10年)7月24日死去。 | |
51 | 乙空恵海 | ?-1724 | 美濃慈恩寺、伊勢養草寺を経て晋山。1724年(享保9年)8月6日死去。 | |
52 | 台空阿三 | ?-1724 | 京都休務寺、播磨法界寺を歴任して晋山。1724年(享保9年)9月24日死去。 | |
53 | 演空良義 | ?-1738 | 桑名薬師寺、高砂十輪寺を経て晋山。御影堂を修復。延寿寺に退隠。1738年(元文3年)11月29日死去。 | |
54 | 霊空是堪 | 1678-1761 | 1678年(延宝6年)生。伊勢大林寺、桑名浄土寺を経て晋山。信行庵(不詳)に隠居。1752年(宝暦2年)『禅林寺正選歴代記』を執筆し、現在の住職歴代の基礎となる。1761年(宝暦11年)7月22日死去。 | |
55 | 英空灌龍 | ?-1754 | 曼陀羅寺から晋山。1754年(宝暦4年)6月26日死去。 | |
56 | 瑞空愿亮 | ?-1764 | 播磨利生寺から晋山。書に優れたという。1764年(明和1年)3月18日死去。 | |
57 | 貫空巨道 | ?-1768 | 美濃立政寺から晋山。1768年(明和5年)7月28日死去。 | |
58 | 盤空有倫 | ?-1780 | 淡路日光寺から晋山。1780年(安永9年)10月18日死去。 | |
59 | 霊空万瀏 | ?-1787 | 播磨利生寺から晋山。仏陀寺で1787年(天明7年)10月4日死去。 | |
60 | 攀空泰凖 | ?-1795 | 1795年(寛政7年)11月27日死去。 | |
61 | 綜空練耕 | ?-1810 | 祐福寺から晋山。1810年(文化7年)5月24日死去。 | |
62 | 澹空旭応 | 1740-1822? | 1740年(元文5年)生。書家・画家としても知られる。岳陽と号す。1822年(文政5年)10月10日山科来迎寺で死去?。83歳。著書に『往生論註疏』。1821年(文政4年)3月20日死去? | |
63 | 誠空義諦 | ?-1832 | 利生寺から晋山。播磨で死去。1832年(天保3年)1月3日死去。 | |
64 | 実空俊瑞 | ?-1841 | 正覚寺から晋山。専求寺で死去。1841年(天保12年)5月17日死去。 | |
65 | 水空洗懐 | ?-1841 | 越前安養寺から晋山。1841年(天保12年)9月6日死去。 | |
66 | 観空照〓 | ?-1848 | 十輪寺から晋山。〓は王+(隣のつくり)1848年(嘉永1年)7月25日死去。 | |
67 | 仁空観識 | ?-1855 | 祐福寺から晋山。祥光寺に退隠。尾張極楽寺で1855年(安政2年)9月22日死去。 | |
68 | 恬空泰然 | ?-1861 | 越前安養寺から晋山。1861年(文久1年)11月26日死去。 | |
69 | 万空霊円 | ?-1862 | 伊勢大林寺から晋山。1862年(文久2年)12月22日死去。 | |
70 | 淵空旭泉 | ?-1866 | 曼陀羅寺から晋山。1866年(慶応2年)5月17日死去。 | |
71 | 徹空俊玉 | ?-1881 | 東山天華。近代日本で最初の公立精神病院「京都癲狂院」を建てたという。西福寺で1881年(明治14年)7月22日死去。 | |
72 | 亀空観鏡 | ?-1889 | 佐幹観鏡。曼陀羅寺から晋山。1889年(明治22年)5月23日死去。 | |
73 | 洪空基範 | ?-1885 | 柴田基範。初の公選。美濃立政寺から晋山。1885年(明治18年)6月7日死去。著書『当麻曼荼羅講説』[2]。 | |
74 | 恭空儼敬 | ?-1891 | 吉谷恭空。美濃立政寺から晋山。1891年(明治24年)4月28日死去。 | |
75 | 範空亮弁 | ?-1907 | 清水亮弁。美濃立政寺から晋山。1907年(明治40年)9月26日死去。 | |
76 | 超空亮厳 | 1852-1920 | 1908-? | 近藤亮厳。自坊は兵庫阿弥陀寺。1852年(嘉永5年)生。1908年(明治41年)禅林寺法主。御影堂再建。法然700回大遠忌執行。1920年(大正9年)9月1日死去。耆山と号す。著書『耆山語録』『法のおさらえ』。 |
管長代務 | 1848-1924 | 1920-1920 | 青井俊法。1920年(大正9年)9月4日管長代務者就任認可(官報)。 | |
77 | 才空俊法 | 1848-1924 | 1920-? | 青井俊法。自坊は金沢光覚寺。1848年(嘉永1年)生。1920年(大正9年)9月4日管長代務者就任認可(官報)。同年11月8日管長就任認可(官報)。のち辞職。1924年(大正13年)6月10日死去。 |
管長事務取扱 | 生没年不詳 | 1924-1924 | 酒見真功。1924年(大正13年)6月6日管長事務取扱就任認可(官報)。のち辞職。 | |
78 | 大空圭学 | ?-1933 | 1924-? | 祖父江圭学。1924年(大正13年)9月29日管長就任認可(官報)。1933年(昭和8年)3月31日死去。 |
管長事務取扱 | 生没年不詳 | 1929-1929 | 藤原齢教。1929年(昭和4年)11月6日管長事務取扱就任認可(官報)。 | |
79 | 照空玄光 | ?-1938 | 1929-? | 大西玄光。自坊は下京区専求寺。1929年(昭和4年)12月28日管長就任認可(官報)。のち辞職。1938年(昭和13年)3月22日死去。 |
管長事務取扱 | (顕空隆明) | ?-1955 | 1936-1936 | 柴田隆明。1936年(昭和11年)6月12日管長事務取扱就任認可(官報)。 |
80 | 普空朴聞 | 1871-1939 | 1936-1939 | 淵江朴聞。広島県出身。1871年(明治4年)生。宗学本校卒。1936年(昭和11年)8月21日管長就任認可(官報)。在任中、1939年(昭和14年)9月29日死去。69歳。 |
管長事務取扱 | (顕空隆明) | ?-1955 | 1939-1939 | 柴田隆明。1939年(昭和14年)10月4日管長事務取扱就任認可(官報)。 |
81 | 顕空隆明 | ?-1955 | 1939-? | 柴田隆明。自坊は融雲寺。1936年(昭和11年)6月12日から8月21日まで管長事務取扱就任認可(官報)。1939年(昭和14年)10月4日管長事務取扱就任認可(官報)。同年12月13日管長就任認可(官報)。1955年(昭和30年)1月30日死去。77歳。 |
82 | 軌空隆範 | 1885-1965 | 伊藤隆範。自坊は京都安養寺。三重県出身。1885年(明治18年)生。1965年(昭和40年)3月2日死去。伊藤天力。 | |
83 | 然空準良 | ?-1967 | 五十嵐準良。自坊は養福寺。1967年(昭和42年)9月16日死去。80歳。 | |
84 | 教空亮明 | ?-1986 | ?-1983 | 三輪亮明。1986年(昭和61年)5月15日死去。 |
85 | 英空儼雄 | ?-1994 | 1983-1988 | 久我儼雄。自坊は等善寺。1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)まで禅林寺法主。1994年(平成6年)2月6日死去。 |
86 | 鑁空観堂 | ?-2010 | 1899-1993 | 丹羽観堂。自坊は愛知長善寺。1899年(明治32年)から1993年(平成5年)まで禅林寺法主。2010年(平成22年)4月7日死去。93歳。 |
87 | 東空凖玄 | 1918-2007 | 1993-2000 | 森凖玄。自坊は岐阜光照寺。岐阜県出身。1918年(大正7年)生。11歳で出家。第二次世界大戦で従軍し戦犯となる。1947年(昭和22年)復員。1967年(昭和42年)宗学院講師。1977年(昭和52年)2月、立政寺貫主。1993年(平成5年)11月17日から2000年(平成12年)1月31日まで禅林寺法主。2007年(平成19年)2月11日死去。90歳。輪山東空。 |
88 | 徹空隆明 | 1933- | 2000-2005 | 五十嵐隆明。自坊は養福寺。1933年(昭和8年)生。龍谷大学文学部卒。宗務総長などを歴任。2000年(平成12年)から2005年(平成17年)まで禅林寺法主。同和園理事長。 |
89 | 修空善龍 | 1918-2012 | 2005-2010 | 小木曽善龍。自坊は京都香泉寺。1918年(大正7年)生。2005年(平成17年)から2010年(平成22年)まで禅林寺法主。2012年(平成24年)2月16日死去。94歳。 |
90 | 恭空玄礼 | 1941- | 2010-2018 | 中西玄礼。自坊は姫路大覚寺。1941年(昭和16年)生。1963年(昭和38年)龍谷大学仏教学部仏教学科卒。1965年(昭和40年)大学院修了。1981年(昭和56年)大覚寺住職。2010年(平成22年)から2018年(平成30年)まで禅林寺法主。 |
91 | 儼昭 | 1950- | 2018-2023予定 | 久我儼昭。自坊は等善寺。1950年(昭和25年)生。1975年(昭和50年)龍谷大学大学院文学研究科修了。宗務総長・執事長を経て2018年(平成30年)6月1日禅林寺法主。 |
歴代座主
- 古代の真言宗時代の禅林寺座主歴代。
- 『石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第』[3]より
- 石山寺・観心寺を兼務していたらしい。
- 『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』掲載の「禅林寺門跡一覧」は無視した。
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 真紹 | 797-873 | ||
2 | 宗叡 | 809-884 | ||
3 | 峰教 | 宗叡の弟子。898年(昌泰1年)東寺三長者。908年(延喜8年)4月29日死去。75歳。 | ||
4 | 禅安 | 宗叡の弟子。914年(延喜14年)3月3日死去。 | ||
5 | 円性 | 峰教の弟子。 | ||
6 | 神行 | 峰教の弟子。 | ||
7 | 神予 | |||
8 | 神隆 | |||
9 | 円明 | |||
10 | 寛忠 | 906-977 | 敦固親王第三王子。石山寺座主4世。 | |
11 | 深覚 | 955-1043 | 石山寺5世。 | |
12 | 深観 | 1001-1050 | 東大寺別当。石山寺6世。 | |
13 | 良深 | 1025-1077 | 石山寺7世。 | |
14 | 覚任 | 1088-1152 | 般若寺別当。東寺三長者。石山寺8世?。 | |
15 | 実意 | 石山寺9世。 | ||
16 | 公祐 | 石山寺10世。 | ||
17 | 範賢 | 石山寺11世。 | ||
18 | 公深 | 石山寺12世。 | ||
19 | 長厳 | 1152-1228 | 東寺教令院を創建か。石山寺座主(歴代外?)。承久の乱で配流。 | |
20 | 能意 | |||
21 | 教深 | 石山寺13世。 | ||
22 | 実位 | 石山寺14世。 | ||
23 | 公遍 | 石山寺15世。 | ||
24 | 長能 | |||
25 | 守恵 | 生没年不詳 | 東寺長者。石山寺16世。 | |
26 | 道朝 | 石山寺座主(歴代外?) | ||
27 | 守恵 | 生没年不詳 | 再任。 | |
28 | 道耀 | 1234-1304 | 東寺長者。 | |
29 | 守恵 | 生没年不詳 | 再任。 | |
30 | 益守 | 生没年不詳 | 東寺長者。石山寺17世。 |
画像
資料
- 『禅林寺誌』[4]
参考文献
- 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版