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叡尊旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2017年7月20日 (木) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
叡尊(えいそん)(1201-1290)は、真言律宗西大寺流の開祖。大和出身。興福寺の学侶慶玄の子。醍醐寺叡賢に師事。東大寺で自誓受戒。現在の真言律宗西大寺派では宗祖と呼ばれる。思円房。興正菩薩。叡尊上人、思円上人ともいう。
目次 |
一覧
- 大和・浄福寺:生誕地にある寺院
- 長岳寺
- 西大寺八幡神社
- 宝生護国院
- 石落神社
- 東大寺戒禅院
- 東大寺大仏殿
- 東大寺羂索院
- 興福寺
- 法隆寺
- 法華寺
- 白毫寺
- 元興寺
- 不空院
- 般若寺
- 布施寺
- 最福寺
- 仙〓寺
- 大和極楽寺
- 額安寺
- 高山八幡神社
- 三学院
- 壺阪寺
- 安倍文殊院
- 大御輪寺
- 長谷寺
- 大和・長福寺
- 大蔵寺
- 金峰山寺
- 宇陀極楽寺
- 安位寺
- 北大和寺
- 西大寺
- 住吉大社
- 四天王寺
- 家原寺
- 長承寺
- 大鳥神社
- 信太神社
- 荘厳浄土寺
- [[久米田寺{]
- 和泉地蔵堂
- 真福寺
- 叡福寺
- 道明寺
- 西琳寺
- 誉田八幡宮
- 八尾釈迦堂
- 枚岡神社
- 神栄寺
- 忍頂寺
- 勝尾寺
- 清浄光院
- 教興寺
年譜
年譜
- 1201年(建仁1年)1歳
- 5月:大和国添上郡箕田(奈良県大和郡山市白土)に生誕。
- 1211年(建暦1年)11歳
- 醍醐寺に入り、叡賢に師事。
- 1212年(建暦2年)12歳
- (忍性、誕生)
- 1217年(建保5年)17歳
- 叡賢のもとで剃髪。
- 1223年(貞応2年)23歳
- 故郷に帰る。
- 1224年(元仁1年)24歳
- 高野山に登る。真経に学ぶ。
- 1225年(嘉禄1年)25歳
- 1226年(嘉禄2年)26歳
- 印可を受ける。
- 1235年(嘉禎1年)35歳
- 1月16日:尊円の招きで西大寺宝塔院に持斎僧として入る。
- 1236年(嘉禎2年)36歳
- 1238年(暦仁1年)
- 西大寺に戻る。八角五重石塔を建立。
- 8月8日:西大寺復興を誓う
- 10月8日:童子が剃髪。叡性と号す。童子出家の最初。
- 10月15日:僧食を始める
- 10月30日:布薩を始める
- 1239年(延応1年)39歳
- 1240年(仁治1年)40歳
- 3月6日:忍性らに八斎戒。
- 1241年(仁治2年)41歳
- 曉に霊夢。春日大明神が大変喜んだという。
- 1242年(仁治3年)42歳
- 1244年(寛元2年)44歳
- 1245年(寛元3年)45歳
- 1246年(寛元4年)46歳
- 1247年(宝治1年)47歳
- 4月:僧堂を建てる。
- 8月18日:愛染明王像(現存)を造立して祀る。
- 1249年(建長1年)49歳
- 3月13日:叡尊ら、嵯峨清凉寺へ。模刻のため。14~20日にわたり清凉寺で供養を行う。そのかたわらで仏師らが模刻し、4月3日には完成した。
- 5月5日:清凉寺模刻釈迦仏の開眼法要。西大寺本堂(真言堂)本尊となる。施主には忍性の実父もいた。
- 5月20日:覚盛死去。
- 1250年(建長2年)50歳
- 6月21日:実兄の禅心が死去。
- 1251年(建長3年)51歳
- 河内・安楽寺で授戒
- 2月30日:堯尊に文殊、羅漢像などを描かせる。
- 1252年(建長4年)52歳
- 忍性、鎌倉へ。
- 1253年(建長5年)53歳
- 11月9日:実父慶玄が死去。後、父の邸宅を敬田寺とした。
- 1254年(建長6年)54歳
- 1255年(建長7年)55歳
- 般若寺文殊像制作に着手。
- 1256年(康元1年)56歳
- 法隆寺東院で。
- 1257年(正嘉1年)57歳
- 1258年(正嘉2年)58歳
- 両界曼荼羅に開眼法要。
- 1259年(正元1年)59歳
- 忍性、鎌倉で北条重時の鎌倉・極楽寺を復興。以後、忍性は幕府幹部に接近。
- 1261年(弘長1年)61歳
- 1262年(弘長2年)62歳
- 1264年(文永1年)64歳
- 9月4日:光明真言会を初めて行う。真言律宗西大寺派の最重要行事となる。
- 1266年(文永3年)66歳
- 法華寺
- いちいの極楽寺
- 1267年(文永4年)67歳
- 4月10日:般若寺に完成目前の文殊菩薩像を納める。大般若経の転読。
- 4月22日:般若寺文殊菩薩像完成。叡尊が授戒した人の名を納める。
- 7月25日:般若寺の文殊菩薩像開眼法要。28日まで。(般若寺の復興が成る)
- 1269年(文永6年)69歳
- 3月11日:般若寺で生身文殊供養の無遮大会。3万人集まるという。
- 8月6日:京都堀川殿で唐招提寺仏舎利を感得。
- 仏舎利塔建立を発願
- 1270年(文永7年)70歳
- 教興寺に参詣
- 金剛舎利塔を建立。西大寺塔院に安置
- 1271年(文永8年)71歳
- 2月6日:仏舎利供養
- 1273年(文永10年)73歳
- 初の伊勢神宮参拝。大般若経転読。
- 1274年(文永11年)74歳
- 8月:石清水八幡宮で放生会。
- 10月:文永の役始まる。
- 10月29日:勅命で四天王寺で仁王会。亀山天皇行幸?
- 1275年(建治1年)75歳
- 1277年(建治3年)77歳
- 儀軌通りの仁王会を始める。
- 1278年(弘安1年)
- 2月9日:宝生護国院の斧始。
- 1279年(弘安2年)79歳
- 9月:(北条時宗は元の使者を殺害)
- 1280年(弘安3年)80歳
- 6月26日:西室(現在の愛染堂の場所にあった)を新築し移住。同時に叡尊寿像(現存)も作られる。
- 伊勢神宮、参詣。
- 1281年(弘安4年)81歳
- 1月15日:亀山上皇の命で石清水八幡宮で祈願。
- 1月16日:山上で『梵網経』。
- 1月20日:『最勝王経』転読。
- 弘安の役
- 7月12日:亀山上皇が西大寺西室に行幸。
- 7月26日:勅命で石清水八幡宮で祈祷。
- 閏7月7日:祈祷終わる。9日に敵船壊滅の報告。
- 1283年(弘安6年)83歳
- 2月17日:東塔の像の修理
- 2月18日:宝生護国院の上棟式。
- 12月10日:亀山上皇、西大寺宝生護国院に行幸。一切経転読、宇治橋網代廃止、仙洞御所での講義を懇請
- 1284年(弘安7年)84歳
- 1285年(弘安8年)85歳
- 1286年(弘安9年)86歳
- 1288年(正応1年)88歳
- 海龍王寺修復
- 1289年(正応2年)89歳
- 1290年(正応3年)90歳
- 8月25日:西大寺西室で死去。生涯に9万7710人に菩薩戒を授けた(『興正菩薩行実年譜』)。
- 8月27日:葬儀。西大寺近くに葬る。墓所には体性院が設けられ、西大寺奥之院となる。
死後
- 1300年(正安2年)7月4日:亀山上皇、院宣で「興正菩薩」号を下賜。
- 1300年(正安2年)閏7月3日:後伏見天皇、綸旨で「興正菩薩」号を下賜。
- 1302年(乾元1年):13回忌。文殊菩薩五尊像(現存)を造立。
- 1688年(元禄1年)、臨済僧の高泉性〓(1633-1695、宇治・万福寺住職)、「南都西大寺睿尊伝」を含む『東国高僧伝』を編纂、刊行。
- 1689年(元禄2年):近江・安養寺中興の戒山慧堅、「南都西大寺興正菩薩伝」を含む『律苑僧宝伝』を刊行。
- 1702年(元禄15年):臨済宗の卍元師蛮、「和州西大寺沙門叡尊伝」を含む『本朝高僧伝』を編纂。
- 元禄年間:浄住寺慈光が『西大勅謚興正菩薩行実年譜』を編纂。
- 1819年(文政2年):この年までに『群書類従』の「興正菩薩伝」が刊行される。
- 1990年(平成2年):西大寺、700年遠忌法要を執行。
伝記
- 『金剛仏子叡尊感身学正記』(『学正記』):1286年(弘安9年)編纂。叡尊が86歳の時に自ら編纂した。内容は極めて正確で、伝記にありがちな誇張もないという。西大寺に最古の写本(1359年(正平14年/延文4年))が伝わっている。奈良国立文化財研究所編1956『西大寺叡尊伝記集成』大谷出版社、長谷川誠編1990『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記(読み下し・口語訳・影印本)』西大寺、細川涼一訳注1999『感身学正記1』平凡社東洋文庫664(続刊未刊)に所収。また松尾剛次研究室ウェブサイトに全文が掲載されている[1]。
- 「関東往還記」:1262年(弘長2年)の成立。叡尊の鎌倉下向について随行した弟子性海(1235-1290頃)が記した日記。原本は現存しない。元来は金沢文庫にあった写本が前田家を経て尊経閣文庫に伝えられている。まとまった唯一の伝本。一部のみ残存し、前後を欠いている。1262年(弘長2年)2月5日~7月30日を収録。北条時頼や実時との交渉が記録されている。鎌倉で叡尊、忍性らが武士や庶民に授戒したり、法要を行ったり、病者や貧困者を救済した活動が記される。国書刊行会編1911『史籍雑纂 第1』、関靖編1934『校訂増補 関東往還記』便利堂、『西大寺叡尊伝記集成』、細川涼一訳注2011『関東往還記』平凡社東洋文庫803に所収。
- 「関東往還前記」:「関東往還記」の断片。昭和初期に金沢文庫で称名寺伝来の古文書の中から発見され、同題が付けられた。尊経閣文庫本には失われた首部の一部と見られている。1261年(弘長1年)12月28日~翌年2月2日を収録。金沢文庫蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
- 『西大勅謚興正菩薩行実年譜』:江戸時代の元禄年間に浄住寺慈光が30年以上かけて編纂。本編3巻、附録2巻。『学正記』を基礎に、同書にない史料を多く掲載しているが、正確性については一部疑問もあるという。写本は西大寺と教興寺にあるという。1915『西大勅諡興正菩薩年譜』西大寺、『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
- 『洛西葉室山浄住寺開山興正菩薩略年譜』:元禄年間の近い時期に編纂。浄住寺と叡尊との関係を中心にまとめられたもの。宮内庁蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
- 『西大寺叡尊遷化之記』:極楽寺蔵。「西大寺叡尊上人遷化之記并嘆徳記」も同じものと思われる。熊原雅夫翻刻1957「西大寺叡尊上人遷化之記并嘆徳記」(『南都佛教』4号)、『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
- 「南都西大寺興正菩薩伝」:近江・安養寺中興の戒山慧堅(1649-1704)が1689年(元禄2年)に編纂した律僧360人余りの伝記集『律苑僧宝伝』の巻第12に収録。戒山慧堅は野中寺慧猛の弟子。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『律苑僧宝伝』は、関口靜雄・山本博也編2007『律苑僧宝伝』(昭和女子大学近代文化研究所、唐招提寺・律宗戒学院叢書第2集)として刊行。
- 「南都西大寺睿尊伝」 :臨済僧の高泉性〓(1633-1695、万福寺住職)が1688年(元禄1年)に編纂した僧侶伝集『東国高僧伝』巻第10に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『東国高僧伝』は、仏書刊行会編1931『大日本仏教全書』第104冊に収録。
- 「興正菩薩伝」 :増上寺貞誉が所蔵していた書。塙保己一が編纂した『群書類従』「伝部69」に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『群書類従』経済雑誌社本は国会図書館デジタルコレクション[2]で公開されている。
- 「和州西大寺沙門叡尊伝」:臨済宗の卍元師蛮が1702年(元禄15年)に編纂した『本朝高僧伝』巻第59に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『本朝高僧伝』の国文学研究資料館所蔵本が同館のデータベースで公開されている[3]