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別格官幣社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?明治維新功績者)
(?戦国武将)
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===戦国武将===
===戦国武将===
戦国武将3人3社を祀る。戦国武将としての知名度・重要性は当然のことながら、皇室を支えた事跡があるものに限って、顕彰の対象になった。毛利元就、上杉謙信、前田利家の3人は、戦国時代、朝廷が衰微した中にあって天皇家を支えた事跡が認められてのことであった。ほかの別格官幣社に比べ、やや遅い列格だったのは、その序列を物語っている。
戦国武将3人3社を祀る。戦国武将としての知名度・重要性は当然のことながら、皇室を支えた事跡があるものに限って、顕彰の対象になった。毛利元就、上杉謙信、前田利家の3人は、戦国時代、朝廷が衰微した中にあって天皇家を支えた事跡が認められてのことであった。ほかの別格官幣社に比べ、やや遅い列格だったのは、その序列を物語っている。
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*'''[[毛利元就]]'''(1497-1571)の'''[[豊栄神社]]''':毛利元就は、[[正親町天皇]]即位式の資金を献上するなどの事跡が、皇室尊崇の念の現れとして認められ、明治2年、山口にある霊社に「'''豊栄神社'''」の神号を[[明治天皇]]から与えられ、明治15年に別格官幣社となった。戦国武将を祀る神社では、異例の昇格で先例となったが、当然、明治政府の要職を牛耳った山口藩[[毛利家]]の遺臣の働きがあったものと思われる。
*'''[[毛利元就]]'''(1497-1571)の'''[[豊栄神社]]''':毛利元就は、[[正親町天皇]]即位式の資金を献上するなどの事跡が、皇室尊崇の念の現れとして認められ、明治2年、山口にある霊社に「'''豊栄神社'''」の神号を[[明治天皇]]から与えられ、明治15年に別格官幣社となった。戦国武将を祀る神社では、異例の昇格で先例となったが、当然、明治政府の要職を牛耳った山口藩[[毛利家]]の遺臣の働きがあったものと思われる。
*'''[[上杉謙信]]'''(1530-1578)の'''[[上杉神社]]''':米沢藩[[上杉家]]の遺臣らが遺領米沢市に上杉神社を建てた。戦国武将として著名な上杉謙信であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。
*'''[[上杉謙信]]'''(1530-1578)の'''[[上杉神社]]''':米沢藩[[上杉家]]の遺臣らが遺領米沢市に上杉神社を建てた。戦国武将として著名な上杉謙信であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。
*'''[[前田利家]]'''(1538-1599)の'''[[尾山神社]]''':金沢藩[[前田家]]の遺臣らが、藩政時代から極秘裏に祀っていた前田利家の神霊を独立させて遺領金沢市に祭り、尾山神社とした。戦国武将として著名な利家であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。
*'''[[前田利家]]'''(1538-1599)の'''[[尾山神社]]''':金沢藩[[前田家]]の遺臣らが、藩政時代から極秘裏に祀っていた前田利家の神霊を独立させて遺領金沢市に祭り、尾山神社とした。戦国武将として著名な利家であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。
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===天下人===
===天下人===

2015年2月28日 (土) 時点における版

別格官幣社(べっかく・かんぺいしゃ)は、近代社格制度の中で、当時の政府に国家の功績者として顕彰された人物を祀る霊社(人物を祀る神社)に与えられた社格。日光東照宮湊川神社靖国神社など28社が列格されていた。実質的な官社の社格(神宮官幣大社国幣大社官幣中社国幣中社官幣小社国幣小社、別格官幣社、指定護国神社)のうち、8番目(神宮を除けば7番目)だった。国家の制度としては戦後廃止されたが、皇室祭祀として奉幣は現在も行われている。官社の一覧は官国幣社を参照。

別格官幣社の祭神は臣下に限られたため、天皇皇族を祀る神社は対象とされなかった。また神話の英雄や菅原道真のような一般の神祇に近い存在として認知されている人物を祀る神社は含まれなかった。

原則として一人物につき1社しか定められないが、徳川家康日光東照宮久能山東照宮)、北畠親房顕家の親子(阿部野神社霊山神社)の3人は2社が認められていた。また北畠家は、一族内で霊山神社、阿部野神社、北畠神社の3社の列格が認められていた唯一の氏族である。

目次

起源

朱子学水戸学により儒教大義名分論が一般化した江戸時代、楠木正成を始めとする南朝の英雄はその実践の先駆者として『太平記』などを通じて知識人に知られ、墓所整備などの顕彰のムードが広がった。儒教では、中国や朝鮮半島(四十七書院)にみられるように、歴代王朝の忠臣を顕彰し、霊廟に祀る習慣があった。一方、江戸時代後期、山口藩鹿児島藩などの各藩では、歴代当主や家臣の事績を調査して回顧し、古代の朝廷・天皇家に結びつけ、史跡を整備し、記録を編纂するとともに、中世戦乱での戦没者、政争の犠牲者を讃え、菩提寺で追悼法要を行い、場合によっては、吉田家白川家から公認を受けて神として神社に祀る動きが出ていた。いずれも、天皇家から政権を移譲されたとする徳川家の支配や、御家騒動や領内支配に苦慮する各藩武家の治世を正当化するために進められた動きであったが、日本国全体の歴史を天皇家を中心に秩序だてる尊皇思想を育むとなった。

近世後期、海外から圧力が高まり幕府を中心とする情勢が流動化する中で、藩政改革に成功して台頭した雄藩が発言力を付けると、為政者である徳川家を相対化し対抗する思想として尊皇思想が注目を集めた。黒船来航で混迷が深まり、幕府支配の正当性への懐疑が強まる中で、尊皇攘夷派の志士は、天皇を中心とする新しい国づくりを模索。尊皇思想のほかに、徳川家の権威に代わる国家統合の原理は他になかった。「七生報国」を誓ったとされる楠木正成の顕彰を盛んに行い、志士の理想として神社に祀ったり、神号を付与したりするなど神格化が進んだ。さらにテロリズムが過激化し、局地的な戦闘が起こる中で、各政治集団は、楠木正成などとともに自派の戦没者を神として慰霊顕彰の祭典を行うに至った。

天皇を中心とする明治政府の樹立とともに、歴史上の忠臣を祀る神社の創建が、招魂社創建とともに相次いで建言された。戊辰戦争が続く中、天皇への忠誠を重視した政府は、積極的に各地の神社の創建整備に関与、推進、統制した。特に楠木正成を祀る湊川神社と、明治維新の戦没者を祀る靖国神社は重視され、国家の主導のもとに創建された。ついで同様の神社が多数創建や整備がなされるようになり、古代の官社制度をモデルにした官国幣社とは別個の性質を持つ官社として新たに別格官幣社と名付け、近代神祇制度の中に位置づけた。


沿革

基準

  • 昇格にあたって主祭神と合祀されている神の神霊を、別の社に遷座する例がみられる。
  • 既存神社の昇格が認可されず、やむを得ず新神社を創建した例がある。


分類

顕彰された人物から分類すると古代忠臣、南朝忠臣、戦国武将、天下人、明治維新功績者の5系統に分けられると考えられる。

  1. 古代の忠臣4人3社
  2. 中世の南朝忠臣14人10社
  3. 中世の戦国武将3人3社
  4. 近世の天下人4社
  5. 近代の明治維新功績者8社

相互に排他的な分類としては上記が妥当と考えるが、藩主藩祖を祀った地方の有力神社という観点でも幾つかの神社をまとめることができる。


古代忠臣

古代(奈良時代-平安時代)の朝廷において皇統護持に貢献したとされる忠臣4人を祀る3社がある。

  • 藤原鎌足(中臣鎌足)(614-669):天皇を軽視して政権を専横した蘇我氏を排除し、中大兄皇子(のちの天智天皇)による大化の改新を補佐した藤原鎌足を祀る談山神社
  • 和気清麻呂(733-799)と広虫(730-799)の姉弟:宇佐八幡神託事件で法王を名乗って皇位を簒奪しようとしたとされる道鏡の陰謀を阻止し、配流の処分を受けた和気清麻呂とその姉で事件に連座した広虫を祀る護王神社
  • 藤原秀郷(生没年不詳):新皇を名乗って反乱を起こし皇位を簒奪しようとしたとされる平将門を討伐した藤原秀郷を祀る唐沢山神社がある。

南朝忠臣

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕から建武政権樹立、そして南北朝分裂後に至るまで南朝に仕えた忠臣14人を祀る10社がある。なお下記のほか、南朝側の天皇皇族を祀る官社5社(吉野神宮鎌倉宮井伊谷宮八代宮金崎宮)がある。官社境内などに祀られた神社や官社以外の神社については南朝旧跡を参照。

  • 楠木正成(1294-1336)と正行(1326-1348)の親子:後醍醐帝に呼応して戦い多くの武勲を挙げ、倒幕の機運を高め、建武政権樹立の功績者となったが、足利尊氏に摂津湊川で敗れた楠木正成を祀る湊川神社。その長男で父の死後、後村上天皇の信任を受け南朝軍の将として戦ったが、河内四條畷で高師直に敗れた正行を祀る四条畷神社がある。楠木家も参照。
  • 北畠親房(1293-1354)、顕家(1318-1338)・顕信(生没年不詳)・顕能(同)兄弟、守親(同)の北畠家一族5人:南朝政権の中枢を担った北畠家では、北畠親房とその長男顕家、次男顕信、三男顕能、そして顕信の子守親が顕彰の対象となり、霊山神社阿部野神社北畠神社の3社が建てられた。上述の通り、一族で3社建てられたことは他に見られず、親房と顕家の2人が2社に祀られたのも別格官幣社では徳川家康のほかは見られない特例であり、官僚主義が徹底された近代の神祇行政の中で、北畠一族が非常に重要視されたことが分かる。
    • 親房は後醍醐帝側近の公家で、陸奥霊山城?、伊勢、大和、常陸などで奮戦し、伊勢神道を学び思想的指導者ともなり、戦跡の陸奥霊山城跡にある霊山神社と息子顕家ゆかりの阿部野神社に祀られた。
    • 顕家は、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて東北の抑えとして陸奥霊山城に赴き、鎮守府将軍として各地を転戦したが、和泉石津で敗れ、墓所近辺の阿部野神社と戦跡である陸奥霊山城跡の霊山神社に祀られた。
    • 親房と顕家とともに霊山神社に祀られた顕信とその子守親の親子は、宇津峰宮を奉じて親房と顕家が去った東北戦線で奮戦した。
    • 親房の三男顕能は伊勢国一志郡多家に、長く南朝の拠点となる霧山城を築き、伊勢国司として伊勢北畠家の祖となり、霧山城の麓の館跡の北畠神社に祀られた。
  • 花山院師賢(1301-1332):後醍醐帝側近の公家で倒幕計画に参加し、天皇の京都脱出に関わって幕府によって下総小御門に流罪となった花山院師賢(かざんいん・もろかた)は、墓所に小御門神社が創建されて祀られた。
  • 新田義貞(1301-1338):後醍醐帝に応じて鎌倉を攻めて幕府を滅ぼし、恒良親王尊良親王を奉じて越前金崎城を拠点としたが、越前藤島で戦死した新田義貞を祀る藤島神社
  • 名和長年(?-1336):隠岐を脱出した後醍醐帝を伯耆で迎えて協力し、財力で建武政権を支えたが、京都で尊氏に敗れた名和長年を祀る名和神社
  • 菊池武時(1292?-1333)、武重(生没年不詳)、武光(?-1373)の親子:護良親王の倒幕の令旨を受け、筑前博多で鎌倉幕府鎮西探題を襲撃し、戦死した菊池武時、その長男で父死後の九州南朝勢力を支えて各地を転戦した武重、その弟で、懐良親王を肥後菊池の征西府に迎え、大宰府の一時占領まで果たした武光の親子3人を祀る菊池神社
  • 結城宗広(?-1338):新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼし、離反した尊氏を京都から追い落とし、東北戦線で奮戦した結城宗広を祀る結城神社

戦国武将

戦国武将3人3社を祀る。戦国武将としての知名度・重要性は当然のことながら、皇室を支えた事跡があるものに限って、顕彰の対象になった。毛利元就、上杉謙信、前田利家の3人は、戦国時代、朝廷が衰微した中にあって天皇家を支えた事跡が認められてのことであった。ほかの別格官幣社に比べ、やや遅い列格だったのは、その序列を物語っている。

  • 毛利元就(1497-1571)の豊栄神社:毛利元就は、正親町天皇即位式の資金を献上するなどの事跡が、皇室尊崇の念の現れとして認められ、明治2年、山口にある霊社に「豊栄神社」の神号を明治天皇から与えられ、明治15年に別格官幣社となった。戦国武将を祀る神社では、異例の昇格で先例となったが、当然、明治政府の要職を牛耳った山口藩毛利家の遺臣の働きがあったものと思われる。
  • 上杉謙信(1530-1578)の上杉神社:米沢藩上杉家の遺臣らが遺領米沢市に上杉神社を建てた。戦国武将として著名な上杉謙信であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。
  • 前田利家(1538-1599)の尾山神社:金沢藩前田家の遺臣らが、藩政時代から極秘裏に祀っていた前田利家の神霊を独立させて遺領金沢市に祭り、尾山神社とした。戦国武将として著名な利家であるが、皇室尊崇の事跡が認められて、別格官幣社となった。

天下人

天下人3人4社があった。現在の建勲神社豊国神社は、明治初年に政府によって創建再興されたもので、そこには徳川家の権威の相対化があったものと思われる。別格官幣社列格については皇室尊崇の事跡が理由とされたが、江戸時代、「神君」として万民に畏怖された徳川家康を、天皇を中心とする近代国家の中で「顕彰される臣下」として位置づけなおすことがこの天下人4社の存在意義であったと考えられる。

明治維新功績者

明治維新の功績者9人(戦没者を除く)を祀る8社がある。志士を統率し政治改革を実現した指導者とされた公家や藩主が神社に祀られた。尊皇攘夷派の公家、倒幕を主導し新政府に参加して政権を担った薩長土肥や福井の諸侯、政権には加われなかったが、倒幕の機運を高めた水戸の藩主が対象となった。また戊辰戦争の戦没者のほか、幕末の政争で死んだ官軍側戦死者などが靖国神社に祀られた。官社境内社や官社以外の神社、賊軍戦没者を祀った神社については明治維新旧跡を参照。

  • 徳川光圀(1628-1700)と斉昭(1800-1860)の常磐神社:水戸徳川家祖の徳川光圀は、近世前期の人物だが、水戸学を創始し、尊皇思想を鼓舞し、思想的原動力となった。その子孫である斉昭は、藩政改革を進め、軍備の近代化や神仏分離を実施。幕政では攘夷論を唱えて存在感を示すが、安政の大獄で蟄居し、急死した。明治初年、遺臣が水戸に両者を祀る常磐神社を創建した。
  • 島津斉彬(1809-1858)の照国神社:藩内の富国強兵に努め、西郷隆盛や大久保利通などを登用した。将軍継嗣問題では四賢侯の一人として徳川慶喜を推すが敗れた。安政の大獄に抗議のため、軍を率いて出陣を図るが急死した。雄藩として政治力を付け、倒幕の基礎を築いたとされる。日本艦船の旗として日の丸を採用した。孝明天皇から「照国大明神」神号を下賜されて照国神社が建てられた。
  • 三条実万(1802-1859)と実美(1837-1891)親子の梨木神社三条家の家格は清華家で、摂関家の下位であったが、三条実万は、武家伝奏として朝廷と幕府の連絡調整役を担い、幕末の混迷する政局で注目を浴びる。将軍継嗣問題では一橋派を支援。安政の大獄で謹慎となり急死。その子の実美も、攘夷を幕府に促す勅使として江戸に赴くなど、重要な役割を担った。八月十八日の政変で、京都を追われるが、山口藩などとつながりを深め、戊辰戦争で山口藩が官軍に参加すると、政府の代表である太政大臣となった(ただし実権はなかった。新政府が朝廷を継承するという正統性を示す存在として擁立された?)。朝彦親王の令旨により三条家邸跡付近に実万を祀る梨木神社が創建され、のち実美も合祀された。
  • 毛利敬親(1819-1871)の野田神社:毛利敬親は、村田清風を登用して藩政改革を実施し、軍事の増強などを図り、藩庁を萩から山口に移転。藩論が分裂し、家臣同士で粛清が繰り返される中、独自の主張はなかったが、育成・調整型の指導者として最終的に尊皇を掲げ藩を導き、山口藩を維新の立役者に導いた。明治初年、遺臣が山口に敬親を祀る野田神社を創建した。
  • 松平慶永(春嶽)(1828-1890)の福井神社:尊皇攘夷派の四賢侯の一人として活躍。黒船来航に際しては当初攘夷を主張するが、のち開国論へ転じる。将軍継嗣問題で橋本左内を派遣して一橋派を支援したため、安政の大獄で謹慎。文久の改革で政事総裁職となり公武合体を進める。二転三転する中、山内容堂が提案した大政奉還論に賛同し、王政復古の政変で新政府要職に就いた。死後、まもなくして遺臣らが佐桂枝迺社に合祀。のち福井神社に祀られた。
  • 鍋島直正(1814-1871)の佐嘉神社:鍋島直正は、藩政改革で富国強兵を進め、大砲などの近代兵器を作り、雄藩としての実力を付けたが、政争への関与は慎重だった。戊辰戦争勃発後、大隈重信や江藤新平を官軍に送り込み、最新式の兵器を用いた活躍で新政府で存在感を示した。死後、鍋島家の霊社である松原神社に合祀されたが、昭和になって独立して佐嘉神社となった。初代開拓使長官となり北海道開拓に貢献し、北海道神宮開拓神社にも祀られている。
  • 山内豊信(容堂)(1827-1872)の山内神社:藩政改革を進めるとともに幕政にも参加。将軍継嗣問題で一橋派となり、安政の大獄で謹慎。公武合体と尊王攘夷の双方に理解を示したため、八月十八日の政変で尊王攘夷派が一時衰退すると、土佐勤王党を弾圧し、武市瑞山を処刑する。後藤象二郎が進言した大政奉還論を採用し、幕府に建白し、実施された。王政復古の政変で政権に参加するが、明治以後は隠棲した。昭和になって容堂を祀る山内神社が創建された。
  • 靖国神社:もとは山口藩関係者の発案で、戊辰戦争の官軍戦没者を祀るために創建。のち幕末の政争で獄死・暗殺された人物などを祀るようになった。吉田松陰坂本龍馬など、幕末維新期に死んだ有名な志士が祀られている。その後、西南戦争などの内戦、そして日清戦争以降の対外戦争で亡くなった官軍日本軍戦没者を合祀するようになった。

藩主藩祖

地方反乱の原因ともなりうる領民の領主へ追慕の念を近代国家への忠誠に吸収する役割を果たしたともいえる。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%88%A5%E6%A0%BC%E5%AE%98%E5%B9%A3%E7%A4%BE」より作成

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