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叡尊旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年7月15日 (日)

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'''叡尊'''(えいそん)(1201-1290)は、[[真言律宗]][[西大寺流]]の開祖。大和出身。[[興福寺]]の学侶慶玄の子。[[醍醐寺]]叡賢に師事。[[東大寺]]で自誓受戒。現在の真言律宗西大寺派では'''宗祖'''と呼ばれる。'''思円房'''。'''興正菩薩'''。'''叡尊上人'''、'''思円上人'''ともいう。
'''叡尊'''(えいそん)(1201-1290)は、[[真言律宗]][[西大寺流]]の開祖。大和出身。[[興福寺]]の学侶慶玄の子。[[醍醐寺]]叡賢に師事。[[東大寺]]で自誓受戒。現在の真言律宗西大寺派では'''宗祖'''と呼ばれる。'''思円房'''。'''興正菩薩'''。'''叡尊上人'''、'''思円上人'''ともいう。
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== 略歴 ==
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== 生誕地と墓廟 ==
 +
*[[浄福寺興正菩薩堂]]:奈良県大和郡山市白土町。叡尊の生誕地。[[大和・浄福寺]]は浄土宗寺院。
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*興正菩薩叡尊誕生之地碑:奈良県大和郡山市白土町。
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*[[西大寺体性院]]:叡尊の墓所。奈良県奈良市西大寺野神町。西大寺の奥院。
 +
*[[西大寺愛染堂]]:奈良県奈良市西大寺芝町。脇間に叡尊を祀る。像は寿像。
 +
*[[家原寺]]開山堂:大阪府堺市西区家原寺町。[[行基]]、[[空海]]、叡尊を祀る。
 +
*[[尾張・興正寺|興正寺]]弘法堂:愛知県名古屋市昭和区八事本町。空海、天瑞円照、叡尊を祀る。
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 +
== 修学の旧跡 ==
 +
*[[醍醐寺]]:
 +
*[[醍醐寺宝幢院]]:叡賢
 +
*[[醍醐寺安養院]]:栄実
 +
*[[東大寺戒壇院]]:受戒。
 +
*[[興福寺常喜院]]:
 +
*[[長岳寺霊山院]]:
 +
*[[西大寺宝塔院]]:
 +
*[[東大寺法華堂]]:それまでの戒律を捨てて自誓受戒。
== 一覧 ==
== 一覧 ==
-
*[[浄福寺]]:生誕地にある寺院
+
*[[西大寺]]:奈良県奈良市。
-
長岳寺
+
*[[宝生護国院]]:奈良県奈良市。
-
西大寺八幡神社
+
*[[西大寺八幡神社]]:奈良県奈良市。
-
宝生護国院
+
*[[石落神社]]:奈良県奈良市。
-
石落神社
+
*[[東大寺戒禅院]]:奈良県奈良市。東大寺知足院の別所。あるいは知足院と同一か。
-
東大寺戒禅院
+
*[[東大寺大仏殿]]:奈良県奈良市。
-
東大寺大仏殿
+
*[[東大寺羂索院]]:奈良県奈良市。
-
東大寺羂索院
+
*[[興福寺]]:奈良県奈良市。
-
興福寺
+
*[[興福寺常喜院]]:奈良県奈良市。
-
法隆寺
+
*[[元興寺]]:奈良県奈良市。
-
法華寺
+
*[[法華寺]]:奈良県奈良市。
-
白毫寺
+
*[[海龍王寺]]:奈良県奈良市。
-
元興寺
+
*[[奈良・白毫寺|白毫寺]]:奈良県奈良市。
-
不空院
+
*[[不空院]]:奈良県奈良市。
-
般若寺
+
*[[大和・般若寺|般若寺]]:奈良県奈良市。
-
布施寺
+
*[[大和・浄福寺]]:奈良県大和郡山市白土町。生誕地にある寺院。浄土宗。
-
最福寺
+
*[[額安寺]]:奈良県大和郡山市。
-
仙〓寺
+
*[[長岳寺]]:奈良県天理市柳本町。
-
大和極楽寺
+
*[[西福寺]]:奈良県大和高田市北片塩町。最福寺。現在は浄土宗。
-
額安寺
+
*[[高山八幡宮]]:奈良県生駒市高山町。
-
高山八幡神社
+
*[[長弓寺]]:奈良県生駒市上町。北大和寺。
-
三学院
+
*[[法隆寺]]:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内。
-
壺阪寺
+
*[[香久山・興善寺|興善寺]]:奈良県橿原市戒外町。[[香久山]]にある。三学院。
-
安倍文殊院
+
*[[壺阪寺]]:奈良県高市郡高市町。
-
大御輪寺
+
*[[安倍文殊院]]:奈良県桜井市。
-
長谷寺
+
*[[大御輪寺]]:奈良県桜井市。
-
長福寺
+
*[[長谷寺]]:奈良県桜井市。
-
大蔵寺
+
*[[大蔵寺]]:奈良県宇陀市大宇陀栗野。
-
金峰山寺
+
*[[宇陀・極楽寺]]:奈良県宇陀市。
-
宇陀極楽寺
+
*[[金峰山寺]]:奈良県吉野郡吉野町。
-
安位寺
+
*[[置恩寺]]:奈良県葛城市寺口。布施寺。高野山真言宗。
-
北大和寺
+
*[[安位寺]]:奈良県御所市櫛羅寺屋敷。
-
*[[西大寺]]
+
*[[仙〓寺]]:
 +
*[[大和・極楽寺]]:
 +
*[[大和・長福寺|長福寺]]
-
*[[浄住寺]]
+
*[[浄住寺]]:京都府京都市西京区。
-
*[[京都・白毫寺]]
+
*[[京都・白毫寺|白毫寺]]:京都府京都市下京区。
-
*[[八幡・大乗院]]
+
*[[石清水八幡宮]]:京都府八幡市。
-
醍醐寺
+
*[[八幡・大乗院|大乗院]]:京都府八幡市。
-
清凉寺
+
*[[醍醐寺]]:京都府京都市伏見区。
-
西園寺
+
*[[嵯峨・清凉寺|清凉寺]]:京都府京都市右京区嵯峨。嵯峨釈迦堂。
-
大多勝院
+
*[[西園寺]]:
-
石清水八幡宮
+
*[[大多勝院]]:京都府京都市右京区嵯峨。廃絶。[[亀山殿]]にあった。
-
円明寺
+
*[[放生院]]:京都府宇治市。橋寺。
-
橋寺
+
*[[平等院]]:京都府宇治市。
-
平等院
+
*[[京都・円明寺]]:京都府乙訓郡大山崎町円明寺。円明教寺。
-
住吉大社
 
-
四天王寺
 
-
家原寺
 
-
長承寺
 
-
大鳥神社
 
-
信太神社
 
-
荘厳浄土寺
 
-
久米田寺
 
-
和泉地蔵堂
 
-
真福寺
 
-
叡福寺
 
-
道明寺
 
-
西琳寺
 
-
誉田八幡宮
 
-
八尾釈迦堂
 
-
枚岡神社
 
-
神栄寺
 
-
忍頂寺
 
-
勝尾寺
 
-
清浄光院
 
-
教興寺
 
-
岩峰寺
+
*[[住吉大社]]:大阪府大阪市住吉区。
-
温泉寺
+
*[[荘厳浄土寺]]:大阪府大阪市住吉区帝塚山東。
-
多田院
+
*[[四天王寺]]:大阪府大阪市天王寺区。
-
加西一乗寺
+
*[[多田院]]:兵庫県川西市。
-
安養寺
+
*[[摂津・安養寺|安養寺]]:兵庫県神戸市兵庫区。
 +
*[[摂津・温泉寺|温泉寺]]:兵庫県神戸市北区有馬町。現在は黄檗宗。
 +
*[[播磨・石峰寺|石峰寺]]:兵庫県神戸市北区淡河町神影。
 +
*[[播磨・一乗寺|一乗寺]]:兵庫県加西市。
-
紀三井寺
 
-
日前神宮寺
 
-
粉河寺
 
-
慈光寺
 
-
伊勢神宮
+
*[[家原寺]]:大阪府堺市西区家原寺町。
-
弘正寺
+
*[[大鳥神社]]:大阪府堺市西区鳳北町。
 +
*[[長承寺]]:大阪府堺市西区鳳北町。廃絶。
 +
*[[清浄光院]]:大阪府堺市北区長曽根町。廃絶。
 +
*[[和泉・真福寺|真福寺]]:大阪府堺市美原区真福寺。廃絶。櫟本神社の神宮寺。子院文殊院が現存。
 +
*[[信太神社]]:
 +
*[[久米田寺]]:大阪府岸和田市池尻町。
 +
*和泉地蔵堂:
 +
*[[叡福寺]]:大阪府南河内郡太子町太子。
 +
*[[道明寺]]:大阪府藤井寺市道明寺。
 +
*[[西琳寺]]:大阪府羽曳野市古市。
 +
*[[誉田八幡宮]]:大阪府羽曳野市誉田。
 +
*八尾釈迦堂:大阪府八尾市。廃絶。
 +
*[[教興寺]]:大阪府八尾市教興寺。
 +
*[[枚岡神社]]:大阪府東大阪市出雲井町。
 +
*[[神栄寺]]:河内国交野郡。廃絶。
 +
*[[忍頂寺]]:大阪府茨木市忍頂寺。
 +
*[[勝尾寺]]:大阪府箕面市粟生間谷。
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*[[紀三井寺]]:和歌山県和歌山市紀三井寺。
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*[[日前神宮寺]]:和歌山県和歌山市。
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*[[粉河寺]]:和歌山県紀の川市粉河
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*[[時光寺]]:和歌山県橋本市隅田町平野。慈光寺。
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 +
*[[伊勢神宮]]:三重県伊勢市。
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*[[弘正寺]]:三重県伊勢市楠部町。廃絶。
 +
*[[伊勢・円明寺|円明寺]]:三重県津市岩田。岩田寺。廃絶。
 +
*[[大興善寺]]:福岡県北九州市小倉南区蒲生。
 +
*[[石峰寺]]:
== 年譜 ==
== 年譜 ==
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*1201年(建仁1年)1歳
*1201年(建仁1年)1歳
**5月:大和国添上郡箕田(奈良県大和郡山市白土)に生誕。
**5月:大和国添上郡箕田(奈良県大和郡山市白土)に生誕。
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*1211年(建暦1年)11歳
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**[[醍醐寺]]に入り、叡賢に師事。
*1212年(建暦2年)12歳
*1212年(建暦2年)12歳
**(忍性、誕生)
**(忍性、誕生)
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*1217年(建保5年)17歳
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**叡賢のもとで剃髪。
*1223年(貞応2年)23歳
*1223年(貞応2年)23歳
**故郷に帰る。
**故郷に帰る。
*1224年(元仁1年)24歳
*1224年(元仁1年)24歳
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**高野山に入る。
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**[[高野山]]に登る。真経に学ぶ。
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**醍醐寺に戻る。
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*1225年(嘉禄1年)25歳
*1225年(嘉禄1年)25歳
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**長岳寺に入る。
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**[[長岳寺]][[長岳寺霊山院|霊山院]]に入り、静慶から密教を伝授される。
*1226年(嘉禄2年)26歳
*1226年(嘉禄2年)26歳
**印可を受ける。
**印可を受ける。
*1235年(嘉禎1年)35歳
*1235年(嘉禎1年)35歳
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**1月16日:西大寺宝塔院に持斎僧として入る。
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**1月16日:'''尊円の招きで[[西大寺]]宝塔院に持斎僧として入る。'''
*1236年(嘉禎2年)36歳
*1236年(嘉禎2年)36歳
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**9月1日:覚盛、円晴、有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒
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**9月1日:'''[[覚盛]]、円晴、有厳とともに[[東大寺法華堂]]で自誓受戒。'''(戒律の復興。真言律宗西大寺流の創始)
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**12月:西大寺は地頭に占拠され、叡尊は海龍王寺に移る
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**12月16日:西大寺は地頭に占拠され、叡尊は[[海龍王寺]]に移る。
**12月:海龍王寺で良範に初めて菩薩戒を与える。
**12月:海龍王寺で良範に初めて菩薩戒を与える。
*1238年(暦仁1年)
*1238年(暦仁1年)
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**西大寺に戻る。八角五重石塔を建立。
**8月8日:西大寺復興を誓う
**8月8日:西大寺復興を誓う
**10月8日:童子が剃髪。叡性と号す。童子出家の最初。
**10月8日:童子が剃髪。叡性と号す。童子出家の最初。
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**10月30日:布薩を始める
**10月30日:布薩を始める
*1239年(延応1年)39歳
*1239年(延応1年)39歳
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**1月1修正会復興
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**1月1日:修正会を復興する。
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**1月15日:西大寺鎮守八幡宮に参拝。大茶盛の起源
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**1月15日:修正会結願後、鎮守の[[西大寺八幡神社]]に参拝。献茶の撤下を参詣者に振る舞う。'''大茶盛の起源'''とされる。
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**9月8日:忍性に十重戒
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**9月8日:[[忍性]]に十重戒。
*1240年(仁治1年)40歳
*1240年(仁治1年)40歳
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**3月6日:忍性らに八斎戒
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**3月6日:忍性らに八斎戒。
*1241年(仁治2年)41歳
*1241年(仁治2年)41歳
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**曉に霊夢。春日大明神が大変喜んだ
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**曉に霊夢。春日大明神が大変喜んだという。
*1242年(仁治3年)42歳
*1242年(仁治3年)42歳
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**額安寺で授戒
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**[[額安寺]]で授戒
-
**長谷寺、壺阪寺でも
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**[[長谷寺]]、[[壺阪寺]]でも。
*1244年(寛元2年)44歳
*1244年(寛元2年)44歳
**2月25日:今里野で文殊供養。大規模に
**2月25日:今里野で文殊供養。大規模に
-
**覚盛が西大寺を去り、唐招提寺に移る
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**[[覚盛]]が西大寺を去り、[[唐招提寺]]に移る。
*1245年(寛元3年)45歳
*1245年(寛元3年)45歳
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**3月24日:最勝講を再興
+
**3月24日:最勝講を再興。
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**4月9日:法華寺で尼僧に戒律
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**4月9日:[[法華寺]]で尼僧に授戒。
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**7月:覚如と定舜(俊〓の弟子)を宋に派遣決定
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**7月:覚如と定舜([[俊ジョウ]]の弟子)を宋に派遣決定。
-
**9月16日:叡尊ら住吉大社に参拝
+
**9月13日:初めて別受戒を[[家原寺]]で行う。
-
**12月25日:真言堂を建立(史実ではないとも)
+
**9月16日:叡尊ら[[住吉大社]]に参拝
 +
**11月25日:真言堂を建立(史実ではないとも)
*1246年(寛元4年)46歳
*1246年(寛元4年)46歳
-
**6月22、定舜帰国。覚如は客死
+
**6月22日:定舜らが帰国。覚如は客死。
-
**10月8に西大寺帰還。730巻を請来
+
**10月8日:定舜ら西大寺帰還。730巻を請来。
-
**聖徳太子墓で授戒
+
**[[聖徳太子墓]]で授戒。
-
**土師寺で授戒
+
**[[土師寺]]で授戒
*1247年(宝治1年)47歳
*1247年(宝治1年)47歳
-
**僧堂を初めて建てる。愛染明王を祀る
+
**4月:僧堂を建てる。
 +
**8月18日:[[愛染明王]]像(現存)を造立して祀る。
*1249年(建長1年)49歳
*1249年(建長1年)49歳
-
**3月13日:叡尊ら、嵯峨清凉寺へ。模刻のため。14-20まで供養
+
**3月13日:叡尊ら、嵯峨[[清凉寺]]へ。模刻のため。14~20日にわたり清凉寺で供養を行う。そのかたわらで仏師らが模刻し、4月3日には完成した。
-
**5月5日:西大寺で模刻の開眼法要。施主には忍性の実父もいた
+
**5月5日:'''清凉寺模刻釈迦仏の開眼法要。西大寺本堂(真言堂)本尊となる。'''施主には忍性の実父もいた。
-
**5月20日:覚盛死去
+
**5月20日:覚盛死去。
*1250年(建長2年)50歳
*1250年(建長2年)50歳
-
**6月21日:兄の禅心が死去
+
**6月21日:実兄の禅心が死去。
*1251年(建長3年)51歳
*1251年(建長3年)51歳
-
**河内安楽寺で授戒
+
**[[河内・安楽寺]]で授戒
 +
**2月30日:堯尊に文殊、羅漢像などを描かせる。
*1252年(建長4年)52歳
*1252年(建長4年)52歳
-
**忍性、鎌倉へ
+
**'''忍性、[[鎌倉]]へ。'''
*1253年(建長5年)53歳
*1253年(建長5年)53歳
-
**11月9日:父慶玄が死去。後、父の邸宅を敬田寺とした
+
**11月9日:実父慶玄が死去。後、父の邸宅を[[敬田寺]]とした。
*1254年(建長6年)54歳
*1254年(建長6年)54歳
-
**古市西琳寺
+
**古市[[西琳寺]]
-
**真福寺
+
**[[真福寺]]
*1255年(建長7年)55歳
*1255年(建長7年)55歳
-
**般若寺文殊像制作に着手
+
**[[般若寺]]文殊像制作に着手。
*1256年(康元1年)56歳
*1256年(康元1年)56歳
-
**法隆寺東院
+
**[[法隆寺]]東院で。
*1257年(正嘉1年)57歳
*1257年(正嘉1年)57歳
-
**貝塚地蔵堂
+
**[[貝塚地蔵堂]]
-
**西琳寺、四天王寺
+
**[[西琳寺]]、[[四天王寺]]
 +
*1258年(正嘉2年)58歳
 +
**両界曼荼羅に開眼法要。
*1259年(正元1年)59歳
*1259年(正元1年)59歳
-
**忍性、北条重時の極楽寺を復興
+
**忍性、鎌倉で北条重時の[[鎌倉・極楽寺]]を復興。以後、忍性は幕府幹部に接近。
*1261年(弘長1年)61歳
*1261年(弘長1年)61歳
-
**10月8日:北条実時の使者が叡尊を訪問。一切経を西大寺と称名寺に寄進したい。関東下向を願う
+
**10月8日:北条実時の使者が叡尊を訪問。一切経を[[西大寺]]と[[称名寺]]に寄進したい。叡尊の鎌倉下向を願う。
 +
**12月18日:北条実時、宋版一切経を西大寺に施入。
*1262年(弘長2年)62歳
*1262年(弘長2年)62歳
-
**1月2北条時頼の願いを受け、下向を決める
+
**1月2日:実時や前執権北条時頼の願いを受け、鎌倉下向を決める。
-
**2月4日:西大寺を出発
+
**2月4日:'''鎌倉に向けて西大寺を出発。'''
-
**2月27日:北条実時の出迎えを受ける
+
**2月27日:北条実時の出迎えを受ける。
-
**2月28日:鎌倉釈迦堂に入る
+
**2月28日:鎌倉釈迦堂に入る。
-
**最明寺で北条時頼に授戒
+
**[[最明寺]]で北条時頼に授戒。
-
**8月15日:西大寺に帰る
+
**8月15日:西大寺に帰る。以後、朝廷などとの交流が盛んになる。
-
**石清水八幡宮で修法
+
**[[石清水八幡宮]]で修法。
*1264年(文永1年)64歳
*1264年(文永1年)64歳
-
**9月4日:七日七夜の光明真言会を初めて行う
+
**9月4日:'''光明真言会を初めて行う。真言律宗西大寺派の最重要行事となる。'''
*1266年(文永3年)66歳
*1266年(文永3年)66歳
**法華寺
**法華寺
**いちいの極楽寺
**いちいの極楽寺
*1267年(文永4年)67歳
*1267年(文永4年)67歳
-
**4月10日:般若寺で文殊菩薩像に納める大般若経の転読
+
**4月10日:[[般若寺]]に完成目前の文殊菩薩像を納める。大般若経の転読。
-
**4月22日:文殊菩薩像完成。叡尊が授戒した人の名を納める
+
**4月22日:般若寺文殊菩薩像完成。叡尊が授戒した人の名を納める。
-
**7月25日:開眼法要。28日まで。
+
**7月25日:'''般若寺の文殊菩薩像開眼法要。'''28日まで。(般若寺の復興が成る)
*1269年(文永6年)69歳
*1269年(文永6年)69歳
-
**3月11日:文殊供養般若寺で。3万人集まる
+
**3月11日:'''般若寺で生身文殊供養の無遮大会。'''3万人集まるという。
-
**8月6日:堀川殿で唐招提寺仏舎利を感得
+
**8月6日:京都堀川殿で唐招提寺仏舎利を感得。
**仏舎利塔建立を発願
**仏舎利塔建立を発願
*1270年(文永7年)70歳
*1270年(文永7年)70歳
-
**教興寺に参詣
+
**[[教興寺]]に参詣
-
**舎利塔供養
+
**金剛舎利塔を建立。西大寺塔院に安置
-
**西大寺塔院に安置
+
*1271年(文永8年)71歳
*1271年(文永8年)71歳
**2月6日:仏舎利供養
**2月6日:仏舎利供養
*1273年(文永10年)73歳
*1273年(文永10年)73歳
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**伊勢神宮参拝
+
**初の[[伊勢神宮]]参拝。大般若経転読。
*1274年(文永11年)74歳
*1274年(文永11年)74歳
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**8月:石清水八幡宮で放生会
+
**8月:石清水八幡宮で放生会。
-
**10月:文永の役始まる
+
**10月:'''文永の役始まる。'''
-
**10月29日:四天王寺で仁王会。亀山天皇行幸?
+
**10月29日:勅命で[[四天王寺]]で仁王会。亀山天皇行幸?
*1275年(建治1年)75歳
*1275年(建治1年)75歳
-
**3月:伊勢神宮で護国法。鎌倉からもらった大般若経や西大寺の曼荼羅を移して法要
+
**3月:'''伊勢神宮で護国法。'''鎌倉幕府からもらった大般若経や西大寺の曼荼羅を移して法要。
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**8月:四天王寺で国家安穏の法要
+
**8月:四天王寺で国家安穏の法要。
-
**枚岡神社、住吉大社で法要
+
**[[枚岡神社]]、[[住吉大社]]でも法要。
*1277年(建治3年)77歳
*1277年(建治3年)77歳
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**儀軌通りの仁王会を始める
+
**儀軌通りの仁王会を始める。
*1278年(弘安1年)
*1278年(弘安1年)
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**2月9宝生護国院の斧始
+
**2月9日:[[宝生護国院]]の斧始。
*1279年(弘安2年)79歳
*1279年(弘安2年)79歳
-
**9月:北条時宗は元の使者を殺害
+
**9月:([[北条時宗]]は元の使者を殺害)
-
*1280年(弘安3年)
+
*1280年(弘安3年)80歳
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**6月26日:西室(現在の愛染堂の場所にあった)を新築し移住。同時に叡尊像も作られる
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**6月26日:西室(現在の愛染堂の場所にあった)を新築し移住。同時に叡尊寿像(現存)も作られる。
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**伊勢神宮、参詣。
*1281年(弘安4年)81歳
*1281年(弘安4年)81歳
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**1月15亀山上皇の命で石清水八幡宮で祈願
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**1月15日:亀山上皇の命で[[石清水八幡宮]]で祈願。
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**16山上で梵網経
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**1月16日:山上で『梵網経』。
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**20日:最勝王経転読
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**1月20日:『最勝王経』転読。
**弘安の役
**弘安の役
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**7月12日:亀山上皇が西室に西大寺行幸。
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**7月12日:亀山上皇が西大寺西室に行幸。
-
**7月26日:叡尊、石清水八幡宮で祈祷
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**7月26日:'''勅命で石清水八幡宮で祈祷。'''
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**閏7月7日:祈祷終わる。9日に敵船壊滅の報告
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**閏7月7日:祈祷終わる。9日に敵船壊滅の報告。
*1283年(弘安6年)83歳
*1283年(弘安6年)83歳
-
**2月17東塔の像の修理
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**2月17日:東塔の像の修理
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**2月18宝生護国院の上棟式
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**2月18日:宝生護国院の上棟式。
-
**12月10日:亀山上皇、西大寺宝生護国院に行幸。一切経転読、宇治橋網代廃止、仙洞御所での講義を懇請
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**12月10日:'''亀山上皇、[[西大寺宝生護国院]]に行幸。'''一切経転読、宇治橋網代廃止、仙洞御所での講義を懇請
*1284年(弘安7年)84歳
*1284年(弘安7年)84歳
-
**1月21日:宇治橋網代停止の院宣旨
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**1月21日:宇治橋網代停止の院宣。
-
**3月24日:仙洞御所の持仏堂で菩薩戒を亀山上皇に授戒
+
**3月24日:仙洞御所の持仏堂で菩薩戒を亀山上皇に授戒。
-
**4月4-8日:一切経転読
+
**4月4-8日:宮中で一切経転読。
-
**閏4月:講義
+
**閏4月:宮中で講義。
-
**後宇多天皇にも授戒
+
**後宇多天皇にも授戒。
-
**5月円明寺で一条実経の願いで授戒
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**5月:一条実経([[一条家]]始祖)の願いを受け[[山城・円明寺]]で授戒。
-
**9月2鉄宝塔完成
+
**9月2日:鉄宝塔完成。
*1285年(弘安8年)85歳
*1285年(弘安8年)85歳
-
**2月24日:四天王寺別当になる
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**2月24日:勅命で[[四天王寺]]別当になる。
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**3月14日:四天王寺に入る
+
**3月14日:四天王寺に入る。
-
**7月23日:一乗寺に出かける
+
**7月23日:[[播磨・一乗寺]]に出かける。
-
**10月12日:亀山上皇、四天王寺行幸
+
**10月12日:亀山上皇、四天王寺行幸。
*1286年(弘安9年)86歳
*1286年(弘安9年)86歳
-
**2月28日:自伝『金剛仏子叡尊感身学正記』を編纂。発病した昨年11月14日から書き始めた。3月14日修正
+
**2月28日:自伝『金剛仏子叡尊感身学正記』を完成。発病した前年11月14日から書き始めた。3月14日修正。
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**11月19日:橋寺と宇治橋の修理完成
+
**11月19日:宇治の[[橋寺]]と宇治橋の修理完成。[[浮島十三重石塔]]を建立。
*1288年(正応1年)88歳
*1288年(正応1年)88歳
-
**海龍王寺修復
+
**[[海龍王寺]]修復
*1289年(正応2年)89歳
*1289年(正応2年)89歳
-
**京都十一面堂の十一面観音を修理し、四王堂に祀る
+
**[[後深草上皇]]の院宣で京都[[十一面堂]]の十一面観音像を修理し、西大寺四王堂に祀る。
-
*1290年(正応3年)90歳。9万7710人に菩薩戒を授けた(『興正菩薩行実年譜』)
+
*1290年(正応3年)90歳
-
**8月25日:死去
+
**8月25日:西大寺西室で死去。生涯に9万7710人に菩薩戒を授けた(『興正菩薩行実年譜』)。
-
**8月27日:葬儀
+
**8月27日:葬儀。西大寺近くに葬る。墓所には[[体性院]]が設けられ、西大寺奥之院となる。
===死後===
===死後===
-
*1300年(正安2年)7月4日:亀山上皇、院宣で興正菩薩
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*1300年(正安2年)7月4日:[[亀山上皇]]、院宣で「興正菩薩」号を下賜。
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*1300年(正安2年)閏7月3日:伏見天皇、綸旨で興正菩薩
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*1300年(正安2年)閏7月3日:[[後伏見天皇]]、綸旨で「興正菩薩」号を下賜。
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*1688年(元禄1年)、臨済僧の高泉性〓(1633-1695、万福寺住職)、「南都西大寺睿尊伝」を含む『東国高僧伝』を編纂、刊行。
+
*1302年(乾元1年):13回忌。文殊菩薩五尊像(現存)を造立。
-
*1689年(元禄2年):近江安養寺中興の戒山慧堅、「南都西大寺興正菩薩伝」を含む『律苑僧宝伝』を刊行。
+
*1688年(元禄1年)、[[臨済]]僧の'''高泉性〓'''(1633-1695、[[宇治・万福寺]]住職)、「南都西大寺睿尊伝」を含む『東国高僧伝』を編纂、刊行。
-
*1702年(元禄15年):臨済宗の卍元師蛮、「和州西大寺沙門叡尊伝」を含む『本朝高僧伝』を編纂。
+
*1689年(元禄2年):[[近江・安養寺]]中興の'''戒山慧堅'''、「南都西大寺興正菩薩伝」を含む『律苑僧宝伝』を刊行。
-
*元禄年間:浄住寺慈光が『西大勅謚興正菩薩行実年譜』を編纂。
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*1702年(元禄15年):臨済宗の'''卍元師蛮'''、「和州西大寺沙門叡尊伝」を含む『本朝高僧伝』を編纂。
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*元禄年間:[[浄住寺]]慈光が『西大勅謚興正菩薩行実年譜』を編纂。
*1819年(文政2年):この年までに『群書類従』の「興正菩薩伝」が刊行される。
*1819年(文政2年):この年までに『群書類従』の「興正菩薩伝」が刊行される。
-
*1990年(平成2年)日:700年遠忌
+
*1990年(平成2年):西大寺、700年遠忌法要を執行。
-
 
+
==伝記==
==伝記==
-
*『金剛仏子叡尊感身学正記』(『学正記』):1286年(弘安9年)編纂。叡尊が86歳の時に自ら編纂した。西大寺蔵?奈良国立文化財研究所編1956『西大寺叡尊伝記集成』大谷出版社、長谷川誠編1990『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記(読み下し・口語訳・影印本)』西大寺、細川涼一訳注1999『感身学正記1』平凡社東洋文庫664(続刊未刊)に所収。また松尾剛次研究室ウェブサイトに全文が掲載されている[http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/data.html]。
+
*『金剛仏子叡尊感身学正記』(『学正記』):1286年(弘安9年)編纂。叡尊が86歳の時に自ら編纂した。内容は極めて正確で、伝記にありがちな誇張もないという。西大寺に最古の写本(1359年(正平14年/延文4年))が伝わっている。奈良国立文化財研究所編1956『西大寺叡尊伝記集成』大谷出版社、長谷川誠編1990『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記(読み下し・口語訳・影印本)』西大寺、細川涼一訳注1999『感身学正記1』平凡社東洋文庫664(続刊未刊)に所収。また松尾剛次研究室ウェブサイトに全文が掲載されている[http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~kmatsuo/data.html]。
*「関東往還記」:1262年(弘長2年)の成立。叡尊の[[鎌倉]]下向について随行した弟子'''性海'''(1235-1290頃)が記した日記。原本は現存しない。元来は金沢文庫にあった写本が[[前田家]]を経て尊経閣文庫に伝えられている。まとまった唯一の伝本。一部のみ残存し、前後を欠いている。1262年(弘長2年)2月5日~7月30日を収録。北条時頼や実時との交渉が記録されている。鎌倉で叡尊、[[忍性]]らが武士や庶民に授戒したり、法要を行ったり、病者や貧困者を救済した活動が記される。国書刊行会編1911『史籍雑纂 第1』、関靖編1934『校訂増補 関東往還記』便利堂、『西大寺叡尊伝記集成』、細川涼一訳注2011『関東往還記』平凡社東洋文庫803に所収。
*「関東往還記」:1262年(弘長2年)の成立。叡尊の[[鎌倉]]下向について随行した弟子'''性海'''(1235-1290頃)が記した日記。原本は現存しない。元来は金沢文庫にあった写本が[[前田家]]を経て尊経閣文庫に伝えられている。まとまった唯一の伝本。一部のみ残存し、前後を欠いている。1262年(弘長2年)2月5日~7月30日を収録。北条時頼や実時との交渉が記録されている。鎌倉で叡尊、[[忍性]]らが武士や庶民に授戒したり、法要を行ったり、病者や貧困者を救済した活動が記される。国書刊行会編1911『史籍雑纂 第1』、関靖編1934『校訂増補 関東往還記』便利堂、『西大寺叡尊伝記集成』、細川涼一訳注2011『関東往還記』平凡社東洋文庫803に所収。
*「関東往還前記」:「関東往還記」の断片。昭和初期に金沢文庫で[[称名寺]]伝来の古文書の中から発見され、同題が付けられた。尊経閣文庫本には失われた首部の一部と見られている。1261年(弘長1年)12月28日~翌年2月2日を収録。金沢文庫蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
*「関東往還前記」:「関東往還記」の断片。昭和初期に金沢文庫で[[称名寺]]伝来の古文書の中から発見され、同題が付けられた。尊経閣文庫本には失われた首部の一部と見られている。1261年(弘長1年)12月28日~翌年2月2日を収録。金沢文庫蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。

2018年7月15日 (日) 時点における最新版

叡尊(えいそん)(1201-1290)は、真言律宗西大寺流の開祖。大和出身。興福寺の学侶慶玄の子。醍醐寺叡賢に師事。東大寺で自誓受戒。現在の真言律宗西大寺派では宗祖と呼ばれる。思円房興正菩薩叡尊上人思円上人ともいう。

目次

略歴

生誕地と墓廟

  • 浄福寺興正菩薩堂:奈良県大和郡山市白土町。叡尊の生誕地。大和・浄福寺は浄土宗寺院。
  • 興正菩薩叡尊誕生之地碑:奈良県大和郡山市白土町。
  • 西大寺体性院:叡尊の墓所。奈良県奈良市西大寺野神町。西大寺の奥院。
  • 西大寺愛染堂:奈良県奈良市西大寺芝町。脇間に叡尊を祀る。像は寿像。
  • 家原寺開山堂:大阪府堺市西区家原寺町。行基空海、叡尊を祀る。
  • 興正寺弘法堂:愛知県名古屋市昭和区八事本町。空海、天瑞円照、叡尊を祀る。

修学の旧跡

一覧




  • 家原寺:大阪府堺市西区家原寺町。
  • 大鳥神社:大阪府堺市西区鳳北町。
  • 長承寺:大阪府堺市西区鳳北町。廃絶。
  • 清浄光院:大阪府堺市北区長曽根町。廃絶。
  • 真福寺:大阪府堺市美原区真福寺。廃絶。櫟本神社の神宮寺。子院文殊院が現存。
  • 信太神社
  • 久米田寺:大阪府岸和田市池尻町。
  • 和泉地蔵堂:


  • 叡福寺:大阪府南河内郡太子町太子。
  • 道明寺:大阪府藤井寺市道明寺。
  • 西琳寺:大阪府羽曳野市古市。
  • 誉田八幡宮:大阪府羽曳野市誉田。
  • 八尾釈迦堂:大阪府八尾市。廃絶。
  • 教興寺:大阪府八尾市教興寺。
  • 枚岡神社:大阪府東大阪市出雲井町。
  • 神栄寺:河内国交野郡。廃絶。
  • 忍頂寺:大阪府茨木市忍頂寺。
  • 勝尾寺:大阪府箕面市粟生間谷。




年譜

年譜

  • 1201年(建仁1年)1歳
    • 5月:大和国添上郡箕田(奈良県大和郡山市白土)に生誕。
  • 1211年(建暦1年)11歳
  • 1212年(建暦2年)12歳
    • (忍性、誕生)
  • 1217年(建保5年)17歳
    • 叡賢のもとで剃髪。
  • 1223年(貞応2年)23歳
    • 故郷に帰る。
  • 1224年(元仁1年)24歳
  • 1225年(嘉禄1年)25歳
  • 1226年(嘉禄2年)26歳
    • 印可を受ける。
  • 1235年(嘉禎1年)35歳
    • 1月16日:尊円の招きで西大寺宝塔院に持斎僧として入る。
  • 1236年(嘉禎2年)36歳
    • 9月1日:覚盛、円晴、有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒。(戒律の復興。真言律宗西大寺流の創始)
    • 12月16日:西大寺は地頭に占拠され、叡尊は海龍王寺に移る。
    • 12月:海龍王寺で良範に初めて菩薩戒を与える。
  • 1238年(暦仁1年)
    • 西大寺に戻る。八角五重石塔を建立。
    • 8月8日:西大寺復興を誓う
    • 10月8日:童子が剃髪。叡性と号す。童子出家の最初。
    • 10月15日:僧食を始める
    • 10月30日:布薩を始める
  • 1239年(延応1年)39歳
    • 1月1日:修正会を復興する。
    • 1月15日:修正会結願後、鎮守の西大寺八幡神社に参拝。献茶の撤下を参詣者に振る舞う。大茶盛の起源とされる。
    • 9月8日:忍性に十重戒。
  • 1240年(仁治1年)40歳
    • 3月6日:忍性らに八斎戒。
  • 1241年(仁治2年)41歳
    • 曉に霊夢。春日大明神が大変喜んだという。
  • 1242年(仁治3年)42歳
  • 1244年(寛元2年)44歳
    • 2月25日:今里野で文殊供養。大規模に
    • 覚盛が西大寺を去り、唐招提寺に移る。
  • 1245年(寛元3年)45歳
    • 3月24日:最勝講を再興。
    • 4月9日:法華寺で尼僧に授戒。
    • 7月:覚如と定舜(俊ジョウの弟子)を宋に派遣決定。
    • 9月13日:初めて別受戒を家原寺で行う。
    • 9月16日:叡尊ら住吉大社に参拝
    • 11月25日:真言堂を建立(史実ではないとも)
  • 1246年(寛元4年)46歳
    • 6月22日:定舜らが帰国。覚如は客死。
    • 10月8日:定舜ら西大寺帰還。730巻を請来。
    • 聖徳太子墓で授戒。
    • 土師寺で授戒
  • 1247年(宝治1年)47歳
    • 4月:僧堂を建てる。
    • 8月18日:愛染明王像(現存)を造立して祀る。
  • 1249年(建長1年)49歳
    • 3月13日:叡尊ら、嵯峨清凉寺へ。模刻のため。14~20日にわたり清凉寺で供養を行う。そのかたわらで仏師らが模刻し、4月3日には完成した。
    • 5月5日:清凉寺模刻釈迦仏の開眼法要。西大寺本堂(真言堂)本尊となる。施主には忍性の実父もいた。
    • 5月20日:覚盛死去。
  • 1250年(建長2年)50歳
    • 6月21日:実兄の禅心が死去。
  • 1251年(建長3年)51歳
    • 河内・安楽寺で授戒
    • 2月30日:堯尊に文殊、羅漢像などを描かせる。
  • 1252年(建長4年)52歳
  • 1253年(建長5年)53歳
    • 11月9日:実父慶玄が死去。後、父の邸宅を敬田寺とした。
  • 1254年(建長6年)54歳
  • 1255年(建長7年)55歳
  • 1256年(康元1年)56歳
  • 1257年(正嘉1年)57歳
  • 1258年(正嘉2年)58歳
    • 両界曼荼羅に開眼法要。
  • 1259年(正元1年)59歳
    • 忍性、鎌倉で北条重時の鎌倉・極楽寺を復興。以後、忍性は幕府幹部に接近。
  • 1261年(弘長1年)61歳
    • 10月8日:北条実時の使者が叡尊を訪問。一切経を西大寺称名寺に寄進したい。叡尊の鎌倉下向を願う。
    • 12月18日:北条実時、宋版一切経を西大寺に施入。
  • 1262年(弘長2年)62歳
    • 1月2日:実時や前執権北条時頼の願いを受け、鎌倉下向を決める。
    • 2月4日:鎌倉に向けて西大寺を出発。
    • 2月27日:北条実時の出迎えを受ける。
    • 2月28日:鎌倉釈迦堂に入る。
    • 最明寺で北条時頼に授戒。
    • 8月15日:西大寺に帰る。以後、朝廷などとの交流が盛んになる。
    • 石清水八幡宮で修法。
  • 1264年(文永1年)64歳
    • 9月4日:光明真言会を初めて行う。真言律宗西大寺派の最重要行事となる。
  • 1266年(文永3年)66歳
    • 法華寺
    • いちいの極楽寺
  • 1267年(文永4年)67歳
    • 4月10日:般若寺に完成目前の文殊菩薩像を納める。大般若経の転読。
    • 4月22日:般若寺文殊菩薩像完成。叡尊が授戒した人の名を納める。
    • 7月25日:般若寺の文殊菩薩像開眼法要。28日まで。(般若寺の復興が成る)
  • 1269年(文永6年)69歳
    • 3月11日:般若寺で生身文殊供養の無遮大会。3万人集まるという。
    • 8月6日:京都堀川殿で唐招提寺仏舎利を感得。
    • 仏舎利塔建立を発願
  • 1270年(文永7年)70歳
    • 教興寺に参詣
    • 金剛舎利塔を建立。西大寺塔院に安置
  • 1271年(文永8年)71歳
    • 2月6日:仏舎利供養
  • 1273年(文永10年)73歳
  • 1274年(文永11年)74歳
    • 8月:石清水八幡宮で放生会。
    • 10月:文永の役始まる。
    • 10月29日:勅命で四天王寺で仁王会。亀山天皇行幸?
  • 1275年(建治1年)75歳
    • 3月:伊勢神宮で護国法。鎌倉幕府からもらった大般若経や西大寺の曼荼羅を移して法要。
    • 8月:四天王寺で国家安穏の法要。
    • 枚岡神社住吉大社でも法要。
  • 1277年(建治3年)77歳
    • 儀軌通りの仁王会を始める。
  • 1278年(弘安1年)
  • 1279年(弘安2年)79歳
  • 1280年(弘安3年)80歳
    • 6月26日:西室(現在の愛染堂の場所にあった)を新築し移住。同時に叡尊寿像(現存)も作られる。
    • 伊勢神宮、参詣。
  • 1281年(弘安4年)81歳
    • 1月15日:亀山上皇の命で石清水八幡宮で祈願。
    • 1月16日:山上で『梵網経』。
    • 1月20日:『最勝王経』転読。
    • 弘安の役
    • 7月12日:亀山上皇が西大寺西室に行幸。
    • 7月26日:勅命で石清水八幡宮で祈祷。
    • 閏7月7日:祈祷終わる。9日に敵船壊滅の報告。
  • 1283年(弘安6年)83歳
    • 2月17日:東塔の像の修理
    • 2月18日:宝生護国院の上棟式。
    • 12月10日:亀山上皇、西大寺宝生護国院に行幸。一切経転読、宇治橋網代廃止、仙洞御所での講義を懇請
  • 1284年(弘安7年)84歳
    • 1月21日:宇治橋網代停止の院宣。
    • 3月24日:仙洞御所の持仏堂で菩薩戒を亀山上皇に授戒。
    • 4月4-8日:宮中で一切経転読。
    • 閏4月:宮中で講義。
    • 後宇多天皇にも授戒。
    • 5月:一条実経(一条家始祖)の願いを受け山城・円明寺で授戒。
    • 9月2日:鉄宝塔完成。
  • 1285年(弘安8年)85歳
    • 2月24日:勅命で四天王寺別当になる。
    • 3月14日:四天王寺に入る。
    • 7月23日:播磨・一乗寺に出かける。
    • 10月12日:亀山上皇、四天王寺行幸。
  • 1286年(弘安9年)86歳
    • 2月28日:自伝『金剛仏子叡尊感身学正記』を完成。発病した前年11月14日から書き始めた。3月14日修正。
    • 11月19日:宇治の橋寺と宇治橋の修理完成。浮島十三重石塔を建立。
  • 1288年(正応1年)88歳
  • 1289年(正応2年)89歳
  • 1290年(正応3年)90歳
    • 8月25日:西大寺西室で死去。生涯に9万7710人に菩薩戒を授けた(『興正菩薩行実年譜』)。
    • 8月27日:葬儀。西大寺近くに葬る。墓所には体性院が設けられ、西大寺奥之院となる。

死後

  • 1300年(正安2年)7月4日:亀山上皇、院宣で「興正菩薩」号を下賜。
  • 1300年(正安2年)閏7月3日:後伏見天皇、綸旨で「興正菩薩」号を下賜。
  • 1302年(乾元1年):13回忌。文殊菩薩五尊像(現存)を造立。
  • 1688年(元禄1年)、臨済僧の高泉性〓(1633-1695、宇治・万福寺住職)、「南都西大寺睿尊伝」を含む『東国高僧伝』を編纂、刊行。
  • 1689年(元禄2年):近江・安養寺中興の戒山慧堅、「南都西大寺興正菩薩伝」を含む『律苑僧宝伝』を刊行。
  • 1702年(元禄15年):臨済宗の卍元師蛮、「和州西大寺沙門叡尊伝」を含む『本朝高僧伝』を編纂。
  • 元禄年間:浄住寺慈光が『西大勅謚興正菩薩行実年譜』を編纂。
  • 1819年(文政2年):この年までに『群書類従』の「興正菩薩伝」が刊行される。
  • 1990年(平成2年):西大寺、700年遠忌法要を執行。

伝記

  • 『金剛仏子叡尊感身学正記』(『学正記』):1286年(弘安9年)編纂。叡尊が86歳の時に自ら編纂した。内容は極めて正確で、伝記にありがちな誇張もないという。西大寺に最古の写本(1359年(正平14年/延文4年))が伝わっている。奈良国立文化財研究所編1956『西大寺叡尊伝記集成』大谷出版社、長谷川誠編1990『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記(読み下し・口語訳・影印本)』西大寺、細川涼一訳注1999『感身学正記1』平凡社東洋文庫664(続刊未刊)に所収。また松尾剛次研究室ウェブサイトに全文が掲載されている[1]
  • 「関東往還記」:1262年(弘長2年)の成立。叡尊の鎌倉下向について随行した弟子性海(1235-1290頃)が記した日記。原本は現存しない。元来は金沢文庫にあった写本が前田家を経て尊経閣文庫に伝えられている。まとまった唯一の伝本。一部のみ残存し、前後を欠いている。1262年(弘長2年)2月5日~7月30日を収録。北条時頼や実時との交渉が記録されている。鎌倉で叡尊、忍性らが武士や庶民に授戒したり、法要を行ったり、病者や貧困者を救済した活動が記される。国書刊行会編1911『史籍雑纂 第1』、関靖編1934『校訂増補 関東往還記』便利堂、『西大寺叡尊伝記集成』、細川涼一訳注2011『関東往還記』平凡社東洋文庫803に所収。
  • 「関東往還前記」:「関東往還記」の断片。昭和初期に金沢文庫で称名寺伝来の古文書の中から発見され、同題が付けられた。尊経閣文庫本には失われた首部の一部と見られている。1261年(弘長1年)12月28日~翌年2月2日を収録。金沢文庫蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
  • 『西大勅謚興正菩薩行実年譜』:江戸時代の元禄年間に浄住寺慈光が30年以上かけて編纂。本編3巻、附録2巻。『学正記』を基礎に、同書にない史料を多く掲載しているが、正確性については一部疑問もあるという。写本は西大寺と教興寺にあるという。1915『西大勅諡興正菩薩年譜』西大寺、『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
  • 『洛西葉室山浄住寺開山興正菩薩略年譜』:元禄年間の近い時期に編纂。浄住寺と叡尊との関係を中心にまとめられたもの。宮内庁蔵。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
  • 『西大寺叡尊遷化之記』:極楽寺蔵。「西大寺叡尊上人遷化之記并嘆徳記」も同じものと思われる。熊原雅夫翻刻1957「西大寺叡尊上人遷化之記并嘆徳記」(『南都佛教』4号)、『西大寺叡尊伝記集成』に所収。
  • 「南都西大寺興正菩薩伝」:近江・安養寺中興の戒山慧堅(1649-1704)が1689年(元禄2年)に編纂した律僧360人余りの伝記集『律苑僧宝伝』の巻第12に収録。戒山慧堅は野中寺慧猛の弟子。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『律苑僧宝伝』は、関口靜雄・山本博也編2007『律苑僧宝伝』(昭和女子大学近代文化研究所、唐招提寺・律宗戒学院叢書第2集)として刊行。
  • 「南都西大寺睿尊伝」 :臨済僧の高泉性〓(1633-1695、万福寺住職)が1688年(元禄1年)に編纂した僧侶伝集『東国高僧伝』巻第10に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『東国高僧伝』は、仏書刊行会編1931『大日本仏教全書』第104冊に収録。
  • 「興正菩薩伝」 :増上寺貞誉が所蔵していた書。塙保己一が編纂した『群書類従』「伝部69」に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『群書類従』経済雑誌社本は国会図書館デジタルコレクション[2]で公開されている。
  • 「和州西大寺沙門叡尊伝」:臨済宗の卍元師蛮が1702年(元禄15年)に編纂した『本朝高僧伝』巻第59に収録。『西大寺叡尊伝記集成』に所収。『本朝高僧伝』の国文学研究資料館所蔵本が同館のデータベースで公開されている[3]
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